幕間1・2-6
「あら、雨?」
自室でせっせと刺繍をしていたシニッカは、屋根を打つ雨音に頭を上に向ける。
窓を見やると、さながら一足早く夜が来たかのように薄暗い。
今の時期なら、夕方の訪れすらまだ先だと言うのに、空は鈍色の雲ですっかり覆われてしまっていた。窓には点々と雨雫の跡が残り、雨水の通った痕跡が透明な筋となって幾重にも広がっている。
「ニコはまだ戻ってきていないのかしら。それに、ベロニカはそろそろ帰る時間よね。彼女、雨具は持ってきたのかしら」
ベロニカは、雨具を持ってきていなかった。そのため、シニッカは夫が使っていた防水用の分厚いマントを取り出して、ベロニカへと貸すことにした。
「ところで、奥様。ニコが帰ってきていないようですが」
「そうみたいね……。ついでに外で遊んできてもいいとは言ったけれど、こんなに遅くなるなんて」
もし、これが近所の悪童たちならば、二人ともさして案じはしなかっただろう。冬ならばいざ知らず、今は春だ。一日中外にいても凍え死ぬような気温ではない。
子供というものは、時間も忘れて遊びまわり、雨に降られてびしょ濡れになって、ようやく空模様を見る大切さを知るものだからだ。
「普通の子供なら、よくある話で済ませるんですけどね。あの子のことだから、時間を忘れて遊び歩いているとは考えづらいです、奥様」
「ロポネンさんの家まで、ニコの足でもそんなにはかからないわよね。もしかして道に迷ってしまったのかしら」
「あるいは、近所の友人の方と出会って、雨宿りをさせてもらっているのかもしれません。たしか、最近村に来た若い司祭様と親しいのではありませんでしたか?」
「……ええ、そうかもしれないわね。きっとそうよ。ベロニカ、申し訳ないけどアナ司祭の家に行くのに付き合ってもらえる?」
「もちろんです」
貸してもらったマントを被ったベロニカと共に、シニッカも雨除けの外套を羽織って、近所にあるアナの家へと向かった。ベロニカは足元が悪いのだから家で待つように言ったのだが、シニッカは頑なに自分の足で確かめに行くと言って聞かなかった。
しかし、二人を出迎えた若者――ヨニは、シニッカの話を聞いても、首を横に振るばかりだった。
「今日は一日中、俺は家にいましたけど、ニコは来てないですよ」
「それなら、ヘイノ司祭とアナ司祭はどうかしら」
「ヘイノとアナさんは昼から教会のことで出かけています。いろんな家に招待されているって話していたから、途中で会ってもそのまま長話とはならないんじゃないかと」
希望的な観測が潰えて、シニッカの顔は真っ青になる。
「では、ニコはどこに消えてしまったの……!? ああ、こんなことになるなら、私もついていけばよかった……!」
「落ち着いてください、奥様」
今にも外に飛び出しそうなシニッカを片手で押さえて、ベロニカは言う。
「司祭様。奥様は気が動転しておられるようです。落ち着くまで、この家で雨宿りをさせていただけませんか」
「構わないですけど、あなたはどうするんですか?」
今にも卒倒しそうなほどに青ざめたシニッカと、少しずつ強くなる雨足を交互に見遣ってから、
「あたしは、ニコを探しに行きます」
シニッカが何かを言う前に、ベロニカはきびきびと告げる。
「奥様の大事なお嬢様を探すのも、あたしの役目です」
「でも、ベロニカ」
「ご安心ください、奥様。ロポネンさんの森は、小さいときによく遊びに行っていましたから」
それだけ言うと、ベロニカは雨が降りしきる外へと迷いなく飛び出した。
***
「これから、どうしましょう……」
ニコは今、大変困っていた。これ以上にないほどはっきりと困り切っていた。
困りごとの発端は、花畑に夢中になって、どこからやってきたのか分からなくなったことだ。
花畑からいくつも伸びている小道のどれが出口に辿り着く道か分からなくなり、きっとここだろうと思ったところに足を踏み入れたが、どうやらそれは外れであったらしい。
どれだけ歩いてみても、ロポネンさんの真っ赤な屋根は見当たらず、それどころか常緑の木々のせいで視界はますます悪くなり、おまけに雨まで降ってきた。それが、二つめの困りごとだ。
冷たい雨から逃れようと、必死に駆け回っているうちに、ニコは獣しか入り込まないような道なき道に足を踏み入れてしまっていた。
もっとも、そのおかげで、林の斜面にできた小さな岩棚を見つけ、庇のように広がっていた岩棚の下に潜り込んで雨宿りができた。
だが、雨から逃れられても一つ目の困りごと――迷子が解決するわけではない。
「この雨、すぐに止んでくれるでしょうか」
周囲はどんよりと立ちこめた雨雲のせいで、まるで夜のように暗い。夜になるのはもっと先のことだと思っていたが、ひょっとしたら自分が思う以上に時間が経ってしまったのではと、悪い想像ばかりが先走る。
夜の森に一人取り残されてしまったのだとしたら。そう考えた瞬間、全身をぶるりと寒気が走る。
夜の森には、どんな生き物が潜んでいるのだろう。同じ教室のテームは狐の話をよくしていたが、狐は人を襲うだろうか?
いや、まずは狐よりも最も恐ろしい問題があるではないか。
「リク、私は家に帰れるでしょうか……?」
誰も自分がいないことに気付かなかったら――と、かつては考えたかもしれない。だが、今のニコは、自分が沢山の人たちに見守られていると自覚している。
しかし、それでも不安は尽きない。
もし、誰もこの森の奥地に辿り着けなかったら。ヘイノやシニッカはきっといなくなった少女を探してくれるだろうが、こうしてニコが雨宿りをしている場所が森の奥深くで、誰も立ち入ったこともない場所だったら。
どれだけ二人が必死になって探しても、見つからないままになってしまうかもしれない――。
実際のところ、この森はロポネン氏の私有地であり、月に数度は手入れをされているので、入り込んだまま迷って出られないなどということはない。もっとも、当然ながらニコはそんなことは知らなかったので、自分の想像に震え上がるばかりだった。
「少し、寒くなってきましたね……」
膝を抱え、雨がもたらす冷気から逃げるように体を小さくする。シニッカが貸してくれた外套をかき寄せるようにしていると、
『――まったく、こんなにも手のかかる子供の相手は久しぶりだよ』
突如聞こえてきた声に、ニコはがばりと顔を上げて周囲をきょろきょろと見渡す。自分と同じかもっと小さな年頃ぐらいの、ませた雰囲気を漂わせた少年の声だ。
もしかして、自分と同じような迷子がいるのかと思ったものの、それらしい人影はさっぱり見つからない。
「気のせい、だったのでしょうか……?」
『ここだよ、ここ』
「……ここ? って、もしかして、リクが喋った―――?!」
その瞬間、ニコは迷子の心細さも雨の冷たさもすっかり忘れてしまっていた。
迷子になってからも、ニコのそばから離れずにいてくれた黒猫。先ほど聞こえた少年の声は、たしかに目の前で呑気に顔を洗っている黒猫から聞こえてくるような気がする。
唖然として口をあんぐりと開けたままになっているニコに、リクはなんとパチンとウインクまでしてみせた。
『言葉を話すぐらい、わけないさ。ボクは、ただの猫じゃないんだからね。君も、薄々気がついていたんじゃないのかい』
「た、たしかに、すごく賢い猫さんだとは思っていましたけれど……」
だが、まさか猫が話すなどと考えたことは、流石のニコも一度もなかった。もっとも、リク自身の発言によるとリクはどうやら猫ではないらしいが。
「シニッカさんは、このことを知っているんですか……?」
『いいや、知らないよ。彼女の住んでいるところはボクにとっても暮らしやすいところだから、こうして猫の姿を借りてあの家にお邪魔しているだけなんだ』
「そう、なのですか……?」
シニッカの家が猫にとって特別な住み心地の良さを備えているとは到底思えないが、リクが言うのだからそうなのだろう。
『ボクは、今の生活が気に入っている。だから、このことはシニッカには内緒にしておいてくれないかな?』
ニコは、一も二もなく頷いた。短い間ではあるが、ニコはリクと共に同じ屋根の下で生活を共にしていた。シニッカが家を留守にしているとき、ニコの話し相手はもっぱら猫たちであり、リクは上手な聞き手の一人――否、一匹だった。
そんな友人からの頼みだ。断るわけにもいかない。
「ただ、今も自分が見てるものが信じられないのですけれど……」
疑うようなことを口にしているものの、自分の耳が聞いているのは紛れもなく猫の鳴き声とは異なる言葉だ。
それに、喋る黒猫の秘密を自分だけが知っているというのは、なんともお伽話じみていて、ある種の高揚感を彼女に与えていた。
「ルミちゃんはどうなのでしょうか? ルミちゃんも、喋れる猫さんなのですか……!?」
『いいや、違うよ。ルミはただの猫さ。それに、さっきも言ったけれど、ボクはそもそも猫じゃないからね』
じゃあリクは何者なのか、と問うより先に、彼は尻尾でパタンと地面を叩いた。
『それよりも、今はもっと大事なことがあるだろう? ここから帰る方法を、君は何か思いついているのかい?』
その時になって、ようやくニコは自分が迷子になっていたことを思い出した。どんよりとした暗い気配と、墓石のように沈黙を保って立ち並ぶ木々の輪郭は、さながらニコを森に閉じ込める牢獄の檻のようだ。
「……何も思いついていません。リク、どうしましょう。シニッカさんがせっかくお使いを任せてくれたのに、私、また失敗してしまいました……」
『ネコヤナギは無事に取れたじゃないか』
「でも、いつまでも帰ってこなかったら、シニッカさんは困っているはずです」
いつまでも帰ってこない子供を探して、彼女は心配をするだろう。ニコを見つけなければと、あちこちを駆け回ってくれるだろう。その優しさを思うたびに、ニコは胸が締め付けられたような気持ちになる。
「……そんなつもりじゃなかったのに、私はシニッカさんを困らせてばかりいます」
言葉にすると、どんどん気持ちは落ち込んでいく。
アナやヘイノが尽力して、新しい家を見つけてくれたのに。優しいシニッカは、自分の生活にニコを受け入れてくれたのに。
だというのに、自分がしたのは彼女を困らせることだけなのか。それならば、いっそのこと、このままこの場所にずっといた方がいいのではないか――。
『困らせるのは、悪いことなのかい?』
沈みきっていた心に、リクの言葉がぽんと投げ込まれる。
「え?」
『君は、シニッカの友人なのだろう? それなのに、どうして君はそんなにもシニッカを困らせることを遠慮するんだい?』
「それは……だって、シニッカさんにはお世話になりましたから……。だから、せめて恩返しをしなきゃって思ったのに」
『どうやら君は、シニッカの役に立たないといけないと思い込んでいるようだね。シニッカがいつ、そんなことを君に望んだのかな?』
黒猫の何気ない言葉に、ニコは強く突き飛ばされたような衝撃を受けていた。
恩返しをしたい。優しさに報いたい。その気持ちに嘘はない。
けれども、いつしか少しずつそれは形を変えていた。
役に立ちたい。迷惑をかけてはならない。こんなにも優しくしてもらったのだから、ただそれを受け入れるだけではいけない。
――そんなことがあってはならない。
「……あっ」
そこまで考えて、ニコは小さく声を漏らす。そこにある微かな違和感を拾う前に、お喋りな黒猫は言う。
『君はシニッカのためにと言っているけれど、君自身がシニッカの心を見ていないように思えるんだよね。それとも、人間ではないボクの意見は見当違いのものかな?』
リクの問いかけに、ニコはゆっくりと首を横に振る。
「……私、シニッカさんの役に立ちたいってことばかり考えて……いつの間にか、自分で自分の気持ちを窮屈なものにしてしまっていたのかもしれません」
最初にニコの中で生まれた恩返しを望む気持ちは、もっとぼんやりとしていて、曖昧で――それでも形のないその心は暖かくて、大事にしたいと思えるものでもあって。
なのに、今はどうか。
確かな形や結果ばかりを求めて、いつしか自分の中にあった柔らかくて曖昧なものに無理矢理形を与え、いつしか自分を縛るほどに窮屈なものへと変えてしまっていた。
『君は、どうしてそんなに窮屈なものになろうとしたんだい?』
「それは……」
シニッカに喜んでほしいと思う気持ちに嘘はない。けれども、それでも彼女の役に立たねばと焦ってしまったのは。
「……不安、だったのかも」
『不安? 君は大変な暮らしをしていたそうだね。でも、あそこには暖かいベッドも、君に優しくしてくれる人もいるのに、いったい君は何が不安なんだい?』
リクがここにいてくれてよかったと、ニコは思う。
一人で考えるには、これはあまりに己自身をむき出しにしなければならないことだ。とてもじゃないが楽しいとは言えないことで、だからこそ、隣に誰かいるのがありがたかった。
「不安、なんです。……何をしなくても、ここにいることを許されるってことが」
『君を虐める人はいないのに?』
「だからこそ、不安になるんです。私はここにいてもいいのかなって。だって、私は何もできていないのに」
リクがもし人間だったならば、怪訝そうに首を傾げていただろうか。その代わりに、リクは自分の前足で丹念に顔を洗っていた。
『君を虐める人間はいないのに、君は自分で自分を虐めていたってことか。やれやれ、君たち人間は、本当に理屈をこね回すことだけは上手だね』
リクの言葉は辛辣にも聞こえたが、不思議と納得出来るものでもあった。
自分は彼の言う通り、理屈に囚われすぎているのだろう。だが、その理屈はずっとニコの中に根ざしてきたもので、今はもう必要ないと分かっていても容易に断ち切れるものでもなかった。
すう、と息を吐き出して、ニコは抱えていた膝に顔を埋める。今は、リクの声も、籠の中の花たちも、何もかもを見たくなかった。
『さて、ボクはこの小さな哲学者さんを、無事に家まで届けなければいけないわけだけれど……』
自分の頑張りが、自分にとっても誰にとっても不要なものだったのではないか。そう思うと、体にどっと疲労が押し寄せて、ニコはゆっくりと目を閉じる。
少しだけでいい。眠ってしまえば、この答えのでない気持ちから少しだけ遠ざかっていられるから。
『ちょっと、まさかここで眠る気じゃないだろうね!? 君を担いでいくなんて、今のボクにはできないんだよ!?』
お喋りでマイペースな黒猫の言葉に耳を傾けながら、ニコは自分を包む眠気に身を任せた。




