一章・十三話
「今日は疲れたから、軽いものでいいかな」
「それでいいでしょう。俺はなんだかお腹がすいた気分になれませんよ」
「そりゃ、あれだけ色々あったらね。お疲れ様、ヘイノ」
ニコから事情を聞いた、その後。ヘイノとヨニはキッチンに向かい、かなり遅くなってしまった夕飯の準備を始めていた。
午前のうちに下拵えは進めていたものの、話に思った以上に時間がかかり、すでに夜も遅い。夜中にお腹が痛くなっても困るだろうと、二人は手早く準備できるオープンサンドにしようと意見を一致させた。
「ヘイノ、火の準備をしてくれる? ゆで卵を作ろうかと思ってさ」
「わかりました。あとは、適当な野菜と燻製の残り物でいいでしょうか?」
「うん、それでいいんじゃない。今日はニコがいるし、具材は皿に置いて、自分で好きなように載せていくってのはどう?」
「その方が俺たちの手間も省けますね」
話をしながら、ヘイノは薪置き場から数本薪を取り出す。家に帰ってから、一度キッチンストーブに火は入れていたが、部屋にいないときは火を小さくしている。
ストーブの中で縮こまっていた火に少しずつ空気を入れて、火を大きくしていく。その様子を横目に、ヨニは具材を置く皿を食器棚から取り出していた。
「……俺は、ヨニの言う通り、一人で空回っていたんですね」
少しずつ膨れ上がる火を見つめながら、ヘイノは先ほどのニコの懺悔を思い返していた。
ヘイノにとって、ニコはゲイリーに虐げられる被害者の子供だった。実際、その面があるのは事実だろう。
だから、やむを得ず盗みを働いたとしても、それを許してもらえると分かれば、もっと素直に受け入れると思っていた。だが、実際はニコの心はもっと複雑な姿をしていた。
「ニコは、俺以上に自分が何をしたかを深く受け止めていました。なのに、俺はただニコが助けを求めたら、それで全て上手くいくと思っていたんです。……自分が恥ずかしい」
ニコにとって、許しは決して救いとは直結していなかった。
彼女自身、どうしたいのかは決まっていないのだろう。ただ、単純に「気にしなくていいんだ」と言われるだけでは納得できなかったということだけは確かだ。
「なんかさ。ニコとヘイノって、そういうところが似てるよね」
かちゃんと、皿を置く高い音が響く。振り返ると、ヨニがこちらを見ていた。その目は、駄々をこねる子供たちを見ているときにそっくりだった。
「自分の至らない所を見つけると、すっごく深みにはまって考えるところ。ニコは確かにヘイノが思った以上に色々考えていたのかもしれないけれど、それが全部正しいってわけでもないでしょ」
自分を虐めるような罰は、健全と言えるものではない。それは、ヘイノも薄々察していたことだ。
だからこそ、アナは懺悔の形をとり告解をさせたものの、彼女が罪人の形に収まりきるのを良しとせず、助けを求める子供になることを求めた。本人が率先してその中に飛び込めるほど、自分を許せていなかったとしても。
「ヘイノがニコのことを、すごく単純な『子供』として扱うのは、ニコにとっても必要なんじゃないかな。ほら、背伸びして成長した子供って、甘えるのが下手になるって言うし」
ニコの過ごしてきた十年とそこらの人生の中で、彼女は成長を強要されてきたのだろう。だが、少なくとも今は、ニコは背伸びをする必要はない。自分を雇った人の目もないのだから。
「……そうですね。ここにいるときは、彼女は俺の気に掛ける生徒。ただそれだけです」
「そうそう、その意気だよ」
ヘイノの背中を軽く叩いてから、ヨニはパンを置いている棚の扉を開く。
「俺がニコの年ぐらいの頃は、あんな難しいこと考えてなかったものなあ。さっきは横で話を聞いてて、最近の子供は随分と大人びたことを言うんだなあって感心しちゃったよ」
「最近のって、俺たちもニコとは大して年も変わらないでしょう」
「はは、それもそうか。とにかく、俺が子供の頃は、ちょっとした失敗をしても、あんなに自分に厳しくなかったってこと」
話しながら、ヘイノは自分の過去はどうだったのだろうと思う。当然ながら、ヘイノには子供の頃の記憶など何一つ残っていない。
ニコのように背伸びをしていたのか、それともヨニの言うように小難しいことなど考えず、思うままに生きていたのか。全ては記憶の闇に葬られたままだ。
「アナさんは、ニコの一件については、シニッカさんに任せるつもりなのでしょうか」
「そうだと思うよ。今回の事件は、シニッカさんとニコの問題だからね。とはいえ、シニッカさんなら悪いようにはしないだろうけど」
「そうですね。むしろ、ずっと会いたいと言っていたぐらいですから」
彼女なら、ニコの境遇を聞いたら間違いなく同情するだろう。ニコがそれを望むかはまた別問題だが、少なくともシニッカが望んで彼女を罪人として扱うとは思えない。
後は、教会の他の司祭たちがニコのブローチの件でどのような質問をするかだが、その点はアナに任せるしかない。見習いが横から口を出しても、余計に場をかき乱してしまうだけだ。
「シニッカさんといえば、ヘイノ。よくシニッカさんの家の家事を食い止められたね」
「食い止めたわけではありません。すでに出火していたところに、水をかけただけですよ」
ストーブの火へと視線を戻しつつ、ヘイノは答える。
「それでもすごいことだよ。暖炉とか、ストーブの炎ならともかく、寝室で燃えてたんでしょ。そんな状況に放り込まれたら、俺ならどうしたらいいか分からなくなりそう」
「正直なところ、俺も面食らいましたよ。何かしなきゃいけないとは分かっていたんですが、何をすればいいかすぐには思いつかなくて、頭が真っ白になりかけていました」
ブローチの危険性に気付いたときから、何かが起きていると覚悟はしていたつもりだった。だが、実際に燃えさかる炎を前にすると、一瞬思考が完全に停止したのも事実だ。
そんなヘイノを助けてくれたのは、シニッカの家の飼い猫だ。リクという名前のあの黒猫は、火事を食い止めた最大の功労者——功労猫と言ってもいい。
ヘイノがそのことを説明すると、
「動物って、俺たちが思う以上に色んなものが見えてるって言うからね。シニッカさんの猫も、とても賢い猫なのかも」
「シニッカさんにも、彼の活躍はちゃんと伝えておきましたから、今頃褒められていることでしょう」
取り止めもない話をしながらも、手は休めない。ストーブの中の火格子の奥で十分に炎が燃え上がったのを確かめていると、
「……ヘイノは、炎が怖くなかったの?」
その声は、これまでの世間話とは少しばかり違っていた。微かに硬さを帯びた声音が意味するのは、一歩間違えれば大惨事だったという状況への緊張だろうか。
「怖かったですよ。そもそも、炎は元々恐ろしいものでしょう」
暖炉から生じた火事や煙突内の掃除を怠ったことによる火災は、さほど珍しい話ではない。
大抵は、誰かが早期に見つけて火を消した、という話とあわせて語られているが、時に全焼を招くような悲惨な事故となる場合もある。
「いや、それはそうなんだけど。そういう一般論じゃなくてさ」
ヨニが何を言いたいのか分からず、ヘイノはストーブからようやく目を離して弟へと目を向ける。だが、ヨニの背中は見えても、彼の表情までは分からないままだった。
「暖炉とか、ストーブとか、燭台みたいに、あるべきところにある炎じゃなくてさ。本当はそんなところにあっちゃいけない炎って……ヘイノは怖くないの?」
「先ほども言いましたけれど、驚きはしましたよ。どうしたら、これを消せるんだろうかって」
「……うん。それなら、あの場にいたのはヘイノで良かったんだろうな。俺じゃあ、黒猫が教えてくれても気づかなかったかも」
ヨニのからりとした言葉は、それだけを聞いていれば、他愛のない雑談の一つとして聞き流せていたかもしれない。
(……でも、なんだか違う気がする)
具体的に、どこに違和感があるかなど分からない。
とはいえ、ヨニとはこの二週間行動を共にしていた相手だ。たとえ、記憶を失う前の関係を知らなくても、これまで積み重ねた時間の中で交わしたやり取りとの微細な差ぐらいは、感覚としてつかみ取れる。
「ヨニは、炎が苦手なんですか?」
質問を発した瞬間、ヘイノは自分が墓穴を掘ったとすぐに気がついた。
振り向いたヨニが、ヘイノに一瞬怪訝そうな表情をしたから——それもある。
だが、今までの暮らしの中で忘れかけていた過去の自分を、失われた『ヘイノ』の境遇を今更になって思い出したからだ。
(俺は……記憶を無くす前の俺とヨニは、故郷を無くしている。その原因は、村ごと焼き尽くした火事だ)
ヨニが不審げな顔をしたのも当然だ。ヨニにとって、火は自分の家族を奪ったものなのだから。
なぜ、兄はそれを恐れずに、果敢に立ち向かえたのかと思ったのだろう。
「苦手っていうか、まあ、人並みに怖いとは思うかな。暖炉の火とかはいいんだけどね。大火事みたいなのは恐ろしく感じるけど、それは誰だってそうか」
ヘイノが躊躇している間にも、ヨニはどんどん会話を進めていってしまう。
「だからさ、まあ、ヘイノは小さな火事ぐらいなら平気でよかったなって。なんか変な話になっちゃったな、ごめん」
朗らかに笑い、ヨニは会話をそこで終わらせようとする。
以前なら、ヘイノはヨニの軌道修正にありがたく便乗していただろう。
ヨニに疑われるのは、ヘイノが最も避けたいことだ。記憶喪失であることが露見したら、弟である彼を傷つけることになってしまう。ヘイノ自身も、自分という存在が揺らぐような不安に再び苛まれる。
だからこそ、危うさはあれど、空事を交えた兄弟としての関係を維持したい。その気持ちに変わりはないのだが。
(……でも、ヨニは本当に何も、気にしていないんだろうか)
一週間前にシニッカに言われたことを思い出す。
家族を失ったというのに、いっそ痛々しさを覚えるほどに明るく振る舞うヨニの姿とは、今この瞬間の彼のような振る舞いを指すのではないか。
そう思ったときには、すでにヘイノの口は動いていた。
「ヨニが、もし火のことで困ることがあったら、俺が代わりになんとかしますよ」
素早く瞳を瞬かせる弟の心情は分からない。ひょっとしたら、余計な疑念を与えてしまったかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「それなら、ヨニも少しは安心できるでしょう?」
「……んー、まあ、そうだね。それは確かに助かるかも」
今度は、自然に浮かべたとわかる笑みを口の端にのせて、ヨニは頷き返す。
「じゃあ、その時はよろしく。ついでに、今日の暖炉の火消しも頼んでいい?」
「今日はヨニの当番じゃありませんでしたか?」
「あ、そういうのはだめなんだ」
「当然です。当番は当番ですから。大体、これまでは問題なくできていたでしょう」
油断も隙もない、とわざとらしく叱ってみせると、これまたヨニも芝居掛かった様子で肩をすくめて見せた。
これまで通りの二人のやり取りを続けながらも、ヘイノは気付かれないように注意して弟の横顔を見やる。そこにはもう、先ほどヘイノに向けた怪訝そうなものを見る気配は残っていなかった。




