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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
幕間1の2つめ「ニコのお使いの話」
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幕間1・2-3

「ごらんなさい、奥様。あたしの言った通りになりましたでしょう。ちょっと目を離した隙に、旦那様の書斎をあんなにもいじり回しているなんて!」

「まあまあ、ベロニカ。ニコは夫の部屋が埃にまみれているのを見過ごせなかったでしょう。それよりも、今は怪我の方が心配ね。ぶつけたところを見せてちょうだい。こぶはできていない?」

 ニコの失敗を知ったベロニカは、一切の容赦なく、ニコの失敗を責め立てた。

 一方で、シニッカはベロニカを嗜め、ニコがどこか怪我をしていないかを心配していた。幸い、ニコの体には多少の打ち身はあったものの、大きな怪我は見当たらず、シニッカはほっと胸をなで下ろしていた。

 その後、ニコは初めてシニッカの部屋に呼び出され、彼女からの叱責を受けた。だが、シニッカが叱ったのは、ニコが勝手に主人の部屋に入ったことでもなければ、冊子を壊してしまったことでもなかった。

「ニコ。あなたは賢い子だから、何が危険なことなのか、自分でも分かるでしょう? 怪我をするかもしれないと予め分かっているときは、私かベロニカに相談をしてちょうだい」

「……ごめんなさい」

「我が家の掃除が行き届いていないことを、あなたはずっと気になっていたようね。ベロニカが来る前から、度々廊下を掃除していたでしょう」

 シニッカは気がついていないと思っていたが、ニコがこっそりと廊下の埃を掃き取っていたことを彼女はしっかりと目に留めていたらしい。

「そんなにも慌てて、家中を綺麗にしようと思う必要はないわ。これまでも、今の状態で上手くやっていたのですから。大掃除のときにはニコにも手伝ってもらうつもりだから、せっかくの気持ちのいい春の時間を使ってまで、お掃除に励まなくてもいいのよ」

 シニッカは、ニコが自らの自由時間を犠牲にして掃除をしてくれた、と思っているようだった。だが、ニコとしては、己の行いをそのような自己犠牲の結果などとは思っていなかった。

 しかし、ここで必死に否定をしても、シニッカに気遣ってそう言っていると思われるだけだろう。

 ひとまず掃除のことは話題から外して、ニコはもう一つ確認しなければならないことを口にする。

「シニッカさんの旦那様の本を壊してしまったこと、なんですけれど……」

 自分が壊してしまった以上、償いはしなければならない。そう思って申し出たのだが、シニッカは表紙が外れてしまった冊子を見ても、困ったような笑顔を浮かべるだけだった。

「あの人は、本好きの集まりに参加して、お友達の本を貰ってきたり、自分で詩を書いていたりもしたようなのだけれど……恥ずかしいからって、私には殆ど見せてくれなかったのよ。だから、そんなに気に病むことではないわ。私は、この本を読んだこともないのですから」

 それだけ言うと、シニッカは壊れた冊子を自分の本棚の片隅に置いてしまった。

「さて、ニコ。危ないことをしたのだから、あなたには罰を受けてもらわなければなりませんね」

 一体どんな罰なのかと身構えたものの、それはおやつの時間まで自室からは出てはならない、というものだった。

 あのような失敗をした直後では、外を駆け回りたい気分には到底なれなかったので、それはニコにとっては全く罰とはいえない内容だった。だが、ここで他の罰を求めるのもどうかと思い直し、ニコは大人しく罰を受けることにした。

「おやつの時間になったら、部屋を出ていいですよ。私はこの後、春のお祭りの集まりがあるから、お留守番をお願いね。戸棚にケーキを置いておいたから、お茶の時間に食べるといいわ。場所がわからないなら、ベロニカに聞いてちょうだい」

 シニッカがいなくなり、留守番を任されたニコはすっかり手持ち無沙汰になってしまった。

 貰ったばかりの聖典を読んだり、ほつれていたスカートの裾を繕ったり、部屋の清掃をしたりと、自分なりにやることを探してみても、どうにも気持ちが落ち着かない。

 かといって、おやつの時間を迎えた後に、さらに清掃に赴こうとも思えなかった。

 書斎での失敗は、ニコの小さな自尊心を打ち砕いていった。使用人の経験を活かして、自分なりに恩返しをするという計画は、今やすっかり不可能なものに思えていた。

(私は使用人として一人前のつもりになっていたけれど、もしかしたら、いろんな人にお目溢しをしてもらっていたのかもしれません……)

 昼半ばの鐘を聞き、ようやく部屋から出たニコは、とぼとぼと階段を降りた。

 シニッカは、話にあった通り出かけたらしい。がらんとした家にいると、自分がひどく場違いな存在に思えてきて、ますます気分が落ち込んでしまう――と、暗い想像に取り憑かれていると、

「ちょっと、あんた。部屋から出たのなら、早くこっちにいらっしゃい」

 キッチンの前の廊下を歩いている音に気がついたのだろう。出入り口の扉が開き、顔を見せたベロニカがいつもの調子で声をかけてきた。

「奥様が、あんたには熱いお茶とケーキを出すようにって、あたしに言づてを残していきなさったのよ。あんたが何も食べなかったら、あたしの責任になるのだから、きびきび食べてちょうだい」

 お茶の時間にしなさいと言っているのは分かるのだが、ベロニカの物言いはまるで「今から訓練を始める」と言い放つ軍隊の隊長のようだった。

 もっとも、今は彼女の物言いに反感を覚える気にもなれず、ニコは大人しく椅子に座る。

 湯を沸かし、刻んだクルミがたくさん入ったケーキが一切れ皿に乗せられ、ニコの前に置かれる。お茶を用意するベロニカの手際は、たしかにニコの仕事ぶりよりは何倍か洗練されているように思えた。

 けれども、もてなしの気持ちとは真逆の視線をベロニカに向けられ、さすがに落ち込んでいたニコもいくらか反骨心を復活させる。

「……今日はあれからお掃除もしていないですし、学校があるわけでもないので、そんなにお腹が空いていません。私、今はケーキを食べる気分ではないんです」

 あれだけの失敗をした後に、がつがつとケーキを食べられるような子供だと思われているのかと、ニコは内心で不貞腐れる。

「理由があってもなくても、奥様はこの時間にお茶をするのが日課なの。そして、それはあんたも同じってこと。それぐらい、あたしのいない間に奥様と過ごしていたのなら、あんたも知っているでしょう」

 まったくもって、ベロニカの言う通りだ。

 華やかなお茶会ではなくても、シニッカはこの時間にいつもお茶を淹れて、ちょっとしたお菓子をニコと食べていた。「甘いものを一日に一回は食べることは、健康の秘訣よ」と、まるで少女のようにころころと笑いながら。

「まったく、こんな意地っ張りで聞き分けのない子供を引き取るなんて、奥様の考えていることがあたしにはさっぱり分からないわ」

 用は済んだと言わんばかりに、ベロニカは踵を返す。彼女の射抜くような視線が見えなくなったおかげもあって、ニコは小さく反抗の言葉を口にする。

「……私、意地っ張りじゃないです」

 だが、耳ざといベロニカは、しっかりその声を聞き取ったらしい。

「意地っ張りじゃないって言うのなら、でしゃばりって言うのよ。頼まれてもいないのに、他人の部屋に入った挙げ句、旦那様のものを壊すなんて」

 ベロニカに正面切って非難されると、沈みきっていたはずの心が、少しだけ浮き上がるような心地がした。それは、謂わば反抗心とか対抗心と呼べるものなのだろう。あまり良くない感情とは承知の上ではあったが、おかげでニコは少しばかり食欲を取り戻せた。

(……でも、ベロニカさんの指摘は事実でもあるのですよね)

 ベロニカとしては、ニコは勝手な行動をして、雇い主を困らせてばかりいる厄介者だ。改めて、自身の不甲斐なさを噛みしめて、ニコはぎゅっと眉間に力を込める。

 ニコの葛藤など知らぬ顔で、ベロニカは地下から運んできた芋をざっと水で洗うと、手近な椅子を引き寄せて、皮剥きを始めた。

 働いている人を横目に自分だけ優雅にお茶をするのはかなり気が引けたが、ベロニカにじろりと睨まれたので、恐る恐るカップに口をつける。一口飲んだだけでも、ベロニカのお茶を淹れる腕前はこの家の誰よりも優れていると分かった。

 しばらく、気まずい沈黙に耐えながらお茶を飲み続けていると、

「あんたに一度聞かなきゃならないと思っていたことがあるんだけどね」

 唐突にそう切り出されて、ニコはお茶を飲む手を止める。

「ニコレッタ・ラヤラ。あんたは、どうして召使いの真似事をしているの?」

 その質問はニコの予想を裏切るものだった。てっきり、何か悪巧みをしているのか、と聞かれるのだろうと思っていたのに。

「奥様は、あんたを引き取って、この家で一緒に暮らすって言っていたわ。だから、奥様はあんたを娘として育てるつもりなのかと思ったの。どこの生まれかも知らない孤児を家に入れるなんて、何かあったらどうするのかと思ったけれど、どうやらあんたはそれなりに行儀や作法というものを知っているみたいね」

「は、はい。昔、お世話になった方に教えていただきました」

 これまで、ベロニカが自分を警戒していたのは、ニコがシニッカに取り入る悪人だと思っていたからではないか、とニコは考えていた。だが、ベロニカはこの数日の間で、既にニコへの考え方を少しずつ変えていたらしい。

「でも、それならどうして、あんたはあたしの仕事を横取りしようとするの。最初は、あたしをからかっているのかと思ったけれど、あんたはそういう性根の悪い性格の子供には見えなかったからね。だから、ますます不思議だったのよ」

 彼女の考えを聞いて、ニコはようやくベロニカから見た自分がどのように映っていたかを客観的に捉えられた。ニコが使用人として働いているときと、今の状況を置き換えてみれば一目瞭然だ。

(もし、私が働いていたお屋敷の坊っちゃまが、私の仕事をやってみたい、と言っても……私は、そんなことはさせられない、と遠ざけたでしょう)

 ベロニカから見れば、ニコは雇い主の保護した娘だ。当然、自分が任されている仕事――掃除や炊事をさせるわけにはいかないと思うだろう。

 わざわざ首を突っ込んできたら、自分の失敗を見つけて雇い主に告げ口するのでは、と警戒するのは自然な反応だ。まして、ニコは『得体の知れない出自不明の子供』なのだから。

 それは、今まで自分が雇われる側であり続けたニコには欠けていた視点だった。

「だから、あんたに聞いておかなきゃいけないのよ。奥様は、あんたを使用人として雇ったの?」

「いいえ、違います」

 こればかりは否定しなければと、ニコは首を横に振る。シニッカがニコを引き取ると決めてくれたときの言葉は、今でもはっきりと思い出せる。

 ――あなたさえよければ、私の友人として、この家で一緒に暮らしてもらえるかしら。ここは、一人で暮らすには少し広すぎるのよねえ。

 ――あなたみたいな小さなお友達と暮らせたら、きっととても楽しいでしょうね。

 母親代わりではなく、あくまで『友人』として手を差し伸べてくれたのは、ニコの中にまだ母の思い出があるかもしれないと、気遣ってくれたからだろう。

 ニコはそうして、シニッカの友人になり、この家の住人になった。そのことを話すと、ベロニカは怪訝そうにニコを見やり、

「それなら、あんたは奥様のご友人ってことね。さしずめ、お嬢様ってところかしらね」

「……お嬢様なんて、そんな風に扱ってもらいたいわけじゃないです」

「あんたがどう思おうと、それが立場ってものなのよ。だったら、あんたがすることは、あたしを追いかけ回すことじゃない。友達と外で遊んだり、学校に行ったり、あとはほどほどに奥様の言いつけを守って、奥様のお手伝いをするのがこの家の子供としてのあんたがすること。分かったなら、これからはあたしの仕事の邪魔をしないでちょうだい」

 ベロニカの言い分は、今ならすんなりとニコの中に収まった。

 ニコは自分の領分をベロニカに荒らされたように感じていたが、実態はその逆だった。ニコの振る舞いの方が、ベロニカの領分を荒らしてしまっていたのだ。

 けれども、そこまで理解が進んでも、ニコは「それでも」と思ってしまう理由があった。

「私はシニッカさんのおかげで、路頭に迷わずに済んだんです。その上、部屋や服や食事までいただいて……ですから、その分、何かお返しをしたいんです」

 自ら率先して召使いになろうと思っていたわけではない。シニッカが、この家の子供として引き取ってくれたのから、彼女の優しい考えは尊重したい。

 だが、今のニコがシニッカの役に立てそうなことといったら、これまで身につけてきた使用人としての仕事――すなわち、清掃や身の回りのお世話ぐらいだ。それ以外で自分がどうやって彼女の役に立てるのか、今のニコにはさっぱり想像できない。

 ニコが考え込んでいる間、ベロニカは黙々と芋の皮を剥き続けていた。やがて、ぽとりと芋の皮が落ちる音がした後、

「手が止まってるわよ。クルミは嫌い?」

「い、いいえ。そんなことはないです」

 不意にそう言われて、ニコは手元のお茶がすっかり冷めていただけでなく、配膳してもらったケーキも手付かずとなっていたったことに気がついた。

 仕事をしているベロニカの横で、のんびりとお茶をするなんて、という抵抗感はある。しかし、今のニコでは使用人ではなく、お嬢様である、らしい。

 それなら、お嬢様としての役割をこなすべきなのだろうと、ケーキにようやく口をつける。クルミの香ばしい風味も、ケーキにほんのりと漂うシロップの甘酸っぱさも、心の底から楽しめる気分ではなかったが、どうにか喉の奥に送り込めた。

 ケーキを全部食べ終えた頃、ちょうどベロニカの皮剥きも終わりを迎えていた。

「ベロニカさん。シニッカさんが何をしたら喜ぶか、ベロニカさんはご存知ではないでしょうか。私、先ほども話したように、シニッカさんへのお礼がしたいんです。シニッカさんの役に立ちたいんです」

 ケーキを食べる前に途中になってしまった会話を続ける。

 ベロニカの言う通り、ニコはもう使用人ではない。この家の新しい主人の一人として、我が物顔で闊歩していても、誰にも文句を言われない立場だ。

 だが、だからといって、シニッカから受けた恩を、当然のものとして受け止められるほどに、ニコは豪胆にはなれなかった。

「恩返しがしたいからって、一人で空回りした挙句に旦那様のものを壊していたら世話ないわね」

 ベロニカの矢のような鋭い言葉に、ニコはぐっと言葉に詰まりかける。だが、ここで食い下がるわけにはいかない。

「で、ですから……私よりもシニッカさんとの付き合いが長い、ベロニカさんに教えてほしいんです。シニッカさんが、喜んでくれそうなことって何でしょうか?」

 必死の思いで尋ねたにも拘らず、ベロニカはじろりとニコを見やり、

「それは、奥様に自分で聞いたらどう? あたしは奥様じゃないし、ついでに言うと、あんたの保護者でもない。あんたは、奥様の友人なんでしょう?」

 言うだけ言うと、ベロニカは皮を剥いた芋をとんとんとナイフで刻み始めた。

 これ以上は答えを得るのは難しそうだと、ニコは食後の祈りを小さく唱えると、そそくさと自室に向かう。

 その途中、廊下の向こうを覗くと、普段は締め切っていた旦那様の書斎が開かれていた。結果はどうあれ、掃除をしたおかげで埃が取り除かれ、外へと開かれた部屋はかつての姿を取り戻したようにも見えた。

 だが、その光景を見ても、ニコの心は晴れない。

「……誰かのために何かをするというのは、とても難しいことなんですね。ヘイノ先生」

 彼は、あんなにも自然に自分に寄り添ってくれたのに。同じことをしようと思っても、ニコはうまくできない。

 それが子供だからなのか、それとも自分の考えに何か間違いがあるのか。今のニコにはその答えを出すのも、大変な難題に思えた。

 

 

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