幕間1・3-4
カランカラン、とドアベルが鳴り響く。
入ったと同時にヘイノの鼻腔を掠めたのは、インクと紙の香りだった。彼の後を追って入ったニコは、その空間が家にある旦那様の書斎と似ていると感じた。
その空間の支配者は、本だった。
陳列台に積み重ねられている本。本棚に並べられた本。貴重な品なのか、硝子張りのケースにおさめられた本。休憩用に置かれた椅子にすら、冊子がみっしりと積まれている。
本こそが、この空間の支配者であり王者である。そう言っても過言ではないほどに、その店の全てを本が占めていた。
「――――」
本の山に圧倒され、ヘイノもニコも自分たちが何のために訪れたのかを一瞬忘れかけていた。そんな彼らを現実へと引き戻したのは、
「ああ、やっぱり。ベルが鳴っていた気がしたんだ。いらっしゃい、お二人とも。『カンカーンペラの本屋』へようこそ。今日は何をお探しで?」
カウンターの奥にあった扉が開き、そこから姿を見せた青年に呼びかけられて、ようやくヘイノたちは我に返る。
本がこの店の王者ならば、青年はさしずめ王の従者の一人だろうか。暖かそうなセーターの上には、厚手の前掛けがかけられている。鎖に繋がれて首からかけられた丸眼鏡は、作業に使うものだろう。
ヘイノすらも見下ろす高い背と、ひょろりとした体つきも相まって、その青年からは冬の森に並ぶ古木のような印象を受けた。
「あ、あの。ここで本の修繕ができるって聞いたんですけれど……っ」
意を決して、ニコが一歩前に進み出る。すると、青年は緊張した様子のニコを安心させようとしてか、にこりと破顔してみせる。
「もちろん、修繕も承っているよ、お嬢ちゃん。じゃあ、早速だけど直してほしい本を出してもらえるかな」
青年の親切な対応に、ヘイノもニコもほっと胸をなで下ろす。
けれども、カウンターに本を出そうとしたニコは、そこで一度ぴたりと停止しなければならなかった。
理由は明白。カウンターには既に冊子やら本やらが積み重なっており、ものを置くスペースなど、どこにも残っていなかったのだ。
「ああ、ごめんごめん! 片付けの最中だったのが、途中になっていたんだった。ちょっと待ってて」
青年は口早にそう言うと、積み重ねていた冊子を掴むと、再びカウンター奥の扉へと消えてしまった。
やがて、再び姿を見せた青年は、慌ただしい接客を恥ずかしく思ったのか、接客用に浮かべていたはずの笑顔がやや引きつってしまっていた。
「あ、改めて『カンカーンペラの本屋』へようこそ。自分は、店主のヤーコブ・カンカーンペラです。それで、今日はどんな本を直しに来たんですか?」
照れもあってか、やや早口で自己紹介をした店主ことヤーコブ。
彼に見えるよう、ニコは表紙が外れた冊子をカウンターに置く。続いて、破れたページも添えるのも忘れない。
「直してほしいのは、この本なんです。私が、片付けをするときに落としちゃって、それで……こんな風になってしまって」
事情を説明するニコの声には、はっきりと悔恨の念が滲んでいた。
ヤーコブは何度か頷くと、手袋をはめ、眼鏡をかけると、ニコが出した冊子を丁寧に持ち上げる。
まるで、冊子が宝石でできているかのような扱いに、彼がただの店主ではなく、職人の一人でもあるのだろうとヘイノは思った。その道の仕事を長らく続けてきた者だけの鋭さが、彼の瞳には宿っている。
「……うん。表紙は綺麗に外れているから、これなら問題なく修復できますよ。ページの方は、少し継ぎ目が残ってしまうかもしれませんが、破片が残っているので修復自体は可能だと思います」
「本当ですか!? よかった……! もし直せなかったら、どうしようかと思っていました」
「シニッカさんなら、それでもニコを咎めるようなことはしなかったと思いますよ」
「そうかもしれませんけれど……。でも、やっぱり申し訳ないですから」
ほっと胸をなで下ろすニコ。ヘイノも彼女の安堵につられて、口元に笑みを浮かべていると、
「シニッカ? もしかして、これってトビーさんが所蔵していた本なんですか?」
「トビーさん?」
誰のことだろうと首を傾げるヘイノに、ニコは「シニッカさんの旦那さんですよ」と教えてくれた。
「シニッカさんというと、たしかトビー・リーパさんの奥さんですよね」
「はい、そうです。店主さんは、シニッカさんのお知り合いなんですか?」
「奥さんについては、名前を一方的に知っているだけですよ。トビーさん……つまり、旦那様が、この店で何度か本を作っていたから、何度か会ったことがあるんです。お亡くなりになったと聞いて、所蔵の本がどうなったのか気になっていたんですよ」
「本屋さんでは、本を作ることもできるんですか!?」
目を丸くするニコに、店員はどこか誇らしげに胸を張ってみせる。
「ええ、もちろん。『カンカーンペラの本屋』は、印刷も承ってますよ。奥にはちゃんと印刷機も置いていましてね。同好会の冊子とか、婦人会のちょっとした案内とか、よく頼まれているんです」
「では、これはトビーさん……シニッカさんのご主人が作った本なのですか?」
ヘイノの質問に、ヤーコブは壊れた冊子のページを慎重にめくる。本の冒頭と末尾を見るだけで、彼には誰が作ったものか、大体の見当がつくらしい。
「……多分、祖父の代に作ったものだと思います。ただ、依頼をしたのはトビーさんではなくて、別の方みたいですね。きっと、ご友人同士の同好会で作られたものなんでしょう」
「凄いですね。ただ本を見るだけで、そこまで分かるなんて」
ヘイノとしては純粋に感嘆の気持ちを込めてそう言ったのだが、ヤーコブは何やら気後れした様子で苦い笑みを返した。
「いや、これぐらいは知っている人が見たらすぐ読み取れるものですから。実はまだ、ここの店主になって一年目なものでして。時々店に来ている先代店主の祖父には、いっつもどやされているんです」
「それでも、私もすごいと思います。シニッカさんは、旦那様の本がどんなものかも、よく知らないみたいでしたから」
「つまり、それはトビーさんの蔵書がしまいこまれたままになっている、ということですか?」
これまで丁寧で穏やかな物腰で対応をしていたヤーコブの瞳に、きらりと光が宿る。それは、本を愛する者としての使命感が滲み出た、炎のような激しさが混じっていた。
「お家にお伺いしてもよろしければ、蔵書の整理を手伝うこともできますよ。売却はしなくとも、目録を作るだけでも管理には役立つでしょう」
「ありがとうございます。今度、シニッカさんに確認してみます」
思いがけなく蔵書の話にまで波及したが、ひとまずは修繕の依頼が先だ。
ヤーコブが修繕の詳細を確認してから見積もり書を作るまで、ヘイノたちは店内で待つこととなった。
「少し時間がかかるでしょうから、適当に見て回っていてください。あ、ケースの中にあるのは貴重な本なので、それだけは触らないでくださいね」
そう言って奥に引っ込んだ彼の勧めに従い、ヘイノとニコは本の王国の観光に赴くことにした。
本の印刷から作成まで一手に担う本屋であっても、その最たる収入源はやはり本の売買なのだろう。本棚には如何にも高そうな豪華な装丁の本から、手に取りやすい冊子のものまで、『本』と呼べるものが実にさまざまな形態で並べられていた。
『中古品』という棚には、ティモやパユヴェシ村の住民から買い取ったのだろうか、年季が入ってやや傷みも見られる本が並んでいる。
新品の本が最新流行の服に身を包み、ぴかぴかに磨かれた靴を履いた若者に喩えるとしたら、こちらの中古品は草臥れていながらも風格を感じる装いの老紳士や老婦人といったところか。
新品の本の真新しさとは一線を画した空気を漂わせつつも、どんな本であってもどこか親しみを覚えるのは、一度人の手に亘ったものならではだろう。
「アナさんの部屋に置かれている本と似たものもありますね。同じ時代にできたものでしょうか」
ヘイノの言葉に、返事はなかった。てっきり隣にいるものと思っていたニコを探してみると、彼女は小説の札が掲げられた書棚に釘付けになっている。
「何か、気になるものでもありましたか」
「先生、これですよ。さっき、劇団の方がお芝居をするといっていたお話の本です」
ニコが陳列台から手にとった冊子には、広告に印字されていた芝居の題と同じタイトルが印字されている。冊子そのものは然程分厚くはなく、おそらくは気軽に読める中編小説として出版されたものだろう。
「ここにも売っていたんですね。せっかくだから、先に本の方を読むのも面白そうです」
「ただ、買うとしても、また今度になってしまいそうですけれど……」
「それなら、中古品で同じものがないか探してみてはどうでしょう。それなら、少し値段も下がっていると思いますよ」
冊子形式の本でも、新品の本は子供が買うには少々高い買い物だ。
ただでさえ、ニコは先ほどブローチを買ったところでもある。これ以上無駄遣いはできないところではあるが、修繕費を支払った後のお金でも、中古品の小冊子ぐらいならば買えるかもしれない。
「そうしてみます。ええっと、小説はもう少し奥でしょうか……」
中古品置き場には、新品を扱う本棚のように分類の札がない。まだ見ぬ宝を求めて、ニコが本の山に挑戦しているのを見守りつつ、ヘイノもまた中古品の本たちを眺めていた。
(こちらの辞典は、二十年前にでたもののようだけど、まだまだ綺麗だな。あちらは、小さな子供向けの教本みたいだ。教科書としては古すぎて使えなくても、年長の子供たち向けの問題を作るのにちょうどいいかもしれない)
そうして目を通していくうちに、ヘイノはとある本を手に取り、暫しそれを読み耽っていた。
それは、流行の小説でも、偉大な哲学者の至言がまとめられた本でもない。
それは、司祭の回顧録だった。
ヘイノとそう年の変わらなさそうな青年司祭が、修道院でどのように日々を過ごしているかを綴った素朴な内容の本だが、不思議とヘイノの興味を惹きつけた。
「俺たちよりも何十年も昔に生きた人たちは、こんな風に始祖の言葉を語り継いでいたんですね……」
思わず、そんな言葉が口から漏れ出る。
はるか過去を生きた、自分と同じ職業の誰か。遠いようで近い存在の人の言葉を今こうしてヘイノが読めるのも、本という形で残っているからこそだろう。
「せっかくここまで来たんですから、何冊か買っていくのもよさそうですね。ヨニやアナさんへのいい土産になるでしょうし」
ヘイノの家にも書斎はあるが、あそこにあるのはアナの蔵書だ。自由に持ち出していいとは言われているものの、流石に自分のもののように扱うのは気が引ける。
あいにく、今のヘイノにはヨニが好みそうな本はわからない。
だが、アナの部屋の蔵書にない類の本ならわかる。アナの本棚にあるのは図鑑、哲学書、歴史書といった、少々堅苦しい内容の本ばかりだ。その隙間を埋めるのならば、古典の名作や詩集、小説などがいいだろう。
ヘイノがにわかに本棚から本を出したり仕舞ったりしているのを見て、ニコがとてとてと歩み寄る。
「先生も、何か探し物ですか?」
「小説や詩集を買っていこうかと思うんです。機会があったら、教室の皆に貸し出してみてもいいかもしれません」
「それなら、みんなで読んだ本の話ができますね。とてもいい案だと思います!」
時折、捜索の手がニコと交差し、お互いにどんなものに興味を持ったのかと成果を交換しつつ、本の海の探索は続く。
紙と紙が擦れる音と、奥の部屋から時折聞こえる作業の音。途中、ドアベルが鳴り響き、店員のヤーコブが応対にでる声も聞こえた。
それらを背景に、ヘイノは書棚を巡る旅を続けていた。
そうして、一時間ほどが経っただろうか。中古品売り場を一通り巡り終えたヘイノの視線は、書店の最奥にある本棚へと向けられていた。
その棚には、中古品の中でも古びた聖典だけが集められているようだ。
聖典はどの家にも一冊はある、ごくありふれた本ではある。だが、その分、装丁に拘った一冊を作る者もいるらしい。そのような好事家たちの聖典が、いつしか必要とされなくなり、このような店に流れ着いているようだ。
「これ、全て聖典なのですよね。ということは、書いてあることは一緒なのでしょうか」
「恐らく、そのはずですよ。時代が移ろっても、始祖の言葉は変わりなく受け継ぐべし、というのが教会の方針でうから」
ニコの質問に、ヘイノは手近な陳列台に置かれていた青い装丁の聖典を手にとる。
印刷の規格が今と昔では違うのか、ヘイノが普段目にしているものよりはやや小ぶりだ。元は鮮やかだっただろう青は、だいぶん色がかすれており、積み重ねてきた年代を感じさせる。
何気なく裏表紙を見やったヘイノは、そこにぶら下がっている値札を見てぎょっとした。
「こ、これはまた……凄まじい値段ですね……」
「これだけお金があったら、ええと……市場でたくさん買い物をしても余りそうです」
あまりに高額な値段のため、二人の金銭感覚ではその値を正しく認識するのも難しかった。
ヘイノは、司祭として給金を得ている身ではあるが、それも全てアナに託しているため、自分の収入というものを意識したことはない。それでも、自分が今手に取っている古書の値段が並外れたものであることぐらいは分かった。
一瞬、驚愕のあまり、本を取り落としそうになり、全身の神経という神経を総動員して、本をしっかりと指先で捉えねばならなかった。
もし落として本が破損しようものなら、ニコが冊子を壊したときとは比較にならないほどの損失になるのは明白だ。ヤーコブは、このような高価な本が中古品置き場に無造作に置かれていることを知っているのだろうか。
陳列台の片端に慎重に本を置き直してから、ヘイノは改めて表紙や装丁をそっと指先で撫でる。触れるのも正直恐ろしいところではあったが、これだけの高値がつけられた聖典に、一体何が記されているのかという興味もあった。
「何か特別なお話が書かれている聖典なのでしょうか?」
「いえ、聖典に記される内容は教会が決めているそうですから、この聖典にだけ特別なお話を書き足すようなことはできないはずです」
古さこそが、この聖典の価値を天井知らずにつり上げているのだろうか。
そう思って、同年代の他の聖典を手にとってみるものの、そちらの値段は先ほど触れた青い聖典に比べれば随分と安く感じる。
「いったい、どういう理由でここまで高い値段がついているのでしょうね」
ニコと顔を見合わせて、ヘイノは首を傾げた。
――そのとき。
不意に横から伸びてきた手が、ヘイノが触れている聖典を取り上げる。
「こういうのは、子供が気軽に触っていいもんじゃないんだよ。価値がわからないって言うんなら、なおさらな」
突如、背後から響いた声。
それは、物分かりの悪い子供を諭す大人としてのものでもあった。
あたかも、小さな子供が貴重な品に無造作に触れようとしているのに気がついて、慌てて取り上げた時かのように。その声音は、幼子を宥めているような柔らかさの裏に、有無を言わさない頑なな気配も潜ませていた。
「それとも、そちらの坊ちゃんはこいつがどういう物か知ってるのかい?」
気さくな物言いに混じっているのは、少しばかりの警戒の気配だ。自然と、ヘイノたちの視線も声の主へと向かう。
「いえ、俺にはさっぱり……」
そこまで言って、ヘイノは一瞬小さく息を飲む。
ヘイノが見せた驚きの気配に気がついていないのか、あるいは気がついた上で知らないふりをしているのか、男は何事もなかったかのように会話を続けた。
「まあ、見ての通り、中身は普通の聖典と同じだ。もし、中古の聖典が欲しいなら他を当たるのをお勧めする。まだ若いのに、無理に背伸びをしたところで、ろくなことがないぞ」
からっとした調子で、そのまま雑談を進めていく男を前にして、ヘイノは一瞬異質さを感じていた。
ヘイノとニコの和やかな時間に割って入ったから、ではない。
歳の頃は、アナと同年代か少し上だろうか。分厚そうなコートと少し擦り切れたブーツという出で立ちは、この辺りではよく見るものだ。
だが、何よりもヘイノを驚かせたのは、男の姿そのものである。
この国では珍しい濃い肌の色。やや太い眉と、濃い赤に近い色の髪。彫りの深い面差しは、外の国の人に由来するものだろう。
外国の人だ、という意識が自分の中に浮上したのを自覚すると同時に、ヘイノはそんな感覚を生み出した己を恥じた。
(……どのような顔貌をしていても、隣人の一人であることには変わらないのに)
そんなヘイノの自省など知らぬ顔で、男は慎重な手つきで取り上げた古書を見つめている。本が内に秘めた価値を見定めるかのような厳しい視線は、書店の主であるヤーコブとはまた似て非なるものだ。
一通り、その古びた聖典を眺めると、不意に男はヘイノを見下ろしたまま尋ねる。
「そんで、坊ちゃんはどうするんだ? これを買いたいのか?」
「え?」
ちょっとしたお使いを頼むかのような気安さで、予想外の質問が投げかけられる。まるで十年来の友人かのような気軽な物言いだが、不思議と嫌な気持ちにはならないのは、彼の立ち居振る舞いの成せる技か。
「い、いいえ。そのような値段、とても出せませんから。たまたま目に入って、他のものよりも高額であるようだったので、それで気になっただけなんです」
慌てて、ヘイノは首を横に振る。
すると、男はこれまでとは明らかに違う、安堵混じりの笑顔を見せた。肩の力が抜けたと言わんばかりの様子で、くしゃりと笑って見せたその表情は、やはり親しみを覚えさせるものだ。
「ああ、よかった! これでもし『絶対これを買う』とか言い出したら、どうしようかと思ったんだよな。実は、こいつを見つけ出すために、国中の古書店を訪ね歩いてるところなんだ」
ふう、と息を吐き出した彼は、古い友人にようやく巡り会えたように古書の表紙を撫でている。
先ほど、ヘイノたちを咎めるように注意の言葉を投げかけたのは、待ち望んでいた本を前にして、つい口が出てしまったのだろう。
もう一度、その手に抱えられた聖典をしみじみと見つけてから、続けて男は背後に並ぶ古書を見上げる。男につられて、ヘイノも長い時を経てこの地に辿り着いた聖典たちを眺めたときだった。
「ついでだから、さっきの質問。ヒントをやろうか」
「質問……というと、どうしてこの聖典だけ、他のものよりも値段が高いのか、ということですか?」
「そう、それ。ヒントは『開拓歴六⚪︎⚪︎年』」
突然告げられた年号に、ヘイノは続く言葉があるのかと思ったが、それ以上のヒントは出てこなかった。見れば、男はすでに背を向けてカウンターへと向かうところだった。
「あの、それはいったい?」
咄嗟に声をかけると、男は足を止めて視線だけヘイノへと向け、
「この聖典が、他の聖典より高価な理由だよ。坊ちゃんは司祭だろ? その様子なら、まだ見習いってところか。この年号を添えて、自分の指導者に聞いてみるといいさ。きっと答えを教えてくれるだろうから」
それだけ言い残すと、男はカウンターに身を乗り出して「店員さーん」と奥に引っ込んでいたヤーコブに声をかけた。
あのとんでもない金額が本当にやりとりされるのかと、ヘイノもニコも、ついカウンター越しのやりとりにちらちらと視線を送ってしまう。
二人の予想に違わず、男は懐から貨幣を取り出して、ヤーコブへと渡していた。二人の間には、何らの気負いもないようだった。ヘイノたちにとっては驚くほどの大金でも、ヤーコブや蒐集家の男にとってはありふれた取引の一つだったのかもしれない。
(ニコの隣にいると、俺はもう立派な大人なんだって、ついそう思ってしまうけれど。……周りから見たら、俺もニコと大差ないんだろうな)
だからこそ、男はまるで子供を叱るような物言いで、ヘイノに声をかけた。
とりたてて、大人として見られたいというわけではない。ただ、その一方で、ヘイノは自分を子供と見做したこともなかった。子供時代の記憶がないヘイノにとって、自分は初めからヘイノという一人の人間以外にはなり得なかった。
だからこそ、見知らぬ他人から、司祭でも教室の先生でもなく、子供として扱われたのが新鮮に感じられたのだ。
不思議な感慨と驚きに、束の間意識を奪われていると、
「ヘイノ先生。先ほどの人は、知り合いでは……ないですよね?」
何やら奇妙な言い回しで質問をするニコ。その口ぶりからも、遠回しに何か別のことを聞こうとしていると分かる。
「知り合いではないと思いますよ。何か、気になることがありましたか?」
「あの人、ヘイノ先生が司祭だって言っていないのに、先生が司祭だって分かっているみたいでした」
ニコの指摘に、ヘイノも漸く気がつく。
司祭の証であるペンダント――そこにあしらわれた白い石は、露店の店主でも簡単には気が付かないほどに小さいものだ。
先ほどのやり取りは、ほんの数分に過ぎない。その際、男の視線がヘイノのペンダントに留まることはなかった。
だとすると、彼はヘイノが司祭だと一瞥しただけで看破したことになる。
「だから、ヘイノ先生と会ったことがある方なのかと思ったんです。でも、口ぶりはそんな感じじゃなかったですし」
「……ええ、ここで会ったのが初めての方だと思います。……多分」
少なくとも、パユヴェシ村に来てからは、とヘイノは内心で付け足す。
もしヘイノが記憶を失う前に、あの異国の気配を漂わせた男に会ったことがあったのだとしたら、という疑念は掠めた。
だが、彼はヘイノに対して初対面であるかのように接していた。それは本当に今日が初めての邂逅だったからか、それとも。
(もしかしたら、以前に会ったことがあるのだろうか……)
耳の奥で、どくんと心音が大きく響く。
自分の知らない何かが、そうと気付かないうちに忍び寄っているかもしれない――久方ぶりに感じた、未知という名の恐怖から逃れるために、ヘイノは小さくかぶりを振った。
「ニコ、見積もりができたみたいですよ。いきましょう」
こちらに手招きをしているヤーコブを見つけて、ニコはすぐさまそちらへと足を向けた。彼女の手には、小さな冊子がおさめられている。きっと、掘り出し物を見つけられたのだろう。
「……今は、考えるのはやめておきましょう」
つい先ほどまで、程なく訪れる祭りに胸を弾ませていた。今はそのことだけを考えようと、ヘイノは湧き上がる不安を胸の奥へと押し込み直した。




