幕間1・5-5
「ヨニくん、だっけ。飲み物は紅茶でいいかな。この前、市場で譲ってもらったグロギを温め直すなら、ちょっと時間を貰うよ」
「紅茶で大丈夫。ありがとうございます」
すると、ケルッコは金属製のケトルの中身を、これまた金属製のカップへと注ぎ始めた。
旅暮らしの中では壊れにくい素材の食器が重宝されるのだろう。ただこれだけのことでも、ヨニは違う世界に足を踏み入れたような感覚を味わっていた。
「そちらさんも、気の毒なことだな。アザレアは、自分が気に入った相手を見つけたら手当たり次第に声をかけて、思いつきで振り回すのが好きなんだよ。まあ、そいつがたまに商売に繋がる場合もあるから、座長もあまり口うるさくは言わないんだけどな」
フィドル弾きのチャールは、手元の楽器をいじりながらヨニを労った。
彼の口ぶりには、アザレアの勝手気ままな行動に呆れつつも、どこかその好き勝手さを好ましく感じているような親しみが混じっていた。まるで、年の離れた妹を見守る兄のような優しさの混じった声音だった。
「そもそも、アザレアはうちの一座の団員ってわけでもないものね。だから、あまり座長も強く言えないんじゃないかな」
「え、そうなの?」
出された紅茶を受け取りつつ、ヨニは驚きの声を上げる。口に含んだその味は、家で飲むものよりもずっと濃かった。これも、旅暮らしならではの味かもしれない。
「一年ぐらい前のことだったかなあ。ここより北の大きな町で公演をしているときに、偶然、座長があの子が歌っているところに出くわしてね。それで、その歌声に一目惚れした座長が、ぜひうちの団員にって声をかけたんだけど」
「すごい! それって、座長さんがアザレアの才能を見つけ出したってことだよね」
「うん。まあ、うちの団員はみんなそんな感じで座長に拾ってもらった人が多いんだ。一芸に秀でている芸人たちは、すでに大体どこかの名のある劇団に属しているからね。でも、アザレアは団員になるのは無理って断ったんだ」
「え、どうして!?」
まだ出会ってから数時間しか経っていないが、ヨニはアザレアは勝手気ままに振る舞っているように見えても、意味も無く人を困らせて喜ぶような類いの人物には見えなかった。
ならば、アザレアの側に何か事情があったということだろうか。
「理由は俺たちも知らない。本人も話そうとしないし、聞いてもはぐらかしてばっかりだからな」
「アザレアは断ったんだけど、僕たちの座長も粘り強くてね。普段は、あちらこちらと気儘な旅暮らしをしているってアザレアが言うものだから、それなら旅の移動手段として自分たちを使ってくれていいから、手が空いたら興行を手伝ってくれって頼み込んだんだよ」
「ええと、それはつまり、臨時の雇い芸人……みたいなもの?」
酒場や宿は、繁忙期に日雇いの従業員を追加で雇用することがある。それと似たようなものかと尋ねると、果たしてチャールもケルッコも頷きを返してくれた。
「アザレアもそれならついていってもいいって言って、僕たちの公演を時々手伝いながら、普段は気ままに歩き回っているというわけだよ。抜けるのも入るのも彼女は自由なんだ」
「なんだか、部外者の俺でも分かるぐらいに破格の待遇だね。でも、どうしてそんなことをしているんだろう?」
「さあねえ。俺たちも気になっているんだけど、あの子は、いつもあんな感じなんだよ」
気になると言いつつも、ケルッコの言葉には真剣な気配は薄い。彼らのように各地を渡り歩く暮らしをしている者たちならではの、相互不干渉の不文律のようなものがあるのかもしれない。
アザレアの着替えを待つ間、せっかく先程の演奏の担い手である二人と話す機会を得られたのだからと、ヨニは意を決して口を開く。
「あの、俺、さっき広場でしていた演奏を聞いてたんだ。すっごく綺麗な音で、いつまでも耳を傾けていたくなるような音色で……だけど、とっても楽しそうでもあってさ。できるなら毎日でも聞きに行きたいって、そんな風に思うぐらい素敵だって感じたんだ」
自分が聞き惚れた音色を奏でた相手に、いざ対面で己の感じた心の揺さぶりを伝えようとするものの、思い浮かぶ言葉はどれも陳腐なものばかりだった。
結局、ヨニが口にできたのは実にありきたりな言葉ばかりとなってしまったが、二人にはそれで十分に伝わってくれたようだった。
「ありがとう、ヨニくん。僕はチャールみたいに難しい演奏はできないんだけど、それでも誰か一人でもそんな風に楽しませられたのなら、それに勝る褒め言葉はないよ」
「司祭なら、音楽を聴く機会も多いだろうに。そんなに大げさに喜ぶほどか?」
正面切って褒められて、嬉しそうに破顔するケルッコとは裏腹に、チャールはどこかつっけんどんな調子で質問を返してきた。
だが、チャールの疑問ももっともだ。たしかに、ヨニは毎週アナが礼拝後に弾いている女神礼賛の曲を耳にしているし、自ら歌も歌っている。それもまた音楽といえばその通りなのだろう。
しかし、先だって広場で聞いた音楽は、教会で聞くそれとは全く趣を別としていた。
「俺は、祈る気持ちと共に寄り添う音楽も好きだけれど、同じくらい、ただ耳を傾けるだけでも色んな気持ちがわき上がってくるような楽曲も好きなんだ」
この賞賛は、どうやら素直に褒め言葉を受け取れない性格の御仁らしいチャールにもしっかりと響いたようだ。彼は気まずげに視線を彷徨わせてから「そいつはどうも」と短く呟いた。
「この辺りだと、音楽を鑑賞するための場所も演奏家もいないから、なかなか機会がなくってさ。自分でやりたくても、今は楽器もないし」
「司祭さまなら、教会にオルガンがあるんじゃないの?」
「流石に、教会のオルガンを好き放題には弾けないだろうよ、ケルッコ。俺たちじゃないんだから」
チャールはそう言ったものの、ヨニの中に「オルガンを思うままに弾けたら」という新たな発想が彼の言葉から生まれ始めていた。
普段は礼賛用の曲を奏でるために据えられているオルガン。荘厳な音色は、いつもどこかで聞いたことのある祈りの歌が奏でていた。だが、もし、あの音色をもっと自由な形で奏でられるとしたら。
だが、こればかりはアナに聞いても許可をしてもらえるかは分からない。そもそも、オルガンは教会の備品なのだから。
「今は楽器もない、って言ったな。それなら、前は何かやってたのか?」
「うん。笛を少しね。先生とかいないから、自己流のものだけど」
歌を歌うと体調を崩すからと、歌うのを両親から禁じられていたヨニは、代わりに演奏の分野にも手を出していた。
田舎町では、複雑な楽器の購入は望めない。故に、彼がもっとも愛用していたのが、周辺の木々の枝から作った笛だった。だが、その笛も故郷の火災の際に灰へと還ってしまった。
「笛、かあ。だったら、ちょうどいいのがあるよ。ねえ、チャール」
「そうだな。たしかこの辺に置いていたような……」
チャールはフィドルを置いて立ち上がると、奥にある木箱の蓋の一つを無造作に開き、中を物色し始めた。程なくして、彼は長い木の棒のようなものを取り出した。
「ヨニ、そちらさんが使っていた笛っていうのは、指穴があるやつか? それともないやつの方か?」
「どっちも。ない方が慣れているかな」
「へえ。それなら、柳の笛の方か。じゃあ、こいつを貸してやるよ」
そう言って、チャールがヨニの膝上に置いたもの。それは、傍目から見るとただの一本の枝に見えただろう。指穴もない、簡素な木の枝一本で一体何が奏でられるのかと思う者もいるかもしれない。
だが、ヨニにはその枝が笛として作られたものだとすぐに分かった。今では懐かしくすら思う、故郷の自分の部屋に転がしていた、あのお手製の笛とこれの形はよく似ている。
手にとってみても、指に馴染んだ感じはしない。
当然だ、これは思い出の中にある笛とは違うのだから。
それでも、指が触れただけで、吹いてみたいという渇望が己の内から湧き上がるのを感じた。
(司祭としての勉強をして、見習いとして赴任することが決まって……何かと忙しくて、忘れかけてしまっていたけれど)
指先で、笛の表面をなぞる。よく手入れされたその感触も、本来なら懐かしいと思うはずもないのに、何故だか心地よくも感じられてしまう。
(……どこかで、また音楽に会いたいと思っていたのかもしれない)
再び巡り会うことを望んだ瞬間は、両親に連れられて、教会のオルガンの演奏を始めて耳にしたときのことだろうか。あるいは、勝手気ままに、望むがままに歌詞を口ずさんでいた頃のことか。
いつに還りたいと望んでいるかは、自分でも答えは出ない。
ただ、それに――自由に奏でられた音に、また触れたかったのだという気持ちだけが、ヨニの心を埋めていた。
「少し、合わせてみるか?」
自身の感情に埋もれていたヨニを、チャールの声が現実に引き戻す。
まさか、その道の専門家から合奏の誘いを受けるとは思わず、ヨニが答えに戸惑っていたときだった。
「お待たせ! 三人とも仲良くしてた?」
天幕をばっと豪快に開くと同時に、威勢良く中の面々へと声をかけたのは、着替えを終えたアザレアだった。
どういうわけか、今は全身を毛織りの大判のストールで包んでいるため、首と足しか見えない状態となっており、どんな格好に着替えたのかはヨニにはさっぱり分からなかった。
「まさか、本当に着替えてきたのかい!? あの格好なら、動いていても寒くて仕方がないだろうに」
ケルッコの口ぶりから察するに、アザレアは先ほど以上の軽装に着替えてきたようだ。まるで自分が寒冷地に薄着で放り出されたかのように震えるケルッコに対して、当の本人はけろりとした顔をしている。
「ぜんっぜん、寒くなんてないわ! それに、どのみち、本番同然の状態で曲を合わせておく必要があるって言ってたでしょ。本番同然ってことは、当然衣装だって本番と同じにしなくっちゃ!」
「でも、そんな大事な予行演習を俺に見せていいの?」
本来ならば、お金をとって見せるようなパフォーマンスを、練習とはいえ自分が見させてもらってもいいのだろうか。
予想外の出来事続きで、ヨニがいつもよりもやや及び腰になってそう尋ねたものの、
「気にすることはないわよ、ヨニ。これは、私が好きでやってることなんだもの。誰にも文句は言わせないわ」
すでに謝罪という口実すら忘れつつあるアザレアと、
「そんなに畏まらなくたっていい。予行演習だとか言っているが、結局はこれもアザレアの気まぐれの一つに過ぎないんだから」
これまたどこか諦めた調子で、チャールが後を追った。
すっかりその気になっているアザレアは、ストールを翻しつつ、勢いよく天幕の外へと飛び出す。どうやら外で披露するつもりらしいと察して、ヨニも彼女の後を追った。
彼の後をついて、ケルッコもチャールも楽器を携えて外に出てくる。なんだかんだ言いながら、彼らもアザレアの我が儘に付き合うつもりはあるようだ。
(ほんと、自由というか、何もかもが自分の思うがままというか……)
本来ならば、自分勝手と評されてもおかしくないのに、アザレアの振る舞いを誰も仕方ないと受け入れたくなるのは、そこに彼女なりの「相手を喜ばせたい」という気持ちがあるからだろう。
その明け透けな、少々空回り気味な善意を、ヨニも自然と好ましいと感じていた。
天幕のから飛び出た先にある小さな広場に到着すると、アザレアは男たち三人から少しばかり距離を置き、くるりと踵を返した。
「さあ、チャール。あなたの音楽の出番よ!」
「まったく。この勝手なお嬢様は……」
そう言いつつ、チャールは手に持っていたフィドルを構える。あわせて、ケルッコも手に持っていた小さな打楽器を軽く叩き、拍子をとった。
流れ出したフィドルのメロディは、先程の演奏とはまた異なる、どこか異国情緒を思わせるものだった。
独特の音階と、馴染んだテンポとは半拍ずれたようなリズム。しかし、最初は違和感を覚えたのに、それらはいつの間にか体へと自然に溶け込んでいた。
だが、美しい旋律に全神経を集中できたのはほんの束の間だった。
「さあ、ヨニ。ちゃんと私の姿をその目に焼き付けてちょうだいね!」
なぜなら、ヨニの色違いの双眸は、曲と共に披露されたアザレアの舞に釘付けにされたのだから。
まず、ストールをマントのように払い、露わになった彼女の衣装に驚かされた。それは、ヨニが見たどんな衣服よりも奇抜で、美しく、同時にこれ以上ないほどにアザレアにぴったりのものだった。
腹部まで露わになるほど裾が短い上着に、先程まで着ていたワンピースよりも更に丈が詰められた空色のスカート。
露わになった白い肌は、普段ならはしたないと思ったかもしれないのに、不思議と彼女には重たいドレスや裾を引きずるようなスカートの方が不要だと思えた。
音にあわせて、アザレアの腕が弧を描く。彼女の腕を飾る舞踏用の大きな飾り袖が、少女の舞にあわせ、たおやかな花びらのように後を追う。
踵の高い靴で音に合わせてステップを踏み、優雅に、時に激しく、時に繊細に、もう一つの音を音律に重ねる。
彼女が腕を振るうたびに、腰やスカートの裾を飾る装飾が、ネックレスやブレスレットが、小鳥の囀りのような高い音を添える。トン、とステップを一つ強く踏むたびに、アンクレットの囁きが音に広がりを与える。
(これは……これも、アザレアが言っていた『ぞくぞく』だ)
理屈ではなく、感覚でヨニはそれが『そう』だとわかった。
フィドルの豊かな旋律を背景に、自由を愛する娘が、まるで自らをひとひらの花びらとしたかのように、気ままに、軽やかに、どこまでも自由に、舞う、舞う。
それは、教会で女神に捧げる祈りや荘厳なオルガンが紡ぎ出す音色とは全く異なる美しさに満ちていた。
いつしか、フィドルの音色とアザレアの舞に誘われて、作業をしていた団員や、手伝いに来ていた街の人々まで集まり始めていた。
観衆を一切気にせずに演奏に集中する二人をよそに、アザレアは目が合った者には積極的に手を振り、声を上げた者へと笑顔を送っている。
「――――」
一瞬、ヨニとも目が合ったように思ったが、その時の彼女はどこか挑発的な微笑を送るのみだった。まるで、この踊りを見る前に帰らなくて良かったでしょう、と言いたげな。
やがて、フィドルの音色は最高潮に達し、一つの終幕を迎える。曲に合わせて、アザレアの舞も緩やかなものに変わり、やがて一つの彫像のように静止をむかえた――だが。
不意に、先程とは全く違う曲調のメロディを、チャールのフィドルが奏で始めたではないか。
(えっ、さっきので終わりじゃないの?!)
驚いたのも束の間、すぐにヨニは気がつく。
この曲は、この国の人間なら誰しもが一度は聞いたことがある、昔から演奏家たちが奏で続けた曲だと。祭りがあり、音楽があれば、大抵はこの曲が流れると言っていいほどによく知られている舞踊曲だ。
そして、当然ながら――ヨニは、この曲を知っている。
思わず、ヨニの視線が握ったままになっていた笛へと落ちる。まだ自分の笛が手元にあった頃、ヨニはこの曲を密かに奏でたことがあった。
数瞬遅れて、ヨニはチャールの視線に気がつく。その眼差しに宿る、まるでこちらを誘うような視線が意味するところは。
(これなら、俺でも合わせられるだろうってことでしょ。……そういう風に誘われたら、乗らないわけがないじゃないか!)
つい先ほどの誘いの続きだと気がついたときには、ヨニは吹き口に唇を当てていた。
笛を持つのはもう何年ぶりだろうか。日々の学業やら仕事やらですっかり遠ざかっていたにも拘らず、ヨニの指は、その呼吸は、かつて戯れに笛を吹いていた日々を瞬きの間に思い出していた。
アザレアの舞は、今度は周りを誘うような動きに変わっている。聞き馴染んだ曲に、人々も体を揺らし、いつしか手拍子や声でリズムをとりながら、踊りの輪を広げている。
それを乱さないように注意しつつ、チャールのフィドルが一瞬途切れた瞬間を逃さずに。
ヨニの息が笛を通し、新たな音となって、広がり続けるメロディの輪へと加わった。




