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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
序章
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序章・一話

 何かに呼ばれた気がして、瞼を開く。

 視界に飛び込んできたのは、飴色に磨かれた木目が眩しい天井。微かに瞼の上をちらつく光。視界の端で揺れているのは、クリーム色のカーテンだ。

(ここ、どこだ……?)

 真っ先にそう思った一方で、別種の疑問も抱いていた。

(そもそも俺は、どこにいたんだっけ……)

 わからない。

 自分がいるべきだった場所も、すべきことが何だったのかも、何一つわからない。

 寝起きのぼんやりとした頭のまま、『彼』は体を起こした。体を動かした瞬間、全身が鈍く痛んだが、わからないという状況を何とかしたいという気持ちの方が上回った。

 ぐるりと見渡せば、それで終わりとなってしまうほどの小さな部屋。その寝台に自分は寝ていたらしい。

 視線を落とす。ところどころに包帯を巻いた指が、手があった。視線でその先に続くものを探せば、同じく包帯を巻いた手首が目に入る。

 腕を包んでいる縞模様の薄い寝巻は、長く寝ていたのか、どこか草臥れていた。

 周りを見渡す。木製の扉はしっかりと閉じられ、外の様子は伺えない。

 壁にかけられた鏡から、誰かがこちらを見つめ返している。

 いいや、違う。見つめ返していると思ったのは、そこに一人の人間が映っていたからだ。

「あれが、おれ……?」

 掠れた声が喉から出てきたが、どういうわけか、全く馴染みがない。

 使い慣れない道具をいきなり渡されたような、強烈な違和感を覚える。なのに、しっくりくるようにも思ってしまう。

 その矛盾が、ぞくりと寒気をもたらし、彼は無意識に自分の二の腕をさすっていた。

 鏡に浮かび上がっている人間の顔は、歳の頃は十代半ばだろうか。

 肩ほどまでに長くのびた薄い金色の髪に、青と琥珀の色違いの瞳。どこか呆けたような顔をしているのは、自分が今浮かべている表情なのだろうか。

 おそらくはそうだろうと頭で理解しているのに、やはり何かが食い違っている気がして、どこか落ち着かない気分になる。

 だが、本来なら自分の顔を見たときに、驚くべきはそこではないのだろう。

 顔の半分を覆うように当てられた大きなガーゼ。額に巻かれた包帯。どうやら、自分は何か酷い怪我をして、この部屋で長らく手当を受けていたらしい。

 顔に手を当ててみる。そこに、少しでも自分のわかる何かを求めるかのように。

 しかし、わかったのは、なめらかな肌の感触と、ガーゼ越しに響く疼痛のみだった。

「いったい、何があったんだ……」

 訳がわからない。わからないことを口にしても、何か理解が進むわけでもない。

 ここがどこかは皆目見当がつかないし、どこにいたのかもやはり思い出せない。そこで、彼は一つの最も大きな疑問にぶつかる。

 

「俺は、誰だ……?」

 

 名前が、わからない。

 本来自分の頭に刻まれているべき、当たり前のものが、どれだけ思い出そうとしても思い出せない。

 わからないという衝撃が、彼の心を一番大きくざわつかせた。

「……誰か。誰か、いないのか」

 続けて彼が求めたのは、この状況を理解している存在だった。

 自分が誰なのか、ここがどこなのか、今どんな状況にいるのか。

 誰でもいい。どんな真相があってもいい。この『わからない』という異常から助けてくれるなら、誰だっていい!

 そんな声なき叫びが聞こえたかのように、部屋にあった唯一の扉の取っ手が動く。

 ぎい、と音を立てて扉が開く。布靴の音は、その向こうに誰かがいることの証だ。

 来訪者がこの不可解な現実を説明してくれる。そんな淡い期待を抱いた彼は、

「――っ! ……よかった、本当によかった! 意識が戻ったんだな……!」

 己の予想を彼は自分の予想を遙かに上回る〈異常〉を目にする。

「……どうして」

 安堵のあまりか、顔をくしゃりと歪ませ、今にも泣きそうな顔をしている少年。

 彼を目にした瞬間、安堵の声を漏らしたその言葉の意味を、彼は全く拾えていなかった。

 彼が釘付けになったのは、その青年の顔。

 ――そこにいた人物は、『彼と全く同じ顔』をしていた。

 

 ◇◇◇

 

「ここは……?」

 体が大きく揺さぶられたような感覚が呼び水となり、ぼんやりとしていた意識が輪郭を得る。先ほどまで見ていた情景と、現在の状況が噛み合わず、一瞬混乱が生まれかけたが、

(あれは、夢……?)

 ふうっと意識が浮上した感覚から察するに、うたた寝でもしていたのだろうか。そう思った矢先、夢の内容が脳裏に蘇り、意識が再びあの時の光景に引きずり込まれそうになる。

 あれは、ただの夢ではない。

 自分にとって、全ての始まりとも言える瞬間だ。

 目を覚ました瞬間の、何もかもが分からないという感覚も。鏡を目にして、写り込んだ己の姿に対する強烈な違和感も。

 そして、あの時扉から入ってきた者は。

(……昔のことを思い出している場合じゃない。今は、この後のことに集中しないと)

 無意識に息を止めていたのか。軽い息苦しさを覚え、咄嗟に深く息を吸い込もうとした矢先、

「うわっ」

 ガクンと体が揺れて、重心を捉えきれていなかった上体が傾ぐ。咄嗟にバランスを取ろうとして手を伸ばすも、すでに遅い。

 ゴン、と鈍い音。硬い木の壁の感触と同時に、側頭部からじんわりと、やがてずきずきと主張し始める痛みに、声なき声が漏れた。

「~~~~っ!」

 頭を抑えている間にも、ガタガタと視界が小刻みに揺れている。

 それもそのはず、今の自分がいるのは箱馬車の中だからだ。

 粗末な木の椅子に、頻繁に揺れる床板。どこにでもよくある乗合馬車の一つの中で居眠りをしていたら、運悪く激しく揺れたタイミングで頭を打ってしまったのだろう。

「おいおい。すごい音がしてたが、大丈夫か?」

 その声に、彼は自分が一人ではないことに遅まきながら気がついた。

 向かい合わせになるように設置されている座席のうち、反対側に男が一人座っている。周囲が薄暗いせいで顔かたちはよく見えないが、栗色のふさふさとした髭は窓から差し込む光のおかげで捉えることができた。

 歳の頃は三十か四十か。どこかに招かれているのか、どこか窮屈そうに小綺麗な服に身を包んでいる。

 見た目と声は熊のように迫力のあるものだったが、居眠りをしていた彼へとかけられた声音には気遣いが滲んでいた。

「心配をかけてすみません。少し寝不足だったもので、うとうとしていたのですが……みっともないところを見せてしまいました」

 まだ痛む頭を片手でさすりながら、まずは簡単な謝罪を口にする。『自分の姿』を見て相手に気を遣わせても申し訳ないと、彼はどうにか笑顔を取り繕ってみせる。

「だったら、起こさなくて正解だったなあ。さっきから何だかうなされていたみたいで、ちっと迷ってたんだよ。嫌な夢でも見てたのか?」

 世間話の延長としての言葉だったのだろう。だが、男の言葉は偶然にも彼の状態を正確に読み取ったものだった。

 だが、正解を当てられたからといって、見ず知らずの相手に、自分の心境を詳しく説明するわけにもいかない。

「旅をするのは初めてなもので、興奮して昨晩はよく眠れなかったんですよ」

「そうだったか。――っとと、いけねえ。ついその辺の坊主に話しかけるみたいに、普通に話しちまった。またカミさんに叱られちまう」

 男が畏まってしまった理由もまた、自分の姿に関係があると彼は知っている。だが、男の畏まろうとする姿勢を否定するわけにもいかない。

 男は咳払いを二、三してからは、暫し言葉を選ぶような素振りを見せたが、話し方を簡単に直すには難しいらしい。気まずい沈黙が彼と男の間に落ちてしまう。

 乗合馬車でたまたま行き合った相手とはいえ、沈黙を延々と保つのはお互い気分も良くないだろう。そう思い、彼は意を決して口を開いた。

「見ての通り、まだまだ若輩の身なので、そのように構えてもらわなくても大丈夫ですよ。俺も、気軽に話してもらった方が嬉しいですから」

 緊張で声が上擦っていないか。何か間違ったことを口にしていないか。

 内心で冷や汗をかいていることを懸命に誤魔化しながら、羽織っているコートの上から胸に手を当てる。

 黒を基調とした上着とコート。そして、同色のケープマント。首には、白く光る石を埋め込んだペンダントが揺れている。

 その輝きに気圧されないように、小さく深呼吸をしてから、彼は言う。

「俺は、ヘイノ。ヘイノ・フィルップラといいます」

 ペンダントに指を添え、ヘイノと名乗った少年は告げる。

「見ての通り、教会の司祭の末席に属する者ですが、まだ見習いの身です。どうか、お気遣い無く」

 町を歩けば、誰もが深々と頭を下げ、崇拝の視線を向ける相手。富者も貧者も問わず、共に女神に祈りを捧げ、彼らを導く存在。

 自分はその一人だと、ヘイノは名乗る。

 けれども。

(……俺は、誰なんだろう)

 目覚めたあの日より前、自分の身に何があったのか。それどころか、どこで生まれて、どのように育ち、司祭としての道を志したのか。

 ヘイノは、過去の記憶を何一つ思い出せないままでいる。あの日目覚めたときからの今に至るまでが、今のヘイノの全てだ。

 ヘイノという名前も、司祭という立場も、所詮はそれまでの『ヘイノ』が積み上げてきたものに過ぎない。

 そんな人間が、果たして司祭と名乗ってよいのだろうか。己からの問いかけに、『今の』ヘイノは答える術を持っていなかった。

 

 ヘイノの自己紹介と、気遣いは無用という言葉を受けて、髭面の男性もようやく相好を崩した。

「そんならお言葉に甘えさせていただくとして……。司祭様が名乗ったなら、俺も名乗らないわけにゃいかないな! 俺はマウリ。マウリ・アンティカイネンだ」

 よろしく、と差し伸べられたマウリの手を、ヘイノは握り返す。普段から力仕事をしているのか、分厚い革のようながっしりとした手だった。

「教会には何度も行ってるが、こんなに若い司祭様を見るのは初めてだな。今日は、お使いか何かか?」

 にこにことこちらへと向けられたマウリの笑顔からは、若者を見守る年配者としての気持ちを滲んでいた。

「いえ、これから赴任先に向かうところなんです。たしか、この先にできたばかりの教会があるので、見習いとして、そこに赴任している司祭様の手伝いをするように、と」

 話しながら、ヘイノは数日前から何度も読み返している手紙を頭の中に広げていた。

 ――少々特殊な事情はあったものの、当初の予定通り、ヘイノ助祭の到着を待つ。

 必要最低限の事柄だけをまとめた簡素な手紙を更に要約すると、そのような内容だったはずだ。

「そういえば、パユヴェシ村の方に新しく教会を建てるとかっていう話がちょっと前に出てた気がするな。それで、そこに赴任するのがヘイノってことか」

「あくまで、見習いとしてですよ。正式な司祭様は別にいるはずです」

「見習いでも、司祭様は司祭様だろ! 新しい教会の司祭様と一番に話せたなんて、これはとっておきの土産話ができたな。早速着いたら皆に教えてやらねえと」

「そんなに大層なものではないですよ。マウリさんが仰るように、若いので大した経験も積んでいませんし」

 ヘイノは謙遜ではなく本気でそう言ったのだが、マウリは髭に負けず劣らずふさふさの眉毛の下の瞳をきらきらと輝かせていた。

 既にこの数奇な出会いを友人にどう話して聞かせるかに夢中になっているのは、その様子を見ていればすぐに分かる。大仰に身振り手振りで話す、見るからに朗らかで人好きのする様子からも、彼は話をしたくなるような友人に普段から囲まれているのだろう。

「いやいや、そんな風に遠慮する必要はねえって。司祭になるってだけでも、信じらんないぐらい沢山勉強しなきゃならねえって話じゃないか。大学の先生みたいに、一日中机にかじりついていないといけないんだろ?」

「多少、勉学が必要になる場面はありますが、皆さんが思うほどではないと思いますよ」

「そんなもんかねえ。まあ、そういう小難しい話よりも、大事なのは新しい司祭様がどんな人かってことの方だな! ヘイノはいい感じの司祭様だって、皆に伝えておくから、安心しといてくれよ」

 今度は、こちらの控えめな物言いを、新しい町になじめるかの緊張だと受け取られたのだろうか。マウリは、その大きな手をどんと胸にあてて、頼もしい姿を見せてくれた。

 もっとも、彼がこちらを認めれば認めるほど、ヘイノの中で居心地の悪さは増していく。

 (……悪い人ではないのだろうけど、期待されても、本当にできることなんてないのに)

 自分は、果たして彼が思い描くような『良い感じの司祭様』なのだろうか。もし、マウリのからっとした笑顔が失望に染まるようなことがあったら。

 そんな後ろ向きな考えがよぎりかけて、ヘイノは軽くかぶりを振り、俯きかけていた頭を無理矢理起こすように額に手を当てる。

 その仕草を、どう読み取ったのか。マウリはにかっと笑うと、

「この馬車、ティモの広場にまで行くだろ? その辺りで、弟が嫁さんと酒場を開くっていうもんだからよ。今日は、その歓迎会も兼ねてるんだ。ティモならパユヴェシの教会に行く奴もいるだろうから、ヘイノの話を聞きたがる連中も多いと思うんだよ」

「ティモとは、どのような町なのですか?」

 これ以上、自分の話が広がる様子を知らされても居心地が悪くなるだけだと、ヘイノは強引に話題を切り替える。幸い、自分の知る町のことを聞かれたのが嬉しかったようで、マウリはすぐさま話題に乗ってくれた。

「そうだなあ。一言で言うなら……ティモは、川がたくさん流れてる町だな」

 そう言われて、ヘイノは窓から外を見やる。窓から吹き込む風は、まだ春からは程遠い。頬を撫でる風は、刃のようにひんやりと冷たかった。

 風に負けずに目を凝らせば、少しずつ、人の住む場所へと近づいていく様子が見てとれる。。納屋や農場と思しき建物意外にも、ぽつぽつと人家の影がヘイノの視界を掠めていっていた。

 点在する木々と、その合間に佇む民家。それらの隙間を縫うように、時折川の光と橋の影が見える。

「今向かっている方向とは逆の方角に、そこそこ大きい港があるんだがな。この辺には、その港に繋がるでっかい川があるんだよ。川の周りで暮してた連中がどんどん増えた結果、今みたいにそこそこ大きな町になったのがティモってわけだ」

「では、この先俺が赴任する予定のパユヴェシ村にも、川は流れているんでしょうか?」

 「もちろん。あの辺になると、川もちょっとは細くなってるだろうけどな。あの辺はティモに比べりゃ田舎だって言うやつもいるが、俺に言わせりゃどっちもどっちだよ。そういえば、ヘイノはどこから来たんだ?」

「ここよりも、ずっと北の方ですよ」

 詳しく話すのは難しいだろうと方角だけは答えたものの、むしろこの答え方はマウリの好奇心を大いに刺激してしまったらしい。

 この町から来たのか、あるいはあの町を通ったのかと、次々と知らない町や都市の名前を口にするマウリに対して、そのどれに対してもヘイノは曖昧な微笑と首を横に振って、その場を乗り切るしかなくなってしまった。

 マウリからの質問の嵐が一区切りついた隙を縫って、ヘイノは彼へと質問を返す。

「マウリさんは、沢山の町の名前を知っているんですね。よく旅行をするのですか?」

「いやあ、そういうわけでもねえんだ。お恥ずかしながら、俺はティモと、あとはさっき行った港のあたりまでしか行ったことがないもんでね。港に入る船をずっと見てたら、新しい場所とか、知らない土地ってやつが気になって仕方なくなっちまったんだよ」

 どうりで、新たに赴任した自分にやたら興味を持つのかと、ヘイノは今までのやり取りを振り返る。ひょっとしたら、ティモの町の人も同じような考えなのかもしれない。

 だとしたら、新人の司祭が彼らにとって話題の種になるのも納得だ。

(あまり、目立ちたくはないんだけどな……)

 目立つのはいい。だが、目立った上で人々に大きな期待を持たれたとき、自分がそれに応えられるかが分からない。

 新人の司祭だから、ではなく。

 もっと根っこの部分で、ヘイノにはずっとその不安がつきまとっている。

 あの日、何も分からないという感覚と共に目覚めた、その瞬間から。

 話をしている間にも、先ほどからガタガタ揺れていた箱馬車の振動が、いくらか落ち着いたものへと変わっていく。

 窓からの景色も、先ほどよりもぐっと建物の数が増えている。その造りも、木造の質素なものから石造りの年代を感じる重々しい造りへと移り変わっていた。

 建物の数と重なるようにして、人の気配もぐっと濃くなる。窓に吹き込んできた風が運ぶのは、街を行き来する人々のざわめきや足音だ。

「そろそろ、俺は降りる頃だな。パユヴェシに行くんなら、司祭様はもう少しこのまま馬車の旅ってことか。今度は、さっきみたいに寝過ごすなよ?」

「はい、気をつけます。お話に付き合ってくださって、ありがとうございました」

「いやいや、こっちこそ楽しい時間をありがとうよ。次の『太陽の日』には、俺もカミさんと一緒にそっちの教会に顔を出すとするか。司祭様の説教、ぜひ聞かせてくれよ!」

「来てもらえるのは嬉しいですが、俺が説教をするのは、きっともっと後になると思いますよ」

 まさか、見習いにいきなり説教をさせるほど、教会の管理者も冒険心に溢れた人ではないだろう。ヘイノが受け取った簡素な手紙からは、職務に厳しく規律正しい性格が筆致からも内容からも滲んでいた。

 やがて、乗合馬車の停車場に到着したのか、振動が完全に止まる。御者によって外から扉が開くと同時に、マウリは席にのせていた荷物を片手に馬車から降りた。

「じゃあな、司祭様。最初は忙しいかもしれねえが、ティモにはパユヴェシにない店もたくさんあるんだ。そのうち、暇が見つかったら遊びにきてくれや」

「はい。落ち着いたらお邪魔しますね。どこに行けば、マウリさんに会えますか?」

 先ほど、弟が開く酒場に行くという話があったが、肝心のマウリ自身の家については聞いていない。

「俺は、ティモからはちっと離れた所で暮してるからな。でも、『清めの日』にここで開かれる市場には、俺も親戚と一緒にジュースやら酒やらを売ってるんだよ。それなら、司祭様もすぐ分かるだろ?」

「『清めの日』の市場ですね。分かりました」

「おう。楽しみにしてるからな! 絶対来いよ!」

 言うだけ言うと、マウリは勢いよく道に飛び降り、御者に運賃の残りを支払って、路地の隙間へと消えていった。

 彼につられて扉から半身を出し、周囲を見渡すと、窓から見えていた石造りの街並みが、より実感を持った形でヘイノの視界一面に広がっていた。

 石造りの町並みと一言で言っても、長年の経年でくすんだ色合いのものもあれば、新しく建て直したのか、新品のように傷が少なく色鮮やかなものもある。

 ヘイノが見たこともないような高さの建物が、木々のようにあちこちに並び立ち、ずっと見上げているとくらくらしてくるほどだ。

 それらの建物を縫うように吹く風が運んできたのか、ヘイノの鼻先を多種多様な匂いが通り過ぎていく。

 まだ冬の名残を感じられる冷えた空気の向こう側には、土を蹴り上げて走る馬の匂い、煙突から吐き出された煤の匂い、行商が運んできた魚の匂いなどが入り交じっていた。

 少しばかり身を乗り出すだけであっても、ヘイノはこの町を行き来する人の気配を存分に味わうこととなった。

(ここは……俺の知らない世界だな)

 見知らぬ町だから、ではない。過去の記憶の中に、このような町に足を踏み入れたことがないが故に思い浮かんだ言葉だった。

 この町には多くの人が暮し、今もこうして目の前を行き来している。

 彼らをただ視界に収めているだけでも、ヘイノは自分の周囲だけが切り取られ、全く違う世界に置き去りにされたような感覚に襲われる。

 仕事中なのか駆け足で往来を行き来する少年も、外出着に身を包んだ婦人も、店から出てきた身ぎれいな紳士も。

 彼らが当たり前のように積み重ねている日常から、少しずれた場所。皆が当然のこととして積み重ねている思い出を持たぬ者が立つ所。

 そこが、今の自分の立ち位置なのだと事あるごとに気付かされ、その度にこれでいいのだろうかと自問する。

 こんな形の不安を持つ者が、マウリと接していたときのように、あたかも何事もなかったかのように振る舞っていいのか、と。

「……悩んでいても、どうしようもないですよね」

 口にするまでもなく馴染みきった、諦念に似た自答。独り言としてそれだけを口にして、雑踏に背を向けて、馬車に戻ろうとした時だった。

「待って! ちょっと待ちなよ、そこの馬車!!」

 馬車に積んでいた荷物を荷渡場へと運んでいた御者も、席に戻ろうとしていたヘイノも、その必死さが感じられる悲鳴じみた声に、咄嗟に周囲を見渡して声の主を探した。

 叫び声の主は、すぐに分かった。大通りの人たちを押し除けて、一人の女性が猛然とこちらに向かってきている。

 御者の前でようやく足を止めても、ここまでずっと走ってきたのか、髪を乱した女性は息を切らし続けていた。

 汚れた前掛けに、洗いざらしたかのような色の落ちたワンピース。ピンが落ちてしまったのか、ところどころ跳ねた髪の毛。だが、それらの身嗜みの乱れは、だらしなさよりも、むしろ鬼気迫る彼女の様子に拍車をかけるばかりだった。

「何の用かね、奥さん。この馬車は、もう直ぐ出発の予定だよ。乗るんなら、先に運賃の半分を――」

 ひとまず客として扱わねばと、御者は決まり文句を口にしようとしたが、それより早く女性の言葉が彼の言葉を打ち消す。

「これ、どこ行きの馬車!? あたし、一刻も早く港にいかなきゃなんないんだよ! あたしの坊やを、早く医者に診せに行かないと!」

「ようよう見てみたら、またあんたかい。メッツァラの奥さんや。あんたの所の坊やは、いつもいつも熱が出ただの腹が痛いだの、大騒ぎする割には、すぐけろっとしているじゃないか。あんたがそんな風に大騒ぎするから、あの子も嘘をつくのをやめないんじゃないのかね」

 慌てふためく女性とは裏腹に、御者の言葉は手厳しい。

 よくよく見てみると、彼女の背には四つか五つかという年頃の少年が背負われている。顔を母親の背に埋めているせいで、彼が本当に体調が悪いのか、それとも御者の言うように嘘をついているのかは分からない。

「そんなこと言って、あんた、うちの坊やが本当に死んじまったら責任をとってくれるっていうのかい!? あんたは知らないだろうけどね、子供の熱っていうのは恐ろしいんだよ。あたしの最初の娘はそれであっさり死んじまったんだから! ああ、なんて可愛そうなヘルカ!」

「ああもう、わかったわかった! だけどな、あんたがそんなに慌てなくとも、この辺には、ランプ先生がおるだろう。あの辺は道が狭いから、馬車より歩いたほうが早いぞ」

「そのランプさんが、急患だとか何とかで家にいないんだよっ。そうなると後は港に向かう途中にある、パーテロさんに診てもらうしかないじゃないか!」

 女性の勢いに押されたのか、御者も一応は彼女の訴える内容を聞こうと思い直したのだろう。だが、彼女の言い分を聞いてその顔を曇らせる。

「あいにくだが、これはパユヴェシの方にいく馬車なんだよ。そいつで今日は店じまいの予定だ。悪いが、他の乗り合い馬車を探すんだね」

「そんな! そこを何とかできないのかい!?」

「見ての通り、こっちにも先客がいるんだ。パユヴェシと港じゃ、方角も真逆。それぐらい、ここに住んでりゃ分かるだろ?」

「あの」

 今にも御者に食ってかかりそうな女性と、それを押しとどめようとする御者に聞こえるように、ヘイノは平時よりも少しばかり声を張って呼びかける。声をかけつつも、彼はすでに箱馬車から通りへと降りていた。

 彼の手には、小さな鞄が一つ。それが、此度の旅におけるヘイノが唯一行動を共にしているものだ。

「俺が降りるので、代わりに彼女をそのお医者さんの所まで運んであげてください。ここまで来たなら、目的の場所までは歩いて行けるでしょうから」

「しかしですね、司祭様。すでに代金も支払ってもらってるのに、ここで放り出すわけというのは、筋が通らんでしょう」

 マウリの時のように自己紹介をしたわけではなくとも、ヘイノの身なりを見て、御者は『司祭』として彼を扱った。

 いまだに、目の前の御者のように、突然自分を『司祭』という役割を通して扱われるのには慣れない。どうしたって、体のどこかが強ばってしまう。

 御者はヘイノに顔を寄せると、声を潜めて言う。

「それに、司祭様はあの坊やのことを知らないでしょう。メッツァラの家のヴァロ坊っていえば、この辺でも有名な悪ガキでしてね。母親が最初の娘を病で亡くしてからは、子供に対して随分と過保護になってしまったんですよ。それを逆手にとって、都合の悪いことが起きそうなときや、家の仕事をサボりたいときは、すぐに仮病を訴えるんです」

 どうせ今回も仮病だろうという御者の言葉に、それでもヘイノは首を横に振った。

「嘘であったとしたら、医師の家でそれが分かるだけです。それよりも、もし本当にあの少年の身に取り返しのつかないことが起きてしまったら、その方が、俺は一生後悔することになるでしょうから」

 言いながら、ヘイノは首から下げているペンダントに指先を添える。

(俺は、司祭の服を身につけている。その証を首から下げている。俺自身がどう思おうと、周りは俺を司祭として扱う。……だったら、俺も司祭らしく振る舞わないと)

 自分には、まだ見ぬ他の司祭と同等に扱われる資格はあるのだろうか。何度も心によぎる一抹の罪悪感を飲み込んで、ヘイノは先ほども見せたよそ行きの笑顔を顔に浮かべた。すでに荷物は持ち出していると片手の鞄を示しつつ、

「余計な往復が必要になった分の運賃は、俺が払います。それなら、あなたの仕事に見合った分の報酬が得られますよね」

 果たして、この理屈は通じるのかどうか。自分は司祭らしく振る舞えているのだろうか。

 内心の不安を億尾にも出すまいと、口角に力を込めていると、

「とんでもない! 司祭様から多くもらうことなどできませんよ。でも、本当にいいんですね? パユヴェシに最近できた教会に行かれると仰っていたでしょう。ここから歩いてとなると、一時間以上はかかりますよ」

「構いません。それより、そちらの子供を早く医師に見せてあげてください。俺が望むのはそれだけです」

 ヘイノの頑なな対応に、ついに御者も折れた。彼が馬の様子を見に行っている間に、ヘイノと御者のやりとりを聞いていた女性は、足早にヘイノの元へやってくると、何度も深々と頭を下げた。

「ありがとうよ、司祭様! 本当にありがとう……!」

「今は俺への御礼よりも、お子さんのことだけを考えてください」

「ええ、今はそうさせてもらうよ。でも、このことは絶対に忘れないから、何かの形で御礼をさせてちょうだい。約束だからね!」

 女性は、手短にもう一度頭を下げると、ヘイノと入れ替わる形で箱馬車へと乗り込んだ。

 その背におぶわれた少年は、ちらりと一瞬こちらを見た気がした。だが、その邂逅はあまりに短く、彼が仮病を装っているのか、それとも本当に熱に苦しんでいるのかは分からなかった。

 御者が席に座り、最後にもう一度ヘイノの方を見やったが、今更こんな場面で前言を撤回するつもりもない。

「必ず連れて行ってあげてください。お願いします」

「ああ、任せてください。司祭様も、気をつけて」

 そう言うと、男は馬を促して、ヘイノたちが通ってきた道を辿り直すように、馬車を走らせた。消えていく馬車を見送ったヘイノに残ったのは、目的地まで一時間以上かかるという途方もない道のりだけだ。

(でも、到着が遅れるのは、俺にとっては都合が良かったかもしれない)

 どのみち、その場所に向かう以外の選択肢はないのだ。それは分かっているはずなのに、どうしても目的地を思うと足が重くなってしまう。

 パユヴェシにできた、新しい教会に赴任する見習い司祭。それが己に与えられた役割であり、それ以外の道などない。たとえ、そこで何が待っていようとも。

「……会いたくない、なんて言うべきじゃないですよね」

 ぽつりと漏らした言葉を、強く喉の奥に押し込み直す。こんな言葉は、向かう先の教会では、そこにいる者には口にしてはならないと、己に強く言い聞かせる。

 そうして一度かぶりを振り、今すぐ踵を返したいという誘惑を振り解いてから、まずは目的地までの道を誰かに聞こうと思った矢先、

「ちょっと、ヨニ。さっきの見てたわよ」

 ぐいぐいと、司祭服の裾を遠慮無い力で何者かに引っ張られる。

 嗄れた女性の声から察していたが、質素な身なりの老女が彼の傍にいつの間にかヘイノの傍らに佇んでいた。

 ヘイノは凍り付く。

 突然声をかけられて、驚いている――のではない。

「困ってる母親を助けるなんて、やるじゃないか、ヨニ。ヴァル坊やも、嘘か本当かは知らないが、あんたの誠実な姿勢を見て学ぶことがあったんじゃないかね。司祭様っていうのは、やっぱりそうでなくちゃ」

「――――」

 老女はからからと笑っている。近所の子供をからかって、いつものお決まりの冗談を口にしているかのように。

 けれども、彼女の他愛ない言葉を聞いた瞬間。

 体中から熱が全て逃げていったかのように、ヘイノの全身は強い寒気に襲われていた。指先の感覚が失せ、そのくせ体中を流れる血液の音が、やけに大きく耳の奥で響いている。

「それにしても、ヨニ。あんた、どうしてこんな時間にこんな場所まで来てるんだい。今日は学校がある日だろう? 子供たちをほったらかしていいのかい。それとも、アナさんから頼まれ事かい? あの人も、もうちょっとあたしたち近所の連中を頼ってくれればいいんだけどねえ」

 老女が何か話しているのは分かる。だが、その言葉の意味が頭の奥にまで届かない。

 それでも、彼女が何を『勘違い』しているのかを知っている者として、なんとか数秒でヘイノは平静を取り戻す。

 流れる水の如く、延々とお喋りを続ける老女の耳にも届くように、彼は言う。

「すみませんが、人違いをしていますよ。……俺の名前は、ヘイノです」

 マウリに名乗ったときとは違う。

 あの時の緊張感とはまた異なる、ざらついた違和感が夢の奥から――過去から蘇ってくる。丁度、あの日目覚めたときと同じように。

「うん? まったく、今度はまたよく分からないことを言い出したね。あんた、もしかして照れてるのかい? あたしは毎週会ってる相手の顔を間違えるほど、耄碌しちゃいないよ」

「そうではなくて、本当に俺はあなたの知っている人とは違うんです」

 粘り強く繰り返すと、心底困っているヘイノの様子が、ようやく彼女にも伝わってくれたらしい。

 だが、不可解に感じる気持ちは残ったのだろう。不思議そうに首を傾げて、まじまじとヘイノを見つめている。どのみち、すぐに分かることなのだからと、ヘイノは未だ動揺に揺れている心を叱咤して言う。

「顔がそっくりなのは当然です。ヨニは……俺の、双子の弟ですから」

 意を決して告げたはずなのに。

 それでもなお、心から湧き上がるざらついた感情を拭い去ることはできなかった。

 あの日、部屋に飛び込んできた『弟であるはずの他人』に向けたときに味わった、恐怖にも似た忌避感は。

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