幕間1・2-7
最初、その少女を紹介されたとき、随分と子供らしくない子供だとベロニカは思った。
自分の子供の頃の記憶は、最早曖昧になってしまっているけれど。
それでも、あんなにも怖々と、物陰から覗くかのような視線でこちらを見つめられるのはいい気がしない。まるで自分が何か悪いことをしていると疑われているようで、漠然とした反感を覚えてしまう。
最初は、演技をしているのかと思った。身寄りのない子供が、敬愛する主人に取り入って悪巧みをしているとも考えた。
だが、どうやら違うらしいと結論を出さざるを得なかった。
使用人の仕事にけちをつけて自分を良く見せようとしているのかとも思ったが、その割にはあの子供の態度はあまりに真剣が過ぎた。
安全な家に辿り着いた孤児には似つかわしくない必死さが、警戒に繋がり、疑問へと変化し、更に子供自身への懸念へと繋がった。
「とにかく、何につけても子供らしくない子供なのよ。こちらの顔色を窺う子供なんて、いっそ不気味だと思うわ」
仕事を終えて、家に戻ったあと、母にそう愚痴った日のことを思い出す。
すると、目の悪い母は眼鏡をそっと外して、ずっと遠い思い出に想いを馳せるように目を細めていた。
「あなたの言う通りなのかもしれないわね、ベロニカ。でも、子供というのは私たちが思っている以上に色んなものを見て、色んなことを考えているものよ」
「兄さんも姉さんも、それにあたしだって、そんなに思慮深い子供時代を過ごした覚えはないのだけれど。あんな風に、やたら何かを不安がったこともないわ」
寧ろ、大人になった今こそ、その思慮深さを得るべきだろうとベロニカは思う。彼女の兄と姉は、年老いた両親の世話をベロニカに押しつけて、自分たちはさっさと都会に出てしまったのだから。
「そうでもなかったわよ。特に、ベロニカ。あなたは時々、上の二人に無理を言って町まで出かけていたけれど、自分から行っていた割には随分と不安そうに見えたわよ」
「それは……兄さんたちの邪魔をしていないか心配だったから」
「でも、それなら最初から行かなくてはよいだけの話ではなくて?」
「町で見た芝居とか朗読の話を、二人がこれみよがしにあたしに聞かせるのを、黙って耳を傾けているだけなんて我慢がならなかったんだもの」
だから、ベロニカは兄姉についていった。二人は特にベロニカに何か言いつけはしなかったものの、だからこそベロニカは緊張してもいた。
もし、二人がベロニカを鬱陶しく思って、二人だけで先に帰ってしまったら。彼らからはぐれて迷子になってしまったら。
芝居に夢中になりたかったのに、不安に付き纏われ、落ち着いて鑑賞できなかったことは子供時代の苦い記憶だ。
そこまで思い出して、ベロニカは呟く。
「……ああ、つまり。そういうことなのね」
「ええ。シニッカさんの家に引き取られたお嬢さんについても、今、あなたが思った通りのことではないかと思うわ」
「だとしても、もう何日も家で過ごしていて、奥様の人となりも分かっているでしょうに」
「分かっていても、どうにもならないものというのは何に対してもあるものなのよ。あなたも、もっと大きくなったら分かるようになるでしょう」
事実、そうなのかもしれない。だが、何だかそこで納得するのは、まるで自分がまだ小さな子供として扱われているかのような気がして、ベロニカは憮然とした面持ちで母を見つめ返した。
その時の表情こそが、ベロニカが子供だった頃の表情とそっくりだったとは、彼女の母は黙っておいたのだった。
◇◇◇
体を撫でるほんのりとした冷気に、ぶるりと身を震わせる。
「寒い……」
寒いだけではない。体のあちこちが、まるで岩の上に横たわっているかのように痛い。この冷たくて固い感覚は、使用人室の寝台よりもなお酷い。
のろのろと目を開くと、灰茶の世界がぼんやりとにじみ出す。そこでようやくニコは、自分の状況に気がついた。
(私、地面の上で寝ていたんですね……)
森の中で迷子になり、庇のように張りだした岩棚の下で雨宿りをしている内に、眠ってしまっていたらしい。だが、眠りにつく前に何かあったように思う。
「そうだ。たしかリクがお話をしてくれて……」
突然しゃべり出した黒猫の友人。彼のちょっぴり意地悪な人を揶揄うような物言いに答えている間に、ニコはあることに気がついたのだ。
(……私は、何のために頑張っていたのだろう)
シニッカに御礼を伝えたい。あなたが手を差し伸べてくれた優しさに報いたい。
その気持ちに突き動かされた結果、気がつけばいつのまにか、恩返しをしなければならない、役に立たねばならないと自分で自分を縛ってしまっていた。
そのことに気がついたのはいいが、それなら果たして今、自分はどんな顔でシニッカに会えばいいのか。自らの問いに対する答えに迷っていると、不意にガサガサと落ち葉を踏みしめる足音が耳に飛び込んできた。
「も、もしかして、本当に森にはオオカミが……!?」
自分以外の生き物の足音に、ニコは反射的に身構える。
そういえば、リクはどこに行ってしまったのだろう。まさか、森のオオカミや狐に食べられてしまったのではないか。いや、リクはただの猫ではないと言っていたではないか。
そんなとりとめもない思考が頭をざあっと通り過ぎていく間に、どんどん足音は近づいていく。せめて、目立たぬように隠れていようと、岩棚にぴったりと体を押しつけていると、
「ああ、よかった。やっと見つかった。まったく、奥様のお使いの途中で迷子になるなんて!」
落ち葉を蹴散らしながら姿を見せたのは、外套に全身を包んだ女性――ベロニカだった。見慣れない姿ではあるが、こちらを値踏みするような遠慮のない視線は間違いない。
彼女の足下では、リクがゆらゆらと尻尾を揺らしている。岩棚の下に入り込むと、リクはぶるぶるっと体を震わせて、雨水を体から弾き飛ばしていた。
「ベロニカさん……どうして、ここに……? それに、リクはなんでこんなにも濡れて……」
「そっちの猫はともかく、あんたが帰ってこないから奥様が心配なさって、それであたしがあんたを探しに行くことにしたのよ」
ベロニカは、ニコの側に置かれた籠を一瞥する。
「お使いは無事に済んだようね。それで、あんたこそ、どうしてこんな所にいるのよ。ここは、ロポネンさんの森の中でも結構深い所よ。もう少し先に行ったら、湖がある辺りに出る……って言っても分からないわよね」
「は、はい……」
パユヴェシ村で本格的に生活を始めて、まだ二週間も経っていないニコにとって、ベロニカの言葉だけでは自分がどこにいるのか見当もつかなかった。
「つまり、それぐらいあんたは遠くに行っていたってこと。おおかた、森の入り口にある看板がなかったから、どこに行けば分からなくなったんでしょ。きっと、この前の冬に壊れてしまって、そのままになってるのね」
迷子の原因まで突き止められていると分かり、ニコの居心地の悪さは加速する。せめて言い訳の時間ぐらいはほしかったが、今の彼女はニコの心情にまで気を配ってはくれなさそうだ。
「怪我はしていない? 服はそこまで濡れていなさそうね。なら、早くこの中に入りなさい」
ベロニカが広げてくれた外套の下に、ニコは入るべきか一瞬迷う。自分に対して良い感情を持っていないはずのベロニカが見せる親切な態度に、どう反応すればいいか分からなくなってしまっていた。
「何をもたもたしているの。さっさと入りなさい。ずぶ濡れになったら、あんたが風邪をひくでしょう。あんたは心配をかけるだけでなく、看病まで奥様にさせるつもり?」
「そ、そんなつもりではありません!」
そればかりは濡れ衣だと、ニコは籠を抱えて外套の下に入る。ニコの小さな足取りにあわせて、ベロニカは迷わずに森を行く。いつしか、リクはちゃっかりとニコの隣に入り込んでいた。
「その猫も大したものよね。あたしが森に入ったと思ったら、すぐに姿を見せたんだから」
「じゃあ、リクがベロニカさんを案内してくれたんですか?」
「そうよ。とはいえ、途中からあんたの足跡が残っていたから、全部が全部、リクの案内ってわけでもないけれどね」
ニコは、おそるおそる足下を歩いているリクを見やる。リクは、我関せずと瞳を瞬かせているだけだった。
(リクがお話をしていたのは、私が見ていた夢……だったのでしょうか?)
見知った人が姿を見せてくれたおかげで、ニコはいくぶんか落ち着きを取り戻していた。そうして、冷静になって考えてみると、リクが言葉を話したというのは随分と荒唐無稽な出来事に思えてきた。
それよりも、疲れ果てた自分が夢を見たと考えた方が、ずっとありえそうな話だ。
歩き続けて十分としないうちに、二人は人々が通り道に使っていると思しき踏み固められた獣道へと出た。これまでより、うんと歩きやすくなった道を歩いていると、
「奥様は卒倒しそうなほどに心配なさってたから、後できちんと叱られておきなさい」
不意にベロニカに言われ、ニコはこの雨の帰り道の先にあることを思いだし、視線を下へと向けてしまう。
「……私、また迷惑をかけてしまいました」
「そうね。あんたが仲良くしている司祭様の家にいた人も、随分と気に掛けていたわよ。今は奥様の面倒を見てくださっているわ」
きっとヨニ司祭のことだろうと、ニコは益々項垂れてしまう。
普段は朗らかに振る舞ってみせているものの、その実、誰よりも周りを見ている人だ。自分自身の気持ちを笑顔で塗り固めながら、心配するシニッカをいたわっているに違いない。
(……迷惑をかけた分、何かお詫びをしないと)
そこまで考えて、ニコは小さくかぶりを振る。
「……もし、私がシニッカさんに謝らなきゃ、何かお詫びをしなきゃって言っても、シニッカさんはきっと『必要ない』と仰るんでしょうね」
その言葉に、ベロニカは「意外ね」と呟いた。
ベロニカはニコの人生の全てを知っているわけではない。だが、ニコが何かに不安を感じていることは察していた。
拭っても拭っても、拭いきれない『もしかして』。それが、ニコの不安の源泉であり、彼女の前のめりとも言える頑張りの根幹なのだろうとは分かっていたが、ニコが自らそれに気がつくとは思っていなかった。
「たしかに、奥様は見返りを求めるような方ではないわ。あたしも、あの方には大変お世話になっているけれど、それを理由にして、あたしに無理をさせようとはなさらない。あの人の差し出す親切は、あくまであの人がしたいからしていること、だそうよ」
「……そう、ですよね。それなのに私、シニッカさんには何か御礼をするべきだって思い込んでました」
「それは、あんたの一方的で独りよがりな、御礼とすら言えない、単なるお節介よ。あるいは、出しゃばり、かしらね」
先日と全く同じ言葉ではあったが、ベロニカの声音はいくらか柔らかく聞こえた。
「大体、あんたみたいな新参の子供如きが奥様に恩返しするなんて! あたしですら満足にできていないことが、あんたに易々とできるわけないでしょう」
内容こそ冷たく聞こえたものの、ベロニカの言葉には、まるで共通の難問に取り組む同胞のような親しみが幾ばくか混ざっているように聞こえた。
「奥様は、あたしと食事をしたいとおっしゃっていたからね。今度、奥様をあたしの家にお招きしようかと時機を窺っていたところ。あんたも、そんな場当たりのお節介じゃなくて、少しは順序というものを考えてみたら?」
「それ、とても素敵なことだと思います! ……私も、ベロニカさんみたいに、シニッカさんから何かを頼まれないでしょうか」
「そのネコヤナギが、そうなんじゃないの?」
ニコは、籠の中に収められたネコヤナギの花穂を見つめる。
お使いに出たばかりのときは、この程度のお願い事を無事に達成できたとして恩返しになるのだろうか、と疑問を抱いていた。だが、気にするべき点はそこではないのだと、今ならわかる。
(シニッカさんは、ネコヤナギを取ってきてほしいと私に頼んだ。私は、そのお願いを叶えたいと思った。それだけで、今は十分です)
確かめるようにネコヤナギに触れると、その隙間からは色とりどりの春の花が顔を覗かせている。
(シニッカさんは、このお花に喜んでくれるでしょうか)
喜んでほしいとは思う。だが、喜ばなければ意味が無い、とは思わない。
油断すると、そんな不安が再び顔を出してくるが、ニコはゆるゆるとかぶりを振って、それらを追い出す。
「帰ったら、シニッカさんにちゃんとお話しようと思います」
「そうね。きっと奥様も、あんたの言葉を待っていると思うわ」
以前は、どうしたって仲良くなれないと思った相手だ。だが、こうして隣で言葉を返してくれるベロニカは、ニコの決意を後押ししてくれている――今はそう思えた。




