幕間1・3-5
「いーいーなー! 俺が部屋を掃除して、布団を膨らませて、暖炉の灰をかき出して埃まみれになっている間に、ヘイノはそんな楽しそうなことしてたなんて! 俺もその本屋に行きたかったー!」
これでもか、とヘイノの外出を羨ましがるヨニ。いつもなら、その態度にもどこか芝居がかっているところが見受けられるのだが、今日はどうやら心底から羨んでいるようだった。
「今度は、代わりに俺が留守番をしていますよ。あの本屋なら、ヨニが気に入る本もあると思います」
夕飯のパンを飲み込み、唇を尖らせているヨニを宥めるヘイノ。
あの後、無事に帰宅したヘイノは、待ち構えていた弟に今日の出来事を根掘り葉掘り尋ねられ、その質問はこうして夕食のときまで続いていたのである。
「それじゃ、ありがたくそうさせてもらおうかな。それで、ヘイノは何か買ってきたの? それとも、ニコの修繕に付き合っただけ?」
「俺も、古い本をいくつか買ってきました。興味があるなら、後で借りていっていいですよ」
どうせ一人で一気に読むことなど不可能なのだから、とそう言うと、ヨニは先ほどの駄々っ子のような様子から一転、「ありがとう、ヘイノ!」と笑顔を見せた。
「それで、どんな本があるの? 冒険小説とか?」
かつての『ヘイノ』はそういう本が好きだったのだろうか、と一瞬思ったものの、ここで下手に隠しても不自然だろうと、ヘイノは素直に答えることにする。
「小説もありますが、他には詩集とか……あとは、少し変わったところとしては、昔の司祭さまが書いた修道院の記録とかですね」
「えっ、そんなものもあったの?!」
パンをちぎっている最中だったヨニは、中途半端な姿勢のまま驚きの声をあげた。アナが「口を動かす前に、先に食べなさい」と言葉を挟んだので、ヨニの口はしばらくの間パンに占領されることになった。
「他の司祭さまの記録が読めるのは面白いかと思って、買ってきたんです。ただ、後から気になったのですが……そもそも、司祭としての務めを果たしている者は、本を出しても良いのでしょうか」
ヘイノの質問に答えたのは、料理に口を塞がれているヨニではなく、横で話を聞いていたアナだった。
「昔は、まだ副業に関する規則が決まっていなかったから、大目に見られていたようよ。特に、徐々に人々の生活が豊かになっていったにも拘らず、司祭の給金はそこまで高くなかった頃は、副業に勤しむ司祭も多かったようね」
司祭の多くは、その職につくために文字の読み書きに不自由しない程度の教養が与えられる。神学校で、古典や歴史書に触れる機会も多い。
結果、それらの知識を用いて小説家として新たな才能を切り拓いた人物もいたが、流石にそのような華々しい功績を挙げたのはほんの一握りだった。
「彼らの多くは、作家として名を馳せた者の後を追おうとしたけれど、自らの力で物語を生み出すには至らなかった。その代わり、彼らが出版したのが自分たちが日々つけていた記録だったというわけね」
「ああ、なるほど。だから、まるで日記をそのまま本にしたような記録が、一般の書籍に交じっていたわけですね」
「そして、その記録たちは想像以上に大衆の興味を惹いたそうよ。教会の仕事や実情を知る機会は限られていたから、皆が司祭自らが書いた手記というものに関心を持ったという状況も背中を押したのでしょう」
「物語よりも、自分の身近にある出来事の方が興味が持ちやすかったってことかな。ま、それは俺も分かる気がするよ」
ようやくパンを飲み込んだヨニが、ヘイノたちの会話に参加する。
「ただ、中身は決して平凡な日常の記録だけではなかったようね。中には、表沙汰にはできない裏事情だったり、あるいは実際にあった出来事を大げさに誇張して書いたりしたものもあったとか」
「その話、俺も聞いたことがある。罪人の懺悔で聞き取った内容とか、非公開の裁判の記録を作品の中で公表したせいで、問題になったんじゃなかったっけ」
それを聞いて、ヘイノは目を丸くする。
「懺悔の言葉は、第三者には漏らさない前提で聞くものでしょう。それを本として大々的に広めるなんて、司祭として、あるまじき行いです」
つい先日、ニコの懺悔に立ち会ったばかりの身として、ヘイノの語調はつい荒くなってしまう。
誰にも漏らされないと思って告白をした人は、自分の言葉が多くの人に知られたと分かり、どれほど打ちのめされただろうか。
「ヘイノの言う通りね。そういうわけだから、教会の上層部は、業務にまつわる記録を用いて利益を得るのを禁じた。結果的に、記録の出版をするという流行も廃れていったわ」
最初こそ、罪人の告白を盗み聞きするという後ろ暗い行為に喜びを覚えていた読者も、徐々にばつの悪さを覚えたようだ。
そうして、売れなくなった司祭の手記たちは、やがて中古本の市場へとその場を移し、今では歴史書の一つのように扱われているとアナは話を締めくくった。
「とはいっても、教会の仕事を全部隠しちゃうのも、何だか悪いことをしているみたいに見えるから、あまり歓迎されないらしいんだよね」
「ですが、隠さなければならないことがあるのは事実なのですから、それは仕方ないことではありませんか」
「だけどさ、隠し事をしてばっかりいると、あいつらは何か企んでいるって推測しちゃうものじゃない?」
ヨニにそう言われて、ヘイノはぐっと押し黙る。
ヘイノとて、ニコのかつての雇い主であったゲイリーを、一方的に悪人と決めつけてしまっていたことがある。沈黙が必ずしも尊ばれるわけではないことは、重々理解していた。
「何もかもを秘密にするというのは、不正や横領が組織に蔓延っていても、隠蔽を許してしまう下地ができてしまうということよ。適度に大っぴらでいるのは、組織の信頼を維持するためにも大切なことというわけね。話のついでに覚えておくといいわ」
田舎の教会で日々を過ごしていると忘れてしまいそうになるが、ヘイノたちの属する教会は、この国で最も力を持つ組織だ。どれほど末端であろうと、その意識を忘れてはならないとアナは二人に忠告する。
「ともあれ、そういう理由から司祭が副業でお金を稼ぐのは原則禁止となったのだけれど、代わりに司祭の給金は見直されて今に至っているそうよ。終わりよければ全てよし、といったところかしらね」
アナはそのように説明を結んだが、ヘイノとしては複雑な心境だった。
自室に置いてある、いつ書かれたかもわからない司祭の回顧録。あれを書いた司祭は、いったいどんな人物だったのだろうか。そして、そこに書かれている事柄は、当時の人々にどのように受け入れられたのだろうか。
(小説として楽しむのなら、刺激的な内容が書かれている方が面白いのだろうけれど。それを書いた現実の人間がいるのだと思うと、少し考えてしまうな)
先ほどの話を聞いた後では、いっそ平凡すぎるほど平凡な内容であればいい、とすら思う。遠い時代に起きた事件や事故を知って、これを自分が知ってよかったのだろうか、などと読書中に考えたくはない。
「ねえ、ヘイノ。他に何か面白そうな本はあった? 古い本以外もあるんだよね?」
「ええ、もちろん。新品の冊子も小説も、たくさん取り揃えられていましたよ」
「じゃあ、学校にいた頃に貸してもらった小説の続きもあるかなー。学校の近くにあった本屋は、堅苦しい本しか入荷してくれなくってさあ。続きを読みたくても、そんな軽薄な本は入荷しませんって言われちゃったんだよねえ」
どんな本ですか、と喉まで出かかった質問を、ヘイノは必死に喉の奥へと押し込み直さねばならなかった。
普段は気にせずに過ごせるようになっていたのに、こうしてふとした時に、自分とヨニの間に共有する過去がない事実を思い知らされる。ヨニがその本の内容を『かつてのヘイノ』に話していたとしても、今のヘイノにその記憶はないのだ。
その苦々しい感情を一旦忘れるために、ヘイノは話題を変える。折良く、今の彼は一つの『謎』を持ち帰っていたのだから。
「面白そうな本といえば、本屋には古い聖典もありました。ただ、その中の一冊には、他のものよりもずいぶんと高い値段がつけられていたんです」
「え、どうして? 他の本よりもとびきり古かったとか?」
話に食いついてきたヨニに、ヘイノはできる限り自分がそれを目にしたときの様子を詳しく語る。
ついでに値段にも言及すると、ヨニも、普段は泰然とした様子のアナですら珍しく目を丸くしていた。
「……そういうわけで、俺が見たかぎりは他の聖典と大きな差はないようでした。そのとき、蒐集家の人が現れて、これはずっと探していた本だと言って、買って行ったんです」
「へえ! そんなに高価なものをその場で買えるなんて。蒐集家の人はお金持ちが多いって聞くけど、その人もきっとすっごい裕福な人なんだろうな」
「それで、その方が俺に言ったんです。この聖典だけが価値があるとされる理由は、師匠である司祭に聞けばすぐわかるだろうって」
ヘイノはアナへと向き直り、例の男から与えられたヒントを口にする。
「『開拓歴六⚪︎⚪︎年』。この年号を聞いたら教えてくれるだろう、と言われたんですが、アナさんにはわかりますか?」
「そんな百年以上も前の年号だけがヒント? 随分と不親切なヒントだなあ」
ヨニにも、年号だけでは値打ちものの聖典の謎は解けなかったようだ。
アナでさえも、すぐさまピンときたというわけではなかったようで、口元に手をやって暫し考え込み始めた。
やがて、数分を経てから、
「それは、聖典だったのよね」
「はい、間違いなく。装丁などは今の時代のものとは異なりましたが、表紙にはそう書いてありました」
「なら、幻の就任式典の際に作られたもの……なのかもしれない。それなら、法外な値段がついているのも一応納得できるわ」
瞳をぱちくりとさせたのは、ヘイノだけではなかった。ヨニも目顔で「知ってる?」と尋ねてきているが、当然ヘイノが知るよしもない。
「では、少し歴史の勉強をしておきましょうか。教会では、聖皇様が何年かおきにその任を交代されているのは、流石に知っているでしょう?」
「はい。各教区の司教様がそれぞれ推薦されて、その中で選挙をして選ばれているんですよね」
「例外もあるけれど、大体はその認識でいいわ」
教皇に就任する者は高齢の人物が多いため、大抵は亡くなる前に次の教皇を決めるように取り決められている。
結果、教皇の任期は長くても十年か十五年。若い人物が赴任したり、連続で同じ人物が選ばれればその限りではないものの、一人の人間に権力を集中させ続けるのは組織の風通しを悪くするからと、最近はこまめな交代が推奨される傾向にある。
「開拓歴六〇〇年は、ちょうど新たな教皇様が就任される年だったの。年号としても分かりやすい時機だったこともあって、大々的に就任式が行われる予定……だった」
「だった?」
何やら意味深な語尾に、ヘイノも思わずその言葉を繰り返す。
「式典の直前で、教皇様が自ら式典の中止を宣言したそうよ。当時起きていた水害の被災者に配慮して、と記録に残っているわ」
「それ、準備してた人たちにとっては、すっごい迷惑なやつじゃん……」
すでに過去の人物とはいえ、仮にも教会の最高権力者に関わる話だというのに、ヨニは全く遠慮のない物言いをする。
とはいえ、ヘイノも口にしこそしなかったが、同じ意見ではあった。
教会の行事に、儀礼や式典はつきものだ。ヘイノも、豊穣祭の準備のために奔走したので、その大変さは理解していた。
大規模な式典ほど、関係者の数も増える。その下準備も、田舎の祭りの比ではない規模になるだろう。
それを直前で中止と宣言されてしまったら、いったいどれほどの規模の影響が出るか。考えただけでもぞっとする。
「当時の人々がどう感じたかはわからないけれど、最終的には教皇様の意見が通ったようね。略式の宣誓式だけは執り行ったけれど、予定していた就任の式典は幻となって消えてしまった」
「ですが、それがあの聖典が値打ちものになることと、どのような関係があるのですか?」
土壇場で重要な式典を教皇自ら中止を宣言したことに思うところはあるが、元々の話題は高額の聖典から始まった話だ。
話題の原点となる質問をヘイノが繰り返すと、
「就任式の前後には、式典を記念した聖典が発行される習わしがあるの。新しい教皇様が就任したと伝えるための、要するに広告のようなものね」
聖典を広告扱いとは、と思いはするものの、これほどわかりやすい宣伝の仕方は他にはあるまい。
今のように、新聞や雑誌を大量に刷って発行するわけにもいかなかった時代には、最も人々に読まれる聖典が新たな姿を見せることで、指導者が代替わりしたことを伝えていたのだろう。
「ここまで言ったら、ヘイノにも分かるんじゃないかしら」
「えっと……就任式を記念して、本来なら刷られる予定だった聖典があった。でも、その式典は開かれなかった……ってことは」
一つ一つはバラバラに思えた線が、不意にヘイノの中で一本に繋がる。
「つまり、表向きには発行されることがなかった幻の本が、何らかの理由で外に流出していた。そのために高値がついた、ということですか?」
式典のお祝いに発行されるために、準備されていたはずのもの。だが、お披露目の場を失ってしまったために、それは破棄されたと誰もが思ったことだろう。
しかし、ひょっとしたら日の目も見ることなく、どこかの倉庫に仕舞われてままになっていたのかもしれない。
「おそらく、ヘイノの推測通りよ。式典自体が中止になったのだから、普通なら製造も中止されて、作られたものも破棄されているはずなのだけれど……」
「でも、捨てられずに色んな人の手を渡った末に、ティモの本屋の片隅に辿り着いたってわけだ。なんか、すっごい壮大な話だなあ! せっかくなら、俺もそれを見てみたかったよ!」
一冊の本を巡る壮大なロマンに声をあげるヨニ。一方、ヘイノは謎が解けたという心地よい達成感に包まれていた。
式典を祝して発行される聖典というだけあって、それは一目見ただけでも凝った装丁をしていた。そのぶん、発行部数はそこまで多くないのだろう。
だが、式典の中止により、それらは不要となってしまった。せっかく作った、豪華な本がこのまま灰と化すのを黙って見ていられず、作成者がこっそり持ち出したというのは、如何にもありそうな話だった。
「そんなに貴重なものなら、国中の古書店を渡り歩いて探していた、という話も納得ですね」
「はるばる遠くから、一冊の本を求めて国中を旅する、かあ……。なんだか、途方もない話だなあ」
ヘイノにも、そして恐らくヨニも、貴重とはいえたった一冊の本を求めて、そこまでの苦労をする熱意については、流石に理解するには至っていなかった。
「俺なら、一冊の本よりも、今度の『生誕祭』のときにティモでは何をするのかってことの方が、よっぽど気になるかなー」
「ああ、それなら、ちょうどティモの広場に旅の一座が来ているのを見かけましたよ。たしか、オスカリという方のロマンス小説を公演するとか」
「えっ、もしかして劇団の人たちが来てるところに居合わせたの!?」
そう言った瞬間、ヨニは机に身を乗り出して、先ほどとは明らかに違う熱量の視線をヘイノに向けてきた。
「ねえ、その人たち、お芝居以外に何かするって言ってた? たとえば、演奏会をするとか――」
「ヨニ、お喋りもいいけれど、食べ終わったならまずは食後の祈りをする方が先よ」
ぴしゃりとアナに注意を受けて、ヨニは首をすくめて椅子に座り直した。彼に倣い、ヘイノも同じように居住まいを正す。
詳細を話すのだとしても、まずはアナに叱られないように、やるべきことを済ませてしまおう。手を組んで祈りの言葉を口にしつつ、二人は揃ってそう思ったのだった。




