幕間1・5-1
「まだまだ朝は寒いけれど、こうして郵便局に行く道中の明るさを思うと、いよいよ春が来るって気分になるなあ」
独り言を漏らしながら、せっせと足を動かしているのは、教会の見習い司祭の片割れであるヨニだ。
朝、教会の鐘と共に目を覚まして、細々とした雑事を済ませた後、郵便局に荷物が届いていないか確認に向かう。これは、教会に赴任してから、二日か三日に一度は必ず行う習慣の一つだ。どれだけ雪がうずたかく積もった日であっても、週に一度は向かうのが彼の習わしとなっていた。
手紙を受け取るだけならば、郵便局が雇った小間使いの少年たちが週に一度まとめて運びにきてくれる。しかし、教会宛の手紙というものは、緊急性の高いものが混じっている可能性もある。
そうでなくても、遠方からの報せは一日でも早く受け取りたいという人は多い。そのため、早く手紙を受け取りたいなら郵便局を直接訪問せよというのが、この村の不文律だ。
ヨニもその例に漏れず、ヘイノが来るまでは、アナと交代で郵便局に向かう日々を過ごしていた。
以前は、日も昇らぬ暗闇をランプ片手に震え上がりながら歩いたものだが、今は地平線から顔を出した太陽のおかげで、灯りを持たずとも視界を確保できる。
「んー、道に馬車の車輪の跡がある。ってことは、少し前に郵便馬車が到着したのかな」
郵便局の建物が見えてくる少し手前で、ヨニは真新しい車輪の痕跡を見つけた。
郵便を運ぶ馬車は、毎日来るわけではない。数日おきに姿を見せるのが常であることを思うと、郵便局に荷物が届いてすぐに訪問できたのは僥倖と言えるだろう。
「おはよう、司祭さま。運が良かったねえ。ちょうど、つい先ほど荷物が届いたところみたいだよ」
「うん、そうみたいだね。最近は雪が溶けてきたおかげで、冬よりは早く着くようになったのかな」
「大体、今ぐらいの時期はそうだねえ。雪が降っちまうと、馬を走らせるのは厳しいものなあ」
いよいよ建物に近づくと、扉を出入りする数人の村人と行き会った。丁度扉を出てきたばかりの顔見知りの農夫と軽く言葉を交わし、ヨニは郵便局の中へと入る。
郵便局は、荷物や手紙の預かり所であると同時に、遠方から運ばれてきた品物を売る店としての側面もある。実質雑貨屋も兼ねているため、様々な目的で来店した人々で店内はごった返していた。
そして、その中にはヨニにとっては身近な人物もいた。
「あ、ヨニ先生。おはようございます」
「ヨニせんせ、おはよう……です。せんせも、お使いにきたんですか」
ヨニの姿を見て声をかけたのは、教会の教室に在籍する生徒たちだ。
赤毛でおずおずとした物言いをする少年はオスモ。そしてもう一人は、すっかり顔なじみとなったニコである。
オスモは今年九つになる少年で、ヨニたちより一年ほど早く村に引っ越してきた家族の子供と聞いている。国の南から来た彼は、いまだにこの地域の寒さに慣れないのか、郵便局の中のどの人よりも分厚いコートと帽子を被り、まるで動く毛糸玉のようになっていた。
「うん、俺もアナさんに頼まれてやってきたんだよね。教会にはいつも沢山の手紙が届くからさ。二人も手紙を受け取りに来たの?」
「はい。シニッカさんの娘さんから、この時期になるといつも手紙が届くからと、今日は私が確認に来ました」
「オレは、インクと名刺に使えそうなカードを買ってきてって……ばあちゃんに頼まれてて。あと、新聞も」
「そうでした、私も新聞を何日分か頼まれていたんです! おつりのお金で、キャンディを買ってきていいよってシニッカさんが言ってくれたんですよ」
「ええ、いいなあ。オレのばあちゃんは、けちんぼなんだ。どれだけ払ったか、いつも確認される」
ぶつぶつと不満げに漏らすオスモに、ニコは「もし二つ買えたら、わけっこしましょうか」と提案していた。オスモの顔が、ぱっと明るくなる。
その傍らで、ヨニは二人の分の新聞もまとめて、郵便局の受付をしている女性へと注文する。ニコたちがいそいそと預かったお金をヨニへと預け、彼女らの分と自分の文をあわせてヨニは新聞代を支払う。
「新聞って、何が書いてあるの?」
「オスモはまだ読んだことがないのかー。そうだなあ、国の中であった色んなことが書いてあるんだよ。あと、遠い町の作家さんが書いた小説とか」
「あ、私も小説欄は毎回欠かさず読んでます! 今は、白銀物語の連載が気になっているんです」
会話を弾ませながら、ニコはいそいそと郵便局の受付に手紙が届いていないかを確認する。その受け答えの様子に、ありし日の教室の片隅で縮こまっていた少女の面影は感じられない。
(ニコも、ここの暮らしにだいぶん慣れたみたいだなあ)
ヘイノとアナの尽力で、ニコはこの村の一員としての立場を得た。果たして、本人がそれに馴染めるかと心配していたが、彼女は柔軟に今の暮らしを受け入れたようだ。
教会の教室の中でも、率先してリーダー役を引き受けて、小さな淑女たちのとりまとめをしてくれている。
「ヨニせんせ、今日は何の授業をするんですか? 来週は生誕祭の週だから、授業はお休みなんですよね」
ヨニが手紙の順番待ちをしている間に、オスモがおずおずと尋ねる。生誕祭は来週に迫っており、ティモの町もパユヴェシ村もどこか浮かれた空気に包まれていた。
「うん、その予定だよ。そもそも、お祭りの期間に『机に向かえ』って言っても、大人しく座ってられないでしょ」
遠慮がちではあったが、オスモはしっかりと首を縦に振っていた。
「だから、来週はまるまるお休み。村の学校もそうしているんじゃないかな。希望者には、学んだことを忘れないように宿題を出そうと思っているんだよね。近いうちに皆に確認するつもりだけれど、オスモはどうしたい?」
「あ……ええと、どうしよう……」
「ずっと遊んでると、せっかく覚えた計算のやり方を忘れてしまいそうなので、私は宿題が欲しいです」
無事にシニッカのお使いを終えて、手紙を持って戻ってきたニコは、開口一番そう告げた。教室の年長者がそう言うのを聞いて、オスモも追従するように頷く。
「……オ、オレも、あったほうがいいと思う。前に、ばあちゃんに、難しい言葉を知ってるねって褒めてもらったのに、忘れるのは……その、嫌だから」
「うん、わかった。じゃあ、今日の教室でヘイノにもそう言ってもらえるかな。俺、今日はお休みだからさ」
「えっ、そうなんですか? もしかして、また具合が悪くて……?」
心配そうに眉を寄せるニコに、ヨニは首を横に振る。
「そういうのじゃなくて、お祭り前のちょっとした息抜きにお休みをもらったんだ。ヘイノやアナさんばかりティモに出かけてて、俺はずっと教会の留守を預かってたんだから。たまには羽を伸ばしたいってわけ」
会話を続けつつも、ヨニは差し出された手紙の束を受け取る。
見慣れた教会公認の封蝋が捺された手紙が二通と、パユヴェシ村の誰かから来たと思しき封蝋のない簡素な手紙が一つ。そして、見覚えのない封蝋の手紙が最後に手渡された。
「そういうわけだから、今日はヘイノ先生一人なんだ。あいつを困らせないように、良い子にしてるんだよ」
子供たちと郵便局の前で別れて、ヨニは小走りで来た道を戻る。歩きながら、器用にも彼は自分の持つ手紙の差出人を一つ一つ確かめ始めた。
「こっちは、本部の人からの聖都の様子を伝える、定例報告の書簡。こっちは司祭向けの道具を扱う商会からだ。ってことは、近々この辺の教会に行商が来るのかな。封蝋がない手紙は、またどこかの家の食事に招かれてるってところか。ああ、やっぱり、ホロパイネンさんが差出人だ」
封蝋に捺された印と差出人を見れば、手紙に何が書かれているかは大体想像がつく。複雑な教会公認の印章が捺された手紙は教会本部から届いた事務的な内容のものであり、それ以外は村人からの私的な書簡が殆どだ。
そのため、ヨニは最後に受け取った手紙を目にして、眉を寄せていた。
真っ赤な封蝋に捺された、見覚えのない印章。印章があるなら、それなりに名のある家のものが送ってきたのだろうが、そのような家とパユヴェシ村の教会が個人的な関係を持った覚えはない。少なくとも、ヨニが知る範囲では。
「これ、誰からだろう……。ん?」
手紙をひっくり返して差出人を確認したヨニは、元々寄せていた眉に更に深い谷を刻んだ。
「宛名が教会じゃなくて、アナさん個人宛になってる……」
宛名に『パユヴェシ村教会』とは書いてあるものの、その下にアナの名前があるのは彼女個人に向けて、という送り主の主張が感じられる。
筆跡は、今まで受け取ってきた村人の誰とも一致しない。スペルのミスもなく、そのうえヨニですら久方ぶりに見る流麗な筆致は、それなりに学問を修めた者だけが持てるものだ。
いよいよもって、差出人の謎が深まり、ヨニは慎重に手紙を裏返した。そこに記された、差出人は。
「……親しみを込めて。ザックより?」
聞き覚えのない正体不明の差出人の名前に、ヨニは忌々しいものを見るかのように手紙を睨みつけた。
***
「ねえ、アナさん! このザックってやつ誰!? 名前からして男だよね!? お祭りのエスコートをするのは、俺たちって話じゃなかったっけ!?」
「ヨニ、朝から騒々しいですよ。郵便局に行っていたんじゃないんですか?」
玄関扉を荒々しく開いたと思いきや、朗々と響き渡ったヨニの声に、間髪入れずヘイノの苦言が飛ぶ。
だが、ヨニも負けじと、あたかも嘗ての開拓者たちが新たな土地にたどり着いたときに掲げた旗のように、その手に握った手紙を高々と振り上げ、
「だって、アナさん個人に宛てて手紙が届いているんだよ! しかも、俺たちの知らない人から!!」
「ヨニ。差出人が何者であるかを私に尋ねるよりも先に、まずは私に手紙を渡すべきではないかしら」
「う……。それは、まあ、そうだけども」
あまりの騒々しさに、書斎から顔を出したアナは、いつもと変わらない淡々とした調子でヨニの振る舞いを指摘する。
未だに顔に不満を貼り付けながらも、ヨニは渋々握っていた手紙をアナへと渡した。
「ほら、渡したよ。だから、差出人が誰か教えてくれない? 村の人じゃないよね。しかも、『親しみを込めて』とか書いてあるし!!」
ニコと同じく、ザックという名前も、この国で標準的に使われる言葉とは異なるルーツの名前だ。一度聞いたら、忘れるのは難しい類いの珍しい名である。
しかも、いかにもな言葉が添えられていたとなれば、大騒ぎしたくなるのも仕方ないと、ヨニは自分に言い訳を重ねていた。
「ヨニ、少し落ち着いてください。アナさんにも、俺たちの知らない友人がいても不思議ではありませんよ。アナさん、その手紙はここに所属する前の教会の方からですか?」
ヘイノの言う通りだと、ヨニは止めどなく追及を続けようとする口を一度閉じる。
だが、双子の予想は次の瞬間、あっけなく砕け散ることとなった。
「ザックは、先日ティモに行ったときにお世話になった人よ。帽子を買いに行った、あの日ね。私が馬車に轢かれかけたところを、彼に助けてもらったの。その後、帽子屋に行くのにも付き添ってくれて、また手紙を送ると言って別れたわ」
この説明には、ヨニだけでなく双子の兄のヘイノも少なからず驚きを与えた。自分の仕事に戻ろうとしかけていたのに、わざわざ足を止めて戻ってきたほどだ。
すぐさま、何か言いかけたヨニをヘイノは片手で制しつつ、
「アナさん、先日の外出では帽子を二つ買ってきたと、それだけしか話していませんでしたよね?」
ヨニもぎゅっと口を噤み――そうしていないと、師であるアナにうっかり失礼なことを言ってしまいかねないと自制していた――兄に追従して頷いていた。
アナが自分の身なりを気にした、というだけでも二人にとっては大事件だった。その日は、持ち帰った帽子を目にして大層驚いたことは、二人ともよく覚えていた。
そのあと、シニッカやニコを筆頭とした村の女性たちが、新品の帽子を目にして、服も新しく仕立ててはどうか、作る時間がないならお古のドレスを今時のデザインに仕立て直したらどうかと持ちかけて、一騒動が起きたのだ。アナの質素な装いを常日頃から目にしてきた婦人たちは、いつか彼女におしゃれというものを叩き込もうと画策していたらしい。
そんなわけで、アナの外出は持ち帰った品にのみ焦点が絞られ、そこで何があったのかは二の次となっていたのだが。
「馬車に轢かれるところだったとか、帽子屋にエスコートしてもらったとか、俺たち初耳なんだけど!?」
さすがにこれ以上黙っていられず、ヨニはヘイノの制止を乗り越えて声を上げる。
「そうでしょうね。特に話す必要があることにも思えなかったから」
「いや、大いに話す必要があるよね!? ……それで、アナさんと知り合ったそいつは、手紙に何て書いてあるの?」
こうして話をしながらも、アナは教会から届いた手紙の封蝋を外し、中身に目を通していた。続く村人からの招待状も、慣れた所作で文面を追っている。
ザックの手紙は開封が最後となったわけだが、開くのを後回しにしているのは、何か特別な理由があるからではないか――ヨニはそんな邪推と共に、仇敵のように件の手紙を睨んでいた。
そんなヨニの視線をよそに、アナはいつも通りの平静そのものの顔で手紙を開きつつ、
「ああ、そういえば。ヘイノは、ザックに会ったことがあるはずよ。本屋さんで会った、古い聖典に関する謎かけを出した青年がザックよ」
「えっ、そうなの!? ねえ、ヘイノ。そいつ、どんなやつだったの?」
手紙を読まれる邪魔をされたくないと考えたのか、それとも単なる偶然か。思いがけなく目撃情報がアナから齎され、ヨニの詰問の矛先がヘイノへと向く。
「えっと……アナさんと同年代ぐらいの方でしたよ。少ししか話していませんが、親しみやすい雰囲気の方でした。言葉の発音も綺麗でしたし、古書を探していたぐらいですから、教養のある方だと思います」
「服装はどうだったの? だらしない格好とかしてなかった?」
ヨニがそんなことを訊いたのは、司祭が総じてそれなりに財産と身分を保障された職であるからだ。
司祭は始祖の言葉を人々に伝え、彼らを導く存在だ。一方で、その婚姻は本人の裁量に任されている。
故に、司祭に対して求婚を求めるものは男女問わずいる。まして、アナは数は多くない女性司祭だ。よからぬ企みを抱えて近寄ってきたのではないかと、ヨニは真っ先にそれを疑っていた。
「俺が見た限り、ティモで見かけるありふれた服装をしていましたよ」
「ふうん……。まあ、高価な古書をぽんと買うぐらいだから、お金はあるのかな」
「ただ、あの人はもしかしたら外国から来た方なのかもしれません。顔立ちや肌の色が、異国の方と似ていましたから」
「それなら、旅行者ってことか。いっときの興味で、アナさんに声をかけてきただけってことかなあ」
「ザックは、この国の生まれと聞いているわ。きっと、祖先が外の国から来た方なのでしょうね」
横から二人の話を聞いていたアナが、二人の思い込みを訂正する。その間に手紙を読み終わったようで、丁寧にそれを畳み直しているところだった。
「それで、何て書いてあったの?」
「生誕祭のときに、よかったら一緒に町を見て回りませんかって。あと、広場で公演される芝居の観劇に誘われたわ。お祭りの日は毎日、昼の鐘が鳴る頃にティモの教会前の小広場で待っているそうよ。もし行ける日がわかるなら、ティモの教会の人に伝言をしてくれとありがたい、とあったわ」
アナの回答に、ヘイノとヨニは見事に真逆の反応を見せた。
ヘイノは「それなら、いつ行くか返事をしないといけませんね」と返し、ヨニは「毎日待たせておけばいいんじゃないの」と唇を尖らせた。
「ヨニ、先ほどから様子が変ですよ。一体どうしたんですか。アナさんがご友人と外出するのに、そのような態度は失礼ではありませんか」
「俺たちの大事な師匠が、どこの誰とも知れない男のエスコートを受けるっていうのに、ヘイノは気にならないの?!」
ヘイノの発言は、まことに理にかなったものだった。実際、ヨニも自分が何故こんなにもアナの交友関係に動揺しているのか、上手く言葉にできずにいるのが実情だ。
けれども、気に入らないと感じているのは確かであり、それを無理に抑えようとも思えなかった。
「アナさんは、俺たちよりも年上ですよ。年下の俺たちは、アナさんの交流関係に口を挟める立場ではありません。そういうことは、俺よりもヨニの方がよく知っているんじゃありませんか」
ヘイノの至極もっともな指摘に、ヨニは押し黙るしかなかった。
アナがもっと年若い同年代の女性であったり、あるいは些細なことでも有頂天になるような性格ならば、理性的に窘める必要があるという理屈が成立しただろう。
しかし、アナは新たな交友関係を得ても、その目新しさに浮かれるような女性ではない。彼女が好ましいと感じたのなら、ザックは悪い人物ではないのだろうし、ヘイノとてザックに悪い印象は持っていないようだった。
「でもさあ……」
そこまで分かっていてもなお、ヨニは煮え切らない感情を燻らせていた。
ヨニの不満をよそに話を進めていくヘイノとアナ。その姿を目にして、漸くヨニは自分がここまで差出人の男に不満を募らせる理由の一端を悟った気がした。
(俺とヘイノとアナさんと、三人で教会の運営をして……それで、ニコとか村の子供たちと一緒に楽しく過ごしてさ。そういう生活が、ようやく馴染んできたところだったのに)
パユヴェシ村に赴任する前にあったことは――故郷を失った日のことは、正直思い出したくない。今でも、悪い夢であってほしいと、心のどこかでヨニはそう思い続けている。
十数年間当たり前のように共に暮らしていた人が、家族が、一夜の間に全て失われてしまったなど、どうして簡単に信じられようか。
傍らに残った兄だけが、ヨニの手元に唯一残った日常などと、そんな風に考えたくはなかった。
だが、現実として、故郷に戻ってもヨニの知っている常はもうどこにもない。パユヴェシ村にアナの手伝いとして赴任し、子供たちの先生役を引き受けてからも、その喪失感はなかなか埋まらなかった。
けれども、ヘイノとも合流して、ニコの一件を経て、ヨニは漸くこれらの日々を日常として受け止められるようになった。
だからこそ、ザックという男の存在は、ヨニが必死の思いで受け入れた平凡な日常という壊れやすい宝物に、ヒビを入れようとする異分子に思えてならなかった。
そんなヨニの心境をよそに、アナは手紙を片手に書斎へと足を向けつつ、
「ヨニ、あなたは今日ティモの町に行くのよね?」
「う、うん」
ヘイノが見かけたという、旅の一座の見物に行きたい。あわよくば、彼らの奏でる音楽を耳にしたい。
ヨニにしては珍しく、自分の要望を強く主張して手に入れた休暇だったが、先ほどの一件はヨニの浮かれた気分に黒雲を広げるのには十分だった。
「じゃあ、教会に手紙を預けてもらえるかしら」
「……それ、さっきのザックってやつへの返事?」
「そうよ。まさか、何日も教会の前で待ちぼうけさせるわけにもいかないでしょう」
「だったら、その日は俺たちも行ける日にしてよ」
ヨニとしては、正体不明の男とアナを二人きりにさせるわけにはいかないと思ってのことだったが、あいにくヘイノやアナにはそう思えなかったらしい。
「ヨニも彼に会いたいの? それなら、そうね。ヘイノ、ニコと一緒に出かける予定だった日はいつだったかしら」
「ええと……たしか、部屋にメモを残していたと思います。せっかくなら、皆一緒に出かけた方がいいですよね」
責任者であるアナが教会から不在になる日は、あまり多くない方がいい。ならば、できるだけ用事はまとめて済ませてしまおうというのがアナの考えのようだ。
そして、ヘイノも賑やかなのはいいことだと、すんなり彼女の申し出を受け入れた。
(まあ、でも、ニコや俺たちが揃っている場だったら、相手がどんな奴でもアナさんを独り占めってわけにはいかないよな)
思っていたのとはやや違う答えではあったが、これはこれでいいだろうとヨニも二人の意見に賛成したのだった。
そうして、ヨニはザックという男に宛てた手紙を携えて、ティモに向かう道を一人、馬車に揺られていた。
隣に座っている親子の他愛もないおしゃべりをしているのを聞き流しながら、窓の向こうへと視線をやる。流れていく景色の中、灰色とよごれた茶色ばかりだった冬の世界は、少しずつ木々や草花の萌え出づる緑に包まれ始めていた。
(思えば、ヘイノと別れて一人で行動するのって久しぶりだな)
それを寂しいと感じているのか。
あるいは、束の間の安らぎと感じているのか。
その答えは、今のヨニはまだ出せそうになかった。




