一章・十四話
兄弟が用意した遅い夕飯を食べたあと、ニコはアナと相談の末、今日は客間のソファを使わせてもらうことにした。
アナは寝台を譲ると言ってくれたが、目上の、しかも司祭である女性の寝台を横取りして眠れるほど、ニコは図太い神経を持ち合わせていない。
ニコにとっては、司祭とは尊敬すべき崇拝の対象だ。ヘイノやヨニに対しては、先生と生徒という関係や年の近さもあって親密さを感じているものの、だからといって自分の決めた一線をすぐには無視できない。
(ヘイノ先生と話していると、アナ先生や奥様たちと話しているときと違って、つい気持ちが緩んでしまうんですよね)
使用人という立場ではない状態で誰かと接するという経験が、ニコには殆どなかった。少なくともここ数年はそうだったせいもあり、ヘイノやヨニに生徒やただの子供として扱われるのは、嬉しい一方で戸惑いもあった。
(アナ先生も、ヘイノ先生もヨニ先生も、もっと頼っていいと言ってくれました。でも……)
たとえ、盗みに入った一件がなくとも、彼らから手を差し伸べられて素直に掴めただろうかと思ってしまう。それは、真夏に降る雪ぐらい、ニコにとって想像の外にあることだった。
ともあれ、今のニコは客間のソファに作られた即席の寝台に寝転がり、掛け布団の中にくるまっていた。
ヘイノは寝心地の悪さを気にしてくれたが、ゲイリーの家の寝台に比べれば、ソファはまるで降ったばかりの雪のように柔らかい。
布団にくるまりながら、ニコは寝ずに聞き耳をたてていた。
兄弟が就寝の挨拶を告げ、二階へと上がっていく音。アナがどこかの部屋に入っていく音。そして、十数分ばかりの沈黙の後。
ニコは即席の寝台から、そっと身を起こした。
「寒……」
暖かな布団から抜け出してしまうと、室内であろうと夜の冷えた空気は容赦なくニコの体を蝕む。
だが、絨毯もろくに敷いていなかった今の住処を思えば、ヘイノたちが暮らす家はニコにとっては楽園も同然だ。
(そんなところに、私がいるなんて……何だか変な感じです)
数奇な縁の絡み合いに思いを馳せつつ、ニコはそろそろとブーツに足を入れる。
懺悔をした客間は、灯りを消してしまうと黒一色に染まり、まるで見知らぬ部屋のように見える。そろそろと部屋を横断し、そうっと扉を開いても、続く廊下もまた闇に包まれていた。
それでも、暗闇をじっと見つめていたら自然と目は慣れる。暗がりに沈んだ廊下に、ニコは緊張と共に一歩を踏み出した。
最初こそ、廊下は無限の暗闇に沈み、どこまで行っても果てがないように感じられたが、数歩も行かないうちに彼女は廊下に落ちる細い灯りを見つける。
(よかった、まだ起きていらっしゃるみたいです)
扉の隙間からこぼれ落ちた細い灯りを目指して、ニコは足を進める。扉の前に足を揃えて深呼吸をしていると、
「入っていいわよ。そのような場所で立っていると冷えてしまうわ」
「はい。……お邪魔します」
ニコは扉に手をかけて、ゆっくりと中に踏み入れる。
廊下と比べて室内は灯りに満ちていた。机を照らす燭台の光以外にも、壁にかけられたランプにも火が灯り、室内を柔らかく照らしあげている。
だが、明るさや室内の調度品よりも先に、ニコの目を奪ったのは、
「すごい本……」
「私の家にあった蔵書と、ティモの教会に死蔵されていた本を引き取ったの。折角の本を蔵に押し込めておくのは勿体ないでしょう」
ニコの感嘆に応えてくれたのは、部屋の主であるアナだ。彼女は書斎の奥にある文机で、何か書き物をしていたところだったらしい。だが、今は顔をあげてニコと相対している。
「それで、こんな夜分に、二人にも内緒で私に何の用かしら?」
静かにニコを見つめ返す一対の瞳は、澄み切った春の川のように静謐だ。
先だって、ニコに懺悔を促し、救いを求めるように促した優しげな女性の面影は、意図的に押し隠しているのか、今は見当たらない。
「夜中に家を彷徨くような真似をしたら、せっかくの懺悔も無駄になって、余計な疑いを招くかもしれないとは思わなかったの?」
「思いました。でも、ヘイノ先生とヨニ先生のいない場所で、どうしてもアナ先生と話をしたかったんです」
ニコの答えを、アナは予想していたのだろう。
座るように手で示され、ニコは書斎の隅に置かれていた椅子を引っ張り出して、アナの正面に置き、腰を下ろす。
その間に、アナも居住まいを正していた。先ほどよりは幾らか柔らかさを宿した双眸がニコを見つめている。
「それで、私にだけ折り入って伝えたいこととは何かしら? あなたの懺悔の中に、何か間違いでもあったの?」
「いいえ、間違いがあったわけではありません。でも……あのときは、言わなかったことがあるんです」
「私は、余すところなく語るように誓いを求めたわ。あなたは、誓いを破っていたの?」
「違います、決して!」
アナに無言で続きを促され、ニコはおずおずと語る。
「あの時、私は……自分が犯した罪を口にしました。懺悔とは、自分の振る舞いを省みることです、よね」
アナは、小さく頷いてくれた。自分は間違っていなかったと、安堵が胸によぎる。
「だから、私は私の過ちを口にしました。私以外の方の過ちは……懺悔には必要ないことです。まして、それには私の推測が混じっています」
自分以外の誰かの、しかも憶測交じりの言及など、自身の罪を告白する場には不要だ。そのように判断して、ニコが語らなかった部分があると、アナにも伝わってくれたらしい。
「つまり、自身の行いとは別に、見過ごしてはならない何かを目にしたと、私に教えに来たということ?」
「……はい。アナさんは、困っているときは助けを求めなさいと言ってくれました。私は……このことを誰に伝えてどうするべきか、困っています」
だから助けを求めてもいいと、ニコは自分に許可を与えた。黙ったままでいることで、結果的に自分に良くしてくれた彼らを裏切る結果になるのは、もう嫌だと思ったのだ。
「それで、あなたが目にしたものはヘイノやヨニには聞かせられないことでもある、と?」
「……ヘイノ先生に話していいか、私では分からなかったんです。話すべきかもしれません。でも、これはゲイリーさんに関わることでもありますから」
「あなたは、ヘイノやヨニをゲイリーさんに関わらせたくないようね」
「雇い主である、あの方を悪くは言いたくないのですが……ゲイリーさんは、ヘイノ先生の訪問のあと、先生を酷く罵っていたんです」
とても口にしたくないような罵詈雑言の数々に、一体何がゲイリーをそこまで不機嫌にさせたのかと竦み上がったほどだ。
ともあれ、ニコはそれを聞いたとき、ヘイノを彼に会わせてはならないと思った。ヘイノと同じ顔をしているヨニについても同様だ。
だからこそ、本当はヘイノに合わせる顔がないと分かっていつつも、教会の授業に再び顔を見せたのだ。
「ニコは、二人の身の安全にも気を遣ってくれていたのね。でも、私は必要だと思えば、彼らにあなたの目にしたものを伝えるでしょう。それは許してもらえるかしら」
束の間の安堵を裏切る言葉に、ニコの中に躊躇が生まれる。
「けれども、ゲイリーさんが二人を害することがないよう、注意を払うとは約束するわ」
「……アナ先生にとって、それが必要なことなら」
内心では、幾らかの抵抗があったが、ニコよりも一回り以上年上の大人がそこまで言うのなら、肯定するしかない。
「それに、あなたが思うほど、二人は柔ではないわ。たまには、大人しく守られてあげてはどうかしら」
「……私は、ヘイノ先生に守ってもらえるような子供じゃないです」
そんな資格もないと思う一方で、ヘイノに手を包まれ、話を聞かせてほしいと言われたときの安堵がどっと湧き上がる。つい、それに身を任せてしまいそうになり、ニコは小さく拳を握った。
「ともあれ、まずはあなたの目にした過ちを聞かせてもらいましょうか」
アナに促されて、本題に入るべく、ニコは背筋を伸ばす。
「私が先生と一緒に市場に行った日、ヘイノ先生は知り合いの酒場のおじさん……マウリさんという方とお話ししていました。その方は、お店で使う南の国の果物からできたお酒があると、私たちに教えてくれました。ぶどうという、枝から房のように果実がなっている、蔓を延ばす植物だそうです」
それがきっかけとなって、ヘイノはアナからわざわざ図鑑を借りて、ニコに貸してくれた。南の国の見慣れない果実はニコの興味を大いに刺激したが、気にするべきは今はそこではない。
「市場に行った後、私は一度家に戻りました。その後、空腹を紛らわすために家の掃除をしていて……それで、ゲイリーさんの部屋を掃除していた時に、見つけたんです。マウリさんやヘイノ先生が教えてくれたような植物の絵が貼られた瓶が」
短い期間ではあるが、ニコは同じ屋根の下で暮らす雇い主の生活をつぶさに観察していた。主人の機嫌を損ねないことが、使用人であるニコにとっては最も大事なことだったからだ。
ゲイリーは、食糧と共に度々酒を買ってきていた。帰りが遅くなってきてからも、何度か彼が酔って帰ってくる様子をニコは目にしていた。その様子からも、彼が酒好きであるのは間違いない。
「最初見た時は、ゲイリーさんが買ってきたお酒を部屋に置いているのかと思ったんです。でも、私が……家にいるようになってからも、毎日のように数が増えていって……」
一本や二本なら、飲酒を我慢してため込んでいるのかと思った。だが、その数が日増しに無視できないほどに増えていき、そうかと思いきや、不意に数が減ることがあった。
ゲイリーは空き瓶を酒を買った店に返すような殊勝な真似はしない。いつも、家の中に飲んだ空き瓶を放置していて、転がっていた瓶はニコが返却していた。
けれども、ニコがどれほど探しても、見慣れない南国の果実の絵を貼り付けた空き瓶は見つからなかった。
そして、極めつけは。
「……アナ先生が言うように、ゲイリーさんは昨日、私に『お酒も盗んで来い』と言いました。その時、『部屋にあるものは飲まないんですか』と尋ねたんです。そしたら」
――あれは俺のものじゃねえ。
――お前も、あれには手ぇ出すんじゃねえぞ。
ゲイリーは、確かにそう言った。さながら、忌々しいものでも目にしたかのように、目を逸らしながら。
彼に背中を蹴られるようにして追い出され、雨のそぼ降る道を盗みのために再び走りながら、ニコは疑問を抱いていた。
普段はニコのことを空気のように扱っている彼が、あれほどまでに警戒をするのはなぜか。それでいて、自分の好物に頑なに手をつけまいとするのは、どうしてか。
「……私は、ゲイリーさんもどこからかお酒を盗んできたんじゃないかと思ったんです。しかも、それを更に誰かに渡しているのかもしれません」
「そのようなことを言われれば、あなたが彼を疑うのも当然ね」
同時に、アナはニコが何故ヘイノたちの前でこの疑いを口にしなかったのか、その理由を悟った。
ヘイノたちをゲイリーに関わらせたくない。その理由以外にも、ニコは自分の雇い主の罪を、己の罪と並べることで、自分の罪を矮小化されるのを嫌がったのだろう。
(本当に……どこまでも強情な子なのだから。そういうところは、少しヘイノに似ているわね。似た者同士、気にかかったということかしら)
奇しくもヨニと同じことを思いながら、アナは質問を続ける。
「……そのお酒に貼られていた植物の絵は、確かに見慣れない果実だったのね?」
「はい。今日、ヘイノ先生から植物図鑑を貸してもらったんです。そのときに確かめました」
「ありがとう。そうなると、事態はもう少し複雑になりそうね。
アナは口元に手を当て、空いた片方の指でこつこつと机を叩く。その音にあわせて、一つずつ推理の糸を編み上げているかのように。
ニコの窃盗と、ゲイリーの行動は全く別物として扱わねばならない。それはそれとして、ゲイリーの不審な動きを知ってしまった以上、アナの立場としても、一人の人間としても見逃すような真似はできない。
「……あの、アナさん。もしゲイリーさんが本当にどこかからお酒を盗んで、それを使って何かをしようとしていたら……ゲイリーさんは、どうなりますか」
「あなたと同じよ。盗まれた人がどう判断するかによるわね」
自分の罪に言及されたからか、ニコの体に緊張が走る。ニコ自身、自分が被害者であるシニッカという人物にどうされたいのか、未だ答えは掴めずにいた。
ただ、このまま何事もなく日常に戻る自分の姿だけは想像できずにいる。それが、今のニコの答えだ。
「シニッカさんには、あなたの懺悔の内容を伝える手紙を出すつもりよ。ブローチの件やゲイリーさんの件が落ち着いたら、一度話をする場を設けるつもりでいるわ」
ならば、今はアナに状況を委ねようと、ニコはひとまず己の中の迷いを胸の奥深くに仕舞う。
「それで、ゲイリーさんの場合ね。彼がどこから盗んできたのか、何故そんなことをしたのかを明らかにしてから、被害者が彼の罪の扱いを決める。基本的には、あなたと同じよ」
ならば、ニコが今口にした内容により、ゲイリーには少なからず追及の手が伸びることになる。彼にとって、望ましくないことをしてよかったのかと、罪悪感がちらりと胸を掠めるが、
「ニコ、あなたがゲイリーさんの秘密を暴いたことで、あなたが更なる罪悪感を背負う必要はないわ」
まるで、ニコの心を読んだかのように、アナは少女の不安を言い当てる。
「たとえ、彼が本当に盗みを働いていたとして、それは彼の良心の問題よ。何もかもを自分の責任と感じるのは、それは優しさではなく傲慢というものよ」
「……はい」
「今は、あなたが信条としていた言葉に従ったまでと思うといいわ。……誰かの人生を左右したかもしれない選択を、すぐに飲み込むのは難しいでしょうから」
アナに示唆された逃げ道を、ニコは素直に受け取ることにする。他者の財を盗むなかれ。それは、確かにニコが信条と定めた、始祖の教えであるのは間違いないのだから。
「ところで、ニコ。仮にゲイリーさんが本当にお酒泥棒の犯人で、被害者の方が彼を告発して法の下で裁くと決めた場合、あなたはその後どうするつもりなのかしら?」
「どうって……?」
「実情はどうあれ、ゲイリーさんはあなたを雇い、同じ屋根の下で暮らすことを許していた。けれども、ゲイリーさんがいなくなってしまったら、あなたには行き場がなくなる」
保護者も雇用主もいなくなったら、身寄りのないニコには行き場がない。
ゲイリーの家は、たとえゲイリーが逮捕されても、彼の持ち物であることに変わりはない。勝手にニコが住みつけば、浮浪者が忍び込んだのと同じことになってしまう。
アナから指摘され、自分の未来を考えてみる。だが、先行きがまるで見えないのに、ニコは不思議とそこに恐れは感じていなかった。
「そうなったら、また誰か新しい人に雇ってもらうように頼みます」
「伝手はあるの?」
「ありません。でも、一軒一軒尋ねてみます」
途方もない苦労が続く日々となるだろう。それでも、誰かの家に忍び込んで盗みを働くよりは、堂々と顔を上げていられる。ならば、今はそれでいいと思えた。
「本当は、もっと早くにそうなるところだったんです。今までは、運よく沢山の人に助けてもらっただけですから」
「孤児院に行くという手もあるわよ。……もっとも、あなたはそろそろ十一になるんだったかしら?」
「今年で十二歳になります」
「そう。それなら、あなたの言うように働き口を探すように勧められてしまうかもしれないわね」
ヘイノがこの場にいたら、顔を顰めていたかもしれない。だが、事実として十を過ぎた貧しい子供は、大抵自ら働くように言われる場合が多いとアナは知っている。
寒空を一軒一軒訪ね歩いたところで、どこの出自ともしれない子供を雇おうという物好きは少ないだろう。
紹介状や親の伝手がない子供を家にあげるのは、よほどのお人よしか、よからぬ企てを腹に抱えた大人ぐらいだ。
「私の方でも、子供でもいいから世話人を探している人がいないか、あたってみるわ」
「ありがとうございます、アナ先生」
「さて、お話はこれでおしまい? そろそろ、子供は寝る時間よ。部屋まで一緒に行くから、今日はもう抜け出してはだめ」
今度こそ素直に頷きかえし、ニコはアナと共に客間に戻る。
彼女に促されるままに、ソファに横たわり、分厚い毛布の中に体を埋めた。
昨日まで使っていた、中身が平たくなった固い掛け布団ではなく、暖かな毛布に包まれる。それが、近いうちに無くなる温もりだとしても、ニコは今だけはしっかりとその温かさにしがみついていた。
部屋に戻り、アナは自分が書いた手紙に視線を落とす。中身は殆ど書き終わり、あとは結びの言葉とサインを入れればいいだけのはずだった。
だが、それを前にして、彼女は暫し考えた末にペンを取り、さらさらと一文を付け足した。
「私にも、あなたの考えが移ったのかもしれないわね、ヘイノ」
付け足した文章のインクが乾くのをまんじりと見つめてから、アナは今度こそサインを入れる。
少しばかり目の奥に痛みを感じ、目を瞑った。薄い闇に身を委ね、彼女は考える。
ヘイノのように、特定の誰かのために肩入れするでもなく。
さりとて、ヨニのように殊更に距離を置くのでもなく。
司祭として、多くの人の幸福を祈る立場として、自分が何をするべきかを思考し続けた末に、彼女は口を開く。
「……明日も、忙しい一日になりそうね」




