一章・一話
祈りを捧げる場である教会。扉をくぐり抜けた先の礼拝堂は、女神の祈りを表現したかのように、太陽の恵みである光がゆるやかに降り注いでいた。
最奥のステンドグラスを通った日差しは、静謐を視覚化したような淡い青の光に満ちている。
今日は礼拝の日ではないので、正面にある祭壇に、導き手である司祭の姿はない。だが、祈りと願いが満ちる礼拝堂は、穏やかながらも厳粛な空気を湛えている――はずだったのだが。
「せんせー。この計算もうおわったけど、今日は終わりにしちゃだめ?」
「だめよ、せんせーはわたくしの写しを見てくれるのよ! せんせー、わたくしのを見てくれる?」
「ねー、ノア。これ終わったら、帰りに俺に付き合えよ。行く途中で、キツネの巣穴みたいなの、見つけたんだ!」
今日も今日とて、教会は静寂とは真逆の、子供たちの喧騒に包まれていた。
村中の人が集まる礼拝の日には、おそらく多くの人がやってきて、祈りを捧げる厳粛な場となるのだろうが、ヘイノはまだその日を迎えていない。
そのため、ここ数日の賑わいを目の当たりにし続けているヘイノは、初めて訪れたときの静かな空間は幻だったのでは、と思うようにすらなっていた。
到着初日にアナが話していたように、教会は子供たちの学びの場としても開放されている。年は、下は三つから、上は十二ごろまでと実に様々だ。
本来なら、パユヴェシの村内にある学校に通うべきなのであろうが、親の事情や、家が学校から遠いことなどもあって、学校に通わない子供が年々増加しているのが現状であるという。
その状況を何とかしようと学校の教員が教会に赴任したばかりのアナに相談し、せめて家から学び舎までの距離を改善しようと、こうして短い時間ながらも子供たちに学ぶ機会を与える場を提供することになったのであった。
時間は午後の食事が終わった頃から、二、三時間。学ぶ内容はその日によって様々で、宿題なども殆どない気楽なものだ。天候が悪かったり、家の用事などがあると、数日休むことも頻繁にあるという。
この数日で、そのような事情は知ったものの、事情を知ることと、実際にわんぱくな盛りの子供たちを椅子に座らせ、彼らにとっては退屈な勉学に集中させるのは楽なことではなかった。
「ヨンナ。帰るのはもう少し後ですよ。それに、そちらの計算がまだ終わっていないではありませんか」
「でも、あたしの指は十本しかないもん。ヨニせんせーも指貸してよ」
「それなら、石板に棒を書いてみてはどうでしょうか。そうしたら、俺の指を借りなくても、十本以上の計算ができますよ。あと、俺はヘイノです」
帰りたいと足をばたばたさせるおてんばな少女を宥めて、初歩的な計算を教える。それが終わったと思ったら、
「せんせーってば! ヨンナばかり見てないで、わたくしの詩も見てくださいまし!」
「アウリ、今行きます。今日は、随分とたくさん写したのですね。ただ、cとeがごっちゃになっているところがありますから、もう一度よく見てみてください」
「ヨニせんせー、キツネの巣にはまだキツネが隠れてると思う? どうやったら仕留めれるかな。近所のホロパイネンおじさんは、冬の間にキツネを三匹も仕留めたっていうんだ! 俺、おじさんみたいに毛皮の帽子が欲しい!」
「テーム、今はキツネの話をする時間じゃありません。それと、ノアの髪の毛を引っ張るのはやめなさい。それと、俺はヘイノです」
教室が始まると、一時が万事、この調子である。
ヘイノが面倒を見ている子供たちは、比較的この教室の中では年齢が高い方ではあるが、その全員が椅子に座って計算や文字を書きとることよりも、外で遊びたいと思っているのが透けてわかる。
そんな彼らであったが、今は新しい先生という存在に興味を持ってくれているようで、嬉々として新人の先生を呼びつけるのを楽しんでいるようだった。
「ヘイノ、俺と変わろうかー?」
横から聞こえたのは、ヘイノの双子の弟のヨニの声だ。
彼は教室の片隅に幼年の子供たちや、文字が読めない子供たちを集めて、今は子供向けに訳された聖典の読み聞かせを行っていた。
だが、ヘイノが返答をする前に返事をしたのは、ヨニの周りに集まっていた幼子たちだった。
「えー、ヨニいっちゃうのー? やだー」
「……あっちのヨニ、おもしろくない」
「もっと、ちゃんとやらなきゃって、ヨニに教えてもらわないと!」
教室が始まってすぐの頃は、ヘイノもヨニと同じく読み聞かせをやったこともあったが、ヘイノの淡々とした朗読は子供たちに全く受け入れられなかった。
その点、ヨニは物語に緩急をつけるために抑揚をつけて読み上げたり、話の続きを一緒に考えてみたりと、子供たちが興味を持てるように色々と工夫を凝らしているようで、彼らから大変な人気を得ていた。
「……不評みたいなので、俺はやめておきます」
「そう? あとなー、お前たち。あっちの先生はヨニじゃないからな。あっちはヘイノ。最初に紹介しただろ」
「だって、おなじかおしてるもん」
「わかんないよー。どっちもヨニじゃだめなの?」
子供たちの無邪気な言葉に、ヘイノは浮かべていた笑みを引き攣らせないように、口の端に力を込めねばならなかった。
二人は双子だ。服装も、司祭の制服を身につける必要があるため、ほぼ同じものを着ている。子供達が見分けづらいと言うのも当然だ。
だが、直接「ヨニと同じようなもの」と言われると、心の淵が冷たいもので引っ掻かれたような感覚に襲われる。
(……俺は、ヨニじゃない)
だが、だったら自分は何なのか。
ヘイノという名前も、今の立場も、結局は記憶を失う前の自分から無理やり引き継いだだけのものだ。そんな後ろめたさを完全に拭えないせいで、子供たちの無邪気な不満にすら、心の奥がざわめいてしまう。
「もう四日になるのに、まだ覚えられないかー。何か、見分けがつくような目印でも考えた方がいいかな?」
「そ、そんなことはありませんわ。わたくしは分かりますもの! 教え方が丁寧で、発音が綺麗な方がヘイノ先生よ!」
他の子供たちと比べると、一際大きな声を発するおしゃまな少女――アウリは、ひらひらと手を振りあげて主張する。将来は詩人を目指していると宣言している彼女は、先ほどスペルの誤りを指摘された子供だ。
「あー、ひどいなー、アウリ。もしかして、俺の教え方が適当で発音が汚いって言ってる?」
「そうとも言えますわね!」
「ヘイノー、アウリが俺のこといじめるー」
「ヨニ、あなたまで子供みたいなこと言わないでください。アウリも、年上の人をそのように言うものではありませんよ。ヨニの発音も文字も、アウリよりもずっと立派です」
実際、ヘイノとヨニの指導内容に、そこまで大きな差はない。ヨニと共に通っていた学校で学んだのだろう知識は、ヘイノの中にも残っていた。
それを、誰がどのように教えてくれたのか、だけが記憶として抜け落ちているため、不気味に思えるときもあるが、少なくとも誰かに指導しているときには、自分の中に残る知識に感謝していた。
「それよりも、今は皆さんの課題の方が大事ですよ。今日の課題は終わったんですか? 終わらなかったら、今日のおやつはありませんからね」
ヘイノは軽く手を叩いて、乱れた空気を無理やり整え、子供たちをぐるりと見渡す。どうやら挙手している者はいないようだ。
流石に、これ以上遊んでいたらご褒美がもらえないと思ったのか、それぞれが己の手元に渡された課題へと視線を向ける。たとえその集中が一瞬でも、それを何度も繋げていくのがヘイノたちの仕事でもある。
毎朝焼いている、シナモンをたっぷり練り込んだご褒美の焼き菓子も、彼らの集中に火をつけるための材料の一つだ。
ともあれ、これでようやく息をつけるかと思ったとき。
ヘイノは、並んでいる席の中でも、一番端に座っている子供が手を挙げていることに気がついた。
「せ、先生。私、終わりました……」
先ほどのヘイノの質問に対して、挙手をしてくれていたのに、見逃してしまっていたらしい。栗毛に近い濃いブロンドの少女が、青白い顔をヘイノへと向けていた。
顔色の悪さも気になるところだが、彼女は他の子供たちよりも痩せているように見え、ベリーを思わせる赤みがかった瞳ばかりがこぼれんばかりに大きく見える。
賑やかにおしゃべりを交わしている子供たちと比べると、挙手をした少女は比較的落ち着いて見える。それもそのはず、彼女の年齢はこの教室の中でも最も高い十二歳の少年に続く十一歳だと聞いている。
「ニコはもう終わったんですね。見せてもらえますか」
「は、はいっ」
小声で返事をする少女――ニコの机に置かれた石板には、ヘイノが書いた計算問題の解答が綴られている。
答えに誤りがないことを確認してから、彼女に返そうとしたとき、ヘイノは彼女の口元がなぜかゆるゆると緩んでいることに気がついた。
問題が正解して嬉しいという反応を見せる生徒は、この教室では珍しい。大体が、正解かどうかより、課題が終わったかどうかを気にするからだ。
「ニコは、勉強が好きですか?」
「……はい。計算ができたら、おつりを間違えずにお買い物ができます。それに、文字がわかると、自分一人でも本が読めますから」
おずおずと、けれどもはっきりと答えたニコ。その様子に、ヘイノは思案する。
他の生徒たちはともかく、自ら学びたいという姿勢を見せているのなら、彼女には今度からもう少し難しい課題を与えてもいいかもしれない。
そう考えてから、ヘイノは「それならば」と一つ提案をする。
「もしよければ、古いものになりますがいくつか読めそうな本を貸しましょうか」
教会に寄付という形で持ち込まれている物品の中には、そのような廃棄寸前の傷んだ本もある。どうせなら、家に帰ってからも自分で勉強するのに使えたらと思ったが、ニコはすぐさま首を横に振った。
「い、いいえ。大丈夫です! 壊してしまったら、大変ですから」
「……?」
遠慮と言うよりも、彼女の否定は半ば拒絶に近いものに見えた。大きく見開かれた瞳のその向こう側には、ヘイノの申し出を断る罪悪感の他にも何か別の感情があるようにも見える。
だが、それが何かを読み取るまえに、「くしゅん」とくしゃみの音が響いた。身を縮めたニコの口から、つい漏れてしまったものだ。
「寒いようでしたら、部屋の温度を上げるようにアナさんに相談しましょうか」
身をかがめ、ヘイノは小声でニコへと話しかける。
礼拝堂の室温は、聖石を用いた大掛かりな設備で制御しているとアナから聞いている。聖石とは聖典に登場する物語の中のものであると同時に、各種の設備の材料として採掘されている貴重な資源でもある。
先日は、家の設備にも使われていると聞いて驚かされたが、本来、聖石を用いた設備は公共の施設などに使われることが多い。教会に使われていると聞いた時は、ヘイノも特段驚くこともなく受け入れていた。
この設備を使った温度の調整は、管理者のアナに一任されている。ヘイノや他の子供たちにとっては、今の室温でちょうどいいが、よく見るとニコは質素なワンピースのみの出で立ちで、防寒具らしい防寒具も身につけていなかった。
しかし、ヘイノの申し出を聞いても、ニコは首を横に振るばかりだ。
「平気です。こ、これぐらいなら、全然」
自分の服を引っ張るような仕草をしてみせるが、ニコの服はどうみても厚手のものとは言い難い。今の季節は、昼でも日差しが恋しくなるほどには肌寒いのに、これでは凍えてしまうのも当然だ。
(……もっと早く、気がついてあげればよかった)
もともと、彼女は大人しい性格なのだろう。だからといって、教会の片隅で黙々と授業を受けているニコの様子に気を払わなかったことを、ヘイノは内心で反省する。
だが、本人が必要ないと言っているのに、部屋の温度を上げるわけもいかない。そもそも、ヘイノでは設備の動かし方自体分からないので、今すぐこの状況を改善するのは難しい。
「じゃあ、授業が終わるまで、こちらを貸しておきます。それなら、寒くないと思いますから」
ヘイノは自分の肩を覆っていたケープの留め金を外す。司祭の制服は、シャツの上に長袖のコートを羽織り、その上にケープを羽織るようになっている。重ね着している分、一枚脱いだ程度では寒いとは思わない。
「そんな、私、あの……」
「また何かあったら言ってください。ああ、そういえば、今日の課題が終わったなら、時間が余ってしまいましたね」
この分なら、先に帰ると言い出すかもしれない。そう考えたヘイノの予想に反して、ニコがおずおずと切り出したのは、
「それなら、聖典の暗誦をしたいので、先生の聖典をお借りしてもいいでしょうか。私、始祖が女神様から啓示を授かるところが好きなんです」
「構いませんよ。では、とってきますね」
頬を薔薇色に染めて俯く少女に、ヘイノは遠慮は不要とばかりに小さく笑みを返す。だが、彼女のわずかに色がさした頬は、肌の青白さを強調するばかりでもあった。
無意識なのか、指先を温めるようにぎゅっと手を祈りの形に組む姿に、ヘイノはこれまでの自分が知らない感情が、自分の中に芽生えていくのを感じていた。




