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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
幕間1の5つめ「ヨニと華の踊り子の話」
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幕間1・5-6

「ああ、すっごく楽しかった! あんなにたくさん踊ったのは久しぶりよ! こうしていると、やっぱりこうして体を動かしてるのが、私は一番好きなのねって実感するわ」

「座長さんには、歌を聴いて誘われていたってケルッコさんたちは言ってたけど、アザレアは踊る方が好きなんだね」

 アザレアの隣へと腰を下ろしつつ、ヨニは先程チャールからもらってきた紅茶を渡す。アザレアは金属のカップに入ったそれを、一息で飲み干した。

 踊りが終わった後にヨニが貸したジャケットが、彼女の小さな肩の上で揺れている。むき出しの白い二の腕や足が寒そうで貸したのだが、当の本人は寒さなどまるで感じていないかのように、けろりとしていた。

「謳うのも好きよ。でも、歌いながら踊ると、どっちつかずになってしまうでしょ? だから、私は踊る方を優先してるだけ。本当なら、お芝居も歌も踊りも全部一度にできるならやってみたいところよ!」

 全部、と言いながら大きく手を広げるアザレア。その動きに合わせて、彼女の飾り袖もぶわりと揺れた。

 あれから、ヨニはチャールの音楽に誘われるままに、もう二曲、短い舞踊曲の演奏に付き合った。

 その音色に誘われて、一座の者もこぞって顔を出し、踊りに加わってしまったものだから、公演の準備に向けた作業は一時中断となってしまった。

 そのせいで、最終的に座長が顔を出して解散を宣言し、アザレアは彼からいくつか小言を貰っていたが、当の彼女には特段堪えた様子はなかった。

「あなたの笛も素敵だったわよ、ヨニ。あなたに私の踊りを見せようと思ったのに、私の方があなたの奏でる音色に聴き惚れてしまうなんて!」

 アザレアの真っ直ぐな賞賛を受けて、途端にヨニは腹の底がむずむずするような感覚に襲われた。

「そ、そんなに大層なものじゃないよ。何度も音を間違えたし、チャールさんに助けられたところもあったんだから」

「謙遜も、行き過ぎると自分を萎縮させる毒になるわよ。いっそ、あなたが司祭じゃなくて、旅の笛吹きだったらよかったのに! そうしたら、座長さんに今すぐあなたに勧誘するように言っていたわ」

 彼女の語るもしもの話を聞いて、、ヨニも一瞬想像する。アザレアやチャール、ケルッコたちの仲間となって、大好きな音楽に浸りながら各地を旅する日々を。

 だが、彼は小さくかぶりを振って、自分の中に浮かび上がった妄想を振り払った。

「昔は、音楽家になれたらって思ったことはあったけどね。今は、司祭の俺でいいよ」

「どうして? 音楽家になりたいなら、今からでも遅くないでしょう?」

「そういうわけにはいかないよ。司祭になるのは、俺の両親の希望でもあるし、俺と同じように司祭の道を目指しているヘイノの手伝いもしたいもの」

「不思議な話ね。司祭になりたいと言いながら、そこにはあなた自身の意思がないように聞こえるのだけれど」

 全く遠慮のないアザレアの指摘は、会ってまだ一日と経っていない相手に言うには無礼とも思える内容だった。

 だが、ヨニは彼女の言葉にはっと胸を突かれたような気持ちになった。

 この国の人間にとって、司祭になるというのは、それだけで大変名誉なことだ。神学校に入るだけでも狭き門なのに、そこでも一定の水準の教養と礼節を示さなければ、司祭の証である白い石は託されない。

 故に、司祭になろうと決意した者を、人々はこぞって応援する。そこに、どんな理由が隠れていようと、目指そうと決めた時点で一定の畏敬の念を向けられるというのが、この国の常識だった。

 だが、アザレアにとって、司祭とは農夫や教師のようなありきたりな職業の一つと変わらないものとして映っているらしい。

「あなたは笛を吹きたい。そして、あなた自身が司祭になりたくないのなら、どうして笛吹きを目指さないの?」

「……それは」

 その素朴な問いを、自分に向けようと思ったことは今までなかった。だが、少し考えてみれば、意外とあっさりと答えは見つかった。

「俺が笛を吹きたい、音楽を楽しみたいという気持ちと同じくらい、父さんや母さんの願いを叶えたい、ヘイノのそばにいたい……って気持ちが強いからかな」

 少なくとも、今この瞬間は胸を張ってそうだと言える。

 まして、両親はすでにこの世界のどこにもいない。その肉体は先の火災によって灰に還り、魂は御使いに導かれて女神の懐に抱かれている。

 彼らが最後まで気に掛けていたことに応えたい、という気持ちはヨニにとっては偽りではなかった。

「それに、全く司祭になることに興味がないってわけじゃないんだよ。司祭って、この国を動かすために欠かせないものだと思うんだ。今だって、村の人たちのもめ事の仲裁をしたり、土地の管理を手伝ったり、結婚とか埋葬みたいな人生の節目にあたる大事な儀式を取り仕切ったりしてさ。俺たちがいないと上手く進まない部分が沢山あって、それを支えられる礎になるのは誇らしいと思うんだ」

 ヨニとしては自明のことなのだが、どうやらアザレアにはぴんとこなかったようだ。首を傾げた彼女の白い首を、薄紅の細い髪がさらりと流れ落ちていった。

「……あなたが司祭を続けたいというのなら、無理に引き抜くようなことはしないわ。でも、来週の生誕祭には、この町の広場で私と踊るぐらいのことはしてくれるでしょう? 私は広場のお芝居には出番がないから、踊りの興行の時間まで暇なのよ」

「それは、もちろんいいけれど……それ、俺でいいの?」

「私、こう見えてもこの町に来たばかりで知り合いがいないのよ。それに、一座には私みたいに暇をしている人もいないの。だから、あなたは特別に私のお相手に任命してあげるわ!」

 その内容は胸を張って言うことなのだろうか、と口を挟みたくなったが、彼女にも彼女の事情があるのだろうと一旦は言葉を飲み込む。

 アザレアが手伝いを任されていないのは、彼女が正式な一座の団員だからではないだろう。

 決して、彼女が自由気ままな性分のため、大事な準備を任せるのに不安が残るから、ではないはずだ。彼女の名誉のためにそう思っておこうと、ヨニは内心で勝手に結論を出していた。

「うん、いいよ。ヘイノたちと一緒に、ティモに行く日があるんだ。だから、その時に君も一緒に同行していいか、アナさんに聞いてみて……」

 そこまで言って、ヨニは言葉を途中で止める。

 奇しくも、自分が口にした予定が、朝の自分が不満を抱いていた原因と全く同じ内容になってしまっていると気がついたからだ。

 あのとき、自分はあんなにもザックが――顔も知らない第三者が同行者に加わることに、嫌悪感を覚えていたのに。

 今では、こうしてあっさりと新たな友人を増やし、同行者に加えようとしている。

「どうかしたの?」

「ああ、いや。……ちょっと、今日の自分を省みていたというか……俺って勝手だなって思ったというか……」

 気づけば、ヨニは今朝あったことをアザレアへと話していた。

 新しい生活に馴染んだ矢先、突如入り込んできた見知らぬ男の存在。尊敬する師に近づいてきたという理由もあったが、それ以上に自分が彼の登場を拒んだのは、ようやく落ち着きつつあった日常が変わってしまうと感じたからだった。

「でも、俺はアザレアと出会えてよかったと思っているんだ。チャールたちとこうして合奏ができて、最高に楽しいと感じている。この非日常に出会えて良かったってさ。だから、なんか……俺って自分勝手だなって」

 膝を抱えて、ヨニは空を見上げる。ティモの空は、まだ明るい。この国の夜はこれからどんどん遠くなり、やがて完全に日が沈まない夏がやってくる。

「でも、変わらないでいてほしいって思った俺の気持ちも、本当のことなんだよ。いつまでも、アナさんも、教会の子供たちも……ヘイノも、今のままの姿で、今のままの関係で、俺の隣に居続けてほしい」

 だが、実際はそうではないのだとヨニは知っている。

 最初、教会の生活にヘイノはいなかった。そして、遅れて、ヘイノが司祭見習いとしての生活に加わった。ヘイノは苦境に立たされたニコを助け、彼女はシニッカの新たな家族となった。

「いつまでも変わらないでいてほしいのに、どんどん俺の周りは変わっていくんだよ。きっと、俺も気づかないうちにその変化の一つになっている。一年前の俺に、今ここでこうして君と話をしているって言っても信じなかっただろうし」

 そして、十年、二十年、三十年と年を重ねていくうちに、さらに変化は進むのだろう。

 大人になったらそれを、平然とした顔で受け入れられるようになるのだろうか。あるいは、仕方ないと諦めの境地として迎え入れるようになるのだろうか。

 ヨニには、その先に何があるのかは分からない。ただ、自分が漠然と感じている、好意的には受け止められないモヤモヤとした感情だけが、今の自分にとっては確かなものだった。

「……たしかに、あなたの言うように、この世界にあるものはどんなものでも、変わっていってしまうものだわ。ずっと変わらないと思っていた景色も町並みも、瞬きをしている間に全く違うものへと変わってしまうのだもの」

 アザレアの言葉は、ヨニのものとはまた違う重みがあった。

 それはひょっとしたら、旅暮らしを続けているという彼女の境遇だからこそ生み出されたものかもしれなかった。

「だからこそ、私は今この瞬間にあるものを、私ができうる限りの全力で愛し、慈しむことにしているの」

 立ち上がったアザレアは、ヨニにジャケットを返し、くるりと踵を返す。その動きにあわせて、彼女の舞姫としての衣装が陽光の下でふわりと広がった。

「私が好きな人も、嫌いな人も。私のことが好きな人も、嫌いな人も。いつか、みんないなくなってしまう」

 白い腕を広げ、少女は優雅な一礼をしてみせた。

「だからこそ、私は、私の前を行き過ぎる人々の姿を、私のこの目に焼き付ける。そして、私の姿も、そんな人たちの目に焼き付けさせてみせるって決めている。それが、私の生き方よ」

 ゆっくりと顔を上げ、彼女は笑う。

 その双眸は、ヨニが知るどんな人よりも強い意思に満ちあふれていて、焼き付けさせると豪語するだけの力強さも秘められているように見えた。

「……すごいな。俺も、そんな風にできるかな」

「やろうと思えば、いつだって人は何だって成し遂げられるものよ。あなただってね」

 アザレアが差し出した手を、ヨニはおずおずと掴み、立ち上がる。そこには、彼女なりの激励が込められているようだった。

 出会ったときのように彼女に手を引かれて、ヨニは歩き始める。

 あのときは、ただ訳もわからず振り回されるばかりだった。だが、今はあの時とは少し違う感情が胸を占めていた。

(……いつか、今の悩みに一つの答えが出た日には)

 こちらを見て、春の花よりも可憐に、夏の太陽よりも明朗に笑ってみせる少女に、ヨニは思う。

(俺も君みたいに笑いながら、君の隣を歩けるかな)

 

 ***

 

 出かける前にあれほど大騒ぎしていたのが嘘のように、ヨニは清々しい気持ちで帰宅の挨拶を告げた。

 予想外の出来事の連続だった外出は、結果的には心地よい気分転換になってくれた。当然ながら、その日の夕飯はヨニが話し手となってティモで見てきたことを語り続けていた。

 ザックへの返信をセヴェリ司祭に預けたことも勿論アナに伝えたが、彼の話題の大半を占めたのは、広場で偶然耳にした演奏や、路地で偶然出会ったアザレアのことだった。

「それで、また祭りの日に会いたいってアザレアに言われたんだけど、その……アナさんたちの約束の日に、彼女と合流してもいいかな」

「いいわよ。ザックも、まさか嫌だとは言わないでしょうから」

「俺も構いませんよ。ニコも新しい友人ができて喜ぶと思います。俺としても、ヨニがそんなにも嬉しそうに話す人がどんな人物なのか、とても気になりますから」

「そ、そんなに嬉しそう……だったかな」

 声が弾んでいる自覚はあったが、アザレアの話題になったときの自分はそんなにも浮かれていただろうか。ヨニは、つい己の頬を軽く引っ張ってみる。

「ええ。ヨニはいつも笑顔で色んな話をしてくれますが、今日はいつも以上にニコニコしていますよ。楽しみにしていた音楽も聴けたようで良かったです」

「うん。あれは本当にすっごい幸運だったと思うよ。あの音楽は、綺麗なんて言葉で語り尽くせないくらいだったんだよ。祭りの日には、ヘイノとアナさんにもぜひ聞いてもらいたいな」

 音は、絵画や本のように形があるものではない。もし、音を持ち運ぶなどということができたなら、ヨニは音楽という名前のお土産を間違いなくこのダイニングテーブルに持ち帰ってきていただろう。

 どうにかして、あの音色の素晴らしさを伝えようとヨニが思いつく限りの言葉を駆使していると、

「ヨニ。そんなにも音楽が好きなら、今度からあなたがオルガンを演奏してみる?」

「え、いいの!?」

 思いがけないアナの申し出に、ヨニは思わず大きな声を出してしまう。

「よかったですね、ヨニ」

 前に演奏したいと言っていたことを覚えていたのだろう。ヘイノも我が事のように笑顔を送っている。

「うん。なんだか夢みたいだ……。もしかして、俺、本当に夢を見てる?」

「安心してください。夢じゃありませんよ。その証拠に、今日はこの後ヨニには靴の泥を落とす作業が待ってますから。生誕祭の前に、一度綺麗にしておくという約束でしたよね?」

 言葉通り、まるで夢見心地でぼんやりとした様子のヨニに、容赦なくヘイノが現実の仕事を突きつけてくる。おかげで、ヨニはここが厄介な仕事も待ち構えている現実だと自覚し直せた。

「オルガンの楽譜と鍵は、後であなたに預けるわ。礼拝堂を教室として使っていないときに、練習をしておいてちょうだい」

「任せて! 一日中だって張り付いていられるよ」

「ヨニ、自分の仕事は放り出さないでくださいね。ヨニの演奏を聴くのは楽しみですが、一人で礼拝堂の掃除はできませんから」

 ヨニの希望が叶えられたのを喜ぶ一方で、司祭見習いとしての仕事も忘れさせまいと現実的な言葉も挟むヘイノ。しっかり者の兄への回答として、ヨニは思わせぶりな笑顔だけ送ることにした。

 オルガンを触らせてもらえる。それは、この教会に赴任したときからのヨニの密かな夢だった。ちょっとぐらい時間を忘れて没頭しても、少しぐらいは許してもらいたい。

 礼拝堂にあるオルガンに触れる自分を想像し、暫く近く訪れる未来を夢想していたヨニだったが、

(でも、今の俺は……礼拝のための曲を弾くだけじゃ、満足できないだろうな)

 ティモに出かける前の自分なら、きっとそれだけで満足できただろう。

 だが、今は違う。

 あの自由に飛び回るような、聞いているだけで聴衆を未知の世界へと誘うような美しい調べを知ってしまった後に、ただ漫然と祈りの歌を奏でるだけではヨニの欲求は満たされないだろう。

 できることなら、自分もあの自在に空を舞うような楽曲に指先でも届かせたい。そんな思いを、ヨニは振りほどけずにいた。

「……ねえ、アナさん。オルガンのことなんだけど。時間があるときだけで、いいんだ。教会のオルガンを、礼拝の曲以外の演奏にも使っていい?」

 おずおずと、それでいて確かな声で、ヨニはアナに自分の希望を伝える。

 ただの思いつきで口にしているわけではないのだろうと、その表情だけで伝わったのだろう。ヘイノが、怪訝そうに「ヨニ?」と呟いているのが聞こえた。

 果たして、アナはゆっくりと首を横に振った。

「……残念だけれど、今は、自由な演奏を許すことはできないわ。教会にあるものは、あなた個人の持ち物ではない。教会からいただいたお金には、皆の献金も含まれている。そのお金で購入したものを司祭としての務め以外に利用するのは、教会に祈りを捧げる人たちにとっては正しい振る舞いに見えないこともあるでしょう」

「……うん。そうだよね。わかってた。今は、それでいいよ」

 アナの言葉は、一から十まで正しい。彼女の説く理屈を、ヨニもすんなりと受け入れていた。

 内心、どこかで、もしかしたらを期待していた部分もあったが、こればかりは仕方ないだろう。

 オルガンの音はよく響く。万が一、私的な理由で奏でられた曲を誰かが耳にして、不謹慎だと責められたら、困るのは監督役であるアナの方なのだから。

「……ヨニ」

「そんな声出さないでよ、ヘイノ。オルガンに触っていいって言ってもらえただけで、俺としては大歓迎なんだから!」

 ヨニはからっと笑ってみせたのに、空元気が混じっていることはバレていたのだろう。ヘイノの目は「本当はもっとやりたいことがあるんじゃないのか」と雄弁に語っていた。

(……ほんと、君はすぐ顔に気持ちが出るよね)

 嬉しいと感じたときはぱっと顔を輝かせ、不安が残っていれば眉根を寄せ、焦っているときは前のめりになって。

 そして、自分がこうと決めた時は、頑として譲らずに正面を見据えて相対する。

 そんなヘイノの正直さを、ヨニは存外好ましいと感じていた。

「教会のオルガンに許可は出せないけど、どこかの家にピアノやオルガンがあるなら、それを借りて自由に演奏する分は止めないわ」

「ありがと、アナさん。そういう機会があったら、相談してみるよ」

 とはいえ、パユヴェシ村でピアノを持っている家など相当限られるだろう。お金持ちの名士の家ならいざ知らず、ピアノは購入するのも維持するのも相応に場所とお金がかかる。この村で持っていそうな者は、すぐには思いつかなかった。

(まあ、いいさ。いつか、自分でお金を貯めて買えばいいんだから)

 いつになるかは分からないが、夢を抱くだけなら自由だ。

 忘れかけていた、音楽を自ら奏でる楽しさを思い出せたヨニは、いつになく楽天的な気持ちで、引き続き広場で見た音楽やアザレアの舞について語って聞かせたのだった。

 

 ***

 

 自室に戻ったヨニは、灯りを点けるのもそこそこに、ごろりとベッドの上に寝転がる。

 朝から出歩いて体はへとへとのはずなのに、ヨニは奇妙な満腹感を味わっていた。そのせいで、一度寝転がってしまうと指先すら動かすのが億劫になり、ぼんやりと天井を眺め続けている。

 夕食に出されたラーティッコ――卵と芋に牛乳を流し込んで粉状にしたパンをまぶしてじっくり焼いた料理だ――を、普段ならば全てぺろりと平らげた上でお代わりまで求めただろうに、今日に限っては出された分を食べきるのが精一杯だった。

 きっと、今の自分のお腹は、昼に聞いた素晴らしい音楽やアザレアの見事な踊り、それに彼女と共有している『秘密』といった、様々な非日常の思い出でいっぱいになっているのだろう。

「せっかくだし、生誕祭が終わったら笛を作ろうかなあ」

 チャールに貸してもらった笛は、春を迎えた後の柳の枝から作られるものだ。パユヴェシ村はその名前の通り、柳(パユ)がたくさん生えている村だ。枝を一本もらっても、怒られるようなことはないだろう。

 自分の発案に次なる期待の芽が芽吹き、うむうむと一人頷いていると、こんこんと部屋の扉が叩かれた。

 もっとも、ノックの音がする前から廊下から聞こえていた靴音で、すでに誰が来たかはわかっていた。

「ヘイノでしょ。どうぞー、開いてるよ」

「部屋の鍵ぐらい、閉めておいたらどうですか。勝手に入られたら、ヨニでも嫌でしょう」

 予想通り、扉が開くとヘイノが顔を見せる。

「俺でもって何さー。どうせ、部屋に来るのはヘイノかアナさんじゃん。俺、二人に隠したいことなんてないし」

「俺としては、まずそのだらけた姿を隠していてほしかったですよ。ノックの音が聞こえていたのなら、先に起きたらどうなんですか」

 ヨニがベッドに寝そべったまま入室の許可を出したため、ヘイノは寝台の上でごろごろしているヨニを真っ先に目撃する羽目になっていた。

 いくら双子で兄弟だといっても、個人的に寛いでいる場面を率先して見たいわけではない――少なくとも、ヘイノはそういう考えを持っているらしい。ヘイノの顔には、呆れたという気持ちがくっきりと表われている。

 さすがにそこまで言われて、いつまでもごろごろしているわけにもいかず、ヨニは「別にいいじゃん」と言いつつも、体を起こして寝台に腰を下ろした。

「まったく、ヨニは相変わらずなんですから。新しいご友人にも、そんな態度をとっていたら、うんざりされてしまうのではありませんか。ええと、たしか名前は……」

「アザレアは、この程度のことで俺に呆れたりしないよ。というか、俺は今日一日、彼女に振り回されっぱなしだったんだし」

「ヨニを振り回していたんですか? 逆ではなくて?」

「今の言葉を聞いて、ヘイノが俺のことを普段どう思って見ているのか、よーく分かったよ」

 わざとらしい嫌味を混ぜると、ヘイノは罰が悪そうな顔をしてみせた。もっとも、こちらもどこか芝居じみたわざとらしさが残っている。生真面目なヘイノも、さすがに今回は揶揄われているだけと分かったのだろう。

「俺も結構ヘイノにわがまま言ったり、アナさんに無茶を言ってるなあって思うことはあるんだけどさ。アザレアは、それ以上っていうかなあ。本当に、自分のやりたいことを絶対にやり通すって感じの子なんだよね」

「話だけを聞いていると、あまり付き合っていて楽しそうな人ではなさそうですよね。ですが、ヨニがそこまで言うのですから、我が儘で自分勝手というわけではないんでしょうね」

「口で言うより、実際に会った方が分かると思うんだよね。アザレアといると、彼女が次に何を言い出すか、待ち遠しくなるっていうかな」

「実際、家に帰ってから彼女の話をするときは、ヨニはずーっと笑顔ですものね。一緒に過ごした時間がとても良いものだったんだなって、一目で分かりますよ」

「えー、そんなに?」

 ヨニは、己の口角へと指をあててみる。もっとも、鏡を覗いたわけでもないので、その表情までは分からなかった。

 とはいえ、アザレアと自分の機嫌が直結していると評されるのは、どうにも心がむずむずしてしまう。

「アザレアが愉快な子だったから笑ってるってのもあるかもしれないけれど、今日は俺の好きなことがいっぱいできたからさ。フィドルの演奏は凄かったし、あんなに色んな曲を聴けたのも久しぶりだった」

「さっき、笛を作るって言っていましたものね」

「あ、聞いてたんだ。うん、昔作ったこともあるし、もう一度挑戦してみようかって思ってさ。うーん、久々に腕が鳴るなあ」

 村に生えている柳なら、どの辺りの木が笛を吹くのに適しているだろうかと、ヨニは目ぼしい木を頭の中で次々と思い浮かべてみる。

 春になり、樹液が巡った瑞々しい柳の中でも、とびきりのものを選びたい。祭りが終わったあと、休みの日に村中を巡ってみようかなどと考えていたときだった。

「そんなに音楽が好きなら、ヨニはどうして司祭になろうとしたんですか?」

 夢見心地だったヨニの意識を、ヘイノの言葉が急速に現実へと引き戻す。

「どうして……って」

「俺は……その、自分が司祭になれてよかったと思っています。ただ、ヨニは他にもやりたいことがあるみたいですから、何が切っ掛けで司祭になろうとしたのかなと……」

 アザレアにも似たようなことを問われた。

 だが、彼女が尋ねるのと、自分と同じ顔をした片割れが尋ねるのとでは、ヨニにとって全く違う意味合いを持つ。

 ヨニは数度素早く瞬きをすると、口元をゆっくりと吊り上げる。笑みの形へと。

「俺たちの両親も司祭でしょ。村には他に司祭になろうって人もいなかったし、あんな辺鄙な場所にある村に派遣されてきた他所の司祭が、村の皆を好きになってくれるかも分からなかった。教会は俺たちにとっては、祈りの場所であると同時に家でもあったからさ」

 小さく呼吸をして、息を整える。両親のことを語ると震えてしまいそうになる声を、意識して宥める。

「他のやつに家を荒らされるぐらいなら、俺たちが引き継いだ方がいいって思ったんだよ。二人も、そうしてほしそうだったし」

「そう……でしたね。でも、それなら」

 そこまで言いかけて、ヘイノは口ごもる。その先に続けようとした言葉は容易に想像できたが、ヨニはその答えは口にしなかった。

「それに、ヘイノの方はどうなのさ。司祭じゃなくて、他に何かやってみたいこととかはないの?」

「えっ。俺が、司祭以外に……ですか?」

 ヨニから全く同じ内容の質問を投げ返されて、ヘイノは言葉に詰まる。難解な哲学的な問いかけでも投げかけられたかのように、彼は眉を寄せてうんうんと考え始めた。

 やがて、一分ほどしてから、ヘイノはゆるゆると首を横に振り、

「……すみません、今の俺にはちょっと想像ができなさそうです。俺にとっては、今の生活が全てですから」

「まあ、それもそうだよね。俺も今の生活が気に入っているし、それ以外の自分っていうのも想像しづらいや」

「いつか、もっと俺たちが大人になったら、アナさんや他の方々みたいに、色んな選択を自分の手で容易く作り出せるようになるんでしょうか」

 ヘイノがぽつりと漏らした言葉は、ヨニが今日考えたことにも似ていた。だが、少なくともヘイノはまだその多種多様な選択肢を目にできていないのだ。

 そう思うと同時に、ヨニは自分がホッとしていることに気がつく。

(……ヘイノはまだ、俺と同じところに立っている。俺の隣にいてくれる)

 今日一日で変わりゆく日常のことを幾度も考えたが、もっと確かなものがここにあるのだという事実が、ヨニの心に一番深い安堵を与えてくれた。

「ああ、そうだ。オルガンの件は残念でしたが、練習をするときはぜひ呼んでくださいね」

「俺のオルガンよりも、まずはチャールのフィドルを楽しみにしておいたよ。夕飯の時に話したでしょ。あれは本当に凄かったんだから!」

「はい、それももちろん。でも、俺にとっては、見知らぬ誰かの名演奏よりも、ヨニの演奏の方が待ち遠しいって思うんですよ」

 それだけ言い残すと、ヘイノは部屋を後にしていった。

 残されたヨニは、再びベッドに寝転がる。遠ざかる靴音と、隣の部屋の扉が開く音。今頃、ヘイノは部屋に灯りをつけて、本でも読んでいるのだろうか。

 じっとしていると、様々な音が耳に飛び込んでくる。蝋燭の芯が燃える小さな音。アナが階下で歩いている音。ヘイノの部屋から聞こえる微かな物音。

 それらの音の重なりに耳を委ねて忘れようとしていても、容易に耳にこびりついたあの声が消えてくれない。

 先程、ヘイノが口にした何気ない問いかけ。彼の声を、何気なく口にしたといった調子のあの声を思い出した瞬間、ヨニはつい零してしまう。

「……ヘイノが、それを訊くのかよ」

 その物言いがあまりにいじけた物言いに聞こえて、ヨニは小さくかぶりを振る。

「ううん、今のは無し。ヨニ・フィルップラ。今は、楽しいことだけを考えようよ」

 そう言って、ヨニは大きく息を吐き出す。

 まぶたを下ろして視界を闇に閉ざすと、瞼の裏にアザレアが見せた、あの輝かんばかりの笑顔がよぎる。

 今の自分が抱えているものを知ったら、彼女はなんと言うだろう。

 それを話すことなどありえないと分かっていても、ふと、そんな考えがヨニの頭をよぎっていった。

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