序章・二話
御者の言葉に間違いはなかったと、ヘイノはすぐに思い知ることとなった。
ヘイノが乗合馬車から降りて何分、何十分歩いても、町はなかなか終わりを迎えなかった。
降車場は同乗者のマウリが言っていたように、市場に使われる日もあるからか、石畳が敷き詰められて比較的丁寧に整備されていた。だが、そこから少し距離を置けば、まずは住宅と思われる住居や、商会や職人の仕事場と思しき建物がヘイノを出迎えた。
高台にに見える大きな屋敷の影は、事業を成功させた名主が住んでいるのだろうか。それともこの街の長の家かもしれない。
更に歩き続けると、これまたマウリが話していた通り、町を貫くようにして流れていく川が目に入る。
大きな流れを渡るための石橋の下では、船から運ばれた荷物が行き来していた。荷下ろしの男たちの忙しないかけ声が、幾度もヘイノの耳を掠めて行く。
中には、木でできた橋がかかった細い川も見受けられ、こちらには子供たちが川縁に集まって遊ぶ姿が見えた。水鳥を捕まえようと棒切れを振り回しており、時折どっと歓声が沸き上がる。
延々と町の中を歩き続けて、話に聞いていた一時間が過ぎた頃だろうか。広場についた頃からやや傾いていた日が、本格的に山向こうへと姿を隠し始め、周囲の暗闇がぐっと色濃くなる。
太陽の光に満ちていた青空は、既に透き通った夕焼けの天幕に覆われていた。
(この通りからは、少し景色が違うな。この辺りから、パユヴェシ村と呼ばれてる辺りになるんだろうか?)
今までは石造りの建物が多かったのに対して、ヘイノの眼前に広がる細い道には、木造の建物がちらほらと道に生えるように建てられていた。
ティモの町の中心部では、建物が木々を押しのけるように広がっていたが、こちらは逆に、建物の方が遠慮がちに森の中に佇んでいるといった風情だ。
更に歩き続けると、その違いはより顕著になる。密集した石造りの町並みはすっかり姿を消し、代わりに開けた草原と、夕闇に浮かび上がったインクだまりのような木々の影がぽつりぽつりと点在しているのが目に入った。
まだ葉をつけていないものの、夕闇に浮かび上がった枝のシルエットは、まるで痩せ細った旅人が手を空へと広げているかのようだ。その合間に見える生き物と思しき影は、放牧している牛か羊の類だろうか。
草原と森の間にできた、馬車の轍で固められた道を行くこと更に三十分ほど。
そうして、ようやくヘイノは建物や森の中から突き出た、一際高く聳える尖塔を発見する。夕闇の中に浮かび上がった黒い影は、目的地はここだとヘイノに主張しているかのようであった。
「この辺りからとなると、ティモの広場に行くのは半日がかりになりそうですね」
マウリとの約束を思い出し、ヘイノは歩いてきた距離を振り返って、苦笑いと共に呟く。
だが、決して楽ではない距離を歩いて、知り合いに会いに行くというのは、思い出というものを持たないヘイノにとっては初めての経験だ。それがどんな感慨をもたらすのかはわからないが、少なくとも自分にとって悪いものではないだろう。
そう思って歩き続けて、もう暫く経った後。
「ここが、教会……」
悠々と聳え立つ尖塔の持ち主である建物を前にして、ヘイノは否応なしに高鳴っていく心臓の音を胸の奥底から感じていた。
特徴的な大きな三角屋根に、屋根から突き出た尖塔に吊り下げられた鐘が、夕日の光を受けて淡く輝いている。
この建物こそが、どの町にも必ず一つはあると言われている、人々の祈りの場であり、信仰を寄せるための施設――即ち、教会だ。
よほど忙しくはない限り、大抵の人は、週に一度の『太陽の日』にここに集まり、日々を平穏無事に過ごせていることへの感謝を女神に捧げる。
教会の管理者たる司祭は、聖典に記された始祖の言葉のいくつかを取り上げ、礼拝の参加者にわかりやすいように語って聞かせ、信仰への想いを新たにする。
そのほかにも、時には学校の代わりを務めたり、葬儀や結婚を取り仕切ったり、場合によっては人々の諍いの調停を行ったりと、町における教会と司祭の役割は実に多岐にわたる。
そんな風につらつらと教会の役割を頭の中で並べてみたものの、緊張が収まるどころか、心臓の高鳴りは消えるどころか増すばかりだ。
耳の奥で響いているのではないかと思うほどの鼓動のうるささを、今度ばかりは棚に上げると言うわけにはいかなかった。
深呼吸を一つ挟み、できる限りの平常心を意識して、ヘイノは教会の大扉に手をかける。
力をかけると、ぎいと軋んだ音を立てて、木製の両開きの扉がゆっくりと開いた。
一歩中へと足を踏み入れ、ヘイノは思わず息を呑む。
「……すごい。教会って、こんなにも綺麗な場所なんですね」
教会は求められる用途こそ限られているが、その装飾や建物の様式は、教会を建てた建築家に一任されることが多い。
大きく広がるアーチ型の天井。赤みがかった石造りの様式。訪れた人を出迎える正面の大きなステンドグラス。ずらりと並んだ木製の座席に淡い光が落ちるように計算された側廊のステンドグラス。それらは、全てこの教会独自のものということだ。
決して、絢爛豪華というわけではない。煌びやかな金銀の飾りもなければ、聖典の内容を描く壮麗な天井画もない。天井の様式は美しくとも、天に昇るかと思うほどの見事な高さがあるわけでもない。
しかし、ヘイノはこの小さな教会の姿に心を奪われていた。
(他の教会がどうかは知らないけれど、少なくとも、こんな綺麗な場所で働けるのは俺にとっては幸運なことじゃないだろうか)
今まで頭の中を占めていた罪悪感や後ろめたさ、嫌な形で高鳴り続けた心臓、街の中で感じた疎外感、目覚めた日より前の思い出がないという現状に対する不安――それら全てを払拭するほどの、もはや衝撃とすら呼べる感動が、ヘイノの心を埋めていた。
正面のステンドグラスには、澄み切った春の湖水を思わせる、独特の風合いの青が用いられていた。その光に誘われるように入り口で足を止めていたヘイノは、更に一歩、二歩と中へと足を踏み入れる。
後ろで大扉が閉じた音にも気が付かず、彼は奥に据えられた祭壇の近くにまで歩み寄っていた。
(誰の作品だろう。この町の人のものだろうか)
そこにある、物言わぬ芸術の壮麗な気配に圧倒されながら、彼は正面のステンドグラスをじっと見上げる。
そこには、一人の女性が描かれてた。質素なローブを纏った女性は、両手に白い石を抱え、静々と空へと掲げている。石のいくつかは白い鳥と姿を変え、頭上へと広がる遥かな蒼穹へと飛び立とうとしていた。
「たしか、聖典にも描かれていた始祖のお姿ですよね。でも、これはまるで……生きているみたいだ」
平面のガラスに描かれた絵に対して、命の息吹を感じるなどと馬鹿げていると思う一方で、己の感じた感嘆を言葉にすると、それ以外の表現が思いつかなかった。
時間も場所も、自分がなぜここに来たのかも忘れて、ヘイノはただただ目の前の美しいものに見惚れてた。
だが、無我の境地とも言えるほどの集中は、不意に祭壇の横にあった扉が開く音で終わりを迎える。
「すみませーん。今日の礼拝の時間はもう終わっているんですけれど、何か急ぎの用ですか……」
ヘイノはハッとして、扉から現れた人を見つめる。姿を見せた彼も、言葉を途中で切って、ヘイノを見つめ返していた。
夕日を受けて、来訪者の金色の髪が淡く輝く。ヘイノが毎日鏡で見ているものと全く同じ造作の顔かたちに、全く同じ色合いの青と琥珀の色違いの双眸。
もし、ここに彼ら以外の誰かがいたら、そこに突然鏡が立てられたのではないかと思っただろう。
それほどまでに、彼らの顔はうり二つであった。
「……もしかして。ああ――いや、もしかしなくても、ヘイノ? ヘイノだよね!?」
先に声を発したのは、祭壇の隣から出てきた方の少年だった。
顔や髪色、瞳と同じように彼の声もヘイノとそっくりだ。唯一の違いは、ヘイノと違って彼の声はたった一声でも分かるほどに、軽やかで陽気な気質を内から滲ませているものだということだ。
ゆっくりと破顔して、こちらに駆け寄るうり二つの存在。目覚めたあの日の時のように、こちらへと飛びつく『弟』を鞄を置いて、ヘイノは両腕で受け止める。
「久しぶりですね、ヨニ。元気そうで何よりです」
その間にも、心臓は高鳴り続けている。頭の奥がガンガンと割れ鐘を叩いたように痛み、教会の空気が押し流してくれた不安が再び彼を包む。
そんな『兄』の心境など、知るよしもない弟は、久方ぶりに出会った肉親をぎゅっと抱きしめて言う。
「久しぶり、ヘイノ! ほんっとう、いつ来るかって、ずっと待ちわびてたんだよ!」
歓喜にはち切れんばかりに笑う弟の背中を宥めるように軽く叩きながら、ヘイノは数ヶ月前の出来事を思い出す。
ヘイノにとって、自分の記憶の始まりでもある、あの日。
そのときも、ヨニは同じように兄を抱擁した。
歓喜に満ちあふれた声を、その耳元で聞いた。
「よかった……、ヘイノが生きててよかった……!!」
困惑に包まれていたヘイノをよそに、弟は涙を流して兄の無事を喜び、医師が止めても離れようとしなかった。
その声はただ喜びに満ちているだけでなく、深い絶望の末に漸く見つけた僅かな希望に縋るかのように切実なものだった。
――自分が抱きしめている兄が、何も覚えていないとは知らずに。
(……もし、今、俺が『この人』を拒絶したら、きっとこの人はひどく悲しむだろう)
あの日と全く同じ言葉を、ヘイノは心の中で繰り返す。
(何も持っていない俺が、俺の知らない多くのものを持っているこの人を、そんな形で追い詰める資格なんてない)
(だから、俺は――彼の兄で居続けないといけない)
目覚めたあの日。弟と邂逅したその瞬間に、そう決めたからこそ、ヘイノは。
自分が何も覚えていないことを、誰にも話さないことにした。
目の前の『弟である他人』の兄であり続けることを選んだ。
他ならぬ自分が、彼の知る『兄』を奪ってしまったのだから。
だが、それはただ弟の笑顔を守るためだけの、尊い自己犠牲などではないことをヘイノは自覚している。
(だって、そうじゃないと、俺はあの日の俺に戻ってしまう。その方が俺には……ずっと、恐ろしい)
何も分からず、何も持たず、何もかもから置き去りにされて、ただただ沸き上がる不安に内側から食いつぶされそうな、目覚めた瞬間の自分に戻るぐらいならば。
たとえ、嘘であってもいい。罪悪感を幾度覚えても構わない。
霧の中を、目印もなしに彷徨う小舟のような存在となった自分には、繋ぎ止めてくれる何かが欲しかった。
だから、ヘイノはそれを選んだ。
ヘイノ・フィルップラという、ヨニという名の弟を持つ司祭見習いであったという少年の仮面を。
弟と共に過ごした思い出など、何一つ持っていなかったとしても。
司祭になろうと決めた理由すら、覚えていなかったとしても。
「ヘイノは、今着いたばかりなんだよね。じゃあ、すぐに俺たちの家に案内するよ。アナさんも、ヘイノが来るのはいつかって何度も聞いてたんだよね」
「アナさんというのは、この教会の管理者の方ですか?」
「そう! 会ったら絶対に驚くから、楽しみにしてなよ?」
「それを言ったら、逆に驚かなくなってしまうんじゃありませんか?」
「あ、そっか。しまったな~、言わなきゃよかった。驚くヘイノの顔が見たかったのに!」
そんな兄弟らしいやり取りの中、ヘイノは自分が口にする言葉の一つ一つに神経を尖らせる。
この言葉は、ヨニの知る兄のものだろうか。このやり取りは、兄弟らしいものだろうか。弟の笑顔を曇らせるものではないだろうか。
我ながら、神経がすり減る選択だとは承知の上だ。それでも、ヘイノはこの道を選ぶしかなかった。
ヨニの案内を受けながらも、ヘイノは極限の緊張をおくびにも出さずに会話を続ける。口にした言葉のどれもが、そら言のようだと感じながらも。




