一章・十八話
暖炉の薪の爆ぜる音と、長年日差しを浴びてくすんだ色味となったカーテンの隙間から差し込む夕暮れ時の日差し。
客間の机に並ぶティーセットは、少し古めかしさはあるものの持ち主と同じく素朴な暖かさに満ちている。
絵に描いたような温もりに満ちた空間の中、その空気とは裏腹に、ヘイノはどこか落ち着かない様子でソファに浅く座っていた。
出された紅茶に手を伸ばしてはみるものの、その視線は紅茶ではなく出入り口の扉に向けられている。指が持ち手を素通りしていると気がつき、居住まいを正すものの、数分後にはまた同じことを繰り返していた。
「ヘイノ。あなたが焦っていてもどうしようもないわよ」
「それは分かっていますが、二人がどんな話をしているのか気になってしまって」
「話をしたがったのはシニッカさんの方なのだから、ニコを悪いように扱わないことくらいは想像できるでしょう」
端的に、かつ至極もっともなことをアナから言われて、ヘイノはようやく視線を扉から手元の紅茶へと戻した。
ゲイリーの事件があった、その三日後。約束通り、アナはニコはシニッカの家へと連れてきていた。期間が空いてしまったのは、状況が落ち着くまでにそれだけの日数が必要だったからだ。
事件が起きた翌日は、当日に負けず劣らず忙しない一日となった。
アナもヘイノたちも、そして当事者であるニコも、事情を話すために再度ティモに行かねばならなかった。その後も、度々ティモの司祭から呼び出しを受けたり、ニコの荷物を家から回収しに行ったりと、気がつけば一日が過ぎているという有り様だった。
どうにか授業のための時間は確保していたものの、ニコとシニッカの対面は今日まで持ち越されたのである。
今、ニコはシニッカと二人きりで話をしている。ヘイノたちは、客間に通されて彼女らの話が終わるのを待っていた。
「昨日は、ニコの家に行っていたのよね。鍵は教会の方に返しておいた?」
「はい。ゲイリーさんは、まだ教会にいるようでしたから」
「なら、彼がなぜ窃盗に手を出したのかは教えてもらったのかしら」
ヘイノはふるふると首を横に振る。あの後、ニコの告発により窃盗の罪が明らかになったゲイリーは、一度も家に帰っていないようだった。近所の人々の話から、そのことだけは知っていたが、ヘイノは彼の詳しい動機までは聞かされていなかった。
「アナさんは教えてもらったのですか?」
「ええ、一通りは。聞いておきたい?」
アナの質問に、ヘイノは一瞬迷う。
単純な好奇心として知りたい気持ちはある。だが、そのような興味本位で他人の内情を暴いてもいいのだろうか。
ただでさえ、ヘイノはゲイリーに対して良い感情は持っていなかった。だというのに、脅威が去った瞬間、手のひらを返したかのように「知りたい」と願うのは勝手ではないか。
そんなヘイノの躊躇いを読み取ったかのように、アナは続ける。
「もし聞いたとしても、あなたなら大勢に触れ回るようなことはしないでしょう」
「ですが、知りたいと思うのは今更ではありませんか?」
「何かを知るのに遅すぎるということはないわ。ゲイリーさんは、亡くなったわけでもないのだから」
アナの物言いはやや極端ではあるが、事実でもある。
ヘイノは今も、ゲイリーの振る舞いを認めたわけではない。だが、アナの言うように、何も知らないままでいるのも正しいとも思えず、結局小さく頷いていた。
「ゲイリーさんは、故郷のティモを出てから暫くの間は、ここよりもずっと南の方にある港街で暮らしていたそうよ。そこでは、渡し船の船守として暮らしていたとか」
「だから、今も荷運びの仕事をしていたんですね」
ティモもまた港町にほど近い町だ。馬車を使った運送よりも、海までつながる川を使って、一度に大量に荷物を運ぶやり方が一般的とされている。
「ただ、当時のゲイリーさんには、少々問題のあるご友人がいたそうでね。その人に誘われて、賭け事に手を出してしまったそうよ」
賭け事は危険な遊戯だ、とアナは補足する。
人間は誰しも、大きな勝利に酔いしれやすい。賭け事は、最も手っ取り早くその酔いを知れるがために、一度嵌まると抜けられなくなる者も多い。
最初は遊びとして少額だった賭け金が、その日の食事代になり、やがて家賃にまで手が伸びるのに大して時間はかからなかったそうだ。
負けを取り戻そうと借金を重ね、少し勝ってはまた派手に負ける。そのような繰り返しの末、ついに借金で首が回らなくなったゲイリーは取り立て人から逃げるように街を離れた。
「実質、踏み倒したというわけね。こういうのを、夜逃げと言うのだったかしら」
「ですが、すでに彼のご両親は亡くなっていたのでは?」
「ええ。とはいえ、彼にとってはご両親が遺した遺産も家も、十分な財産よ。それを頼りに戻ってきた節もあったみたい。何より、小さい頃に過ごしていた家なのだから、そこが彼にとってはもっとも安心できる場所だったのでしょう」
借金のことも忘れ、彼は暫く両親の遺産を使って故郷で遊び歩いていた。極限の緊張状態から解放された反動もあったのだろう。
見かねた教会の司祭――ゲイリーの調査に協力してくれたセヴェリ司祭が、彼に仕事を与えるようにマウリの親方に依頼したのも、この頃だったそうだ。
「ただ、取り立て人も馬鹿ではないから、ゲイリーさんを探していたようよ。そして、ゲイリーさんが港の酒場を訪れたとき、ついに彼らと出会ってしまったというわけ」
だが、ゲイリーには借金を全額返せるほどの金はない。それを正直に話し、現在の生活がどのようなものかを伝えたところ、彼らはある要求をゲイリーに突きつけた。
「――それが、職場で運搬しているお酒をひそかに盗んでくることだった」
「でも、なぜお酒なのでしょう。借金が返せないのなら、お金を盗んでこい、と言うべきではありませんか?」
支払えないのなら、他所から盗んでこいと言われるのならまだしも、酒類では換金のための不要な手間が生まれてしまうのではないか。
ヘイノが不思議そうに尋ねると、アナは瞼を閉ざし、思案の様子を見せている。彼女の中ですでに答えはあるのだろうが、それを話して聞かせるべきかを悩んでいるのだろう。
「ヘイノ。あなたは、お酒の販売には教会からの許可が必要ということは知ってる?」
ヘイノが首を横に振ると、アナは「いい機会だから教えておくわね」と続けた。
「お酒を造るのにも、売るのにも、教会が出している許可証がいるの。厳密な審査を受けて、扱う量や品質を確認して……その上で、お金を支払って許可証を発行してもらい、初めて商売としてお酒を扱える」
手製のベリー酒を近所でやり取りするぐらいなら目溢しされているが、店舗の形態をとるものは、大体が審査の対象となる。醸造所も同じだとアナは言う。
「色々と手続きも多いし、許可証を毎年更新する必要があるから、お酒を扱う商売は何かと費用がかかる。その手数料の分だけ、実際に売られるお酒の値段も割高になりがちね」
話について来られているか確認するためだろう、アナはそこで言葉を一度止める。
ヘイノには商売に関する記憶はもちろん、知識も最低限のものしかない。どこかから物を仕入れて、仕入れ値や利益を足した値段が売値になると漠然と思っていたが、ことはそう単純ではないらしい。
「ええと……つまり、様々な手続きが挟まる分、お酒は高額になりやすいってことですよね。ということは、ゲイリーさんを唆した人は、盗まれたお酒をどこかに売っている……?」
盗んできたのなら、仕入れ値はかからない。アナの言うような、お酒の販売の許可もとっていないなら、当然その分の手数料は必要ない。
そして、大抵の人間は通常より遙かに安く売られている品があるなら、そちらに目移りしてしまう。たとえ、違法のものであっても、知らなければ分かりようがない。
「そういうこと。しかも、今回盗まれたお酒は輸入品だから、多少高値でも売れるでしょう。もちろん、法には触れるわけではあるのだけれど、それを気にするような人たちではないのでしょうね。売る方も、買う方も」
つまり、借金という大きな弱みを握られたゲイリーは、密売の片棒を担がされたというわけだ。
本人の身から出た錆ではあるが、ゲイリー自身はあくまで無理やり従わされた側である。あの焦燥の様子からも、取り立て人たちはただの商売人ではないのだろう。
借金を返済しきったところで、今度は密売に手を出した弱みにつけ込み、更なる要求を重ねるつもりだったのかもしれない。
「最初は一本や二本程度という話だったのに、徐々に本数の要求が少しずつ増えてきていたそうよ。直近では、一箱丸ごと……なんて話も出ていたそうね」
「そんな、無茶苦茶です」
「ええ。でも、実際に盗まれた本数を数えたら、一箱分ぐらいにはなりそうという話よ。そのうち、本当に荷物をまるごと盗むことになっていたかもしれないわね」
事の次第を一通り説明されて、ヘイノは暫く言葉をなくしていた。借金の取り立てまではかろうじて理解が追いついていたが、酒の密売に至ったあたりで、彼の理解は限界を迎えていた。
理屈としては納得できても、なぜそのようなことを、とどうしても思ってしまう。正々堂々と商いをする道があるのに、わざわざそこから外れようとするのは何故なのか。
(そんな風に考えてしまうのは、俺が子供だからなんだろうか……)
もし、ここにヨニがいたら意見を聞いてみたいところだったが、学校の後片付けのために彼は教会に残っている。
「それで、ゲイリーさんはどうなってしまうのでしょうか。借金もまだ返しきれていないでしょうし、盗品の件もありますし……」
「借金については、貸した側が請求書を教会に持ち込んでくれれば、正式に話し合いもできるでしょう。とはいえ、密売を持ちかけるような者たちが、そんな正規の手続きをとるとは思えないけれど」
もしそのつもりなら、彼らはとうの昔に教会に駆け込んでいただろう。ならば、結果的に教会にいる間は、ゲイリーは取り立て人たちから逃げられるということになる。
「盗品については、カッリさんや組合の方に弁償を求められているそうね。ただ、ゲイリーさんの事情が事情だから、暫く交渉は長引きそうと聞いているわ。セヴェリ司祭が間に入っているそうだから、一方的に糾弾されるとはならないでしょう」
それを聞いて、ヘイノは少しばかりの安堵を覚えている自分に気がついた。
ゲイリーにまるで落ち度がない、とまでは言いたくないが、それでも彼の切羽詰まった様子を目にして、自身の選択に幾らかの不安を覚えたのも事実だ。
ヘイノでは到底扱いきれない内容も適切に対応してもらえるのなら、それに越したことはない。
「……つくづく、自分だけではどうにもならないことだったなって、今はそう思います」
話が一段落して、つい、ヘイノの口からそんな感想が溢れでる。
「そうね。意外と、一人の人間ができることは少ないわ」
至極当然のことではあれど、ヘイノにはようやく実感できた現実でもあった。
記憶を失い、孤軍奮闘しなければならなかったという気負いが、結果的に誰かに積極的に頼ろうという気持ちを抑えていたのかもしれない。
「ただ、一人の人間が世界を変えることもある。始祖がそうであったようにね」
自省の深みにはまりかけていたヘイノに、アナの言葉は一筋の風のように彼の心を通り過ぎていった。
「一人でやらなければ、という自立の気持ちは買うけれども、今はまだ程々にしておきなさい。そのうち、嫌でも一人でやらなければならないことが増えていくでしょうから」
「……はい。今は、アナさんたちを頼らせてもらいます」
生真面目な優等生らしい返答に、アナは小さく頷きだけを返す。
ヘイノもニコも、自分の力で何もかもを成し遂げようとする傾向がある。自分の行い全ての責任を己一人で背負い込もうとするところも、彼らはよく似ている。
(そういうところがそっくりだから――だから、ヘイノはニコを放っておけなかったのかもしれないわね)
一人で背負いこむことが決して楽ではないと知っている。
そんな人間だからこそ、意識的か無意識的かは分からないものの、弱音を吐かない人が押し隠した本音を、直感で読み取れたのかもしれない。
似ているからこそ共感し得るものがあり、それ故に誰よりも早く手を差し伸べたいと思えた。ヘイノがニコを気にかけた理由はそんなところではないか、とアナは心の中で結論を出す。
「そういえば、ヘイノ。ニコの荷物はここに持ってきてくれているのよね?」
重苦しい話題を払拭するため、アナはより直近の現実的な話題に切り替える。
「あ、はい。昨日取りに行ったものを、そのまま運んできました。近所の人たちからあれこれ聞かれて、大変でしたよ」
あのままニコがあの家に残ったとしても、とても落ち着いて過ごせはしなかっただろうと、ヘイノは苦笑する。
「そんなにも、今回の件がご近所に知れ渡ってしまっていたの?」
「ええ。そもそも、ゲイリーさんとのやり取りは、かなり周囲に響いていましたから」
よほど強く風が吹いたのか、彼とニコのやりとりは数軒離れた先にまで轟いていたと後から教えられた。ヘイノ自身、目の前でやりとりをしているのではと錯覚するほどの声の響き具合に驚かされた。
単なる風の悪戯でそこまで音が響くものだろうかと思いもしたが、実際に自分の耳が聞いたのだから否定のしようがない。
「悪いことをしていたから女神様が罰として、彼の悪事を皆に伝えた……と、今はそんなふうに噂になっていましたね」
「……そう。なら、暫くはニコもそこには近づかない方がいいでしょう」
無難な返事をしながらも、アナはどこか上の空に見えた。ひとまずの決着が見えて、ようやく本来の仕事を考える余裕が出てきたのかもしれない。
ヘイノはそれ以上言葉を交わさず、漸く紅茶を喉の奥に流し込んだ。
話が一区切りして、程なくして。
ヘイノの心配が頂点に達する前に、彼らのいる客間の扉が開いた。姿を見せたのは、家の主人であるシニッカと、彼女の背中に隠れるようにして佇んでいるニコだ。
「お二人とも、せっかく来てくださったのに放ったらかしにしていてごめんなさいね」
「いいえ、元よりそのつもりでしたから」
簡単な挨拶を改めて交わしてから、シニッカは自分の後ろに控えているニコの背中をそっと押す。
「お二人とも。いい機会ですから、私の家の新しい住人を紹介させてくださる?」
まるで一同が初対面であるかのような、シニッカの畏まった物言い。
だが、彼女がそうした意図はすぐにわかった。
「彼女の名前はニコレッタ・ラヤラ。今日から、私と一緒に暮らしてくれる女の子よ」
家に忍び込んだ泥棒としてではなく。あるいは、新たに雇った使用人としてでもなく。
同じ屋根の下で暮らす友人として、シニッカはニコという少女を受け入れた。
それを示すかのように、シニッカはニコの肩に手を置いて、二人へと優雅に微笑んで見せていた。
***
生きていれば悲しいこともあるし、良いこともある。優しい人もいれば、意地悪な人もいる。
十一年と少しの時を生きてきたニコでも、それくらいのことは知っている。
身寄りのない自分を引き取ってくれた人は、総じて優しい人だとニコは思っていた。
だが、世の中には、優しいという言葉だけでは済ませられないくらい、とびきり優しくて、誰かのための苦労を笑顔で背負い込める人がいるのだ。ニコは、すでにここ数日でそんな人と二人出会っていた。
その一人は今、階下でアナと話をしている。そしてもう一人は、ニコの隣に腰掛けて、持ってきてくれたニコの荷物を広げてくれている。
「……今でもちょっと信じられないです。だって、私、あの方……シニッカさんの家のものを盗んだって話したのに」
「俺も、正直なところ少し驚いています。シニッカさんは、盗みに入った子供のことを大層気にかけてはいましたが、まさか、ニコを引き取ってくれるとまでは思っていませんでした」
シニッカの紹介が改めて終わった後、ヘイノは新たにニコへと割り当てられた部屋の掃除と片付けを手伝っていた。
何せ、この家は広い割には、日常的に使っている部屋以外が殆ど手をつけられておらず、倉庫同然となっていた。使用人として働いた経験のあるニコとしては、この過分な親切へのお礼として必ず家中をピカピカにしようと決意していた。
「ヘイノ先生がシニッカさんに頼んでくれたのではないんですか?」
「考えなかったわけではありません。ですが、流石に遠慮してしまったんです。シニッカさんは俺よりも何十歳も年上の方ですし、彼女の家の詳しい事情までは俺も知りませんでしたから」
ならば、誰が頼んでくれたのか。その答えは、ヘイノにもニコにも、もう分かっていた。
階下にいる司祭の女性は、ニコの境遇とこの先起こりうることをシニッカに伝え、保護者になってくれないかと頼んでくれたのだろう。そして、シニッカはニコの事情を聞いたうえで、二つ返事で引き受けてくれたのだ。
「……シニッカさんも、ヘイノ先生と同じでした」
不意にそのようなことを言われて、ヘイノは小さく瞬きをする。
「私が何かを盗んだことより、そんな状況に置かれていたことの方が間違いだったんだって、そう言ってくれました。でも、私は……あの方が私を怒ってくれた方が良かったのにって、そう思ってしまうんです」
自分の間違いを叱ってくれた方が、ニコの心は楽になる。罪には罰を――それが、ニコの心の軸となる考えだ。
だが、ヘイノやシニッカのように優しすぎる人は、罰すら与えてくれない。それどころか、罪そのものを無かったことにしてしまってもいいと言い出す。そうなってしまったら、ニコはもうどうしていいかわからなくなる。
アナに促されたように、懺悔という形にしてくれたら、まだ罪そのものを胸に刻むことができたのに。
「……許してもらうことを居心地が悪いと感じるなら、今はそれを罰としておいてはどうでしょうか」
ニコの困惑混じりのつぶやきに応じるヘイノの答えもまた、独り言のように小さかかった。
「――いつか、自分が納得できる償いの形が見つかるまで」
その答えは、単なる思いつきで口にしたとは思えないほどに真に迫ったものに聞こえて。
思わず、ニコは傍らの先生の横顔を見つめてしまう。
だが、ヘイノはすぐにいつもの調子で「片付けを進めましょうか」と言うだけだった。
一瞬の戸惑いを脇に置いて、ニコはヘイノが持ってきてくれた荷物を開く。心に引っかかるものが残っていようと、生活のための準備を進めなければいけないことには変わりない。
思いがけなく転がり込んだ幸運に報いる方法を考えながらも、ニコはヘイノの後に続いて部屋の中を探索し、箪笥から洗ったばかりの敷布を見つけて寝台へと広げ、枕を叩いて膨らませた。
お仕着せとして前の仕事場で貰っていたワンピースをクローゼットに吊していると、ヘイノから声をかけられた。
「ニコ。来週からは、また学校に来てくれますか?」
思い出してみれば、今週は週の頭に火事の騒動があってから一度も教会に足を向けていない。周囲で様々なことが起きていて、それどころではなかったからでもあったが、一抹のばつの悪さが足を鈍らせていたからでもあった。
だからこそ、ヘイノは単なる予定を聞いているわけではないことも、ニコは薄ら察していた。
またあの場所で、これまでと同じように何かを学ぶ幸運を受け取る。そこに躊躇を覚える必要はないと、ヘイノはそう言いたいのだろう。
「――はい。シニッカさんが、良いと言ってくれるならば、ぜひ」
再び生じた罪悪感は、今はぎゅっと押し込める。忘れるのではなく、これから向き合っていくためにも、ニコは足を止めるわけにはいかない。
「では、ニコが来るのを待っていますね。この前書いてくれた要約の添削も用意しておきます」
まるで、何事もなかったかのように、ヘイノはあの日の続きを語る。ニコも、その優しさに今は凭れることにする。
(いつか、胸を張って、自分の犯した間違いの償いができたと言えるぐらい、立派な人になろう)
それが、どんな人かはまだ分からないけれども。
自分に笑いかけてくれる司祭さまと歩めばいつか見つかる――今のニコには、そう思えたのだった。




