幕間1・1-4
差し込む光の眩しさに誘われるようにして、瞼を開く。
目に入ったのは馴染み深い子供部屋の天井の板目ではなく、どこかよそよそしさを覚える漆喰の天井だった。その光景に、一瞬戸惑いを覚える。
「……?」
数度の瞬き。その間に、自分の記憶と現実の光景と照らし合わせる。そうしてヨニは、自分がどこにいるのかをようやく思い出せた。
「ああ、すみません。起こしてしまいましたか」
遅れて聞こえる、自分と似ているけれども自分とは異なる声。すぐに、これまた自分そっくりの顔が視界に映り込む。
「ヘイノ……?」
「はい、そうですよ。起こすつもりはなかったんですが、足音がうるさかったでしょうか」
「……いや、そういうわけじゃないんだけど」
話をしているうちに、少しずつ自分がどうしてここにいるのかを思い出す。
そうだ。今日は、朝から具合が悪くてベッドで横になっているように言われたのだ。久しぶりにあの症状が出て、階段から落ちそうになったことまで漸く思い出せた。
子供の頃の夢を見ていたのは、久方ぶりにこんな形で休まなくてはならなかったからだろう。
一人前になったはずなのに、こんな所で躓いた自分への呆れか、罪悪感からか。はたまた、休んでいていいと言われて気が緩んだからか。
首を巡らすと、すっかり空高く昇り、やや傾きつつある太陽が部屋に光を投げ込んでいた。この角度から察するに、もう授業は終わった頃だろうか。
「ヘイノ、今日の授業は一人で大丈夫だったの?」
「目が覚めて、一番に言うことがそれですか? それよりも、意識がはっきりしているのなら、今のヨニの体調を教えてもらえないでしょうか」
仕事熱心な様子に呆れたのか、ヘイノが苦笑いを見せる。
彼の言うことも、もっともだと、ヨニは寝返りを打ち、そこで気がつく。ヘイノの傍らで、そわそわとヨニの様子を伺っている一人の少女の姿に。
「あれ、ニコも来てくれたの?」
「あ、はい。あの、お邪魔してます。教室の皆に、代表でお見舞いに行ってほしいって頼まれたんです」
「ヨニの具合が悪くならないように、誰か一人だけに絞るって言ったら、誰が行くかでまた大騒ぎになってしまって。結局、ニコが推薦されたんですよ」
そのときの騒ぎを思い出して、ヘイノは笑い声をもらす。誰もが『先生』の家に行きたがったが、流石に全員を迎えられるほどの広さはない。
議論は紛糾し、最終的にアウリが「お家を訪問する権利は、ニコに譲るべきですわ!」と大声で言ったことにより、決まりとなった。そのとき、ニコの顔が赤くなった理由を幸いヘイノが知ることはなかった。
「なんだか、随分と心配かけちゃったみたいだなあ。もうすっかり良くなったのに。寝過ぎたせいで、妙に目が冴えちゃったぐらいだよ」
ヘイノへの返答も兼ねて、ヨニは自分の体調を二人に伝える。ついでに上体を起こすと、すかさずヘイノが椅子のクッションを背に挟んでくれた。
寝込んでいたとはいえ、寝巻きという私的な姿でニコに相対するのは幾らか照れ臭い。とはいえ、ニコの方はまるで気にしていないようだった。
「貧血だと言っていましたよね。今はどうでしょうか。頭がふらふらする感じとか、血の気が引くような感じはしますか?」
「体を起こしても、だるいって感じはないから、もう大丈夫なんじゃないかな?」
ほら、とヨニはひらひらと手を振ってみせる。それでも、ヘイノは顔に症状が書かれているかのように、まじまじと弟の顔を凝視していたが、やがて納得を得たのだろう。安堵とわかる小さな吐息を吐き出していた。
「それでも、今日は一日休んでおいてくださいね」
「正直なこと言うと、寝てるのにも飽きてきたんだけど」
「駄目です。これは俺だけじゃなくて、アナさんの意見でもあるんですから」
現在の保護者兼師匠の名前を出されては、ヨニとしても逆らうわけにはいかない。降参と口で言う代わりに、ヨニは両手を緩く持ち上げた。
「それで、今日の教室はどうだったの? 小さい子たちの面倒を見るのって、結構大変だったんじゃない?」
「まあ、それなりには。でも、皆、素直ないい子たちばかりでしたよ。それに、ほら」
ヘイノに目顔で促されて、おずおずとニコが前に進み出る。
以前は寒さで震え上がっていた彼女の肩には、暖かそうな毛糸のケープがかけられていた。サイズが合っていないので、これはきっとシニッカのものだろう。
「あの、ヨニ先生。私たち、先生宛にお見舞いの手紙を書いたんです」
「えっ、俺宛に?」
「はい。先生が具合が悪いって聞いて、皆心配していました。そのとき、ヘイノ先生が『今日の授業は、ヨニ先生にお見舞いの手紙を書くことです』って言ったんです」
今日の授業の様子を話しながら、ニコは籠に入った紙束をヨニへと差し出す。
手紙の用紙こそ、普段から授業でも用いているものの流用だが、そこに綴られた言葉は確かにヨニに向けられたものだった。
きちんと整理された文字で書いているのは、最年長のペトリが書いたものか。柔ら坂の残る癖字は、ニコのものに違いない。
一方、文字そのものが踊っているような筆跡はヨンナやテームたちだ。アウリの手紙は、もったいぶった仰々しい言い回しが多数登場してきて、書いている本人の顔が見えるようである。
「見てよ、ヘイノ。テームの手紙にさ、『外に遊びに行く日は、狐の巣穴を見に行きたいです』ってあるよ。どうやら、俺たちは巣穴探しの準備もしないといけないみたいだ」
「テームは、前々から動物に興味があるみたいですからね。でも、あんなに騒がしくしていたら、狐のほうが逃げてしまいそうです」
「だろうね。こっちの手紙を書いたのはアウリかな。また皆で市場に行きたいってさ。この前の買い物が気に入ったみたいだ」
春になれば、気温も上がる。港に入る船の数も増え、その分、市場も活気が増していくだろう。
聖石の不良品を販売した騒動があった後ではあるが、ヨニとしてもあの日の楽しいひと時をもう一度、と思う気持ちはあった。
「こっちのは……手紙? いや、絵を描いてくれたのかな?」
「ええ。サンニは絵を描いてくれたんです。トナカイを描いてくれたみたいですよ。文字が書けない子の分は、俺が代筆しました」
紙いっぱいに描かれた大きなトナカイがあるかと思いきや、まるで豆のように小さなトナカイも一緒に描かれている。ユルヨ渾身の作であるインクで描かれた花が一面に咲いた手紙もあった。
ヘイノは年少の子供たちと接する機会が少なく、名前がすぐに思い出せなかったが、ヨニにはどれが誰の絵かすぐにわかった。一通りの手紙に目を通し終えてから、
「こんなにも心配かけたなら、明日は元気な姿を見せないとね」
「無事に回復したなら、そうしてあげてください。皆、ヨニがいないと物足りないみたいでしたから」
ニコの方を見やると、彼女も首を縦に振っていた。
「小さい子たちは、ヨニ先生のお話をとても楽しみにしてましたよ。それに、いつになったら外の授業が始まるのかなって、そんな話もしていました」
「それなら、近いうちに皆を連れてピクニックにでも行こうかな。ヘイノも俺も、この辺りにどんな場所があるのか、よく知らなくってさ。前準備は入念にしておかないとね」
ヨニがアナの元を訪れたのは、まだ深い雪と冬の闇に包まれていた頃だった。
雪は、その土地の景色を一変させてしまう。とりわけ、深い雪の下に何が隠れているかわからないという状態は危険だ。うっかり沼地や池に踏み出して転落しようものなら命取りになるので、ヨニもヘイノも付近の探索は後回しにしていた。
それから三人は、せっかく課外授業の話が出たついでに、どの辺りに向かうかを暫し語り合った。
パユヴェシ村には、ほうぼうにちょっとした森林地帯や草地がある。ティモから伸びている川もパユヴェシ村を通っている。子供たちの遊び場になりそうな場所という意味では、場所を選ぶ必要はないだろう。
だが、自由奔放に駆け回る彼らを一望でき、且つそこまで危険ではない場所となると、候補は絞られていく。
最終的に、ティモに向かう道中にある小さな丘陵地帯か、シニッカの家のほど近くにある森林地帯が候補として残った。
池や湖に行きたいとも手紙にはあったが、気温が上がって薄い氷が張っているだけとなった水場はまだ危険だろうという結論になった。
そうして話しているうちに、ヨニの部屋に差し込む日差しはすっかり陰り、部屋そのものも夜の影を纏い始めた。
「もうこんな時間になってしまいましたか。じゃあ、俺はニコをシニッカさんの家に送って行きます。帰ってから夕飯を作るので、ヨニは休んでいてくださいね」
「はいはい。わかってるよ」
まるで母親のような小言だとこぼすと、ヘイノが不満げに眉を寄せるのが見えた。それ以上は後にしようと思ったのか、ヘイノはヨニの部屋を後にする。
ニコも、一礼をしてからすぐに彼の後を追おうとしたが、
「あ、ニコ。ちょっとだけいい?」
ヨニに呼び止められ、振り返る。ヘイノに何か伝えそびれたことでもあるのだろうかと、駆け足で近づいてきた彼女に、
「……実はこの前から、言おうと思ってたんだけどさ」
ヨニにしては珍しく、やや歯切れの悪い調子の切り出し方に、ニコが静かに続きを待った。やがて、ヨニはゆっくりとニコに視線を合わせ、
「俺のほうがヘイノよりも早くニコに会ってたのに、今まで何もしてあげられなくて、ごめん」
そこまで言い切って、ヨニはニコへと頭を下げた。
「こんなこと、今更聞かされてもって思うだろうけどさ。……ニコが、他の子よりも大変な状況に置かれているんだろうなってことは、薄々気がついていた。でも、俺はヘイノみたいに、ニコに事情に踏み込むようなことはしなかった」
寒さに震える子供を目にしたところで、自分にできることなど何もない。中途半端な形で手を差し伸べるよりは、現状を黙って見送っているべきだ。その方がニコだっていいだろう。横から、何も知らない奴があれこれ口を挟むよりは、ずっと。
そんな風に自分を納得させる理屈を並べ立てて、何かするべきではと迷う己自身を納得させてしまった。
「だから……ごめん。君が困っていたのに、見ないふりをしていて」
アナもヘイノも、ヨニは現実的な考えの持ち主だと言う。それこそが賢い振る舞いだと認めてくれる。
(でも、何もしないでいることが正解だって言うなら、今こうしてニコがシニッカさんに保護されてるのは間違ってるってことになるじゃないか。……そんなのは、やっぱりおかしい)
心のどこかで、自分の賢さとやらが何に対して目を瞑った結果、生まれたものか分かっていたのに。
それでも、ヨニはヘイノのように踏み出せなかった。結局できたのは、ヘイノの背中を押すことと、今こうして、自分の至らなさを本人に謝ることだけだ。
ニコの微かな息遣いが、部屋の隅々にまで響く。暫しの静寂は、室内にいるのにやけに冷えきって感じられた。
やがて、こつ、と小さな靴音が響く。
「頭をあげてください、ヨニ先生」
促されて、ようやくヨニは頭をもたげて、ニコの顔を直視する。以前会ったときよりは少しは血色の良くなった顔が、ベリー色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
「……私が初めてパユヴェシ村の教会に行こうと思ったのは、そこで子供たちに勉強を教えている司祭様がいるって、近所の人が話しているのを聞いたからなんです」
なぜ、そんなことを今語り出すのか。ヨニには見当もつかなかったが、ひとまずニコの言葉の続きを待った。
「司祭様は、子供たちと同じくらい元気で明るい方だと聞いていました。私の知る司祭様はそのような方ではなかったので、どんな人なのか気になって、見に行ったんです」
まだ、ゲイリーが悪事に手を貸す前だったので、貧しくはあってもニコにはいくらかの時間の余裕があった。
ティモからパユヴェシまで、大人でも一時間はかかる距離を歩き続け、たどり着いたその場所で、ニコは目にした。一人の少年司祭と、彼の周りに集まっている子供たちの姿を。
「ちょうど、私が教会にたどり着いたとき、ヨニ先生は、子供たちとおしゃべりしながら、見送りをしていたんです。私よりも年上の方で、しかも司祭様なのに、以前お会いしたことがある司祭様よりずっと親しげで、楽しそうで」
すでに夕べを迎えて辺りは薄暗くなっていたのに、そこだけまるで灯りが灯ったかのようにくっきりと、鮮やかに輝いて見えた。
そこに混ざってみたら、どれだけ楽しいだろう。そう思うと同時に、ニコは二の足を踏んでしまった。
一介の使用人として育ってきた自分が、司祭様とあんな風に子供らしくはしゃいで、遊んで、ふざけ合うようなことができるのか。自分は、それを許される立場にいるのかと。
「……あのとき、私は気後れしてしまっていたんです」
あの輝きの一欠片に、自分も加えてくれないか。それを言い出すのは、ニコにとってはどんな苦難よりも遙かに険しい難題に思えた。
躊躇に躊躇を重ねて、足踏みをしていたニコ。そこに、彼がやってきた。
「覚えていますか。そのとき、ヨニ先生はこう言ったんですよ」
――そこで何してるの? よかったら、こっちにおいでよ。
何を気負うでもなく、ごく自然に、まるで十年来の友人に話しかけるかのように。
こちらの心配を溶かすような笑顔と声に誘われるようにして、ニコはその場所へと一歩を踏み出した。
名前を聞かれ、自己紹介をしているうちに、他の子供たちに囲まれていた。教室の決まりを教えてもらう頃には、ニコはすっかりあの教室の一員になっていた。
「あのとき、ヨニ先生が声をかけてくれたから、私はヘイノ先生にも出会えたんです。見ないふりどころか、ヨニ先生が私を見つけてくれたんですよ」
「……そう、だったかな」
ヨニも、ニコと初めて会ったときのことは覚えている。子供たちの輪に加わっていいものかと、遠巻きに見ている彼女を目にして、すぐに声をかけたことも。
教会で始めた教室は、最初から今のような形だったわけではない。後から、噂を聞きつけてやってくる子供たちもいて、そんな子供たちを見つけては教室へと案内するのがヨニの役目でもあった。
だから、ニコに言われても、自分がそんなに大層なことをしたつもりはない、と思ったのが正直なところだ。
だが、それでも、ニコはヨニの当たり前を、とても嬉しそうに語っていた。
(それを否定するのは、それこそ間違いってものだよね)
ヨニはニコの言葉に促されるようにして、小さな笑みを返した。
「じゃあ、そういうことにしておく。でも、困ったことがあったら、今度はちゃんとヘイノにも、アナさんにも言うんだよ」
「はい。それに、もちろんヨニ先生にも」
「俺、そんなに頼りになるかな?」
「とっても頼りにしてますよ。私も、他の皆も」
そこまで話したとき、ちょうど廊下から「ニコ、まだ話をしているんですか?」と、ヘイノがニコを呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあ、そろそろ帰りますね。お大事にしてください、ヨニ先生」
「うん。明日には、いつもみたいに元気な俺の姿を見せに行くよ」
ひらひらと手を振り、部屋を出ていくニコを見送る。彼女の姿がすっかり見えなくなってから、ヨニは細く、そして長い息を吐き出した。
日差しが消えたせいで、冷え始めた部屋の外気から逃れるように、寝台の中に潜り込む。
「……俺は、そんなに優しい人間じゃないと思うんだけどな」
自分がどんな人間かは、自分自身がよく知っている。
物事を客観的に捉えて損得を考えて行動する、と言えば聞こえはいい。だが、結局のところ、ヨニは自分の身内が巻き込まれているならいざ知らず、その外側で何かが起きていても見ないふりをできてしまう。そんな人間だと、自負している。
今回の件だって、ニコを助けようとしているのがヘイノでなければ、ヨニは積極的に手を貸そうとはしなかっただろう。
「あいつは、迷わないんだろうな。困っている人を見ていたら放っておけない性分だって、自分で言っていたし」
そういう人をこそ、優しい人と称するべきなのだろう。
もっとも、ヘイノはそんな風に賞賛の言葉を受けたら、すぐさま謙遜の姿勢を見せるだろう。ニコだけでなく、ヨニにまで誉めそやされて戸惑うヘイノの姿を想像して、ヨニは布団の奥で小さく笑みを浮かべる。
「……まあ、でも、あいつがそういう奴だって言うのなら、あいつが無鉄砲に突っ走りすぎて、怪我をしないようにするのが俺のこれからの役目ってところかな」
奇しくも、それはアナが自分に託した役目と同じでもあった。
ヘイノが一人で無茶をして、困ったことにならないようにする。あるいは。
「ああいう直情型の優しい人を騙して利用しようとするやつを、牽制するとか? なんだか、始祖とその弟子たちみたいだなあ」
聖典に記された始祖は、どんな人間であろうと救済を求められたら捨ておくことができない女性だったという。
そんな彼女を支え、時に彼女の優しさにつけ込む悪辣な人間を牽制していたのは、彼女の補佐をしていた弟子たち――とりわけ、始祖がこの国に渡るときから仕えていた一番弟子だったそうだ。
「とはいえ、ヘイノには程々にしてもらいたいけどね。俺だって、万能なわけじゃないんだから――……」
独り言をこぼしているうちに、少しずつ眠気が再び体を包み始める。すっかり熱を取り戻した体を抱えるようにして、ヨニは本日何度目になるかわからない眠りの海を揺蕩い始めた。




