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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
幕間1の2つめ「ニコのお使いの話」
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幕間1・2-2

 ――隣人を平等に愛すること。

 それは、ニコが聖典から学んだ最初の言葉であった。

 だが、時にその言葉に従うのが難しい局面があるのだと、ニコはここ数日の間、何度も思い知る羽目になっていた。

 あれは、もう五日ほど前のことになるだろうか。教会の学校の皆と一緒に課外授業に赴き、存分に春の空気を満喫して帰ってきた後のことだったから、よく覚えている。

 心地よい疲労感に包まれていたニコは、玄関横のキッチンに人の気配を感じて足を止めた。

 シニッカを来訪する客人は時折見かけていたが、彼ら彼女らはきまって客間に通されている。客間ではなくキッチンにいるということは身近な知り合いだろうか。そう首を傾げていると、

「奥様、あたしは反対です。子供を一人引き取るというのは、そんなに簡単なことではないのですよ。しかも、この村の人間ですらない、どこの誰とも知れない子供なんて!」

 その声は、ニコにとって様々な意味で馴染みのある声音だった――すなわち、ニコの存在そのものを否定する、という意味で。

「どこの誰とも知れない子供ではないわ、ベロニカ。アナ司祭が、彼女の出自をちゃんと確認した上で、私にも教えてくださったのですもの」

「あたしが言いたいのは、そのような話ではないことはご存じでしょう。いったい、どこでどんな教育を受けたのかも分からない子供なんですよ。何を考えているかも知れない相手と共に暮らすなんて、大変危険なことなのですよ」

「それを言ってしまったら、どんなお客様だって招き入れることはできなくなってしまうわ。それに、行き場のない子供を引き取るのは、始祖の教えにも則った大変崇高なことだと思っていますよ」

「どうでしょうかね。あたしの知っている人は、孤児の子供を引き取ったその日のうちに、家に火をつけられて、丸焼きにされそうになったとか。この話を聞いても、まだそのように笑っていられますか?」

「ああ、そうだ。ベロニカ、あの子はね、私の家で火事が起きていることに気がついて、火を消すのを手伝ってくれたのですよ」

 今まで、何となしにその場に踏みとどまって立ち聞きをしてしまっていたニコだったが、シニッカのこの言葉には胸を鷲づかみされるような罪悪感に襲われた。

 元はといえば、ニコが粗雑な加工が施された聖石を持ったまま、シニッカの家に泥棒に行ったことが火事の原因だ。

 つまり、ニコが火事を引き起こしたと非難されてもおかしくないのに、シニッカはまるでそんなことは忘れたかのように、ニコを新たな住人として受け入れてくれている。

 それどころか、火事を食い止めた功労者のように言われるのは、ニコには耐えられなかった。

 これ以上、黙って彼女らの言葉を聞いていられず、ニコはキッチンの扉をおずおずと叩いた。

 返事の後に中へと入ると、シニッカと見知らぬ女性がニコを出迎えた。

 てっきり、客人として来ていると思った声の主は、予想外にもキッチンに立ってせっせと鍋の中身をかき回している。彼女の身なりは、かつてのニコを彷彿させる装いをしていた――つまり、質素なワンピースにくすんだ色の前掛けだ。

「あの……はじめまして。ニコレッタ・ラヤラです」

 相手が誰であれ、まずは自分から自己紹介をする。その方が心象が良くなると十一年と少しの人生で知っていたニコは、率先して己の名を名乗った。

 だが、あいにく、ストーブに鍋を載せた女性には、ニコの処世術はさして意味を成さなかったらしい。

「ニコは、ベロニカに会うのは初めてでしたね。ベロニカ、挨拶をしてくださる?」

「ベロニカ・カムよ。どうぞよろしく。あたしの家から、毎日通いで手伝いに来ているわ。ここしばらくは、母の具合が悪くてなかなか顔を出せなかったのだけれどね」

 言葉こそ自己紹介の体裁を装っていたが、そこに隠された警戒の気配に気付かないほど、ニコは鈍感ではいられなかった。

 全くよろしくされた気分ではなかったが、彼女が家事手伝いで来ているのなら、ニコにとっては謂わば先輩のようなものだ。通いの女中と引き取られた子供では微妙に立場は違うだろうが、少なくともこの家で暮らす者としてはそうだろう。

「あの、よかったらお料理のお手伝いをしましょうか」

 丁度、ベロニカが野菜の皮むきをしようとしているのを見て、おずおずと声をかける。

 しかし、ベロニカはふんと鼻を鳴らすと、ニコの頭のてっぺんからつま先まで、まじまじと無遠慮な視線を向けてから、

「あんたに手伝ってもらう必要はないわ。それよりも、さっさと手を洗ってきたら? あんた、さっき帰ってきたところでしょう」

 到底友好的とは言い難い物言いに、ニコは一瞬たじろぐ。下手に彼女を刺激するよりは、とニコは大人しく水瓶を使って手を洗った。

 その間、ニコはそっとシニッカの様子を見守っていたが、彼女は何やら興味深いものを見ているかのように、ベロニカを見やってからニコに微笑みかけるだけだった。

「ニコ、ベロニカの作る料理はとても美味しいの。夕飯もベロニカと一緒に食べられたら嬉しいのだけれど、お母様のこともあるものねえ」

「奥様、ありがたい申し出ですが、母を放っておくわけにはまいりませんので。ところで、食後の片付けは、そちらの子供にも手伝わせているのですか?」

「ええ。ニコは、とってもお皿を拭くのが上手なのですよ」

 シニッカに賞賛の言葉を聞けば、流石のベロニカも警戒心を緩めてくれるだろうか。そんなニコの淡い期待は、ベロニカの次の言葉であっけなく台無しになった。

「そうですか。でも気をつけてくださいね。そうやって調子づいて、大事な皿を割った子供をあたしは何人も知っているんですからね」

 

 出会いの時点で、これ以上良くならないだろうと思ったベロニカへの心象は、予想通り今に至るまで一度も改善の気配を見せていない。

 初めて会った日の後も、ニコは度々ベロニカと衝突していた。

 衝突といっても、正面切って喧嘩をしているわけではない。むしろ、ニコはベロニカと会うのを避けようとしていた。

 だが、生活範囲が限られているために、どうしたって彼女と顔を合わせる機会は生じてしまう。その度にベロニカから小言を言われるか、あの警戒心の籠もった鋭い視線を向けられて、ニコはすっかり苦手意識を持つようになっていた。

 シニッカのお手伝いをしているときは、流石に雇い主の前で面と向かって文句は言えないからか、彼女も口を噤んでくれる。だが、ニコが自主的に掃除をしようとしたり、料理の支度をしようとすると、すぐさまやってきては、ニコから箒や調理用ナイフを取り上げ、「あたしの領分に勝手に入るんじゃない」と叱責するのだ。

 故に、ニコが本日取り組もうとしていた客間の掃除も、真っ先にベロニカに見つかり、彼女に阻まれてしまった。

「奥様がなんと言っているかは知らなけれど、あたしはあんたに客間の掃除をさせるつもりはないからね」

 その時の彼女の目つきといったら。まるで、ニコが部屋から何か盗むつもりだろうとでも言いたげな眼差しに、ニコの心は大いに傷つけられた。

 普段なら、やることが他にあるのだからと自分を慰めて引き下がっていたが、今日ばかりは引き下がるわけにはいかない。ニコは箒を握りしめて、ベロニカへと向き直る。

「私にも、客間の掃除はできます。ベロニカさんは、もっと別の部屋の掃除をしたらどうでしょうか。汚れている部屋は、他にもあることをご存じでしょう」

 シニッカの家は広く、部屋数も多いため、ベロニカ一人では掃除の手が追いついていない。そのため、頻繁に使われる部屋以外は年に数度しか掃除をしていないとシニッカが言っていたことを、ニコはきちんと覚えていた。

 けれども、ベロニカはニコの抗弁を聞いても、聞き分けのない子供の駄々を聞いたかのように「ふん」と鼻を鳴らし、

「そうして、あんたにここを任せて、この部屋まで汚れた部屋の仲間入りをさせようってこと? 子供が、大人の仕事に首を突っ込むものじゃないわ」

 まるで五つか六つの子供の駄々を払いのけるかのような物言いに、ニコは愕然としてしまった。これまで、子供だろうがお構いなしに「仕事をしなければ給金も食事もない」と言われていたのに、今度は全く逆の理由で追い返されるとは。

 唖然としている間に、ベロニカは客間の扉をぴしゃりと閉めて、ニコを閉め出してしまった。廊下に残されたニコは、喉の奥から飛び出しかけた反論を、必死に胸の内に送り返さなければならなかった。

「落ち着くのです、ニコレッタ。これは予想できていたことではありませんか。ベロニカさんが汚れている部屋の掃除をする余裕がないのなら、私がすればいい。それだけの話です」

 できるならば、ベロニカが普段掃除をしている部屋で、同じように清掃を済ませて自分の腕前を披露したかった。そうすれば、流石の彼女自分の技術を認めただろうと思ったのだが、それが叶わないなら次善の策だ。

 もとより、今回の目的はベロニカを言い負かすことではなく、シニッカの家を綺麗にして彼女を喜ばせることにある。家中を磨き上げ、彼女の恩に報いれる人であることを示してみせよう。それこそが唯一にして最大の目標だ。

 箒と羽箒を片手に、ニコはいそいそと家の奥へと向かう。

 家の奥は、どこか冷えた空気に包まれていた。ベロニカは、時折窓を開けて空気を通す程度のことしかしていないようで、全体的にほこりっぽいという印象が強い。猫すらも、この場所は足を踏み入れていないようだ。。

「とてもやりがいのあるお部屋たちばかりですね」

 髪に埃がつかないよう、手巾としてもらっていた布を頭に巻き、長い髪の毛は三つ編みにまとめ、果敢な勇士となってニコは未開の地に足を踏み入れる。廊下に並ぶ扉を次々開き、まずは部屋の状況を確認していく。

「昔は、もっと多くの人が住んでいたのでしょうね。客室や寝室がこんなにたくさんあるのですから」

 シニッカの話では、以前は農地を開拓していた一族が、この家で寝食を共にしていたらしい。しかし、今や一族の者も各地に散らばり、残されたのはシニッカだけとのことだった。

 一通り部屋を見てまわっている間に、足元に柔らかい感触がまとわりつく。わざわざ見るまでもない、影のようにニコについてきたのは黒猫のリクだ。

「もう、リクまで私は頼りないと思っているのですか?」

 まるでベロニカの差し金のようにやってきたリクに、ニコは唇を尖らせる。もっとも、リクは丸い瞳をぱちくりとさせただけだった。

 一通り廊下に並ぶ部屋を確認したニコは、思案顔になる。思っていた以上に部屋は広く、一部屋ごとの状況も半日がかりで磨いた方が良さそうなものばかりだった。そうなると、一度に全てをやるのは現実的に難しいだろう。

「客室のお手入れは手間がかかりそうですし、今すぐ使うというわけでもなさそうですからね。そうなると、どこから手をつけましょうか」

 そうして最後に突き当たりの扉を開いたニコは、入ってすぐに目を丸くした。照明として手に持っていた燭台を、高々と掲げ、部屋全体の様子を確かめる。

「ここは……書斎、でしょうか?」

 だが、シニッカがこの部屋を使っている姿はまるで想像ができない。というのも、その部屋に置かれているものは、どう見てもシニッカの趣味と合致しなかったからだ。

 ニコを圧倒するかのような、重厚な作りの本棚。無骨な作りの物書き机に、古めかしいデザインのソファとローテーブル。帆船模型を入れたボトルを並べた両開きのキャビネット。

 それらの重々しい家具たちが、侵入者であるニコを値踏みするかのように、どっしりと待ち構えている。

 これまで見てきたどの部屋とも異なる様相に、暫し圧倒されるも、ニコはゆっくりと室内に足を踏み入れた。しめきった空間独特の重苦しい空気の裏側に、微かにパイプの煙を思わせる独特の香りが鼻の裏を刺激する。

「もしかして……ここは、お亡くなりになった旦那様の書斎、でしょうか」

 シニッカには、船乗りの夫がいたと聞いている。

 海が近いティモやパユヴェシでは、船乗りはごく一般的な仕事の一つだ。ヘイノに紹介されたマウリのように川を使った運送をしている場合もあれば、海を経由して聖都や南にある都市部に荷物を運ぶ船乗りもいる。

 シニッカの夫は後者の船乗りであり、今まで幾度も荷の輸送を手伝い、時には漁師の真似事もしていたそうだ。だが、運悪く嵐に巻き込まれた彼は、必死に無事を祈ったシニッカの願いもむなしく、二度と彼女の元には帰らなかった。

 ニコは燭台の火をそっと消してから、小さな窓を開いて部屋に日差しと空気を入れる。いくら思い出が詰まった部屋といえども、こうも閉め切ってしまっていては、部屋そのものがどんよりとした空気に支配されてしまう。

「どの家具も丁寧に使い込まれているみたいです。きっと、とても素敵な紳士だったのでしょうね。リク、あなたは旦那様のことをご存知ですか?」

 小さな相棒に尋ねてみたものの、リクはくぁっと欠伸をするだけだった。

「ただ、こんなにも部屋が埃まみれになっていたら、シニッカさんが思い出に浸るために来ても、先に肺を悪くしてしまいそうです」

 最初に掃除する部屋はここにしよう、とニコは決めた。

 シニッカにとって思い出深い部屋であるのなら、どんな客間よりも、彼女の為になる清掃になるだろう。

 さっそく、ニコは絨毯に積もった埃を箒で慎重に廊下に掃き出す。その後は、机のような主立ったところから絨毯の裏側まで、ありとあらゆるところを布巾で磨いていく。本当ならワックスや磨き粉を使いたいところだが、置いてある場所が分からないので、それは一旦保留だ。

 主人が亡くなったあと、シニッカは部屋をできるだけ当時のままにしておこうと思ったのだろうか。机に置かれたペーパーウェイトやインク壺、羽ペン、ペーパーナイフなどは全てそのままになっていた。丸めた海図と思しき図面が机上に転がるさまは、まるで今にも部屋の主人がやってきて、この無骨な椅子にどっかりと腰をおろし、パイプをくゆらせそうと思うほどだ。

「できるだけ、このままにしておいた方がいいですよね」

 埃だけを取り除こうと、縄を切るために使われたらしい無骨なナイフに手を伸ばすと、不意に「にゃあ」とリクの鳴き声が響いた。

 そのタイミングが、まるで「触るな」と言われているような気がして、ニコはベロニカと出会ったときのやり取りを思い出してしまう。

「リク、私は掃除をしているだけですよ」

 何か危険なことを企んでいるわけではないのだと、一言反論を加えてから、掃除を再開する。

 机上の埃を羽箒で丁寧にかき集めてちり取りに入れたら、今度は書棚の掃除と整理整頓だ。本棚の中には、小難しそうな革表紙の本や手製と思しき小冊子が乱雑に詰め込まれていた。

 シニッカの夫は、本を集めるのが好きでも、整理を好む人物ではなかったらしい。実は、床や家具の清掃をしていたときから、マントルピースや棚の上に置きっぱなしになっていた本をニコは見つけていた。

「さて、この本たちはどうしましょうか」

 書斎の主は、本を出したはいいものの、戻すのは億劫になり、手近な所に置いてしまう性分だったのだろう。本棚の中でも、所々空白になっている箇所が見受けられる。

 周囲を探してみると、丁度主人が使っていたと思しき階段状の踏み台が見つかった。これなら、ニコの背丈でもぎりぎり最上段まで手が届きそうだ。

「旦那様の持っている本が一目で分かるように、整理しておきましょう。今のままでは、どこに何があるかもさっぱりですものね」

 まず、本棚の本を一通り取り出し、ニコの持つ知識を総動員して、系統ごとに仕分ける。続けて、羽箒と踏み台を駆使して、本棚そのものの埃を払っていく。

「前のお屋敷で、書斎の掃除をしていた方のお手伝いをしていて良かったです。ええと、まず、大判の本を最下段に……でしたよね」

 海図や版画集と思しき大判の分厚い本を、一つずつ本棚へと入れていく。ヘイノが見せてくれたような植物図鑑も多数あり、開いてしまうとうっかり読み耽ってしまいそうになるので、慌ててニコはそれらを本棚に並ぶ書物の一員に加えた。

 中段は装丁のしっかりした小ぶりの本を入れていく。こちらは、タイトルを見る限り、小説や詩集だろうか。

 そして残った上段部分には、あぶれた本や冊子たちを入れていく。新聞の切り抜きをまとめた紙を糊で貼り合わせただけのものや、手書きのものもあったので、恐らくこれらは主人自らが作ったものかもしれない。

「シニッカさんに頼んで、これらの本を読ませてもらえないでしょうか」

 そんなことを考えながら、ニコはうんと精一杯の背伸びをする。本棚の最上段はとても高い位置にあり、ニコはお世辞にも高身長とは言い難い。

 踏み台の最上段の上で更に背伸びをして、おまけに腕を目一杯まで伸ばして、ようやく届くかどうかという高さだったのだ。

「もう少し背丈があれば、もっと楽にできましたのに……!」

 ぴんと伸ばした腕に冊子の一冊を持ち、本棚の段に入れようとした。その時。

「あ――っ」

 本棚に入れようとした冊子が、限界まで伸ばしていた手の指先からこぼれ落ちる。

 落ちようとした冊子を掴もうとした瞬間、ただでさえ背伸びをしていて不安定だったニコの重心が揺らぎ、バランスが大きく崩れる。

「わっ、そんな、待って、待って――――!!」

 一体誰に乞うているのか分からないような懇願の声と共に、視界がぐるりと反転する。

 軽い浮遊感と、どすんという鈍い音。ばたばたと、紙が辺りに散らばる軽い音。数秒遅れて、頭を打った衝撃が伝わり、頭部がじんじんと痛む。

「う、うう……無理をするものじゃありませんでした」

 体中があちこち痛むが、幸い腕の中に抱えていた冊子は無事だ。安堵の息を吐きかけたニコは、しかし次の瞬間、目を大きく見開く。

「あ、ああ……っ! そんな……っ!」

 自分が取り落としかけた冊子。それは踏み台から転倒する最中、掴み取ることができずにそのまま床に叩きつけられてしまった。

 大変古いものだったのだろう。落ちた冊子の表紙は無惨も外れ、数枚のページが本から破れたり、千切れたりして散らばっていた。

 必死にページを集めるも、既に破れたものは戻らない。頭の中が、動揺と申し訳なさで真っ白になる。

 これは、もしかしたらシニッカの夫が手ずから作ったものかもしれないのに。あるいは、彼が誰かから譲られたものなのかもしれないのに。どちらにせよ、シニッカにとっても貴重な思い出の一つだっただろうに。

 ニコのそばで、リクが何度も鳴いている。その鳴き声が、ニコには自分を責めているようにも聞こえた。

 ――ほら見てごらんなさい。言わんこっちゃないさ。

 ベロニカの辛辣な言葉が、今にも聞こえてくるようだ。彼女の背丈なら、これらの本も難なく片付けられただろう。

(私は、シニッカさんの役に立ちたかっただけなのに……。早く恩返しがしたいって、気持ちばかり前のめりになって……だから、こんな風に失敗してしまった)

 暫し呆然としていたが、やがてニコは唇にぎゅっと力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。

「……シニッカさんに、壊れた本のことを伝えないと」

 そのせいで、シニッカを失望させてしまっても、失敗を誤魔化して彼女に嘘をつくほうがずっと嫌だ。それは、自分への裏切りになってしまう。ニコは、もう二度と自分を騙すような嘘をつきたくなかった。

 だが、立ち上がりかけたニコの決意は、すぐに次なる試練に直面することとなる。

「まあ、ニコ。リクが随分と騒いでいると思ったら、これは一体どうしたの?」

 開け放したままの書斎に入ってきたのは、最もこの部屋を慈しむはずの人――シニッカだった。

 彼女の視線はニコと、倒れた踏み台と、表紙のとれた冊子へと素早く移っていく。だが、冊子の破損に気がついても、すぐにシニッカの眼差しはニコへと戻り、

「踏み台から落ちたの? まあ、大変! 頭は打ってない? どこかを挫いたり、捻ったりはしていない?」

 その言葉に、ニコは幾度目になるか分からない罪悪感に襲われる。いっそ、ベロニカが真っ先にやってきて、こっぴどく叱ってくれた方がずっと良かったのに。

 ニコはシニッカの目を真っ直ぐに見られず、項垂れながら呟く。

「……ごめんなさい、シニッカさん。私、部屋の掃除をしていて、それで……旦那様の大事な本を、壊してしまいました」

「そうみたいね。でも、今はそんなことより、あなたが怪我をしていないか心配だわ。ちょっと待っていてね。すぐに救急箱を持ってくるから」

 遠ざかる足音を耳にしながら、ニコは思う。

 シニッカの役に立とうと思って、自分の唯一役立てると思う仕事をしようとしただけなのに。シニッカに余計な心配をかけ、彼女の大事なものまで壊してしまった。

 それでも、彼女は大したことのないようにニコの身を案じてくれる。それに報いる方法が何なのか、ニコには分からない。

 報いたいのに、報わなければならないのに。

(私はこれまで沢山のものを貰ってきたのに。何一つ、あの素敵な人に返せていない)

 だが、一体何をしたらシニッカは喜ぶのか。とても単純なことのように思えて、だがそれは、今のニコにとってはとても難解な問いでもあった。

 リクがにゃあと鳴く声が聞こえる。落ち込んでいたせいか、ニコには彼の鳴き声が『仕方ない子だね』と呟いているように聞こえた。

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