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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
序章
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序章・四話

「あっはっは! それで、夕飯の間、ずーっとこの世の終わりみたいな顔をしてたんだ! 何でそんなに落ち込んでるのかと思ってたよ!」

「ヨニだって、最初は驚いたそうじゃないですか。アナさんがそう言ってましたよ」

 けらけらと笑うヨニが差し出したカップを受け取ったヘイノは、中身を勢いよく喉の奥に流し込む。しっかりと温められたそれは、甘酸っぱいベリーと香辛料の独特の香りが混じり合っていて、疲れていた体をじんわりと暖めてくれた。

 アナとの会話がひと段落ついたあとも、ヘイノは忙しない時間を過ごしていた。自室に荷物の鞄を入れ、荷物の整理を片付けたと思ったら、今度は部屋の案内が待っていた。

 一階には先ほど案内された台所以外にも、三つの部屋がある。二階には、さらに四つの部屋があり、その中の一つがヘイノの部屋として用意されていた。

 まるで駆け抜けるかのような忙しない案内が終わったと思えば、次にヘイノを待ち構えていたのは夕食の支度だった。

 病院で体を休めていた頃と違い、食事は自分で用意する必要がある。

 ヨニやアナの手を借りて、食器や鍋の位置、キッチンストーブの使い方、食糧庫の食べ物の置き場所などを教えてもらうものの、結局料理自体は二人に任せるしかなかった。調理の仕方は、ヘイノの持ち合わせていた知識の中に無かったからだ。

「先生のこともありますが、何とかやっていけるかと思った矢先に、自信が折れそうでしたよ。……料理も、結局二人に任せきりでしたし」

 今、ヘイノは自分の部屋でようやく一息をついていたところだった。そこに、ヨニが「寝る前にちょっと話をしよう」と声をかけてきたのだ。

「キッチンストーブなんて、なかなか使う機会がなかったんだから仕方ないでしょ。俺も、近所のおばさんたちに教えてもらって、ようやく火加減の調整ができるようになってきたところなんだから」

 ヨニは得意げにカップを突き出す。その中身も、彼が作ったものだ。だが、ヘイノが料理の最中に困惑したのはそれだけではなかった。

「それに、俺が一番驚いたのはポンプだよ! わざわざ外の井戸に行かなくても、聖石の濾過装置があるから、台所のポンプから直に水を汲み上げていいなんて楽でいいよね。しかも水が凍らないなんて!」

「その、聖石の濾過装置というのは何ですか? 夕飯の時も、話していましたよね」

 彼が何気なく口にした聖石という言葉を、ヘイノは自分がかろうじて持ち合わせている常識と照らし合わせてみる。だが、どうしてもそれらの単語が上手く噛み合ってくれなかった。

 なぜなら。

「聖石って、本来は始祖に連なるものとして祀られているものですよね。実用的な使い方があるのは知っていますが、それも一般に流通しているものではない……ですよね」

 自分の常識がずれてはいまいかと、ヘイノは恐る恐る尋ねる。幸い、ヨニにとっても兄がこれらの設備に驚くのは不自然なことではないと思ったらしい。

 ヘイノの中にぼんやりと残っている知識によれば、聖石というのはこの国の資源の一つではあるが、一般に流通するような手軽な存在ではないはずだ。

 そのため、どちらかというと、実用的なものというより、物語の中のものという印象が強くなっている。

 教会のステンドグラスにも描かれていた、始祖の女性が掲げていた石――あれが、聖典の中で描かれる聖石である。

 長い旅を終えてたどり着いたこの大陸に蔓延る闇を照らし、人々が生きられるように力を貸した神の奇跡の表れ。そのような形で描かれるものであるため、民家のポンプに使われていると聞いて違和感があったのだ。

「俺も最初はびっくりしたよ! でも、この辺のお金持ちの家は、聖石を使った照明とか、薪が要らない暖炉とか、いろいろ新しいものを積極的に取り入れてるんだって。港が近いから、聖都の最新の技術が取り入れやすいのかも」

「でも、なんだか不敬な気もしますね。女神様からの恩寵として始祖が受け取ったものだと、聖典にはありましたのに」

「出たよ、ヘイノの優等生発言。始祖も女神様も、未来に生きる俺たちが楽ができるなら、きっと文句は言わないよ」

 仮にも司祭見習いがその発言はどうなのかと思ったが、何も覚えていないヘイノはヨニを叱ることすら正しいのかもわからない。故に、今は彼の軽口を素直に受け入れることにした。

「優等生といえば、先生の件なのですが。俺に、上手くできるでしょうか」

 元々、休もうとしていたヘイノのもとに押しかけてきたヨニは、真っ先にその件を話題にしていたのだった。

「そもそも、何を教えればいいんですか? 教材とかはあるのでしょうか」

「そんなに肩に力を入れなくてもいいよ。教科書は、パユヴェシの学校の先生が貸してくれたものがあるし、そもそも落ち着いて座って話を聞く神学校の授業みたいなのじゃないから」

「では、どんな授業をしているんですか?」

 ヘイノの常識では、学問を学ぶ生徒は椅子に腰を下ろして教本を読み解くものであり、先生は彼らが解に辿り着けなかった時に指導するものだ。

 故に、自分より年下が相手とはいえ、子供たちをきちんと導けるのかと、身構えていたのだが、ヨニの話ではそうではないらしい。

「だって、年齢もバラバラだし、文字が読めない子も混じってるんだからさ。俺が面倒を見てから大体三ヶ月くらい経って、やっと決められた時間の間、一応座ってる癖がついたってところ」

 ヨニの話によると、ここしばらくは冬のため外は冷え込むため、室内で子供向けに翻訳された聖典や童話の読み聞かせをしていたり、晴れた日は子供たちと連れ立って雪遊びをしていたとのことだった。

「聞いていると、ただ遊んでいるだけにしか聞こえないのですが、そんなことでいいんですか?」

「そういうのでいいんだよ。子供の頃から机に喜んで齧り付くなんて、ヘイノみたいに勉強が好きなやつだけだよ?」

「別に、俺は勉強が好きなわけではありませんよ」

 ここで素直に受け入れるのも不自然かと、ヘイノは当たり障りのない回答を返す。ヨニは「ふうん?」と適当な相槌を返すだけだった。

「最初は俺がやってみせるから、ヘイノは横で見てればいいよ。先生だなんだって言っても、要するにちょっと年の離れた友達みたいなもんだから」

 先生という言葉に付随する威厳を全て吹き飛ばすようなことを、ヨニは軽やかに言ってのける。もっとも、そう言われるとヘイノとしても「自分でもできるかも」と思えてくる。

 ヨニと話した回数は、今のヘイノには数えるほどしかない。だが、そのどれをとっても、彼と話していると、どんな困難や面倒ごとが目の前にあったとしても、不思議と「なんとかなりそう」と思わせる気持ちになるのだ。

 明るい声色や、アナの言う所のヨニが持つ愛嬌が、話を聞く側の気持ちを自然と軽くしてくれるのかもしれない。

 おかげで、教会に到着する前はあんなにも緊張と不安に満ちていた心も、ヨニやアナと言葉を交わしているだけで、だいぶん楽になったように思う。

(それどころか、俺は少しわくわくしているのかもしれない。明日、俺がどんな風に『先生』をするのかっていうことを)

 病院で過ごす日々は、平穏ではあったが少々退屈でもあった。だが、ここにはヘイノがやらなければならないことがある。

 それらに対する気構えの中には、記憶を失う前の自分が果たさねばならないことだから、という使命感のようなものも確かにある。

 ヨニの兄で居続けねばという感情も、彼にいつ自分の状態が露見するかという不安も消えたわけではない。

 そのうえで、ヘイノは思うのだ。

「……話を聞いていると、ちょっと楽しみに思えてきました」

「そうそう。そんぐらい、気軽な気持ちで会えばいいよ。皆には、俺の方からヘイノの話をいっぱいしておいたから、きっとすぐに馴染んでくれるよ」

「それって、一体どんな話をしてたんですか?」

 疑問ではなく、苦笑交じりにヘイノはヨニと言葉を交わす。出会った直後の緊張を、このときにはもうヘイノは忘れていた。

 長らく抱えていた懊悩も、ヨニの持ち前の明るさに引きずられるようにして、ゆっくりと薄れていたのだ。

「大した話じゃないよ。それよりも、ヘイノが今日していた話の方が面白かったな。乗り合い馬車を途中で譲るなんてさ。ここに着くまで一時間以上かかるって分かってて、よくやるなあ、そんなこと!」

「だって、その方は困っているようでしたから。取り返しの付かないことになる前に譲るのは当然でしょう」

「そうかもしれないけど、自分が後で困るとか、俺は先にそっちを考えちゃうな」

 司祭として、困っている隣人を助けるのは当然だ。たとえ司祭ではなかったとしても、道徳を重んじ、善行を為すことを是とする人ならば、やはり同じようにしただろう。

 だが、ヨニの言い分も全く分からないわけではない。むしろ、大抵の人間は自分が苦労するのを避けたいと感じるだろう。

「でも、実際にそういう場面に出くわしたら、ヨニもそうするんじゃないんですか?」

 だから、ヘイノが尋ねたのは世間話以上の意味はないつもりだった。この天真爛漫な弟なら、当たり障りのない答えを返してくれると思ったのだ。

 だが、予想外にもヨニは口元に手を当てて、うーんと考え込んでから、

「誰かが困ってたり、怖がってたりしたら、なんとかしたいと思うけどさ。俺にできるのは、ただ一緒になって怖がったり、同情したりするのがせいぜいで、ヘイノみたいに解決のためには動くってことにはならないかな」

 ヘイノへと笑いかけるヨニの笑顔には、今までとは少し異なる影があった。自分にはできないという謙遜というよりは、自分を卑下しているかのような。

「でも、それも必要なことだと思いますよ。俺とは違う形で、ヨニなりに何かしようとしているわけですから」

 弟のらしくない陰りを払拭したくなり、ヘイノは思わず彼を弁護するような言葉を口にしていた。

 すると、ヨニはじーっとヘイノを見つめてから、ふっと口元を緩め、

「さすが、ヘイノは優等生だな。俺、そんな風に言ってもらえるとは思わなかったや」

「俺は、俺なりに真剣に答えたつもりですよ」

「分かってるよ、ありがと」

 ぽん、と軽く肩を叩いてから、ヨニは片手に持っていたカップをぐいっと飲み干し、腰を下ろしていた椅子から立ち上がる。

「それじゃ、そろそろ俺は寝るよ。ヘイノも夜ふかししないように」

「気をつけます。朝は、まずは水汲みからでしたっけ」

「うん。でも、その前に身支度からだね。髪の毛はねてると、アナさんに叱られるよ」

 そう言われて、ヘイノは自分の肩にかかった金髪に指を伸ばす。明日は念入りに鏡を見ようと思っていると、不意に出入り口に向かっていたヨニの靴音が止まったことに気がつく。

「……ヨニ?」

「あのさ。会った時から言おうと思ってたんだけど」

 ヨニの声は、先ほどと変わらず陽気なままだ。どうしたのだろうと、首を傾げて続きを待つ。

 そして。

 

 「ヘイノ。俺と話す時、敬語使うのはやめてくれない?」

 

 沈黙が生まれる。

 まるで、全ての音という音が死に絶えたかのように。

 完全な不意打ちだった。

 教会に到着し、この家に辿り着いてから、ヘイノの緊張と不安は緩やかに溶けていっていた。

 何を疑うこともなく、ヘイノという存在を受け入れてくれた弟の姿を目にして。

 厳しさの中にも、程よい優しさの片鱗を覗かせてくれた、信頼できそうな師となる司祭と言葉を交わして。

 自分は上手くやっていけるだろうと、根拠もなく安心してしまっていた。

 今ここで、こんな形で、ヨニから違和感の指摘を受けるまでは。

 だが、沈黙は長く続かなかった。ヘイノが答えを探すほんの数秒の間隙を縫うように、ヨニは言葉を畳み掛けた。

「学校じゃ、そうしないといけなかったから、癖になってるんだろうけど。ちょっと気になってたんだ。兄弟に敬語使われると、何かぞわぞわするっていうか」

「……ああ、ごめん。つい、癖で」

「だよね。俺も昔はそうしてた時期あったけど、もう今は無理だなー」

 くるりと振り返って、ヨニはヘイノへと笑いかける。

 今まで見てきたのと何ら変わらない、天真爛漫な笑顔。蝋燭の灯りで浮かび上がったそれは、団欒の中で見せていたものと全く変わりないように見えた。

 ヘイノとはうり二つではあるものの、決してヘイノでは浮かべない笑みの形。それに対して、果たしてどんな顔を返したか、ヘイノには知るすべはない。

「じゃ、おやすみ。良い夢を」

 軽く手を振ってから、ヨニは部屋を後にする。カップを片付けに行ったのだろうか。

 階段を降りる足音が家に響き、それからようやく、ヘイノはどさりと寝台へと身を投げ出した。

「――――」

 今まで息を止めていたかのように、長く長く息を吐き出す。吐き出してもなお、胸の内に張り詰めた緊張が呼吸を乱していく。

 先ほどまでの温かな夜の気配は、そこにはない。あるのは、恐ろしく冷えた闇の気配だけだ。

 部屋の隅に凝るそれらは、ヨニと放していたときは、光がもたらす陰影の一つに過ぎなかったのに、今はまるでこちらを虎視眈々と狙う化け物にすら見える。いや、そう見えるのは、自分の心境の変化のせいだ。

 どうにか息を整え、ヘイノは寝台から降り、部屋に据え付けられた鏡を見つめる。そこに映り込んでいるのは、青い顔をした自分の顔だ。

「……気づかれて、ないですよね」

 小声で、鏡の向こうに映る自分に問いかける。返事は、当然ながらない。

「……大丈夫。ヨニが気付くわけがない」

 胸の内で、改めて己に問いかける。

 ただの司祭見習いとして、この居心地の良い場所に溶け込みそうだった己自身を、再び暗闇の只中へと突き飛ばす。

 他の人が当たり前のように生きている世界から、少し外れた場所。

 過去の記憶を持たないのに、そのことを誰にも打ち明けず、ヘイノという一人の少年の居場所を奪った、本当なら何も持っていない自分がいるべきところ。

「俺に許されているのは、ヨニの家族でいること」

 そして、望むのは、自分が何者かを示す仮面を被り続けること。

 そうすれば、ヨニとアナと共に過ごしたあの僅かな安堵の場所に居続けられる。

 そこが何も覚えていない自分が望んでいい場所ではなかったとしても、今のヘイノはもう知ってしまった。

 彼らと共に過ごした時間は、目を覚ましたあの瞬間から今までを振り返っても、心地よいと思える瞬間だったことを。

 やらねばならないことがある状況すら、自らの胸を沸き立たせる灯りとなってくれていることを。

(……ああ、そうか)

 その瞬間、ふっと腑に落ちるものがあった。

「二人と話していると……俺は、生きてるって感じがしたんだ」

 たとえ、それが何もかもを失った自分が得てもいいものかどうか、曖昧なものだったとしても。

 

 燭台の蝋燭を吹き消して、ヘイノは分厚い布団の中に潜り込む。夜の冷えた空気も、布団の奥にまではやってこられない。

 眠りについて、再び目が覚めたら、何もかも思い出しているかもしれない。そう思ったことは何度もある。

 だが、何度目覚めても、ヘイノの中にあの日の目覚めより前の記憶は返ってこなかった。

 

 そして、今日もまた。

 自分を見守る全ての人に嘘をつき、それでもようやく手に入れた居場所を放したくないという想いを胸に、双子の片割れは眠りにつく。

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