幕間1・3-3
アクセサリーを扱う露店に別れを告げてからも、ヘイノとニコは見慣れない店の数々を暫し覗いていた。
その途中で、休憩も兼ねて暖かい飲み物――ベリーとスパイスをたっぷり使ったグロギを飲み、ほっと一息をつく。
体が温かいものに満ちていく感覚に、身を委ねていたときだった。
市場の喧噪とは異なる音色が、ヘイノたちの耳へと飛び込んできたのは。
「あれ、これって――」
「どなたかが、演奏をしているのでしょうか?」
人々の話し声とは明らかに異なる、賑やかな音の連なりは間違いない。これは、ただの物音ではない。
これは、音楽だ。
音楽など、教会の礼拝の際に聞くとき以外は滅多に耳にするものではない。いったいどこから流れてきているのかと、ヘイノたちだけではなく、その場にいた人々の何人かが足を止め、あちこちへ視線を向けている。
音楽の源を真っ先に突き止めたのは、ニコが先だった。
「先生、あちらです。あそこから、音楽が流れているみたいです!」
ニコが指さした先にあったもの――それは、大ぶりの手押し車に似た装置だった。木製の箱に似たそれの前面には、数本の金属管が並んでいる。
側に立つ派手な装いの男が木箱に取り付けられたハンドルをぐるぐると回すと、それにあわせて音楽が流れる仕組みのようだ。
「あれは、手回しオルガンですね。この市場で見たのは初めてですが、祭りにあわせて大道芸人が来ているのでしょうか?」
今にも踊り出したくなるような陽気な音楽につられて、あちこちから市場にいた人々が、手回しオルガンとその操り手の元へと集まっている。
集まっているのは、ティモの町の人ばかりではない。オルガンの操り手の後ろに並ぶ馬車から、明らかに舞台用と思しき派手な装いをした男女が続々と降りてくるではないか。
「何か出し物があるのでしょうか?」
質問しながらも、ニコもまた人だかりへと近づいていく。はぐれないように、ヘイノも彼女の後を追った。
「そうかもしれませんね。あちらの方々は、きっと役者の方でしょうから」
人々は、見慣れない集団の登場に顔を見合わせ、興味と好奇心を瞳に覗かせつつ様子を窺っている。その期待に応じるかの如く、オルガン奏者の傍らから一人の男がすっと前へと歩み出た。
年の頃は四十か、もう少し上といったところか。居並ぶ他の劇団員と比べると、纏う服は一段上等なものだ。おそらくは、彼がこの集団のリーダーなのだろう。
「こんにちは、お嬢さん! ご機嫌いかがでしょうか、紳士の皆様方! まずは、皆様にご挨拶を。我々は見ての通り、旅の一座でございます!」
オルガンが鳴り止み、代わりに朗々とした低い声が市場に響き渡る。
よく通る声の使い方は、人前に立つのが慣れている証拠だ。きっと彼は、これまで何度も同じように一座の紹介をしてきたのだろう。
「この度は、皆様もよくご存じのクルマラ氏のお招きにあずかり、ティモにお住まいの皆様に、生誕祭に相応しい音楽と歌、そしてお芝居を届けにまいりました! お祭りの間、どうか我々を受け入れていただけますと幸いです!」
座長の説明を聞くと、周囲にいた人々のざわめきが一段と大きくなる。やがて、それは大きな拍手へと変化していった。
「ありがとうございます、皆様がた! ティモにお住まいの方々は、暖かい心の方ばかりだ!」
仰々しくお辞儀をする座長にあわせて、役者たちも揃って頭を下げる。
ヘイノには分からなかったが、クルマラ氏というのはティモの町民にとっては馴染みのある名なのだろう。知り合いが呼んだ役者と分かり、辺りは一気に歓迎の空気に包まれていった。
「ヘイノ先生、お芝居ですって! 私、お芝居を観たことってないんです。シニッカさんは、お芝居を観に行くのを許してくれるでしょうか」
「恐らく大丈夫だと思いますよ。ただ、内容にもよりますが……」
ヘイノの懸念を払拭するかの如く、座長は再び声を張り上げる。
「今回公演いたしますは、我が国の誇る文豪――オスカリ・メッツァラウコラが生涯唯一の作としたロマンス小説! 既にご存じの方も、そうではない方も、どうか肩の力を抜いてお楽しみください!」
座長の紹介にあわせて、周囲に並んでいた役者や劇団員たちは、演目の内容や開演日時を記した広告を人々へと配り始めた。
その中の一枚を貰ったヘイノは、早速中身に目を通してみる。開演時刻は夕方の少し前からであるが、帰りは夜遅い時間にはならなさそうだ。
ニコが自分の横で背伸びをしているのに気がつき、ヘイノは人だかりから少し離れてから、ニコにも見えるように屈んでみせた。
「演目は『春の息吹』とありますね。内容を見る限り、シニッカさんが反対するものではなさそうですよ」
「ええと……これは、恋のお話……なのでしょうか?」
「そのようですね。田舎に療養にやってきた青年作家が、その地で一人の女性に一目惚れして……とありますから」
ヘイノは、未だに小説らしい小説を読んだ経験がない。
過去の自分は読んでいたのかもしれないが、少なくとも今のヘイノが最も目を通しているのは、聖典と子供用の教本に載っている手習い用の掌編ぐらいだ。
当然ながら、この『春の息吹』というタイトルにも、全く馴染みはなかった。
「あらすじを見る限りですが、大人の恋愛のお話のようですね。もしかしたら、ニコには少し難しく感じられるかもしれません」
一般的に、ニコのような年頃の子供はもう少し分かりやすい話を望むのではないか、とヘイノは思っていた。
しかし、予想に反してニコは「そんなことないです」と、やや不満げに唇を尖らせていた。
「私だって、その……恋のお話の面白さは分かります」
「それなら、もし行けそうなら一緒に観に行ってみましょうか。ニコがこの話を観て、どんな風に感じたかを聞いてみたいです」
「ヘイノ先生と一緒に行ってもいいんですか?! それなら、ヨニ先生もあわせて三人でお芝居を観に行きたいです!」
「一日ぐらいなら、時間も空けられると思いますよ。あとで、アナさんに相談しておきますね。お祭りの週は、学校もお休みになりますから」
子供たちが各家を訪問する『豊穣祭』は一日で終わるが、いわばこの国の住民全員が主役となる『生誕祭』は、町全体が老若男女問わずお祭りの空気に包まれる。
始祖の誕生した日を祝い、春の来訪を祝福するための祭りであるので、祭りも一日二日では終わらず、ほぼ一週間が祭りに費やされることになる。
そのため、教会の学校も町や村の学校も、この週は全てお休みとなっていた。
嬉しい気持ちを隠しきれず、今にも飛び跳ねそうな様子のニコ。まるで踊るようなステップを踏みながら、ニコはヘイノの手をとって意気揚々と歩き始めた。
「お祭りって、こんなにも楽しそうなことが一度に沢山起きるものなんですね」
ニコは自分の襟元に光るブローチを触り、続いて渡された芝居の広告に視線を落とす。それらは全て、お祭りという非日常の開幕を告げる合図でもあった。
「先週の『豊穣祭』とは、また趣が違いますよね。俺も、こんなに賑やかな空気に触れるの初めてです」
一座は、早速何か出し物を披露しているらしい。陽気な音楽が再び鳴り響き、それにあわせて団員たちの歌声が市場を包む。
彼らの出し物も大いに気になるが、元々今日は予定があってティモに来たのだから、いつまでも彼らの演目を観ているわけにもいかない。
少しずつ喧噪から離れていきながらも、ニコとヘイノを包んだお祭り前の陽気な空気は、依然として彼らの中に残り続けていた。
(ニコにとっては、豊穣祭に続いて二度目。そして、俺にとっては……初めての経験だ)
もちろん、そのようなことは口にしない。けれども、微かに感じる高揚が最高潮に至る瞬間を、ヘイノもまた待ち遠しく感じていた。
そして、お祭りを十全に楽しむためにも忘れてはいけないこともある。
「ニコが行きたいのは、本屋でしたよね」
当初予定していた行き先を告げると、先ほどまでの浮かれた様子から一転、ニコの表情が引き締まる。
彼女の視線が、抱えていた鞄へと移る。その中にあるもののために、二人はわざわざティモにやってきたのだ。
「はい。お祭りも大事ですが、まずはこの本を直すことが先ですから」
ニコがわざわざティモに行きたいと言った理由。
それは、片付けをしていた際に彼女が壊してしまった本の修繕を依頼しに行くためであった。
ティモの町には、本の修繕もしてくれる書店がある。そこならばきっと直してくれるだろうとニコに教えてくれたのは、事情を聞いたアナだった。
「きっと、綺麗に直してくれますよ。せっかくですから、直した本をシニッカさんと読んでみるのはどうでしょうか」
「……はい。もし直ったらそのときは、シニッカさんを誘ってみます」
答えるニコの横顔は、少し強ばって見える。もし直らなかったら、という不安があるのだろう。
せっかくのお祭りだ。一点の曇りも心に残さずに、楽しい時間を過ごしてほしい。そんな期待を込めて、ヘイノは通りの先の看板を見つめる。
本の形をしたそれは、二人に手招きをするように優しく揺れていた。




