幕間1・2-1
カラン、カラン。
パユヴェシ村にできたばかりの教会は、鐘の音の響き方もティモの教会とは違う。
そんなことを思いながら、ニコはぱちりと目を開く。同じ教室の子供たちの中には、いつまでも布団の中にいたいとこぼす者もいるが、ニコはそんな風に考えたことは一度もなかった。
日が出ている時間は貴重だ。冬になれば、太陽はほとんど顔を見せなくなってしまうのだから。春ならばなおのこと、漸く暖かくなった気温と太陽が顔を出す時間を無駄にはできない。
鐘が一つ鳴り始めたときには目を開いていたニコは、二つ目が鳴る前にはすでに体を起こしていた。
シニッカから自室として割り当てられた部屋は、たった数日しか過ごしていないにも拘わらず、これまで寝起きをしていたどの部屋よりもニコに馴染んでいた。
「これが、自分の部屋を持つってことなのでしょうか」
カーテンを開き、朝日をたっぷり差し込ませた部屋を眺めながら
これまで、使用人用に宛がわれた部屋は、同僚と共に使っていため、個室を持つことはニコにとって初めての経験でもあった。
小さな水差しも、少し年代物の洗面用の器も、開拓時代から使われていたと思われる傷が入った鏡台も、今のニコにとっては何もかもが愛おしい大事な『私物』だ。
その中の一つであるクローゼットを、朝の清々しい空気に後押しされるように勢いよく開く。
中には、ニコが家から持ってきたお仕着せが数着と、シニッカが倉庫から出してくれた年代ものの子供服がいくつか並んでいる。
「本当は、すぐにでも新しい服をいっぱい仕立ててあげたいんだけれどねえ。今はまだ、冬ものの生地しかないそうなのよ。春物が仕入れられる日まで、待ってもらえるかしら」
と、シニッカは大層申し訳なさそうに言っていたが、毎日違う服を着られるだけでニコとしては十分だった。
冬が長いこの国では、春が訪れたと思っていても、突然冷たい風が吹き荒れる日に見舞われる場合もある。なかなか春物の生地が用意されないのは、気まぐれな気候のせいもあるようだ。
今日のニコが選んだのは、家から持ってきた古びたお仕着せだった。幾つも繕いがあり、スカートの端は消えない汚れが染みついているが、外に出かけるわけでもない日には丁度いい。
「学校がない日は、時間を持て余しちゃいますね。皆、学校がないなら外で遊ぶか、お家の人に手伝いを頼まれるって言っていましたけれど……私なら、やっぱりお掃除でしょうか」
その時の会話を思い出し、ニコはうーんと唸ってしまう。
今日は『真ん中の日』だ。その名の通り、一週間の真ん中の日にあたる。だが、普段ならあるはずの学校はお休みとなっている。
というのも、次の日曜日は春の訪れを祝う『豊穣のお祭り』というものを開くので、教会はその準備をしなければならないのだそうだ。
(始祖さまが女神さまから授かった奇跡の宝珠を使い、大地の汚れを取り除いた、その後。初めて大地から得た恵みと共に、女神へ感謝の祈りを捧げた日が祭りの起源……でしたよね)
ニコはこれまでお祭りに本格的に参加した経験がなかった。
コスネン夫人の元で子守りをしていたときは、小さな子供たちが人混みではぐれないようにずっと気を張らねばならなかったし、その後の仕事ではお祭りの日に休みを取ることが許されなかったからだ。
「ヘイノ先生に質問されたときに、ちゃんと答えられるように、きちんと聖典を読んできませんと」
新たに家にやってきたニコに、シニッカは「何か欲しいものはある?」と聞いてくれた。ニコは迷わずに自分用の聖典を求めた。
使い古しの品でもニコとしては構わなかったが、シニッカはわざわざアナに頼んで、新品の聖典を取り寄せてくれた。それ以来、ニコはその小さな冊子が宝石でできているかのように、丁重に扱い、毎晩少しずつ一から読み直している。
お祭りや今日の予定で頭の中をいっぱいにしながらも、ニコの手足はてきぱきと朝の支度を進めている。
水差しの中身を洗面器に移し、顔を洗う。寝癖のついていた髪の毛に櫛を通す。分厚くもさらりとした着心地の寝巻きから普段着に着替えて、分厚い靴下を履く。
履き古して少しくたびれているブーツを履き、ニコは姿見を前にして自分の装いを確認した。
「うん。今日はこれでよし。これなら、お掃除にも問題ないですよね」
今日は学校がない。ということは、一日中家にいることになる。ならば、良い機会だからこれまで手つかずだった各部屋の掃除をしよう。それが、ニコが見つけた今日の予定だ。
学校の子供たちの親は、畑仕事をしていたり、動物の世話をしたりして生計を立てている。そのため、子供たちは学校のない日は皆、大体家の仕事を手伝うことが多い。
だが、シニッカは土地を人に貸してはいるものの、自らが鋤を振るうわけではない。動物も飼っておらず、卵や肉は近所の人から買っているそうだ。
そうなると、学校がない日のニコは手持ち無沙汰になってしまう。そんなわけで、今日は掃除に勤しむと決めたのである。
「前々から、シニッカさんの家を全部ぴかぴかにするって決めていましたのに、シニッカさんは『お掃除よりも、学校の勉強に時間を使いなさい』って言うばかりなんですよね」
それでも粘りに粘って、料理や裁縫の手伝いはしているが、どうにもシニッカに教えてもらうという状況になりがちで、ニコとしては何とも居心地が悪かった。
ニコにとって、シニッカは恩人であるというのに、その恩人から何か教えてもらうというのは、何ともちぐはぐな感が抜けきらないのだ。
「でも、今日は学校もありませんから。家の隅から隅までぴかぴかにしても、時間は十分にあります」
小声で気合いを入れながら、ニコは階下へと降りる。春を迎えたといっても、朝はまだしんと冷え込んでいるが、ニコは臆さずにキッチンへと足を踏み入れた。
シニッカの朝は、ニコよりも遅い。普段、彼女はニコがストーブや暖炉に火を入れて、部屋をあたためた頃に姿を見せる。
「朝は冷え切って寒くてたまらないけれど、ニコが来てからはいつも暖かいわねって、褒めてくれましたものね」
使用人として働いていた頃は、そのような感謝の言葉を与えられたことがなく、ニコは最初とても驚いてしまった。
最初の雇い主であるコスネン夫人は、子供の面倒を見るのに忙しく、ニコを労う言葉をかける余裕すらなさそうだった。
次のお屋敷では、そもそも使用人は表舞台に顔を出すものではなかったので、雇い主と対面する機会がなかった。
ゲイリーも、ニコのことを空気のように扱っていたので、一人の人間として家の者に扱われるのが随分久しぶりだったのだ。
「前に一緒にお仕事していた人が聞いたら、そんなことで浮かれるなんてはしたないって、怒られてしまいますね」
とはいえ、やはり褒められるのは嬉しい。そうやって褒められると、仕事にもますます意欲が増すというものだ。
ニコが意気揚々とキッチンのストーブに向かうと、予想外にも今日はニコを待ち伏せしているものがいた。
「まあ、リク。こんなところにいたんですか。シニッカさんの部屋にいるものと思ってました」
シニッカの飼い猫、黒猫のリクだ。先日の火事騒動では、ヘイノとニコを火元まで案内してくれた猫でもある。
リクは眠たげに大きく欠伸をすると、自分が丸くなっていたストーブから飛び降り、ニコを一暼する。そして、とん、とんと軽い足取りでキッチンに置かれた小机へと渡り、今度はそこで体を丸くした。
リクを見ていると、彼は人間の生活や言葉をわかっているのではないか、と思う場面がしばしばある。今も、ニコがストーブに火を入れて、天板が熱くなるのがわかっていたから、ニコが何か言う前に飛び退いたように見える。
「リクは賢い子ですね」
黒猫に一つ声をかけてから、ニコは灰をかけていた火種に空気を入れる。薪をいくつか入れてストーブの中で火が燃え盛り始めた頃、今度は勝手口を使って外の井戸へと水汲みに出かけた。
ヘイノたちの家には、キッチンから直接水を汲み上げるポンプや、聖石を利用した水の濾過装置があるそうだが、シニッカの古い家にはそのような便利なものはない。
ニコは毎朝、キッチンに置かれた水瓶の水を入れ替えるため、外の井戸から水を汲んできていた。
冬の朝なら冷たくて全身が凍えただろうが、今はようやく遅い春が来たところだ。木桶を使った水運びも、朝の空気を楽しむついでと思えば悪くない。
「水はこれでよし、と。次は朝ご飯でしょうか。シニッカさんが起きてくる前に準備が終わってたら、シニッカさんも喜びますよね。ね、リク」
暖かくなってきたキッチンで微睡むリクに話しかけるも、リクは瞼を持ち上げ、ゆるゆると首を横に振った。まるで「僕はそうは思いませんがね。もっとゆっくりしては?」とでも言わんばかりだ。
「もう。リクはお寝坊さんなんですから。私、猫という生き物は、もっときびきびと動くものだと思っていました」
ニコの独り言など知らぬ顔で、リクは大欠伸をしている。
リクの賛同は得られなかったが、朝ご飯に何が必要かはすでにニコの頭に入っている。地下倉庫に向かって、まずはジャムや保存していたパンを取り出そうと足を向けた矢先、勝手口の扉がガタンと音をたてる。
続いて、ゆっくりと勝手口の扉が開いた。ヘイノやアナに散々注意されたこともあり、シニッカは先日近所の者に頼んで、ようやく勝手口に小さな鍵をとりつけた。
勝手口の鍵を持っているのは、シニッカと、ニコと、あと一人。
「あら、あんた、もう起きてたの。そんなに早くに起きて、一体こんなところで何をやっていたのやら」
「……別に、ストーブに火を入れていただけです。これから、朝ご飯を作るところでした」
「そう。でも、朝ご飯を作るのはあたしの仕事。あんたは、奥様の様子を見てきなさい。ほら、行った行った」
勝手口から入ってきたのは、ブロンドの髪を乱雑に一つにまとめ、質素なワンピースを着た妙齢の女性。
彼女は、シニッカの家で雇われている、通いの女中――ベロニカだ。
ベロニカに追い立てられるようにして、ニコは廊下へと出る。だが、その顔にははっきりと不満が露わになっていた。
そばに音もなく近寄ってきたリクを抱え上げ、シニッカの部屋に向かうために階段を上りつつ、ニコは呟く。
「ベロニカさんは、私のことをまだシニッカさんに取り入る泥棒だと思われているのでしょうか」
こちらを威嚇するかのように睨付けた女性の視線を思い出し、ニコは小さくため息をついた。




