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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
一章
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23/23

幕間1・1-1

 大きな混乱を乗り越えて一つの区切りがつくと、誰しもがふっと気を抜くだろう。当事者であればあるほど、ほっと胸を撫で下ろして、再び日常に戻れるありがたさを噛み締めるものだ。

 新たな生活を始めてから三週間。だが、その三週間はヘイノにとって、今まで過ごしてきたどんな日々よりも濃密なものだった。

 過ぎてきた日々を振り返り、非日常の慌ただしさと日常のありがたさを十分に噛みしめられるほどには。

「嵐のような三週間でしたからね……」

 パユヴェシ村に来てから三度目の『祈りの日』を無事に終えた、その翌日。『月の日』の今日は、一週間が本格的に始まる曜日である。

 学校の先生役も、三週間も経てば流石にある程度は板につく。以前のように、子供たちに振り回されて右往左往する回数も少しは減っていっているはずだ。

「今日は、ニコも来てくれますから、久しぶりに全員が顔を揃えられそうですね。気温も上がってきたことだから、課外授業の話もヨニと進めておくべきでしょうか」

 先週も火事の日やゲイリーに関する調査の日を除いて授業は続けていたが、そこにはニコがいなかった。彼女が安心して顔を出せる、真の意味での日常が訪れることを、ヘイノは何より喜ばしく思っていた。

 彼女に出した課題の添削も、昨日のうちに済ませておいた。子供たちに贔屓はしないようにと気をつけているものの、授業に対して意欲的な彼女の姿を見ていると、ついあれこれと便宜を図りたくなってしまう。

 そんなことを取り留めもなく考えながら、ヘイノは身支度を整える。パユヴェシ村に来た当初より太陽が顔を出す時刻は早くなり、気温も日に日に上昇している。この村にも、遅い春がようやく訪れてきつつあるのだろう。

「そうなると、夏服を買わないといけませんね。ヨニにも近いうちに相談しましょうか」

 司祭としての制服であるシャツや上着は、夏仕様のものを支給してもらえるだろうが、私服はそうもいかない。いくらパユヴェシ村が冷涼な気候であるといえども、流石に真夏にセーターで過ごすのは避けたいところだ。

 ティモの町に買い出しに行くなら、弟の意見も聞こう。次の休日の予定を立てる一方で、ヘイノは洗面器に残していた水で顔を洗い、手櫛で髪を整え、目印としてつけているリボン飾りを装着する。

 これもまた、手慣れた日常の動作として、いつの間にか体に染みついていた。

「すっかり、朝の支度も板につきましたね。……最初はどうなるかと思ったものですが」

 記憶喪失のことをひた隠しにして、いつ露見するかと怯えながら暮らすのではと覚悟していたのが嘘のようだ。

 ヘイノは今、自分をとりたてて偽っているとも思っていない。むしろ、ニコの一件に関しては、確固たる信念を元に、思うがままに――少々強引だったかと振り返って反省するぐらいには、思うがままに行動していた。

 記憶を失っているのを弟に隠しているという状況すら、もはや生活の一部になりつつある。

 いちいち考えている暇もないぐらいに日々が忙しかったから、というのも理由の一つだが、終わりのない問答に悩まされるよりは、これぐらいが丁度いいのかもしれない。

 洗面器を片手に、ヘイノは部屋を出る。そこで、彼はぴたりと足を止めた。

「なんだか、妙に静かなような……?」

 常ならば、ヘイノよりも早起きのヨニがキッチンストーブを温めてくれるので、階下からは足音や人の気配がするはずだ。だが、今日に限って、足音どころか、息づかい一つ感じられないほどに、家の中が静まりかえっている。

 訝しみつつ階下に降りるも、予想通り、キッチンにヨニの姿はなかった。念のため、客間も覗いてみるが、こちらも無人だ。

「ヨニが寝坊するなんて、珍しいですね」

 とはいえ、彼だってここ数日の騒動の只中にいた人物だ。疲れがたまり、うっかり寝過ごしてしまっていても不思議ではない。

 考えてみれば、昨日も少し口数が少なかったように思う。『祈りの日』は二人にとっては週に一度の大舞台でもあるので、その準備の疲れもヨニは引きずっているのかもしれない。

 ――朝ごはんができるまでは、寝かせておこう。

 そう思い、ヘイノは薪を手にとった。

 

 貯蔵していた黒パンと、地下に保管していたベリーのジャム。作り慣れた麦のお粥と、タマネギをざっとバターで炒めたものも添える。

 パユヴェシに来るまで、ヘイノが過ごしていた病院では、朝食はもっぱらお粥だけだった。

 だが、ここで見習いとしての仕事を始めてからは、お粥だけではすぐ空腹で倒れてしまうと分かり、今では朝も昼食に近い分量を用意するようにしている。

 近頃は定番となった三人分の朝ごはんを用意していた頃、身支度を終えたアナがキッチンに顔を見せた。

「ヘイノ、おはよう。今日も良い朝ね」

「おはようございます、アナさん。すみませんが、少し火の様子を見ていてもらえますか。俺は、ヨニを起こしに行きますから」

 すると、アナも意外そうに数度瞬きをした。どうやら、アナの元で働き始めてからも、このようなことは一度もなかったのだろう。

「ヨニはまだ起きてきていないの? 珍しいこともあるわね」

「この一週間、慌ただしい日々ばかりでしたから。流石のヨニも、疲れが溜まっているんだと思います」

 すると、アナは怪訝そうに眉を寄せた。いつも元気溌剌な様子のヨニには、疲労という言葉は似つかわしくない、と思ったのだろうか。

 キッチンにアナを残し、廊下に出たヘイノは階段から上階に向けて顔を上げ、

「ああ、ヨニ。起きてきたんですね。ちょうど今様子を見にいこうと思っていたんです」

 階段の上には、見慣れた自分そっくりの顔をした弟がいた。まだ疲れが残っているのか、どこか気怠そうにも見える。

「寝坊するなんて珍しいですね。もう少し休んでおきますか?」

「ん、ごめん。……すごく眠くって、起きられなくてさ」

 まだ眠気が残っているのか、覇気の薄い声で返事しながら、ヨニは階段を降りてくる。ひとまず、このまま朝食にしようとヘイノが弟へ背を向けかけた、そのとき。

「――――!」

 ぐらりと。

 視界の端に入れていた弟の影が、不自然に揺れる。

 咄嗟に振り返れたのは、ここ数日荒っぽいことにも巻き込まれたせいで、気構えができていたからか。

「ヨニ!?」

 ステップを踏み外し、階段を滑るように落ちていくヨニの体。だが、彼が全身を打ち付ける前に、数段飛ばしで駆け上がったヘイノが弟の体を受け止めていた。

 腕にのしかかる、人一人分の重みはヘイノの想像以上のものだった。受け止めたはいいものの、ヘイノまでバランスを崩しかけたが、どうにか姿勢を低くして二人諸共一階まで滑り落ちるのは回避した。

「あぶな、かった……」

 心臓が喉元まで飛び上がり脈を打っているのではないかと思うほどに、身体中に嫌な鼓動が響き渡っている。非常事態を乗り越えた緊張から解き放たれた反動で、ヘイノの全身は微かに震えていた。

 数度の深呼吸を挟んで、どうにか自分の気持ちを落ち着かせていると、

「ヘイノ、どうしたの? なんだか物凄い音がしたのだけれど」

「ヨニが、階段から足を滑らせたんです! ヨニ、大丈夫ですか。どこか体を打ったりは……?」

 階下から聞こえたアナに状況を説明したいところだったが、ヘイノの直感はより強い違和感を捉えていた。

 足を滑らせただけなら、普段のヨニならばすぐに立ち上がり、「ごめんごめん」なんて言いながら、無事な姿を見せるはずなのに。今の彼は、ヘイノに凭れたまま、ぴくりともしない。

「ヨニ、具合が悪いんですか。ヨニ!?」

 頭を強く打ったのではないか。それとも、実は風邪をひいて熱でも出しているのか。たしか、ヨニは幼い頃は体調を崩しやすかったと、アナが話していなかったか。

 乏しい記憶の中から想像しうる嫌な予想をいくつか引き出し、心の覚悟を決めながら、ヘイノはヨニの額に手を当てる。そして、そこから伝わる温度に、目を丸くする。

「冷たい……?」

 まるで、シャツ一枚で真冬の戸外に放り出されたかのように、ヨニの体はひんやりと冷たかった。これならば、まだ熱が出ている方が原因がすぐに掴めただろう。

 扉が開く音が背後からする。駆け寄る足音は、アナのものだ。

「二人とも、大丈夫? 怪我はしていない?」

「アナさん、ヨニの様子が変なんです! 体が凍えていて、意識がないみたいで……」

 状況を伝えながらも、ヘイノはヨニの体を必死に抱き寄せていた。冷えた体は、最も残酷な結末を想像させる。最も、微かに肌に触れる小さな呼吸が、ヘイノの想像する最悪を追い払ってくれた。

「体が凍えてる?」

 ヘイノの言葉を繰り返しながら、アナも階段へと近づくが、一歩踏み出したところで足を止める。

「とりあえず、二人とも下まで降りてきなさい。そんなところで長話をしていたら、いつまた転げ落ちるか、分かったものではないわ」

 アナの忠告はもっともだ。だが、自分と同じ体格の弟を担いで二階に上がるのも難しい。意識を失った人間というものは、想像以上に重く、今のヘイノには支えるのがやっとだ。かといって、女性のアナに男性のヨニを運ばせるのもまた論外である。

 八方塞がりとなったヘイノは、内心で弟に謝罪しつつ、もたれかかっている彼の肩を軽く叩いてみた。

「ヨニ、起きられますか。自分の力で立てそうですか?」

 すると、ヘイノに身を預けたままだったヨニの頭が緩くもたげられる。寝起きのように、焦点の合わない瞳で周囲をぼんやりとした様子で見やってから、

「……ごめん。俺、寝てた?」

 声は掠れてはいたものの、話ぐらいならできると分かり、ヘイノは今日何度目になるか分からない安堵の吐息を細く吐き出した。

「居眠りをするなら、階段の上はやめた方がいいですよ。すっかり体が冷え切ってしまっているようなんですが、一体どうしたんですか?」

「ああ……そっか。軽い貧血みたいでさ。昨日から、ちょっとまずいかなって思ってたんだけど」

 貧血というだけあって、確かにヨニの顔色は悪い。唇の色からも血の気が失せている。だが、貧血というだけで、人間の体からこんなにも熱が消えるものだろうか。

「ヨニ、俺に掴まれますか。客間で一度横になりましょう」

 返事もするのも辛いのか、ヨニは小さく首肯し、ヘイノの肩を掴む。その力が自分の知るものよりずっと弱々しく感じられ、ヘイノはまるで自分の心臓が掴まれたような苦しさを覚えた。

 

 客間のソファにヨニを寝かせ、彼を休ませている間に、朝食を温め直す。実際のところ、ヨニの体調が心配のあまり、食事も喉を通らないというのがヘイノの正直な気持ちだったが、

「共倒れになったら、あなたたちの授業を待つ子供たちが悲しむわ。今は、自分の心でなく、体を優先させない」

 と、アナに指摘され、ヘイノは朝食を無理やり喉の奥へと流し込んだ。

 一段落してから、二人は揃って客間へと顔を出す。ニコの一件のときから、簡易寝台として扱われているソファには、先ほどよりも安らかな様子で寝入っているヨニが見えた。

 人の気配がしたからか、閉じていた瞼がゆっくりと開き、色違いの瞳が覗く。

「ヨニ、具合はどうですか」

「んー……まだ、ちょっと気分が悪い……かな。でも、さっきよりはマシかも」

 ヘイノが押し留めるのも無視して、ヨニはソファの手すりに背中を預けながら上体を半ば起こす。

「しばらくは、ここで横になってるよ。昼の授業までには動けるようにするから」

「何を言っているんですか、そんな真っ青な顔で! 今日は俺一人でなんとかしますから、ヨニは体を休める方に集中してください」

「でも、俺だって見習いとしての仕事が」

 ヨニは救いを求めるようにアナを見やったが、彼女もまたきっぱりと首を横に振っていた。

「そんなふらふらの状態で生徒の前に立たせるような真似はできないわ。歩けるようになったら、二階までヘイノに連れて行ってもらって、今日はベッドで寝ていなさい」

「でも、ヘイノはまだ来たばかりなのに」

「俺が来たのは、もう三週間も前の話ですよ。その間に、ヨニは俺に沢山のことを教えてくれました。それがあれば、一人でも大丈夫です」

「そういうこと。むしろ、無理に動いてその状態が長引く方が効率が悪いと考えなさい」

 双方から理にかなった説明をされて、これ以上の理由が思いつかなかったのだろう。ヨニは、渋々ながらも首を縦に振った。

「俺は、いつものように子供たちのおやつの準備と家の掃除をしていますから、動けるようになったら教えてください。朝食のお粥も、食べられそうだったら言ってくださいね」

 ヨニが気に病まないように、ヘイノはてきぱきと話を進め、アナに彼を任せて客間をでる。部屋を出た彼は、深く息を吐き出し、

「……よし。一人でも大丈夫だってところを、ヨニに見せませんと」

 いい加減に振る舞っているように見えて、責任感の強いヨニのことだ。ヘイノが弱音を吐けば、すぐにでも無理を押して手伝おうとするだろう。

 お腹の底にグッと力を入れて気合いを入れ直し、まずはキッチンに向かおうとした時だった。

「……ヨニ。教会の決まりを守って具合が悪くなっているのなら、本末転倒よ。賢いあなたなら、それぐらい分かっていると思ったのだけれど」

 扉の向こうから、聞こえたアナの話し声にヘイノは足を止めてしまった。

(教会の決まりを守って、具合が悪くなる……?)

 その言葉の内容は、今の状況にそぐわないものに思えて、ヘイノの頭から束の間仕事のことが消え失せる。

 低く、くぐもった応答はヨニからの返事だろうか。扉を一枚挟んでいるせいで、彼の言葉は聞き取れなかった。

 代わりに、再びアナの声が響く。

「今日は、外して休んでおきなさい。自分でも、どうしてそうなっているのか、理由はわかっているでしょうに」

(ヨニは、自分の不調の原因を知っているのか……? でも、教会の決まりに関わることで不調になるって、一体どういうことだろう)

 いくつもの疑問が、ヘイノの頭を通り過ぎていく。

 単なる好奇心以上に、ヘイノにとってヨニは友人であり、同僚でもある――もちろん弟でもある。そんな彼の具合に関係する話だ。気にならないわけがない。

(でも、もし昔のヘイノなら知っていて当たり前のことなら、ヨニに質問するわけにもいかない……)

 記憶喪失であることを気にしないで生活できている。そんな風に思った矢先に、忘れるなと言わんばかりに、記憶の問題が壁として立ち塞がってくるとは。皮肉じみた運命の流れに、ヘイノは内心歯噛みした。

 アナが、扉に近づく靴音が聞こえる。立ち聞きしていると知られたくなくて、ヘイノは足音を殺して今度こそキッチンへと入った。

 朝食の残りを片付けながらも、彼は思案し続ける。

「教会の決まりを守るせいで、かえって具合が悪くなるようなこと……。俺の知らない決まりが、何かあるのだろうか」

 教養としての記録は頭に残っているものの、司祭として学んだことの中には断片的に欠けている部分もある。

 祈りの作法や仕来りのいくつかは覚えていても、聖典の細かい記述などは殆どが忘却の海へと沈んでしまった。今、ヘイノが聖典について多少人より詳しいのは、リハビリの頃に必死に読み解いて身につけた知識があるからこそだ。

 ヨニの不調は、かつてのヘイノも知らなかったことなのか。あるいは、『彼』が覚えていた記憶だったからこそ、欠けてしまったのか。

 今のヘイノには、それを知るすべはない。

(……もし、ここに『前の俺』がいたら、ヨニを助けられたんだろうか)

 だが、その可能性を考えた瞬間に、ヘイノは怖気を感じて小さく首を横に振った。

 かつての『ヘイノ』が戻ってくること。

 それはこの数ヶ月の間に築き上げた自分の消失――『死』に他ならないからと、気がついてしまったからだった。

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