幕間1・4-3
男に手を貸してもらい、通りの端に連れてきてもらったアナ。彼女は今、通りに並ぶ家の外壁に背を預け、通りの中ほどへと慎重に駆けていく男の背中を見守っていた。
そんなところで何をしているのかというと、彼は先ほどの救出劇の最中で吹き飛ばしてしまったアナの帽子を拾いに行ってくれたのである。
「……ああ、そうね。私、危うく死ぬところだったのね」
馬車に轢かれそうになったのは、飛び出した少年だけではない。アナも、彼を庇って危うく命を落とすところだった。
死にかけたという自覚が今になって漸く芽生えてきたものの、それでもアナはとりたてて動揺はしていなかった。
強がっているわけではない。危険に際して、ひやりとはした。だが、実際に命が助かったからか、それ以上の緊張は彼女の中に生まれなかった。
助けられた際にほどけてしまった髪の毛を改めて纏め直し、一つに結い直す。ずれてしまったピンを一度抜いては差し込み直し、形を整えていく。
そうしている間にも、男は帽子を片手にアナの元へと戻ってきた。
「ほら、これだろ? 随分と遠くまで転がっていっちまってたけれど、馬には踏まれずに済んだみたいだ」
男の言う通り、多少砂埃は付着しているものの、帽子の形は崩れていない。事故の発生から、今この瞬間までに経過した時間の流れを思えば、幸運と言うしかない。
「どうも、ありがとう。よく使っている帽子だから、無くしたくはなかったの」
「いいや、むしろ礼を言うのはこちらの方だ。あんたのおかげで、助かったよ」
アナがゆっくりと瞬きを返したのを、とぼけていると受け取られたのだろうか。男は軽く腕を組み、どこかこちらを試すかのような視線を向けつつ、
「オレがあの坊主を叱り飛ばしているのに夢中になっている間に、周りの住人たちが……あー、オレたちの方を見てただろ。だから、あんたはわざわざ自分は司祭だってことを強調しながら、オレを受け入れるような態度をとったんじゃないのか?」
「あら、やっぱり気がついていたのね」
エスコートを持ちかける少し前から、アナも男に向けられる人々の視線に気がついていた。男は視線だけを気にするような婉曲的な物言いをしていたが、実際のところ、彼らの目線のいくつかには敵意と警戒心が半々に混ざっていた。
大の男が、小さな子供を頭ごなしに怒鳴りつけている――そのように誤解されてもおかしくない場面だったからもあるが、最たる理由は。
「どこの街に行っても、その場所の暮らしに馴染むまでは同じような目を向けられるもんでね。何せ、こんななりをしているもんでね」
目の前の男は、この国の大多数の人間とは異なる、赤みを帯びた褐色の肌色をしている。
歴史を紐解けば、もしかすると、始祖がこの地に多くの民と共に流れ着いたときには、このような肌の色味が濃い人物もいたかもしれない。
だが、事実として、通りを行き交う人間のほとんどの肌は、俗にいう『白い肌』であり、目の前の男のような肌をもつのは『異邦人』と見做されるのが実情だ。
「近頃は、港から外の国の人が来ることも増えているのでしょうけれど、目立ってしまうことは確かね。まして、あんなにも大層な剣幕で叱り飛ばしていたら、ね」
だが、男の叱責は道理に則ったものだ。だというのに、外の国から来た人が声を荒らげて子供を叱っている、というだけで怪訝そうに見るのは、礼儀正しい行動とは思えない。
少なくとも、アナが学んだ道徳心とはそういうものだった。
「何はともあれ、あんたが機転を利かせてくれて助かったよ。来て早々、この町の住民に嫌われたくはない」
「司祭が親しくしている人に敵意を向けるほど、この町の人は失礼な人ではないと私は信じているわ。それに、あなたの叱責は真っ当な理由があった。そのような人を、あのような無遠慮な視線に晒し続けておくのは正しいこととは言えないもの」
故に、アナはわざわざほどけた髪を掻き上げて、耳を見せた。そこにぶら下がっている、白い石の飾り――司祭の証を見せつけるように。
そして、積極的に目の前の男に助けを求めた。司祭が協力を求める相手を一方的に敵視するような真似は、敬虔な信徒ほど避けるはずだ。
予想通り、人々は司祭の存在に気がついた。司祭が認めた者ならば、と徐々に視線から敵意は消え、今は普段通りの往来が戻ってきている。
「あの瞬間に、それだけ機転を利かせられるとはなあ。いやはや、あんたはオレが知る中でも一、二を争うほどに聡明な人物みたいだ」
アナがつらつらと並べた説明を聞いて、今度は男が素早く瞳を瞬かせていた。先程の試すような視線から一転、何やら珍しい生き物が現れたかのような、好奇心と興味が織り交ぜられた視線が向けられる。
出かける前、ヘイノやヨニから向けられたものともまた違う。何かを間違えたわけではなさそうだが、アナの物言いは男の中の何かに触れたようだ。
「遠い異国から来てくれた人に、この町について悪い印象を持たれたくなかった。それだけよ」
「まあ、とにかく助かったよ。ただ、一つだけ訂正させてもらおうか。オレは別に外の国から来たってわけじゃない。生まれはこっちなんだ」
「あら、そうだったの。たしかに、この国の言葉の発音がやけに綺麗だと思ったわ」
商売や交流を兼ねて、異国からこの国に来訪する者は、多くはないがゼロでもない。そして、そのままこの地に定住する者もいる。
冬が厳しいうえに、外の国とは異なる始祖の教えを奉じる国として、この国に長く滞在する者は多くないと聞く。一方で、自然豊かな大地と、聖典に刻まれた始祖の言葉を好ましいと感じ、この環境を受け入れる者もいた。
建国直後ならいざ知らず、何百年も歴史を積み重ねていけば、祖先は遠い国からやってきたという人も現れる。彼も、どうやらその中の一人のようだ。
「ところで、さっきは足を挫いたと言っていたよな。一人で歩くのが難しいようなら、乗合馬車のところまで送っていこうか」
「ご安心を。足のことは方便よ。今日はまだ用事が残っているから、先にそちらを済ませないと」
そうして歩き出そうとしたアナは、微かに違和感を覚えて足元へと視線を向ける。
見ると、彼女が愛用していた灰色のスカートには、先程地面に倒れたはずみにべったりと泥の汚れが付着していた。尖った石にでも引っ掛けたのか、裾の一部が破れてしまっている。おまけに、ブーツにも汚れが付着している。この様子では、すぐに洗浄をしなければ跡が残るだろう。
「じゃあ、またどこかで会えたら会いましょう」
「いやいや待て待て待て! そんなぼろぼろの格好で、用事ってやつを済ませに行くつもりなのか!?」
「わざわざ着替えに戻ったら、日が暮れてしまうわ。いくら近所とはいえ、そう頻繁に教会を空けておくわけにもいかないでしょう」
ヘイノとヨニに任せれば、数日ぐらいならば大丈夫だろう。だが、それを今日に続けて明日も明後日も、と考えると二の足を踏んでしまう。仮にも、アナは二人の師でもあるのだから。
どちらにせよ、男には関係ない話だと思ったが、当の本人には違うらしい。何やら、信じられないものを見るような目つきでアナの全身にざっと目を通してから、
「あー……それじゃあ、さっきの礼も兼ねて、あんたの用事とやらに付き合わせてくれないか?」
「ただ帽子を新調するだけの、男性にとってはつまらない買い物よ。それでも?」
「それでもだよ。男がエスコートしていたら、ちょっとぼろぼろの格好をしていても、変なやつに声をかけられることもないだろ?」
なるほど、今の自分は、見ようによってはそういう風にも見えるのか――と、アナも遅まきながら自覚する。
ティモの町は、大都会に比べれば治安もそこまで悪くないし、司祭に対して無礼を働こうとする人もいない。少なくとも、目に入る範囲では。
だが、人が多く住む街では、相手が司祭であろうと害意を向けるものもいる。まして、独り歩きの女性というのは格好の標的になりやすい。見なりに瑕疵があるのならなおのこと、害してもいい相手と思われやすい。
男はきっと、都会から来た人間なのだろう。そして、自分の常識と照らし合わせて、供も連れずに汚れた格好で歩くのは危ないと思って、同行を申し出てくれたというわけだ。
(自分のせいで、私の服に傷をつけたからと思ったのかしら。命を助けたのは彼自身だというのに、律儀な人ね)
そうなると、断る理由も特に見当たらない。これで頑なに突っぱねて、本当に危害を加えられたら、この男は自分を責めるだろう。それは、アナとしても望ましくない。
「そうね、あなたの言う通りだと思うわ。それなら、村に帰るまでエスコートを頼めるかしら」
「ああ、任せてくれ。それで、帽子を新調ってことは仕立屋か帽子屋に行くのか? 召使いもいないようだし、どうせなら荷物持ちもしようか」
「そこまでは頼めないわ。あなたは、別に私の召使いではないのだもの。――それよりも」
一通り方針が定まったところで、アナは行動を共にすることになった男へと向き直り、小さく礼をする。
「私の名前をまだ伝えてなかったわね。私は、アナスタシア。アナと呼んでちょうだい」
「オレはザカリアス。ザックでいい。短い間だが、よろしく頼む。アナ」
「ええ、どうぞよろしく」
差し伸べられた褐色の手を、アナは躊躇いなく握り返す。
ただ帽子を買ってくるだけのちょっとした外出。それが思いがけない形の出会いを生み出したことに、彼女は一抹の驚きを感じていた。
しかし、それもまた、彼女が常に浮かぶ笑みの中へと消えていく。
(……そういえば、司祭さまと呼ばれなかったのは久しぶりね)
そんな小さな感慨と共に。




