幕間1・3-6
食事の片付けを済ませ、就寝の時間を迎える頃にはヨニの興奮も収まるかと思っていた。だが、時間は彼を落ち着かせるどころか、その期待を際限なしに膨らませてしまったらしい。
ヨニの部屋に顔を出したヘイノが、広場で貰った広告を渡すと、彼はまるでそれが宝石でできているかのように、丁寧にじっくりと隅から隅まで視線を通し始めた。
視線の往復が二巡目を終えた頃、そろそろいいだろうとヘイノは言葉を挟んだ。
「ヨニは、そんなにもお芝居が好きなのですか?」
「え? ああ、いや。お芝居も好きだよ。でも、俺が興味があるのは、音楽の方なんだ」
少し照れくさそうに笑うヨニ。その笑みは、ヘイノが今まで見てきた、彼のどの笑顔とも少し違うように思えた。
小さな子供が、とっておきの楽しみを見つけたときのように、ふわりと自然に湧き上がった笑顔。目の前に広がる未知の楽しみに胸を躍らせるそれは、教室に通う年少の子供と大差ないものだった。
「音楽でしたら、手回しオルガンを使った演奏を披露してくれていましたよ」
「それ、聞いたことはあるけれど、見たことはないんだよね。教会の隅に置いてあるオルガンとは、また違うんだよね?」
「はい。鍵盤はなくて、取っ手を回すと賑やかな音楽が響くんです。どういう仕組みで、あんな音になるんでしょうね」
「ということは、オルゴールと同じような仕組みなのかな。それで、他はどうだった? 笛は? 流石にピアノフォルテやオルガンみたいな大きな楽器はないよね。それなら、フィドルはあった?」
前のめりになって矢継ぎ早に質問するヨニにたじたじになりながらも、ヘイノはかすかな驚きを覚えていた。
ヨニがここまで熱心に何かを知ろうとする姿を、ヘイノは今まで見たことがなかった。もっとも、ヘイノが知っているヨニの姿は、せいぜいここ一ヶ月と少しの姿だけなのだが。
しかし、彼の要望を叶える答えをヘイノは持ち合わせていなかった。
「お、俺は遠くから見ただけですから、そこまではっきりとは分かりません。実際に、ヨニが行ってその目で確認してきたらどうですか」
「そうだよね。うん、そうするのが一番手っ取り早そうだ」
うむうむと頷くヨニ。その横顔には興奮がありありと滲み出ていて、今にも外に飛び出しそうなほどの熱意に満ちていた。
そんな弟の姿を見て、思わずヘイノは素直な感想を口にしてしまう。
「ヨニがそんなにも音楽が好きなんて、ちょっと意外でした」
言ってから、かつてのヘイノにとっては自明のことだったらどうしようという不安がよぎったが、幸い音楽の興奮に取り憑かれたヨニは気が付かなかったらしい。
「学校に行く前は、歌うのは体に障るから禁止されてたんだよね。それでも、音楽が好きなのは止められなかったんだよなあ」
遠い思い出を振り返りながら、噛みしめるようにヨニは言う。
ヘイノも、ヨニが幼い頃体調を崩しやすかったらしい、とはアナから聞いていた。そんな彼にとって、音楽の存在はかけがえのない楽しみの一つだったようだ。
「実は、教会にあるオルガンも演奏させてもらえないか、そのうちアナさんに頼もうと思っていたんだ」
「アナさんが礼拝のときに弾いているものですよね。ヨニもオルガンが弾けるんですか?」
「もちろん!」
勢いよく頷いてみせたヨニの様子は、これまでヘイノが目にしてきた、笑顔を振りまきつつも、何事も卒なくこなしてみせた要領のいい弟とはまるで違う。
(……いや、これがありのままのヨニの姿なのかもしれない)
ヘイノのように記憶を失わなかった分、ヨニにとって両親や隣人の死は簡単には癒えない傷として刻まれたのだろう。
シニッカも、初めて会った時ヘイノに話していたではないか。彼は無理を押し隠しているように見えた、と。
ヘイノもヨニと同じ体験をしたはずだが、今のヘイノではヨニの喪失に寄り添うことはできない。それでも、自分の存在が彼の傷を少しでも癒やしてくれた結果、こうして自分の好きなものについて饒舌に語れるようになったのだとしたら。
(――俺にとっても、それは何よりも嬉しいことだ)
以前は苦手意識すら持っていた弟が、嬉しそうに笑っているだけで、自分もまたこんなにも心が温かくなっている。嘗ての自分が想像もしていなかった変化は、不思議とヘイノの中にすんなりと受け入れられていた。
「それなら、ヨニの演奏をぜひ聴かせてください。もちろん、アナさんが許してくれたら、ですけどね」
「任せてよ! 久しぶりだから、ちょっと下手になっているかもしれないけどね。まずは指を慣らすところからかなあ」
まるで今すぐ弾きに行こうとしているかのように、ヨニは指を組み合わせて、軽く曲げ伸ばしをする。
「そういえば、歌の方はどうなのですか。歌うだけで体に障るなどというのは、今のヨニの様子からは到底考えられないのですが」
「んー、今は平気だよ。ただ、その言い方って、何か俺が図太いって言われてるみたいで複雑なんだけど」
「ああ、すみません。ただ、虚弱であるよりは図太い方が良いのではありませんか?」
「たしかに。それはそうだ」
ヘイノの言葉に丸め込まれ、うんうんと頷くヨニ。
「じゃあ、機会があるなら是非ヨニの歌も聞いてみたいです。正直、俺は自分の歌があまり好きじゃなくて」
そもそも、歌うという行為そのものに、未だにヘイノは馴染めずにいる。
歌や音楽というものは日常的な振る舞いとは、やや離れた存在だ。そのため、練習する機会もなく、礼拝の後に礼賛の歌を歌わねばならないときは、小声で皆の後をついて回るように歌っていた。
自らを音楽好きと称するのなら、ヘイノと違ってヨニは歌も好きなのだろう。巧拙はともかく、一度弟の歌をちゃんと聴いてみたいと思って、何気なく提案した。
そのとき。
「えっ。――ヘイノが、俺の歌を聞きたいの?」
漏れた声は、生半な驚きとは一線を画した響きだった。
まるで想像もしていなかった提案を、突如目の前に突き出されたかのような。
「あ、ああ……いや。えっと、ヨニが嫌なら、俺は別に」
何か、自分は致命的な失敗をしてしまったのではないか。そう思った瞬間、ヘイノの中でどくりと心臓が嫌な脈を打つ。
必死で平静を取り繕い、どうにか会話を繋げたが、その言葉にはどこかぎこちなさが残ってしまっていた。
「別に、俺は嫌じゃないけどさ。……ヘイノは、いいの?」
「言い出した側が、嫌だと言うわけがないじゃないですか」
内心で冷や汗をかきながらも、ヘイノはどうにか自分の意見を口にする。
ヨニのこの反応。躊躇いがちに向けられた視線と、何かとんでもないことを口にされたかのような驚愕の声。
それが指し示すところは、恐らく。
(かつてのヘイノは、ヨニの歌を聴きたがらなかった。……それどころか、嫌がっていたんだろうか)
だが、双子の弟の歌をわざわざ毛嫌いするなどというのは、どうにも不可解に思えてならない。一体、ヨニとかつてのヘイノの間に何があったというのだろうか。
ヘイノが心中で焦ったり疑問を抱いたりしている間に、ヨニは勝手に納得してくれたらしい。
「ま、聞きたいって言うんなら、折角だし披露させていただこうかな。でも、その前にまずはティモに来ている一座の人たちの演奏を見に行かなきゃ。公演が始まったら、あれこれ話をする暇もないだろうし」
楽しみだなあ、と声を弾ませるヨニは、そのまま放っておくと朝まで音楽の世界に浸っていそうだった。
結局、ずっとおしゃべりを続けていそうなヨニを宥めて、
「ずっと起きていると、明日の朝が辛いですよ」
そんな小言を遺してから、ヘイノは自分の部屋に戻ったのだった。
「ヨニは、俺よりもずっと大人びていると思っていたけれど……ヨニでもあんな風にはしゃぐことがあるんですね」
期待に胸を膨らませていた弟の表情を思い出し、自室で就寝前の静寂を味わっていたヘイノは、何気なしにそう呟いた。
いささか気になる部分もあったが、今は彼の無邪気な子供のようなはしゃぎぶりの方を瞳に焼き付けていたかった。
「ヨニが出かけるとなると、俺が留守番をするしかないから、一緒に行くことはできないけれど……お祭りの時は、一緒にお芝居を観るくらいはできますよね」
以前は、弟と一緒にいることにすら、苦手意識を持っていたこともあったのに。いつしか、ヘイノは自分と同じ顔をした片割れが楽しそうにしている姿を見たいと願うまでになっていた。
髪留めを外し、そろそろ寝ようかと燭台を文机に置いたヘイノは、そこに置かれていた本に気がつく。それは、自分が古書店から買ってきた本たちだった。
「……少しぐらいなら、読んでもいいですよね」
せっかく買ってきたのだから、一ページも読まずに寝るのは何だか勿体ない。
そんな衝動に突き動かされて、ページをめくり始めたヘイノは、もう少し、あと少しとページを捲り続け、やがて。
「ヘイノ、そろそろ寝なさい。ずっと起きていると、明日の朝が辛いわよ」
先ほど、ヨニに送ったばかりの小言と全く同じ注意をアナから貰い、後ろ髪を引かれる思いで寝台に潜り込んだのだった。




