幕間1・5-2
ティモの街の活気を目にしても、ヨニの胸中に残っていた釈然としない気持ちは完全には消えてくれなかった。
それでも、道ゆく人の浮かれた気配を目にしていれば、一人だけしかめ面をしているのは場違いだとは感じるようになっていった。
おかげで、アナの手紙を預けるために教会に向かう頃には、いつも通りの朗らかな振る舞いを、少なくとも表面上は取り戻せていた。
「あの、セヴェリさん。その、手紙を渡す相手の……ザックって人のことなんですけど、俺はまだ会ったことがないんです。彼について、何か知っていますか?」
それでも、手紙を渡すついでに、少しでも情報を得ようとしてしまうぐらいは許してほしいと、ヨニは己の好奇心に言い訳をする。
ヨニの質問に、ティモの教会に属するセヴェリ司祭は、気を悪くすることもなく素直に頷いてくれた。
「ザカリアスさんのことですね。あの方は、教会が用意している宿に宿泊されているようですよ。手続きをしたのは、私ではなくマト司祭ですがね。彼の聞いた話では、どうやらここから遠く離れた都会からいらっしゃったとか」
「え、教会が用意している宿に泊まってるんですか? ということは、教会の関係者?」
大きな町にある教会は、遠方からの来訪者を迎えられるように、いくつかの宿泊用の建物の管理をしている。
特に、故郷から遠く離れた地に赴任することになった司祭の身内や知り合いが、個人的な面会を希望する場合に貸されることが多い。ならば、ザックは遠方からティモの司祭に会いに来たのでは、とヨニは推測したのだが。
「それが、不思議なことに、私の弟子たちに彼を知っている人はいないようなのです。彼が提示した許可証は、確かに教会本部から発行されたものだったのですが」
「本部からの許可証!? それって、つまりその人は本部から直々に許可を出してもらえたってこと……です、よね?」
ヨニが思わず声を上げたのも無理もない。宿泊の許可証は大体が司教区単位で発行されるため、利用範囲は一地方に限られる。
例外として、本部からわざわざ発行するようなものは、全国の教会で通用する特別なものとなる。そのような特殊な許可証をもらえるのは、全国を巡礼する高位の司祭や、その供をする者に限られる。
「もしかしたら、聖都に家がある方なのかもしれませんね。聞いた話では、聖都の住民は本部が直轄している区域に住んでいることになるそうですから」
「でも、そんな大都市に住んでいる人が、なんでまたこんな田舎に……ああ、すみません」
「いいえ、お気になさらず。ティモは住み心地のいい町ですが、大都会と比べれば小ぢんまりとした町であることも事実ですから」
セヴェリ司祭と共に、暫くうんうんと悩んでみたものの、結局答えは出なかった。
これ以上、自分のちっぽけな悩み事にセヴェリ司祭の時間を取っていても仕方ないと、ヨニは彼に別れを告げて、再びぶらぶらとティモの町の散策を始めた。
「俺も、ヘイノみたいに細かいことを気にしないでいられればよかったんだけどなー」
目につく通りを自由気ままに歩きながらも、ヨニは思わずぽつりと零してしまう。
ヘイノを責めるつもりはない。むしろ、本来ならば誰が手紙を送ってきたとしても、彼のように寛容に受け止めるべきなのだろう。
これが、アナではなく繋がりの薄い誰かならば、ここまで強硬な態度はとらなかっただろう。
それどころか、自分の知り合いに新たな友人ができたと知って不満げにしているような人物がいたら、そのような態度をとるべきではないと諌めていたはずだ。
けれども、あいにくながらヨニは当事者であり、新たな知己を得たのは見知らぬ誰かではなく、ヨニにとっては今最も身近にいる人物ことアナなのである。
「ヘイノにはああ言ったけれど……俺は、アナさんの昔の同僚とか、家族が来るっていう報せであったとしても、こんな風にモヤモヤしていたんだろうな」
他でもない、自分のことだ。自分が何を考えてこのような結果に至ったのか、落ち着いて己の心を見つめ直せば、答えはあっさりと浮上した。
結局のところ、自分はアナとヘイノとの生活に少しばかりの変化が加わることすら、嫌がっている――ただ、それだけなのだ。
「……思った以上に、気に入っちゃってるんだろうな。今の生活が」
家族や隣人を失って一年も経っていないのに、新たな生活に順応している自分がいる。そう考えると、薄情ではないかとも思う。
それでも、今の暮らしを守ろうと意地を張るぐらいには、現状を好ましいと感じている。新たな風である、ザックという顔も知らない男を一方的に毛嫌いするぐらいには。
結論とも言えない結論を、取り留めもなく頭の端で浮かべながら、気の向くままに歩いていたヨニは、ふと足を止める。気がつけば、周囲から喧噪は消え、お祭り前の浮かれた空気が嘘のように辺りは静まりかえっていた。
「あれ、ここどこだろ」
どうやら、適当に歩いているうちに路地に入り込んでしまったらしい。人の気配が薄いということは、広場や大通りから外れた町外れにある住宅街の一角だろうか。
時折遠くから響いてくる人々の声以外に、音らしい音も聞こえない。通りの向かいを歩いている小さな人影――ニコと同い年か少し上ぐらいの年頃の少女だ――以外に、生き物の気配もない。
一度来た道を引き返し、当初の目的である広場に繋がる道を探そう。そう思ったときだった。
「うわっ」
まだ冬の冷たさを残した春の風が、駆け足するかのように路地を吹き抜ける。
ぶわりとヨニのジャケットの裾が翻り、服の隙間から入り込んだ冷たい空気に一瞬身震いする。頭から浮き上がった帽子が飛ばないように、彼は咄嗟に頭のそれを手で抑えなければならなかった。
幸い、風はすぐに止んだ。帽子を今一度深くかぶり直し、ヨニは風で乱れた髪を戻そうとして顔を上げ、
「あー……。あれは、ちょっとまずいかも」
彼の目が捉えたのは、宙を空高く舞う一枚のストールだった。上空にはまだ先ほどの強風の残滓が残っているのだろうか。
さながら、薄紅色の大きな蝶のように、ストールはひらひらと裾を翻して、あちらこちらへと大きく揺れている。
そのまま地上に落ちてきてほしいと思ったが、どうやら女神の御使いが悪戯心を発揮してしまったのだろうか。よりにもよって、ストールは路地の両側に立ち並ぶ建物の屋根飾りに引っかかってしまった。
ストールの持ち主は、唯一この通りを歩いていた少女だったようだ。小走りで建物の下に向かうものの、どう考えてもその指先が届く高さではない。
建物の中に入り、屋根裏部屋の窓を開いて屋根へと出なければ到底届かないだろう。だが、そんな曲芸じみた技を、ヨニよりも年下と思しき少女にできるとは思えなかった。
(この辺りに住んでいる子じゃないな。祭りに合わせて親戚に会いに来た子かな)
すぐにそうと分かったのは、少女の髪がストールに負けず劣らず鮮やかな薄紅色だったからだ。春の空が透かして見えるかのような美しい髪色は、一目見たらそう簡単に忘れられるものではない。
ともあれ、今の彼女はストールを風にさらわれた気の毒な被害者だ。なすすべ無く、遙か上空ではためいているストールを見上げている少女の顔は見えないが、きっと途方に暮れていることだろう。
(うまくいくか分からないけれど、まずはこの家の人に事情を話して、部屋にあげてもらえないか頼んでみようかな。司祭の証を見せたら、何とかなるかも)
ヨニは自分の指に嵌められた、司祭の証である指輪に目を落とす。今日は司祭の装束を身につけていない。頼りになるのはこの指輪だけだ。
だが、そうした『真っ当な』考え以外にも、一つだけ。思いついたことがある。
(そんな面倒なことをしなくとも、もっと簡単な方法で取れなくもない。だけど……)
浮かび上がったもう一つの選択。その詳細を頭に思い描くと同時に、ヨニは自分の首元に手をやっていた。
首元に厚く巻いてあるクラヴァットに指をかけ、小さく息を吐き出した時だった。
「『風よ、風。私の声が聞こえるかしら』」
「――――!」
澄み切った、まさに風そのものを音としたような。
人が発したとは思えないような音が声となり、言葉となって、少女の唇から溢れでる。
「『戯れに連れさらわれた私の衣に、どうかあなたの翼を授けてちょうだいな』」
それは歌のようで、歌ではなく。
だが、祈りのようで、祈りでもなく。
たとえるなら、姿を持たぬ尊き存在に語りかけるために作られた、古より伝わる秘められた言葉にも似ていて。
だが、ヨニが馴染んできた司祭の祈りとはまるで違う。
それは、救済を求め、奇跡に感謝を捧げるための言葉ではない。
それは、ただ語りかけていた。世界という、漠然とした大きな存在へと。
少女の言葉が終わると同時に、彼女の足元から、彼女の願いに応じるかのように、それは湧き上がる。
ぶわりと、彼女のワンピースを翻すそれは、先ほどと似て否なる――風。
巻き上がり、舞い上がり、少女の言葉に応じるかのごとく、屋根の飾りに引っかかっていたストールを再び風が攫う。さながら、ストールに翼を与えたかのように。
(嘘、でしょ……)
先ほどの風が自由気ままに吹き荒れる風だとしたら、この風はまるで、少女の友人であるかのように彼女の望むままに動いてみせている。目には見えないが、ヨニは直感でそう感じ取っていた。
ひらりひらりと、右へ左へと揺られていたストールは、やがてゆっくりと地上に向かい、少女の差し出した手のひらの上へと落着する。
それはあたかも、目には見えない女神の御使いが少女の言葉に導かれるままにストールを取り戻し、彼女へと捧げたかのようにも見えた。
取り戻したストールを、少女が何気ない所作で肩にかけ始めた頃、ようやくヨニはハッと我に返る。
「ねえ、君! 今、一体何をしたの?! それって――」
つい先ほど目撃したものの意味を頭が理解した瞬間、気がつけばヨニの口から質問が形となって飛び出していた。
彼の声に、ようやく少女も路地にいたのが自分一人ではなかったと気がついたのだろう。くるりとこちらに振り向いたおかげで、彼女の容姿がよりはっきりとヨニの目に飛び込む。
「――――」
先程とは違う意味で、声を失った。
そこにいたのは、確かに少女の形をしていた。
なのに、風が、大地が、草木が、花々が、それら全てを織り交ぜて人の形を成したかのような、言葉にしがたい気配を伴っていた。
淡い薄紅の髪は背中に届くほど長く、風に靡くそれはまさに花びらそのものとすら表現しても誇張にはならないだろう。
猫のようにつり目がかった瞳には、透き通った氷を彷彿させる薄青の瞳がこちらを見つめている。
着ている服こそ、淡い黄色のワンピースにエプロンといった標準的な、このぐらいの年頃の少女がよく着ている服装だ。
もっとも、その丈はヨニの知るものとは大きく異なり、白くほっそりとした足が半分も見えるほどに短い。寒冷なこの国ではそのような軽装は珍しいのだが、今はそんな些末なことよりも、彼女のどこか現実離れした佇まいに言葉を奪われていた。
「あら、人がいたのね。もしかして……さっきの、見てたの?」
凛とした涼しげな声音は、あたかも小鳥の囀りのようだ。しかし、それは囀りなどではなく、明確な質問の形をしていたため、漸くヨニは二度目の忘我の境地から舞い戻れた。
「そ、そうだよ。君がやっていた、さっきのやつ……あれは――」
相手が自分よりも小柄な少女であることも忘れて、ヨニは彼女へと詰め寄った。
だが、一回り以上大きな相手が近づいてきたというのに、少女は全く動じる様子も見せない。それどころか、
「うーん。見ちゃったのなら、内緒にしといてくれる?」
自分の唇に人差し指をたてて、沈黙を意味する仕草を示す。ぱちんと片目を瞑るその仕草には、ヨニの焦りと混乱混じりの形相とは真逆の、余裕があった。
「内緒にしといて……って」
「内緒っていうのは、他の人には黙っておいてってこと。分かる?」
「言葉の意味は分かってるよ。でも、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……!」
話をしながら、ヨニの視線は彼女の瞳からその白い喉元へと向かう。装飾品一つ身につけていないその肌を目にして、ヨニは眉を寄せた。
「君は、いったい……」
「私のことが気になるの? まあ、真面目なそうな見た目によらず、おませさんなのね。じゃあ、特別に私の名前を教えてあげる。私はアザレア。どうぞよろしく」
「俺はヨニ。よろしく……ってだから、そうじゃなくて! さっきのあれはいったい何なの。ああいや、あれが何かなんて説明はいいや。どうして、君はそんなに……そんなに、平然としていられるの」
「あなたが見たのは、風が私のストールを攫った後、また偶然吹いた風が私のストールを返してくれた、ということ。ただそれだけよ」
気に入っていたのよね、と薄く微笑みながら、少女は自分が羽織るストールを撫でる。繊細な花模様の刺繍がびっしりと縫い込まれたストールは、なるほど彼女の超然とした雰囲気と似合っていた。
見た目は、恐らくは十四か十五といった年頃か。なのに、小さな口元に浮かべた笑みは、見た目にそぐわない大人びた空気が漂っていて、妙にどきりとさせるものがあった。
「……質問の答えになっていないんだけれど。要するに、君は――」
「アザレアよ。あなたみたいな人に他人行儀な呼ばれ方をされるの、あまり好きじゃないわ」
「じゃあ、アザレア。アザレアは、さっきのことを風の悪戯ってことにしてほしいって言いたいんだね」
「賢い子は嫌いじゃないわ。第一、言いふらしたところで、誰も信じないと思うけれど」
「だったら、それでもいいよ。だから、これだけは教えて。君は……大丈夫なの?」
自分でも無礼であると承知で、ヨニは再び彼女の首元をまた見てしまう。アザレアと名乗った少女も、ヨニの無遠慮な視線には気がついているようだが、出会ったときからのどこか現実離れした空気はそれぐらいでは崩れなかった。
「大丈夫って、どういう意味で?」
「具合が悪くなったりしないかって、そういう意味で訊いてるんだよ」
「あら、心配してくれていたの? だったら、からかって悪かったわね」
質問を無視したのが単なるからかいの一環と聞いても、今のヨニはそれこそどうでもよかった。
「それで、どうなの。血の気が引いたりとか、足元がふらついたりとかはしてない? 頭が痛いとか、寒気がするとか……」
「ご心配なく。私は、そういうことにはならないから。ふふっ、まさかそんなことを一大事であるかのようにに訊かれるなんてね」
ヨニとしては、本気で彼女を案じて口にした問いだった。だというのに、何が面白いのか、アザレアはころころと笑い始めたではないか。まるで、小さな子供が母親の身を案じて、全く見当違いのことを口にしたかのような態度だった。
「……悪かったね。大げさな心配をして」
ヨニのムッとした表情に気がついたのか、アザレアはようやく笑うのをやめて、
「ああ、ごめんなさいね。あなたがあまりにも、一生懸命だったものだから、つい」
「……真剣に心配している人を笑っておいて、言うことはそれだけ?」
「だったら、謝る以外に、あなたは私に何をしてもらいたいのかしら」
逆に質問をされて、ヨニは言葉に詰まる。
(アザレアの言うとおりだ。俺は彼女の体を案じて、それは彼女にとっては余計なお世話だった。彼女は、俺をからかったことを謝った。それ以上に俺は何を求めているって言うんだ)
そこまで考えて、ヨニは思わず、自嘲まじりの笑みを口の端に浮かべそうになった。
アザレアの態度をやけに不愉快に感じてしまった原因。それは、つい先程まで心の半分以上を占めていた、アナへの手紙や日常が変わることへの忌避感から苛立っていたからだろう。
だが、それは目の前の不思議な娘には関係のないことだ。つまるところ、要するに自分は行き場のない不満を発散させようと、目の前の年下の少女に八つ当たりしているのだ。
「……いや、別に何かしてもらいたいわけじゃないよ。さっきのことは、内緒にしておく。誰にも話さないって約束する。でも、もしこの先具合が悪くなるようだったら、その時は教会に行った方がいい。それだけは言っておく」
「ご忠告、どうもありがとう。ところで、あなたはどこへ行くつもりなのかしら」
「広場に向かうところだったんだよ」
己の身勝手さを自覚して、内心居心地の悪さを感じていたこともあり、普段よりもぶっきらぼうな返事になってしまう。
だが、アザレアは全く意に介することはなかった。それどころか、目的地を訊いた瞬間、瞳を輝かせてヨニに駆け寄ると、
「じゃあ、ちょうどよかった。謝る以外の謝罪の仕方を見つけられたわ」
「えっ?」
「私、今広場に滞在している一座の一員みたいなものなの。だから、ついてきてくれれば、あなたに私の踊りを披露できるわ。それが謝罪。どう?」
「どうって……確かに俺も、興行に来ているっていうその一座を見に来たんだけど……って、うわっ!」
ヨニの言葉が終わるより早く、アザレアは彼の手を取って走り始めた。カツカツという甲高い靴音から察するに踵の高い靴を履いているはずなのに、まるで自らが風になったかのように、アザレアの足取りは止まらない。
「あら、私たちに会いに来てくれたの? じゃあ、ちょうど良かったわ。それなら、私と一緒に行きましょう!」
「それは俺にとっても都合がいいけど、君って人を揶揄うっていうか、人の話を全然聞く気がないよね!? ねえ、ちょっと!?」
繋いだ手を振り解くわけにもいかず、なすすべ無く彼女の後を走るヨニ。せめてもの意趣返しも込めて、辛口な評価を口にしてみたものの、
「あら、奇遇ね。私と知り合った人はみんなそう言うのよ!」
これまでの調子を崩すこともなく、広場へと飛びだしたアザレア。視界に溢れる昼の陽光と人々の喧騒を背景に、彼女は漸く足を止めてヨニへと振り返る。
花弁が翻るかの如く、くるりと踵を返した彼女は言う。
「せっかくこうして、あなたという人に出会えたんだもの。一番私らしい私を見せなくちゃ。そうでしょう?」
そう言って笑いかける彼女の笑顔は、どんな花にも負けないくらい瑞々しく、鮮やかなもので。
ヨニは観念したように、苦笑いを返すしかなかった。




