二章・二話
馬車の中で揺られている一人の少女と一人の青年は、溢れんばかりの未知への期待と少しばかりの緊張で胸が高鳴りっぱなしだった。
緊張といっても、それは後ろ向きな不安によるものではない。全貌も分からない何かを漠然と待ち望む感情が前のめりになってあふれ出た、謂わば前向きな緊張だ。
アナが手配してくれた駅馬車の中、地面から響く振動ではなくて、自分自身が期待のあまり震えているのではないかと思うほど。要するに二人は、『祭り』という未知に浮かれていたのだった。
(ティモには住んでいたこともあるのに、どうしてこんなにも胸がうずうずとするのでしょう……!)
その中でもそわそわしている者の筆頭はニコだった。
使用人として自活に励まねばならなかったニコにとって、生誕祭とは仕事を少し休んでも叱られない日であり、後はささやかな施しとして、少しばかりの甘いものが分けられる貴重な日でもあった。
自室の小さな窓から見下ろした先では、めいめいに着飾って出し物を観に行ったり、美味しそうなお菓子を食べている姿を見たことはあったが、それは全てニコにとっては壁に飾られた絵と大差なかった。
なのに、自分は今、窓枠の向こう側の世界にいる。それだけで妙に落ち着かなくなって、町に向かう間に何度となく足を組み替え、指先をもじもじとさせていた。
(馬車がいつもよりずっと沢山通ってる……。それに、道を行く人も皆楽しそうだ)
そして、本人しか知らぬことではあるが、ヘイノもまたニコに負けず劣らず落ち着かない気持ちを抱えている人物であった。
過去の記憶がないが故に、彼はそもそもお祭りというものが何かを知らない。それが人々に齎す高揚感も、その目で見たことがない。その意味では、ひょっとすると、年少のニコよりもヘイノの方が、そわそわぶりでは上だったかもしれない。
大きく馬車が一度揺れ、震動が収まる。窓の向こうには、見覚えのあるティモの停留所が見えた。
「馬車の中からも、すごくたくさんの声が聞こえます……!」
「俺たちが本屋に行ったときも普段より人出が多かったのに、今日はそれ以上みたいですね」
「二人とも、迷子になるなよー。俺、二人を探して一日中駆け回るのはごめんだからね!」
そう言いながら、ヨニは御者が開いた馬車の扉を勢いよく降りる。すぐさま、くるりと踵を返し、
「アナさん、手をどうぞ」
「ありがとう、助かるわ」
すぐさま、アナへと手を差し出す。ザックと合流するまで、ヨニは自分がエスコート役をすると息巻いていた。
ティモで新調したばかりの麦わらの帽子を被ったアナは、いつも以上に華やかに見える。
着ている服こそ、厚手のジャケットに質素なブラウス、灰色のスカートといつもの装いだが、帽子の明るい色が一つ入るだけで、さながら冬の大地に差し込む陽光のような印象を与えていた。
ヘイノもヨニの対応を真似して、馬車を降りてから、小さな淑女であるニコへと手を差し出す。
「ニコ、手を貸してもらえますか」
「は、はい! 喜んで!」
普段は子供の一人として扱われることの多かったニコは、この予想外のエスコートに内心どぎまぎしていた。
(なんだか、大人の仲間入りをした気分です……!)
ヘイノがうっかり自分の手を掴み損ねないように、彼の手袋に包まれた手をしっかりと握り返しながら、ニコはスカートの裾を摘み、己の知る限りの淑女らしさを発揮して馬車を降りた。
ちょっとしたエスコートですっかり興奮してしまっていたニコだったが、馬車が立ち去り、ティモの街並みがよく見えるようになると、その緊張は更なる驚きに吹き飛ばされていった。
「わあ……すごい……!! この前来た時よりも、さらに賑やかになってます……! まるで、ティモじゃないみたい!」
ティモは短い間ながらも自分が住んでいた場所のはずなのに、ニコは見知らぬ町に足を踏み入れたような感慨を味わっていた。
通りを行く人たちは、いつもの着古した普段着を着た主婦や、荷運びのための薄汚れた装いの男たちではない。どの人も一様にめかし込み、まるで町全体で一つのお芝居をしているかのようだ。
「露店の数も、いつもよりもずっと増えてるよ。ほら、広場から溢れて通りにまで並んでる!」
ヨニが目顔で示した先には、彼の言葉の通り、広場に入りきらなかった露店が細い通り道や路地にまでひしめき合い、道行く人に品物を売りつけようとしていた。
また、店の顔ぶれも普段とは全く違う。いつも見かける、収穫した農作物や加工した肉やチーズを扱う店は殆ど見当たらず、代わりにヘイノも先日目にした装飾品を扱う店や、ちょっとした布織物や小物を店頭に並べる店が目立った。
「こんなにも沢山の人が、ティモに最初から住んでいた……というわけではないですよね。そうなると、これほど沢山の人はいったいどこから来たんでしょう?」
「ラミンラフティからではないかしら。後は、少し前に列車が開通したヴァルコマキからも人が来ているのでしょう」
ラミンラフティとは、ティモの最も近くにある港町だ。ティモはこの町に流れ込む川の流域沿いにあるので、港からはしばしば荷物が運び込まれている。
後者のヴァルコマキは、アナの言うように列車が通るようになり、近年賑わいを加速させているという丘向こうの町である。
「でも、そういう町は、そこならではの生誕祭があるんじゃないの? わざわざティモに来なくても、そっちで楽しめばいいんじゃない?」
ヨニが質問ついでに挙手をすると、同意見だったのか、ニコも首を縦に振っていた。
「そういった新しい街に住んでいた人の実家が、ティモにあるのでしょう。お祭りと帰省を兼ねているのではないかしら。それに、生誕祭は毎年あるんですもの。いつも同じ町で過ごしていては飽きるということもあるのではないかしら」
アナの説明を聞き、ヘイノたちもなるほどと納得する。
ティモの町そのものは、都会の発展ぶりと比べると些か見劣りする、港から続く川が伸びているだけの田舎町だ。流通の中継点としてそれなりに栄えてはいるものの、宿場町としては駅ができたヴァルコマキの方が目覚ましい発達を見せている。
しかし、港町で働く船乗りや、列車が通った宿場町で働いている若者たちの故郷がどこかと考えれば、答えは一目瞭然だ。
働きに出ていた若者が新しい家族を連れて故郷に帰り、親族と共に生誕祭を楽しむ。そのため、見知らぬ顔がいくつも目に入るのだろう。
「そうでなくても、ティモって丁度いい大きさの町なんだよね。大都会ってほど賑やかで忙しなくはないし、かといって辺境と呼べるほどに閑散としているわけでもない。今回は、旅芸人の一座も招いているって話も広まっているだろうし、そのおかげで皆がこっちに戻ってきてるんじゃない?」
ヨニの言うように、人の流れは広場に向かう者、あるいはそこから戻ってきた者に大きく分けられる。観光地らしい名所のないティモにとって、一座の到来は一時的に名所ができたのと同じ意味を持つのだろう。
「これは、本当に迷子になってしまうかもしれませんね。ニコ、手を繋いだままでもいいですか?」
「は、はい。もちろんです! ええと、ヨニ先生とも繋いだ方がいいでしょうか?」
「さすがに、俺とも繋いだら狭い路地の中じゃ邪魔になっちゃうよ。それよりも迷子になったとき、どこに向かうかを決めた方がいいんじゃない?」
「迷ったら、教会で待ち合わせということにしましょうか。教会なら、鐘楼が遠くからも見えるでしょうし、どなたか司祭の方がいらっしゃるでしょうから」
この後の予定についてアナが軽く説明をしてから、まずはザックを迎えに待ち合わせ場所である教会の広場に向かおうとした。
そのときだった。
「ヨニ! やっときてくれたのね、遅かったじゃない!!」
「うわっ!? その声は――アザレア!?」
ヘイノの傍を歩いていたヨニが、突如前へとつんのめる。ふらふらと数歩踏み出して何とか踏みとどまり、彼は倒れかけた上体をぐいと戻した。
姿勢を戻したヨニは、振り返って自分の背中に飛びついてきた人物を目にして、
「やっぱりアザレアだ! 後から広場に行こうと思ったのに、どうしてこんな所にいるの? いくら出し物の時間じゃないからって、一座の側に居なくていいの?」
「前に言ったでしょう。私は正式な団員じゃないから、お仕事がないの。暇そうにふらふらしていたら、準備で忙しい皆の邪魔になるじゃない」
親しげに会話を始めるヨニたちを見守りながら、ヘイノはヨニの背中に飛びついてきた少女と彼の様子に目を丸くしていた。
薄紅色の髪に、春の空と同じくらい透き通った空色の瞳。まだ冬の名残を感じさせる冷たい風が吹いているというのに、彼女の服装は一足春が来たかのような軽装だった。
だが、ヘイノが驚いたのは彼女の服装や容姿に対してではない。
「そういえば、さっきのあれ。後ろから急に飛びつくってのは、流石にやめてよ。転んで怪我でもしたら、お祭りどころじゃなくなっちゃうでしょ?」
「それは確かにそうね。でも、あなたが転びそうになったら、私がちゃんと支えてあげるから安心して。私、意外と力持ちなの」
「いや、そういう問題じゃないから……。とにかく、次に俺を見つけたら、全力で兎みたく飛びつくみたいに、ちゃんと声をかけてよ。そしたら、待ち構えられるからさ」
「うーん、そうね。そういうのも楽しそうね。その時は、ちゃんと受け止めてちょうだいね」
アザレアと呼ばれた少女は、まるでとっておきの悪戯を思いついた子供のように、そのつり上がった瞳を弓なりに撓める。
「飛びつくのをやめるって発想はないの?」
「ヨニって、結構細かいことを気にするのね」
「なんで、俺がわがまま言ったみたいになってるんだか……」
ぽんぽんと、まるでゴムボールを投げ合うかのように軽やかに飛び交う二人の言葉。それこそが、ヘイノを、そしてニコすらも目を丸くしていた理由だった。
彼らの会話の内容に、ではない。
自分たちが知っているはずのヨニが見せる、全く違う姿が、二人から暫し言葉を奪っていた。
普段、先生として子供達と接するヨニとも、自宅でヘイノと二人きりでいるときのやり取りとも、また何かが違う。
同年代の、しかも異性を相手にしているのだから、いつもと違うのも当然とも考えられるが。
(でも、女性に対して接するというよりは、雰囲気としては俺と話している時の空気と近いような……だけど、それを踏まえても、まだ何かが違う気がする……)
今までは、自分と一対一で話しているときのヨニこそが、彼がもっともリラックスしている状態だとヘイノは思っていた。だが、今こうしてヨニが友人の少女と話す姿は、ヘイノと話しているときとは明確に異なる――もっと気楽なようにも見えるのだ。
「……なんだか、びっくりしちゃいましたね。ヨニ先生があんな風に話すところ、私は初めて見ました」
「え、ええ。……俺も、実は驚いてます」
恐らく、ニコもヘイノと同じ違和感を覚えたのだろう。だが、互いにそれが何かを言葉にすることはできずにいた。
二人が揃ってこちらを見ているのに気づいたのか、ひとしきりヨニと戯れていたアザレアが改めてこちらへと向き直った。
「初めまして、皆さん。私はアザレアよ。どうぞよろしくね」
両手を軽く広げて、小さくお辞儀をするアザレア。つられて、ニコも同じように淑女らしい一礼を返す。
「よろしくね、アザレア。ヨニから話は聞いているわ。一日の間に随分親しくなったそうね」
ニコよりもいくらか優雅な一礼を返したアナが、皆を代表して挨拶を返す。
「ヨニは私がこれまで出会ってきた中でも、とびきり話しやすくて素敵な男の子ね。今日は、広場のダンスのときにエスコートを頼もうと思っているの。いいわよね?」
「ヨニがいいと言うなら、私が拒む理由はないわ」
その話を聞いた瞬間、ニコが隠しきれない笑みを口元に浮かべたことにヘイノは気がついた。ダンスといえば、生徒の一人であるアウリがしばしば話題にする、子供たちが憧れる『大人の世界』の一つだ。
「ニコ、もしダンスに参加するなら、俺がエスコートしましょうか?」
「いいんですか!? あ、でも、私、ダンスの踊り方なんて全然わかりません……」
「大丈夫ですよ、俺も詳しくはありませんから。周りを見て、一緒に勉強しましょう」
詳しくないどころか、理屈の上では全く知らないも同然だが、ヘイノはひとまずそう言ってニコを安心させた。誰かに見せるためのダンスでないのなら、そこまで肩に力を入れる必要もないだろうから、と。
「ところで、アザレア。あなたは私たちが同行しても構わないかしら。この後、更に一人、私の友人が加わる予定なのだけれど」
「ヨニを独り占めするほど、私の心は狭くないわ。せっかく家族と一緒に遊びにきているのに、私の相手をさせるだけなんて、そんなのは私にとっても退屈極まりないことよ」
何やら大げさな物言いをした後、アザレアはくるりと踵を器用に回し、ヘイノたちへと向き直る。
「あなたがヨニが話していた、双子の兄弟のヘイノね! そちらの小さなお嬢さんは、あなたのお友達かしら」
「わ、私はニコといいます。よろしくお願いします」
アザレアに一礼しつつ、ニコは目の前の少し年長のお姉さんに負けじと、自分でもとびきりと思える笑顔を向ける。
彼女のように、同年代且つ世の中の全てを満喫しているような少女を見ると、つい使用人だった時の後ろ向きな考えが蘇ってきそうになる。そうでなくても、アザレアはニコから見ても魅力的な少女に映っていた。
(大丈夫ですよ、ニコ。今日の私も、とびきり、ですから!)
身だしなみばかりを気にしているとお馬鹿さんになるよ、というベロニカの言葉が脳裏に浮かび上がる。彼女の忠告を胸に、ニコは今一度ぴしりと背筋を伸ばした。
「よろしくお願いします、アザレアさん。俺がヘイノです。ヨニが、一体俺のことでどんな話をしていたかは知りませんが、俺とも仲良くしてもらえたら嬉しいです」
「よろしく、ヘイノ。ところで……ヨニがどんな話をしていたか、興味はあるかしら?」
すい、と滑るようにヘイノの元に近寄り、アザレアはにんまりと笑顔を浮かべながら小声で囁きかける。
その誘いに、ヘイノは「はい」と同時に「いいえ」と言いたい気持ちに駆られていた。
ヨニは、自分のいない場面でヘイノのことをどう話しているのだろうか。興味があると同時に、その内容を盗み聞きして、自分が安心したいだけなのではという自問が生まれる。どちらにせよ、何とも後ろめたい感情がヘイノの胸を引っ掻いていた。
「……もしよかったら、聞かせてもらえますか」
結局、ヘイノは小声でそう尋ねていた。好奇心か、保身の感情か、どちらが己にそう言わせたのかもヘイノには分からない。
そんな彼の葛藤などつゆ知らず、アザレアは形の良い指先を口元に当てて、
「ヨニは、あなたは自分とそんなに似てない、という話をしていたわ。性格が特に違うってね。あなたは真面目な人だそうよ」
「そう、ですか」
アザレアの語った内容は、ヘイノでもそういう話はするだろうと思える程度の内容だった。
「確かに性格はあまり似ていないと、俺も思います。とはいえ、ヨニも不真面目というわけではないんですよ」
教会への方角をアナと共に確かめている弟の姿を見やる。大雑把でいい加減なように見えて、ヨニが現実的で慎重な側面を持っていることを、ヘイノはもう知っている。
「ただ、見た目はよく似ているみたいですね。アザレアさんにも、見分けがつくといいのですが」
「あら、そうでもないわよ」
アナにも子供たちにも散々言われてきた、見た目に関する話題を出してみたものの、意外にもアザレアの食い付きは悪かった。彼女の空色の瞳は、ヘイノの頭のてっぺんからつま先までをざっと見つめてから、
「うん、やっぱりそんなに似ていないわ。人間の目が読み取れる部分はうんと少ないから、それだけしか見えていないと、似ているように感じてしまうのでしょうね」
「え? それってどういう――」
ヘイノが更に質問をする前に、アナが「そろそろ行くわよ」とヘイノたちへと声をかけた。
「ええ、そうしましょう! それじゃあ、皆さんの楽しい旅路に私も同行させてもらうわね。今日は三人も友達が増えたわ! なんて嬉しい日なんでしょう!」
ぱっとヘイノから離れて、アザレアは野うさぎのようにアナのもとへと駆け寄る。その切り替えの速さに呆気にとられていたヘイノの肩を、戻ってきたヨニがぽんぽんと軽く叩いた。
「お疲れー。どう、アザレアは。俺が話した通りの子だったでしょ」
「え、ええ。なんというか、風のような人ですね。つかみ所がないっていいますか……」
「ああ、いい喩えだね。でも、話していて不愉快な気分にはならないんだから不思議だよねー。あ、待ってよ二人とも! ほら、ヘイノも早く!」
それだけ言い残すと、ヨニは先を歩き始めたアザレアのもとへと駆け寄っていく。その背中に思わず伸ばしたヘイノの手は、ただ空を掻いただけだった。
「ヘイノ先生。さっそく迷子になっちゃいますよ」
「そうですね。行きましょうか、ニコ」
掴んだままだったもう一人の少女の手をとり、ヘイノは遠くなっていくヨニの背中をニコと共に追いかける。
(……ヨニが俺よりも先に走り出したときに見える光景って、こんな感じなんだな)
自明のことであるはずなのに、自分を置いて誰かと話している弟の姿を前にして、ヘイノはすうっと隙間風が通り抜けたような感覚を胸の奥に覚えていた。
だが、ヘイノは気がついていなかった。
ニコを助けるために奔走していたヘイノの背を見つめていたヨニが見ていたものも、また同じ景色だったということに。




