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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
二章
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二章・一話

「むむむむ……」

 豊穣祭を終えた頃から、ニコは朝の鐘が鳴り終えてから起きるようにしていた。あまりに早く起きすぎると、使用人のベロニカが支度をする場に鉢合わせて気まずい思いをしてしまうからだ。

 けれども、その日に限っては、ニコも以前のように鐘と共に飛び起きた。

 いつも以上に身だしなみに注意したい日に限って、髪の毛には普段の倍以上の寝癖がついている気がした。鏡をのぞき込む顔の血色も、何だか青ざめて見える気がする。

 これではいけないと、ニコはもつれている髪の毛に念入りにブラシを通し、常よりも多めに水を使ってしっかりと顔を洗った。水気を落とすために、ゴシゴシと強く布で顔を擦ったせいで、顔に赤みは増したものの、今は少し肌がヒリヒリする。

 だが、その程度の痛みなど何するものぞ。ニコは再び鏡に向き直り、次なる問題にぶつかっていた。

「ううん……。今日のお出かけにつけていくリボンは、どちらがよいでしょうか……」

 そんな独り言を漏らしたニコの手には、水玉模様の赤いリボンと、深みを帯びたブラウンのリボンが握られていた。

 彼女はまるで、それが世界の命運を左右する女神からの授かりものであるかのように、真剣な面持ちでブラシをかけたばかりの髪にあてていたのだった。

 

 三日前の『太陽の日』に行われた礼拝の日は、生誕祭の始まりを告げる日でもあった。

 生誕祭といっても、始祖が生まれた日が具体的にいつかを残す記録はない。代わりに、教会は『種蒔き月』の第二週の『太陽の日』を生誕の日としていた。

 かつて人々を導き奇跡を女神から授かった始祖が生誕したその日に思いを馳せて、村人たちは揃って、彼女への感謝の祈りを捧げた。

 そして、それは今年も冬が無事に過ぎ去り、春を迎えられたことを祝う祭りの始まりを告げる合図でもあった。

 まだこの国の開拓が始まったばかりの頃は、冬が終わり春が訪れるという当たり前の季節の移り変わりも死活問題の一つであった。

 だが、聖石の恵みが国中を行き交うようになった現代では、生誕祭は春の来訪を祝うと同時に、国中がお祝いの空気に包まれるめでたい日という意味合いが強い。

 祭りに参加して楽しむのは初めてのニコも、そのお祝い一色の空気に満たされた者の一人だ。

『太陽の日』の礼拝を終えてからは、シニッカと共にプッラ――バターをたっぷり使って柔らかく練り上げた生地に砂糖や薄く切った木の実を振りかけたパン――を沢山焼いて、近所に配り歩いた。

 その次の日は、シニッカの友人であるイーナ・ロポネン夫人を訪問し、とっておきのもてなしを堪能した。

 その翌日は、ティモで興行をしている旅芸人の人たちが何人かパユヴェシ村の学校にやってきて、校舎の近くにある広場を使って大道芸を披露してくれた。

「毎日が楽しいことばかりで、普通の日を退屈に感じてしまわないでしょうか。なんだか、毎日が楽しいのに、不安にも思えるんです」

「大丈夫ですよ、ニコ。私も若い頃はそう思っていたものだけれど、退屈な一日も必要なものだと気づけましたから。それよりも、明日のお出かけを心待ちにしておくことが、今のニコがするべきことじゃないかしら?」

 昨日、シニッカにそう言われたおかげで、ニコは要らぬ心配をせずに今日という日を迎えられたのだ。

 生誕祭の中でも、ニコがとびきり楽しみにしていた日が二つある。

 一つは、敬愛する司祭の先生たちと共にティモに行き、お芝居を見たり、お祝いの気配に包まれた町を見て回る今日。

 そして、もう一つはシニッカと共に、同じくティモの町に行く日である。

 ヘイノたちとの外出は、シニッカと出かける日の謂わば予行演習のようなものとなってしまったが、どちらも、ニコにとっては宙に浮かびかねないくらい楽しみであることには違いない。

 寝台の上には、この日のためにシニッカが新たに仕立ててくれた、明るいオレンジイエローのワンピースが広げられている。よく熟れたクラウドベリーのような色は、春のお祭りに実にぴったりだ。

 ならばこそ、この装いに相応しく完璧なレディにならねばと、ニコは朝からリボンを見比べ続けていたのである。

「身なりばかり気にしていると、虚栄心ばかり膨らんで中身はすっからかんのお馬鹿さんになるよってベロニカさんには言われてしまいましたけど……」

 昨日の夕方、ニコにとっては重大なこの問題について意見を求めたところ、ベロニカは取りつく島もなくそう言ったのだった。

 ニコは真摯に彼女の意見を受け止めることにして、この朝の時間にどちらのリボンを結ぶか決めたら、それ以上はリボンのことを考えないと決意したのである。

「ベロニカさんの意見は私も正しいと思います。ですが! せっかく先生たちに誘ってもらったのに、適当な格好なんてできません。アナ先生やそのご友人もいらっしゃいますし、それにヘイノ先生も……」

 ――ヘイノせんせーは王子様みたいに素敵で親切な方ですから、ニコが恋するのは不思議なことではありませんわ。

 以前にアウリに言われたことがふわりと頭の端から浮かび上がり、ニコは少しばかり頬を薔薇色に染める。

 もっとも、少女のささやかな夢は、彼女自身がふるふると頭を振ったことで霞のように消えていった。今はまだ、この淡い夢について何か考えるだけでも、無性に恥ずかしく思えてしまう。

 何はともあれ、今はリボンである。

「うーん……大人っぽいブラウンも素敵ですけれど……やっぱり、今日は明るい方がいいですよね。せっかくの春ですから!」

 そう言い切って、ニコは赤い水玉模様のリボンで髪の毛を結ぶ。

 鏡を覗けば、そこにはかつて夢見ていた、幸せな気持ちに満ち溢れた少女が笑い返していた。

 

 ***

 

 喜びに足を弾ませた少女が一階へと降りると、ベロニカがキッチンで朝食のお粥の準備をしていた。

 普段は、朝食の配膳が終わった頃に顔を見せるシニッカも、今日はすでに起きて、キッチンの片隅でお茶を楽しんでいた。

「おはようございます、シニッカさん! それにベロニカさんも!」

「おはよう、ニコ。そのワンピース、あなたによく似合っているわね。急いで用意した甲斐があったわ」

 ニコが芝居の話を持ち帰ったその日よりも少し前から、シニッカは手元にあった生地を使って様々なワンピースを仕立てていた。その中の一つを、祭りの外出に合わせて急いで完成させてくれたのである。

「先日の豊穣祭に続いて、素敵なワンピースを作ってくれてありがとうございます、シニッカさん! どうでしょう、変なところとかないでしょうか?」

「奥様がお作りになったものに、変なところなんてあるわけがないでしょう。まったく、そんなに大きく袖を膨らませるなんて、まるで膨らんだパン生地みたいじゃないの。奥様、この膨らみに使った布だけで、もう一つ身頃が縫えたんじゃありませんか?」

「いいんですよ、ベロニカ。最近は、こういう丸く膨らんだ袖が流行っているんだって、イーナが言っていたんですもの。せっかく街まで行くのに、一人だけ古めかしい格好をしていては何だか物寂しくなってしまうでしょう?」

 かつての使用人暮らしを思えば、ニコにとっては新しい服が一着増えるだけで、空に舞い上がりたくなるほどの喜びだったのだが、シニッカはそれだけでは満足できなかったらしい。

 彼女が足繁く友人たちの元に通い、最新の型紙について意見交換をしていることを、ニコはベロニカからこっそり教えられていた。

「さあさあ、ニコ。素敵な姿を見せてくれるのは嬉しいけれど、まずは朝食にしましょう。今日は、教会の皆さんとそのご友人の方と一緒にお芝居を見に行くのでしょう?」

 シニッカに促され、ニコはいそいそとキッチンにある椅子へと腰を下ろす。すかさず、ベロニカが牛乳をたっぷり使ったお粥と、固く焼いた黒パン、そしておなじみのベリーのジャムを並べた。

 こうやって椅子に座ると、即座にベロニカが配膳するのも、少しずつおなじみの習慣となりつつあった。以前は朝食を準備されるだけでも恐縮していたが、それがベロニカの仕事なのだから横取りする方が失礼だと分かってからは、ニコは彼女の給仕を素直に受け入れるようにしていた。

「アナ司祭のご友人という方は、たしか外の国から来ている客人だという話だったわね。どんな人か、ニコは聞いているのかしら?」

 シニッカに質問されて、ニコは数日前にヘイノたちと会ったときのことを思い出す。

 礼拝を終えたあと、楽しみにしていた外出に新たな同行者が加わったことを、わざわざヘイノが説明しにきてくれたのだ。

「ええっと、お一人はアナ司祭と同じくらいの男の方です。私も、本屋で会ったことがある人ですよ。その時は、初対面の私たちにも親しげにお話をされていて、とても明るくて素敵な方だって思いました」

 ヘイノと同じく、ニコもザックには悪い印象は抱いていなかった。肌の色の違いに多少驚きはしたものの、それとて会話をしていく内に自然に受け入れられるほどの些細な違いだ。

「それと、もう一人はヨニ先生のご友人なんだそうです。ティモの町に来て、お芝居の公演をしている一座にいる、私よりちょっと年長の女の子だそうです」

 ザックのことは知っていたが、ニコは後者の少女の存在を聞いて幾らかの緊張を覚えていた。

 教会の教室には、自分と同年代の少女はいない。村の学校――こちらは国が定めた正式な学校だ――には、もしかしたらいるのかもしれないが、あいにくニコはまだ会ったことはない。

 使用人ではなく、ただの女の子として同年代の少女の前に立つのは、ニコにとっては未知の体験だった。

 シニッカのおかげで、人並みに子供らしい振る舞いというものは少しずつ身につけられているはずだ。だが、いざ普通の女の子の前に立って、自分との間に何か違いがあったらという心配は拭えない。

「私、その子と仲良くなれるでしょうか……。シニッカさん、ベロニカさん、私にどこか変なところとか、ないでしょうか。普通の女の子のように見えますか?」

「おかしな所など、全くありませんよ。ニコは、今日も愛らしい私の小さな友達です」

「そうやって他人からの目ばかり気にしていたら、足元が疎かになってまた迷子になるわよ。あんたは自分がどう見えるかを気にする前に、司祭さま方に迷惑をかけないかだけを気にしていなさい」

 ベロニカはどん、とお茶の入ったマグカップを置くと、ニコの側に屈んで小声で付け足した。

「その一座の娘とやらが、あんたを馬鹿にするような真似をしたら、あたしに言うんだよ。箒を振り回して追い返してやるわ」

「まあ、ベロニカったら。そんなことをしたら、シニッカさんがびっくりしてしまいますよ」

「あたしにそんな真似をさせたくないのなら、あんたはそのご友人とやらの前では行儀よくしておくのね。あんたなら、きっと上手くやるでしょうよ」

 突き放してるのか気遣われてるのか、分からなくなるような発言だが、これがベロニカなりの親愛の表し方なのだとニコはもう知っている。

 雨の中、憎まれ口を叩きながらも迷子になった子供を探しにきてくれた日のことを、ニコは昨日のように覚えていた。

「シニッカさんは、今日はベロニカさんのお家にお招きされてるのですよね」

 シニッカ一人を家に残すことになったらどうしようとニコは心配だったが、代わりにベロニカがこの優しい独り身の夫人のもてなしを買って出てくれていた。

「ええ、そうよ。ベロニカのお母様は、私の昔馴染みの一人ですもの。最近は、足が悪くて礼拝にもあまり顔を出していないようだけれど、元気にしているかしら?」

「ご安心ください、奥様。相変わらず、私の母は大変口うるさい気むずかし屋のままです。そのくせ、お節介焼きなのですよ。気むずかしいのも口うるさいのもよくある性格の一つですけれど、そこにお節介が重なると始末に負えませんわ、まったく!」

 そう言いながらも、ベロニカの口元にはあの挑発的なつり上がった微笑が浮かび上がっている。そういうときのベロニカの憎まれ口は、大抵相手を深く思っているからこそのものだ。

「今日は姉夫婦が家に戻ってくるから、まるで大きなお屋敷の女主人のように威張り散らしてたわ。『ベロニカ、暖炉の灰は片付けただろうね!?』『ベロニカ、玄関の小石は掃き出しておいたかい!?』一事が万事、この調子ですわ」

 ベロニカの母親のものまねを聞いて、ニコはいかめしい顔の老女が暖炉の前の揺り椅子に座り込み、杖をぶんぶんと振っている姿を想像してしまい、思わず声を上げて笑い出しそうになってしまった。

 大口を開けて笑うのはしたないと、必死に唇に力を込めていると、丁度布巾の片付けをしていたベロニカと目が合ってしまう。彼女のくいっとつり上がった口角から察するに、想像したのは同じ景色だったようだ。

「さあさあ、のんびりとした朝ごはんはここまでですよ、ニコ。もう一時間もしたら、ヘイノ司祭が迎えにくると言っていませんでしたっけ?」

「そうでした! 急いで食べないとっ」

「慌てて、せっかくのワンピースにパン屑をこぼしたり、ジャムのしみをつけたりしないようにね。あたしは、べそをかいたあんたを見送るのはごめんよ」

 ベロニカの忠告を胸にしっかりしまっておいたおかげで、ニコはワンピースにシミ一つつけずに、朝食を平らげられた。

 そして、玄関口に顔を見せたヘイノに、これぞ小さな淑女という出で立ちで優雅な一礼を見せ、楽しい一日への一歩を踏み出したのだった。

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