幕間1・2-5
赤い屋根に黄色の壁の家。その家のそばにある森の小道を辿り、看板のある道を行く。シニッカの教えてくれた道を頭の中で繰り返しつつ、ニコは籠を腕にぶら下げて、いそいそと歩いていた。
吹き渡る風はほんのりと温もりを帯び、かつて寒さに震えながら教会まで通っていたのが嘘のようだ。
一足早く、畑に出ている人々。春の温もりを一身に浴びるかのように、お喋りに興じる女性もいれば、その足下で暇を持て余している子供たち。
実にのどかな光景に、ニコはほうと息を漏らす。
長らく冷たい風と長い夜が支配していた冬があるからこそ、人々は春の訪れを待ちわびる。そして、訪れた春に歓喜して、少しでも長く日差しを浴びていようとする。
雪の下からも見えるように、家々の屋根や壁は鮮やかに塗られることが多い。目印であるロポネン氏の家は真っ赤な屋根の家であるが、他にも青や緑やオレンジと見るも鮮やかな家がまるでお菓子の箱のように点々と並んでいた。
ニコはまだ、パユヴェシ村の全域を見て回ったことはない。だが、だからこそ一人でお使いを達成することに意味があると思っていた。
「せっかく、シニッカさんにお願いされたことなのですから。今度こそ、一人できちんとやり遂げないと……あれ?」
息巻くニコの言葉に、合いの手を送るように「にゃあ」という鳴き声が響く。
「今の声って……」
おそるおそる、ニコは腕にぶらさげていた籠を見やる。そこにはなんと、真っ黒のふわふわしたクッションもとい、黒猫のリクが体を丸めているではないか。
籠の中でうたた寝をしていたのを気づかずに、そのまま持ってきてしまったのか。それとも、出かける直前で一度籠を玄関先に置いたときに、リクが飛び込んでしまったのだろうか。
「リクも、お使いについてきてくれますか?」
リクはゆっくりと瞬きをすると、大きなあくびを一つして、また丸くなってしまった。
「一緒についてくるのは構いませんけれど、帰りは歩きになりますよ。ここには、私が取ったネコヤナギが入る予定なんですから」
ニコの話など聞いていないかのように、リクはうつらうつらと船を漕いでいる。
元々、リクは度々外に飛び出して、好き勝手に村を散策している猫だ。籠から飛び出していっても大きな問題にはなるまいと、ニコは少し重くなった気がする籠を片手に再び歩き出す。
「ネコヤナギって、猫が好きだからネコヤナギって言うのでしたっけ?」
普段から妙に聡い所を見せるリクが、なぜネコヤナギの採取に付き合ってくれたのかは不明だ。もしかしたら、ただ外の空気を吸いたかっただけなのかもしれない。
しばらく行くと、向かいから馬車がやってくるのが見えた。
屋根なしの二人用馬車に乗っている人物を目にして、ニコは思わず手を振る。すると、乗っていた人物も手綱を引いて、馬を止めてくれた。
「ヘイノ先生、こんにちは! 良い天気ですね」
「ニコ、こんにちは。最近は授業がなくて、どんな風に過ごしているのか気になっていたのですが、元気そうで何よりです」
わざわざ馬車から降りてニコに話しかけてくれたのは、ニコの敬愛する先生ことヘイノだ。馬車に乗っているもう一人の人物は、彼の師匠でもあるアナである。二人とも司祭としてのローブを身につけているので、教会の仕事で外に出ていたのだろう。
「こんにちは、アナ先生。最近はお二人に会うことがなくて、少し寂しいです」
「最近といっても、たった数日のことでしょう? それとも、シニッカさんのお家はそんなにも退屈なのかしら」
「あ、いえ、そんなことはないです。今日も新しい服を作ったり、夏の準備をしていました。それに――」
そして、昨日は掃除に励もうとして失敗したのだと思い直し、ニコは一瞬言葉に詰まる。
「豊穣のお祭りが終わったら、また一度、パユヴェシ村の皆さんの家を訪問しようと思っているの。冬の頃は、雪が深くて訪問できなかった家もあったものだから」
「じゃ、じゃあ、シニッカさんの家にも来ますか?」
尊敬する司祭様たちの訪問と聞いて、ニコはぱっと顔を輝かせる。これまで個人的に言葉を交わし、食事を共にしたことはあるが、訪問ともなればまた話は別だ。敬愛する相手をもてなせる機会があるのなら、それを見逃すわけにはいかない。
「そうですね。ぜひ、一度は招かれたいと思っています。それ以外にもシニッカさんには、ニコを連れて出かけてもらえないか、と頼まれているんですよ」
ヘイノの話に、ニコは先ほどとは違う意味で目を丸くする。
「私が、先生たちと……ですか?」
「ええ。ニコはこの町に来てから、あまり周囲を見て回る機会がなかったのでしょう。ただ、今後はお使いを頼むこともあるだろうから、村や町の地理を早い内に知っておいた方がいいからと」
「ヘイノもまだ勉強中の身だから、二人で連れ立って行動すれば丁度いいでしょう、というわけよ。そのうち、あなたも友達と町まで出かけることもあるでしょうから」
ニコよりも数歳年上の女性たちが、馬車に乗ってティモや更にその先にある港町に向かう様子を、ニコも何度か目にしたことがあった。自分もいつか、あのような女性たちの仲間入りをするのかと思うと、何だか不思議な気分になる。
一瞬、夢見心地になったものの、ニコは小さくかぶりを振った。
(立派な大人になるためにも、まずはお使いを達成することから、ですよ)
そうして、彼女なりにきりりと表情を引き締めていると、
「ところで、ニコは今日はどこかにお使いですか?」
ヘイノがニコの籠を見やり、質問する。ニコはすぐさま首を縦に振った。
「はい。お祭りで使うから、ネコヤナギを取ってきてほしいと言われているんです。ロポネンさんの家の近くに、ネコヤナギが生えていると教えてもらいました」
「あの家の近くにある林には、確かにネコヤナギがあるって聞いたことがあったわね。ただ、奥に行くと道が入り組んでて迷いやすいって、以前ロポネン夫人がおっしゃってたから、あまり奥まで行かないようにね」
「もちろんです。気をつけます」
その後、近況を軽く伝えあってから、ニコはお辞儀をして再びロポネン氏の家を目指して歩き始めた。
今日、ヘイノたちはお祭りの準備のために各家を訪問していたそうだ。最近ここに来たばかりのアナは、パユヴェシ村独自のやり方を知らない部分も多く、近所との交流も兼ねて、いくつかの家の招待を受けているとのことだった。
「ヘイノ先生たちをお招きする日には、私は何をしましょうか。シニッカさんに、お菓子の作り方を教わっておくべきでしょうか……?」
そこまで考えて、ニコは気がつく。教会に通ったことはあり、司祭様から声をかけられたこともある。だが、それ以外の場でニコは司祭を持てなしたり、歓迎の意を示したことはない。
(だって、私は表に出られる立場ではなかったから……)
だが、今はそうではないのだと思うと、何だか心の端がむずむずする。昨日、ベロニカに『お嬢様』と言われたことを思い出す。
そのむずむずは、心地よいとは言い切れない、自分のものであるはずなのに妙に収まりの悪さを感じるむずむずであった。
この気持ちを受け入れるためにも、シニッカのお使いを完遂しなければと、ニコは気持ちを切り替える。籠に添える手に力を込めて、少女はずんずんと小道を歩いていった。
ロポネン氏の家はすぐに見つかった。真っ赤な屋根は、まるでニコに「ここが入り口ですよ」と示すかのように、青い空を背景にくっきりとその姿を刻んでいる。
森に続く小道も、迷うことなく発見できた。ニコと同じように森に向かう人は他にもいたようで、道は均され、そこだけ草が横に寝ていたのだ。
だが、森の入り口でニコは一度足を止めなければならなかった。
「看板があるという話でしたけれど……ありません、よね?」
思わず、籠の中にいるリクに声をかけてしまう。ニコの言葉通り、そこには目印としてあるはずの看板がどこにもなかった。ニコの前にあるのは無数に広がる細い木々と、その隙間から差し込む春の日差しだけだ。
「でも、この中のどこかにネコヤナギはあるのですよね。とりあえず、それらしいものが見つかるまで歩いてみましょうか」
看板がなかった、というだけで戻るのはなんだか小さな子供の振る舞いのように思えて、ニコは森に分け入ることにしたのだった。
春が訪れたとはいえ、まだ葉をつけていない木も多い。だが、森と言われるだけあって、木々の数は今まで歩いてきた小道に比べれば圧倒的な量だ。十分も歩き続ければ、周囲は落ち葉と、幾重にも並び立つ木々と、点々と芽吹く緑だけが広がる光景となっていた。
「……リク、こっちの道であっていると思いますか?」
尋ねてみたものの、頼りない相棒は籠の中でお昼寝を続けていた。
「もう少しだけ歩いて、ネコヤナギが見つからなかったら引き返しましょう」
そうして更に数分歩いたところで、ニコはブーツに包まれた足を中途で止めた。丸いベリー色の瞳を大きく見開き、瞬間、言葉を失う。
「す、すごい…………!」
ようやく漏れた感嘆の声。
せっせと歩いて小道を抜けた先に広がっていた、色の洪水――お花畑がニコの言葉を一瞬奪っていた。
タンポポ、ミスミソウといった先日の課外授業で教えてもらった花の他にも、名前の知らない花が我先にと美しい姿を披露している。
背の高い黄色の花をたくさんつけたもの。まるでお辞儀をするように白い花を鈴なりにぶら下げているもの。ひょっこりと顔だけを覗かせている青紫の花の名前は、何というのだろうか。
暫し自分が何をしにきたのかも忘れて、ニコは目の前の花畑に目を奪われていた。
花々に心を攫われていたニコの意識を現実へと引き戻してくれたのは、籠の中から響いた「にゃあ」という鳴き声だ。
「そうでした。ネコヤナギはここにはないのでしょうか? ……あ、待って!」
籠からぴょこんと飛び出たリクは、花畑をずんずんと突っ切っていく。リクの後を懸命に追いかけたニコは、彼が足を止めた先にあるものを目にして、再び目を丸くした。
ニコより少しばかり高い位置まで伸びた枝の数々。その節々に、まるで木の芽のようにふわふわとした花穂が揺れている。その木の名前は。
「これ、ネコヤナギです! リク、ネコヤナギを見つけてくれたんですね……!」
あたかも、ニコが何を頼まれていたのか知っていたかのようなリクの振る舞いに、ニコは木と黒猫を何度も交互に見やる。
肝心のリクは、手頃な枝についていた、ふわふわの花穂に前足を伸ばして、じゃれつくのに夢中になっていた。
「では、少しだけいただいていきますからね」
ニコは自分の手が届く所の枝に指をかけ、いくつか細い枝を手折る。
「そういえば、どうしてお祭りにネコヤナギが必要なのでしょう? 春のお祭りには、春の初めに咲くものが必要ということでしょうか」
祭りで具体的に何が行われるのか、ニコは知らない。だが、わざわざシニッカがニコに探してくるように頼んだということは、今度の祭りは春にまつわる装飾が必要になるのだろう。
十分な量の枝を確保したニコは、その場でくるりと振り返る。枝を取っている間に、彼女には一つの考えが閃いていた。
「ねえ、リク。ここのお花も少し摘んで持ち帰るというのはどうでしょうか?」
リクはニコの声を無視して、ネコヤナギの根元で丸くなっていた。また昼寝を始めたのだろうか。
「もう、リクはマイペースなんですから」
薄情な友人は一旦放置して、ニコは手近な花に指をかける。
「きっと、お家に花があればシニッカさんも喜びますよね。それに、お祭りの飾り付けにも使えるかもしれません」
冬が厳しいこの国で育った人たちは、皆そろって春の花を見るのが好きだ。ここから持ち帰った花を飾れば、家の空気もぱっと華やぐだろう。
大ぶりの黄色い花や青い花を少し多めに摘み、小さな花はそっと二つ三つ摘み取るに留めておく。もし、森の持ち主が許してもらえるならば、今度は苗ごと持ち帰って庭に植えてもいいかもしれない。
そうして、シニッカの家の庭へと思いを馳せながら手を進めているうちに、籠は色とりどりの花とネコヤナギの枝でいっぱいになった。
「さて、そろそろ帰りましょうか。何だか雲行きが怪しくなってきましたし、雨になるかもしれませんね」
リクに呼びかけながら立ち上がったニコは、そこではたと動きを止める。
花畑を取り囲む森の緑と木々の影。際限なく続いているかのように見えるそれらは、どこを見てもまるで同じような姿にも見えていて。
「……私、どこから来たんでしたっけ」
自分がどこからやってきたのか、ニコはさっぱり分からなくなってしまっていたのだった。




