幕間1・5-3
アザレアに誘われるままに広場に足を踏み入れたヨニは、束の間自分が手を引かれているのも忘れて、立ち止まってしまった。
「すごい……! あれ、君たちが作ったの!?」
なぜなら、見慣れたティモの広場――その中央に、見慣れない大きな天幕が立てられていたからだ。
まるで、家が丸ごと入るのではないかと思うほどの大きさに、ヨニはただただ目を丸くすることしかできない。
幼い頃に、家族で川辺に天幕を張り、川遊びに興じたこともあったが、そんなものとは比べ物にならないほどの存在感を放っている。
幕は落ち着いた生成りの生地にオレンジの縞模様で、遠くからもこれならよく見えるだろう。さながら巨大なキャンディの包み紙が広場に落ちてきたようだ。
中央の天幕以外にも、周囲には一座の人が寝泊まりするためと思しき、小さな無地の天幕がいくつも立てられている。それらはさながら、中央の縞模様の王様に従えられた臣下のようだ。
一番外側の天幕のいくつかは、中央の天幕に負けず劣らず派手な赤と白の縞模様だ。ここだけ派手な色なのは、そこが芝居の受付になるからか、あるいは何か催しを開くつもり予定があるからか。
その証拠に、ヨニの耳はもう一つの非日常を捉えていた。
「……音楽が聞こえる」
自分でも大げさかと思うぐらいに、深いため息と共に言葉が溢れ出ていた。
(だって、こんな音楽を聴くのは……いつぶりだろう)
ヨニの言うように、普段は人々の喧騒と馬の嘶き、馬車の車輪が石畳を踏む音ばかりが広がる広場に、今はまるで一服の清涼剤のごときメロディが通り抜けていた。
それは、意味をなさない雑多な音の中で、唯一価値のあるもののように、ヨニの耳には克明に響いていた。
教会の音楽とも違う。祈るためではなく、ただ楽しむためだけのメロディはヨニにとっては久方ぶりに、音を楽しむということを思い出させてくれた。
「あの音色は手回しオルガンね。天幕を建てている間は、どうしたって騒音がするでしょう? そのお詫びも兼ねて、来た日から時々こうして演奏しているのよ」
アザレアが指さした数々の天幕は、たしかに一朝一夕で簡単に準備できるものとは思えない。
準備までの間、人々の日常を乱すのはどうしたって避けられない以上、軋轢を生まないように考え出した策のようだが、音色に集まる人々を見たところ、反応は上々のようだ。
「この町には、流れの楽師もなかなか来ないから、皆喜ぶと思うよ。特に、冬の間は旅人すら碌に来なかったみたいだから」
「あなたの言うとおりみたいね。来たときから、彼らには随分と親切にしてもらっているわ」
手回しオルガンが響く方へと歩いていくと、ちょうど曲の演奏が終わったところだったのか、人だかりから大きな拍手が沸き起こっていた。
アザレアは集まっている人々の間を猫のようにするするとすり抜けて、あっという間に最前列近くまでヨニを導いてくれた。おかげで、ヨニは皆の注目を集めているオルガンの操り手をすぐ側で見ることができた。
「あれが、手回しオルガンなんだ……」
ヘイノから話を聞いてはいたが、聞くのと見るのとでは感じるものも違う。大きな木箱のように見えるそれには、回すためのハンドルが取り付けられている。
箱の隣でお辞儀をしている壮年の男性が、演奏者だろう。口ひげを蓄えた豊かな体格を、大きめの吊りズボンに押し込めていて、まるで童話の中の巨人のようだ。芸人らしく、ズボンには派手な色の糸を使って花や葉っぱの意匠の刺繍がいくつも縫い込まれていた。
拍手がおさまった頃、演奏者は大きく一礼をして手を天幕の方へと向ける。すると、近くの天幕から黒髪の青年が姿を見せた。片手には、優美な曲線を描いた木製の楽器――フィドルを携えている。
「彼は、一座でフィドルの演奏を担当しているチャールよ。私も色んな音楽を聴いてきたけれど、彼の腕前はなかなかのものと言っていいわね」
「……アザレアって、結構容赦ない言い方をするよね」
年上の人は敬うべしと習ってきたヨニとしては、今の言葉は自分よりも一回り以上も年上の同僚に対してのものとは思えなかった。
涼しい顔をしている彼女を横目に見やっているうちに、軽快なメロディが再び手回しオルガンから流れる。その音は、広場中に響くほど大きく、通り過ぎようとした人も足を止めて、何事かと集まり始めた。
続けて、手回しオルガンにあわせて、姿をみせたフィドル弾きの青年ことチャールが、手に持っていた楽器に顎をのせ、弓を構える。呼吸を整える暇も惜しむかのように、彼の手の弓が弦を滑ると、弾むような音色が周囲を一斉に包み込んだ。
(……すごい)
手回しオルガンは、音こそ大きかったもの、その音律には抑揚がなかった。詳しい原理は分からないが、演奏者が自ら手指を動かす楽器ではない以上、それは仕方ない。
だが、だからこそ、フィドル弾きの緩急のついたメロディが、手回しオルガンの音にも多彩な彩りを与えていた。
最初は、オルガンのスピードを伺うように、ゆったりとした心地よいメロディが流れていた。まるで雪が溶けて、ようやくおずおずと緑をみせた草花のような。
一曲目を終え、暫しの沈黙を挟んでから二曲目が始まる。今度は、主旋律はフィドルが誘導し、手回しオルガンの操り手は代わりに鳴り物をつけた打楽器を軽妙に叩き、その場を盛り上げていた。
聴いているこちらすら、思わず手足を動かしたくなるような軽妙なメロディと、小気味よい旋律の流れに、誰かが手拍子をする。それにあわせるように、音のペースは徐々に上がっていく。
気がつけば、手回しオルガンだけの頃に比べると、人だかりは一回り以上に大きく膨れ上がっていた。
やがて、草原を駆け抜ける風のごとき軽やかなメロディが、ひときわ高い一音と共に終わりを迎える。
ピン、と弾くような軽やかな音がやがて風に溶け、世界が一瞬静けさに包まれ――次いで、割れるような拍手が一斉に沸き起こった。
「すごい、すごいよアザレア! こんな素敵な音楽をここで聴けるなんて、まるで夢みたいだ!」
思ったことを素直に口にしながら、ヨニもまた手が痛くなるほどに拍手を続けていた。
オルガンの回し手だった男は、まずはフィドル弾きの青年を手で示して一礼をしたあと、自らも大きく頭を下げた。優雅に下げた帽子を軽く振ると、
「たくさんの方が集まってくれて、そしてこんなにも拍手をいただけるなんて、なんて幸せなんだろう! ありがとう! どうもありがとう!!」
観客たちに率先して帽子を振る男に対して、フィドルの演奏家はやや気まずげに頭を軽く下げるだけだった。
「ねえ、今日はこれで終わりなの? 明日もここで演奏してくれる?」
「ああ、もちろん。それに、クルマラ氏からは、お祭りの日は音楽を絶やさないように言われいるらね。芝居の合間も皆さんには沢山の音楽をお届けするだよ!」
男の言葉に、人々のざわめきはますます大きくなる。
聞いたばかりの演奏を早速知り合いに話に行こうとするもの。いつ頃演奏をするのか、どんな曲を弾くのかを尋ねている音楽通らしきもの。
子供たちは純粋に手回しオルガンに興味があるのか、回し手の男の周りをうろちょろと駆け回っている。
その合間を縫って、フィドル弾きのチャールは頭の帽子を脱ぎ、人々の合間を歩いていた。先程の演奏への礼に、人々が差し出した硬貨を受け取りに来たのだ。
「ヨニ、そろそろ行きましょ」
「行くって、どこに?」
「あの中よ。さすがに広場の真ん中で踊るわけにはいかないもの」
ヨニとしては、彼女の謝罪のことなど、先ほどの演奏ですっかり吹き飛んでいたが、アザレアは頑として譲らない。彼女が指さしたのは、ヨニが驚いた天幕の群れだった。
「あの中って……まさか、俺を一座の人がいるところに連れて行くの? 知らない人が彷徨いていたら、一座の人が驚かないかな」
「そうよ。でも、そこまで驚くことじゃないわ。食べ物や飲み物を売りに来る人とか、設営の手伝いをしてくれる人も出入りしているから、あなた一人ぐらい紛れ込んだって平気平気」
言うだけ言って、再び手を引こうとしたアザレアに、ヨニは「ちょっと待って」と制止を促す。
「どうかしたの? まさか、行きたくないとかは言わないわよね」
「言わないよ。興味だってある。でも、先にちゃんとあの人にお金を渡しておきたいんだ」
アザレアに断りを入れてから、ヨニはジャケットの裏にしまっていた袋から硬貨を取り出し、フィドル弾きの青年が回していた帽子にそれを押し込む。
先程の演奏を、何の見返りもなしにただ聴くだけというのは、ヨニの矜持が許さなかったのだ。
戻ってきたヨニに、アザレアはその目を見開いて、何やら嬉しげに口元に笑みを浮かべていた。
「あなたは、音楽に価値を見出す人なのね」
「綺麗な音楽を聞かせてもらったんだから、せめてそれくらいはしないと俺の気が済まないんだよ。君だって、そう思ったから、わざわざここで足を止めて聴いていたんじゃないの?」
「そうね。私も、美しいものは好きよ。特に、人が生み出した芸術に触れるたびに、いつもぞくぞくするわ」
アザレアの物言いは、彼女のような年頃の娘が口にするには大袈裟なようにも聞こえたが、不思議とヨニにはすとんと納得できた。
彼女の後に続いて、天幕の周囲を辿るように歩きつつ、ヨニは思う。
(ぞくぞく、かあ。たしかに、さっきの音楽は凄く……ぞくぞくしたな)
朝から感じていたモヤモヤなど、一息で吹き飛ばしていった凄烈な音色。教会の音楽のような、厳粛かつ荘厳な音楽とも違う。
ただひたすらに周囲を、相手を、そして自分自身を楽しませるためだけの音色は、ヨニの心にも心地よい揺さぶりを与えていた。
「さあ、ヨニ。こっちよ。さっきの演奏で十分満足していたようだけど、私の謝罪はこんなものじゃないんだから!」
「その言い方、謝罪する側が言うことじゃないよね?」
ヨニの指摘などまるで気にせずに、アザレアは天幕の群れを囲う木の柵に手をかける。臨時の通用口として用意されたそれを軽く押して、一歩を踏み出した彼女の後をヨニもついて行く。
このような場所に入っていいのだろうか、という不安もある。だがそれ以上にヨニの心を占めていたのは。
(この先に、もっと俺をぞくぞくさせるものがあったりして)
まだ見ぬ何かを思うと、胸の鼓動の数が増していく。期待で不安を押し込めながら、ヨニは先を行く少女の、翻るストールの影を追いかけて行った。




