一章・十二話
――仕方ないんだよ。
それが、ニコの母の口癖だった。
暮らしが貧しいこと。仕事を解雇されたこと。綺麗な服が買えないこと。いつもお腹を空かせていたこと。薄い毛布にくるまり、凍えながら過ごすこと。
幼いニコが不満を漏らすたびに、母は言っていた。「仕方ないんだよ」と。
その口癖は、いつしかニコにとって唯一の母の思い出となっていた。
ニコの母は、独り身でニコを育てていた。父の姿は家にはなかった。その理由を、母は語らなかった。
とても冷えて、雪が降り積もった日の晩。通いの雑役婦として仕事をしていた母は、帰り道の階段で足を滑らせ、頭を強く打って帰らぬ人となった。
近所に親戚すらいないニコは、天涯孤独の身の上となった。まだニコが七つになったばかりの頃のことだった。
本来なら、ニコは孤児院に送られていたことだろう。だが、申し訳程度に建てられた墓碑の前に一人ぽつんと佇むニコを哀れんでくれた人がいた。
「あんた、うちの近所に住んでた子だろ。あんたのお母さん、いつかくたばっちまうんじゃないかと思ってたけど、まさか本当にそうなるとはね」
歯に衣着せぬ物言いをする大柄なその女性は、近所に住んでいたコスネン夫人だった。
「あんたさえよければ、うちに来るかい。うちにはあんたよりも小さい子が山ほどいるからね。その子守りが必要なんだよ」
今思えば、たかだか七歳の少女など子守りとしても使い物になるか怪しいところだっただろう。子守りという建前は、コスネン夫人なりの優しさだったのだ。
一も二もなくニコが頷くと、コスネン夫人は厳めしい表情を作ってきびきびと言った。
「よし、それなら今からあんたはうちの子守りだ。ただし、あんたはうちのルールに従うこと。分かったね」
彼女の厳しい物言いに、ニコは最初たじろいだ。だが、すぐにコスネン夫人はその顔に声と違わぬ豪快な笑みを浮かべ、
「一番大事なルールは、あんたは正直でなくちゃいけないってことさ。あたしゃ、嘘つきが一番嫌いなんだ」
そうして、ニコはコスネン夫人の元で、子守りと雑用係を兼ねた仕事に就いた。仕事をこなしたといっても、所詮は七つの子供のやることには変わらない。
ミスは何度もしたし、病気になって寝込んだこともあった。それでも、コスネン夫人は自分の子供と変わらずに薬を与え、休みをとることを許してくれた。
彼女の優しさに触れるたびに、ニコはそれに甘えてはならないと己を戒めた。自分は、彼女にとっては赤の他人で、同情で雇われ、ミスを見逃してもらっているに過ぎないのだと。
コスネン夫人は、『太陽の日』には必ず礼拝に赴く、熱心の信徒でもあった。その日だけは、使用人たち全員に休みをとらせるほどだった。
「始祖の言葉さえ頭にたたき込んでおけば、どんなに抜けたところがある子供も、性根だけは真っ直ぐに育つ。それが、うちの母さんの口癖だったのさ」
コスネン夫人の言葉を胸に刻み、ニコは真摯に司祭の語る始祖の言葉に懸命に耳を傾けた。
司祭たちは、ニコに度々声をかけていた。
身寄りのないニコを引き取ったコスネン夫人への感謝の念を忘れず、その言いつけによく従うように。それは、司祭が町の管理者であると同時に、教会に通う全ての人々を庇護する存在という自負から生じた言葉だったのだろう。
「ニコレッタよ。己の出自が分からずとも、不安に思う必要はありません。隣人を慈しみ、人を謀らず、他者の財産を害さない。それこそが、善良に生きるために最も肝要なことなのです」
心も体も少しずつ成長し、自身の両親について懐疑や不安を抱いたニコを、司祭はそう諭した。
女神が齎した慈悲を惜しみなく人々に与えた、心優しい少女だったという始祖の教えに従う。良き心を持って生きることこそが、自分の出自すら知らないニコにとっては必要な心の軸だった。
平日は子供の面倒を見て、休日は夫人が貸してくれた聖典に目を通す。忙しくも、ニコにとっては充実した毎日だった。分からない文字は、自分よりも何倍も年上の同僚たちが教えてくれた。
だが、平和な日々はいつまでも続かない。ニコが十歳になったとき、再び転機が訪れる。
「うちの人が胸を悪くしてね。なるべく暖かいところで暮らすようにって言われちまったんだよ。ただ、南の方の町ってなると、家だけでも目玉が飛び出るような値段なんだ」
コスネン夫人の家は、決して裕福ではなかった。療養による転地は家の財布を容赦なく締め上げ、結果として彼らは使用人の数を減らさなくてはいけなくなった。
残されたのは、次の働き口が見つかりにくい年配の使用人のみ。ニコは別の仕事を探してほしいと頼まれた。
「うちの遠縁の親戚は、もうちょっとお金に余裕があるそうで、一人ぐらいなら引き取ってもいいと言ってくれてるんだ。あんたは器量も悪くないし、仕事の飲み込みも早い。きっとすぐに気に入られるよ」
本音を言うなら、ニコはコスネン夫人と共に転居先にも向かいたかった。だが、逆境の中でも精一杯きびきびと振る舞う夫人の姿を見て、そんな我が儘を言える場面ではないのだと言葉を飲み込んだ。
新たな職場は、残念ながらコスネン夫人のところのようにニコの子供としての欠点――体力不足による仕事量の少なさや、体調を崩しがちな部分を許容してくれなかった。
休みをとることは許されたが、その分容赦なく数少ない休暇や給金が差し引かれた。その度に、ニコは母の言葉を、「仕方ない」と繰り返していた彼女の口癖を思い返していた。
コスネン夫人の元では、自分の持ち物が少ないことや、同年代の少女のように学校に通えなかったことに向けて、「仕方ない」を口にする場面はあった。
だが、新たな職場では、その「仕方ない」はより多岐にわたった。
他の使用人より掃除に時間がかかること。汚れが残っていて奥様に叱責されたこと。氷のような冷たい水で洗濯をしなければならないこと。家の子供に泥を投げられたこと。アイロンで火傷をしたこと。手が傷だらけになって痛んでも、薬を買うお金もないこと。
それらは決して楽なことではなく、時には悪態の一つもつきたくなる場面もあった。その度に、ニコは司祭が自分に告げた言葉を思い出すようにした。
隣人を慈しみ、人を謀らず、他者の財産を害さない。やるせない苛立ちを覚える度に、ニコは深く自省し、始祖のように寛大な慈悲深さを持つように己に命じた。
実際、ここを飛び出したら孤児のニコに行き場などない。仕事は大変でも、屋根の下で暖炉のある部屋で眠れて、一日二食の賄いをもらえるだけで孤児には恵まれた待遇だった。
都会の孤児院では、食事の量が足りずに施設にいても飢え死にする例もあると聞いたことがある。それに比べれば、少々の疲労がなんだというのか。
しかし、ようやく多少は仕事を効率よくできるようになった頃、ニコは雇用主である奥方に呼び出された。
「明日限りで、あなたには辞めてもらいます。明後日から、あなたはうちの大叔母が押しつけられた甥っ子の世話をしにいくのですよ。あそこは、使用人の一人も雇っていないそうだから、あなたのような小さな子でも何かの役には立つでしょう」
どうして、と疑問を投げたものの、奥方はとりつく島もなかった。途方に暮れたニコが同僚に尋ねたところ、彼女はニコを呆れかえったような目で見て、
「あんた、気付いてなかったの? 坊ちゃまがあんたを見る目、ありゃあんたに気があるんだよ。あんたみたいな、どこの誰とも知れぬ娘に懸想されちゃたまったもんじゃないって、奥様は思ったんだろうさ」
ニコには全く理解できない理由だったが、辞めろと言われたのに居座るわけにもいかない。かくして、ニコは小さな鞄に最低限の荷物を詰め込んで、奥方が用意した馬車に揺られて、一人の男性の家に向かった。
港町にほど近く、ニコの故郷よりもずっと南にある町――ティモ。そこに暮らす、ゲイリーという男がニコの新たな雇い主となった。
***
「そうして、ニコはゲイリーさんの家に預けられた……いえ、ゲイリーさんに雇われたのですね」
ヘイノの確認に、ニコは静かに頷いた。ぱちりと、暖炉の薪が爆ぜる高い音が響く。
二人は今、ヘイノの家の客間にいた。正確には、その場にはヨニもアナも同席し、ニコの言葉に耳を傾けていた。
シニッカの家のひと騒動から、すでに数時間の時が経過していた。
危険物であるブローチを抱えていたヘイノは、後を追ってきたアナとヨニと合流するやいなや、ブローチをどうすればいいかを尋ねた。大まかな事情を聞いたアナは、ブローチはティモの教会に持ち込み、扱いについて他の司祭と共に確認すると請け負ってくれた。
一方、ヘイノたちはこれから帰宅するであろうシニッカへの説明役を任された。程なくして戻ってきたシニッカは、火事が起きかけたと聞いて大層目を丸くしていたが、
「まあまあ、誰も怪我をしなかったことが一番大事ですよ。それよりも、今はその子を休ませることが先でしょう」
皆の無事を労ってから、シニッカは憔悴しきったニコの様子を気遣ってくれた。ヘイノが火を消し止め、彼女と言葉を交わした後から、ニコは一言も発していなかった。
沈黙を守っているというよりも、すっかり疲れ切って、一言も口にする気力がないといった様子だった。
だが、シニッカの申し出のときだけ、ニコは首を横に振った。ヘイノたちとしても、すでに日が落ちかける時間帯になっていたこともあり、いつまでもシニッカの家に滞在するわけにもいかないと、ひとまずニコを連れて家に戻ったのである。
その後、家の中を暖め、客間にてお茶の準備を済ませた頃、ニコはようやく貝のように閉ざしていた唇を開いた。
「……ヘイノ先生。少し、お話ししてもよいでしょうか」
それが、ヘイノが数時間前に言った『ニコのことを教えてほしい』という言葉への、時間を越えた返礼だと、ヘイノはすぐに気がついた。
「疲れているようなら明日でも構いませんよ。今日は、色々あってくたびれたでしょう」
「いいえ。もしできるなら……今、話をさせてください。お願いします」
その瞳に張り詰めた緊張は、今すぐに己の行いを罰してほしいと願う罪人のそれに似ていた。
(……俺が、ヨニに向ける目も、もしかしたらこんな感じだったときがあったのかもしれない)
一抹の罪悪感を抱えていることに耐えきれず、誰かに糾弾してほしい。そんな願いを抱いた経験はヘイノにもある。だからこそ、ニコが何を思っているのか、ヘイノにも察せられた。
だが、今ここでシニッカの家に忍び込んだときの状況を語らせれば、彼女は自分で自分を罰するような形で話をしようとするだろう。それはヘイノの望むところではなかった。
「では、ニコがこれまでどうやって暮らしていたかを教えてもらえますか。できれば、ティモに来る前から」
なので、ヘイノは敢えて話題の内容を、盗みの部分からずらした。
「……え?」
「俺は、ニコのことを教えてほしいと言いました。それは、ニコがこれまで生きてきた全部、という意味ですよ」
「そういえば、俺もニコの出身とか、この町で何をしてたのか、全然聞いてないな。そもそも、ニコの出身ってティモなの?」
ヨニの質問に、ニコはふるふると首を横に振る。
「じゃあ、まずはどこの生まれか教えてよ。俺たち、すっごい北の方にある田舎の出身だから、他の町のこととか知らなくてさ。せっかくだから、ニコが暮らした町のこと、聞きたいな」
どうしたって固くなりがちなヘイノの問いかけとは逆に、ヨニはさも軽い雑談の延長であるかのようにニコへと話しかけた。
ヨニに促され、ヘイノに小さく頷いてもらい、それらを切っ掛けとしてニコは語った。自分がこれまでどのように暮らしてきたかを。
途中で帰ってきたアナも交えて、三人は小さな語り部の言葉に耳を傾けた。
辿々しくもニコが語った内容は、ヘイノの予想を遙かに上回る凄絶なものだった。
コスネン夫人の元を離れた後のニコの生活を思えば、寒さに身を震わせながらも学校に通える時間を確保できる今の方が遙かにましではないかと思えたほどだ。
(でも、そうしなければ、ニコは生活する場所も得られなかった。そのような現状を、受け入れたくはありませんが……)
かつて、ヨニが語っていた言葉がヘイノの中で蘇る。全く同じではなくとも似たり寄ったりの境遇の人は、さして珍しいものでもない。
仕方ないと諦めたくはないと、ヘイノは小さくかぶりを振る。そのささやかな抵抗が、今のヘイノにできる精一杯であった。
ゲイリーに雇われるまでの経緯を聞き終えた後、束の間の沈黙が生まれた。アナがティーカップをソーサーの上に置く固い音が周囲に響く。
「あなたがどのようにして彼の元で働くようになったかは、分かったわ。では、あなたがどうしてシニッカさんの家に忍び込んだのか、その理由も聞かせてもらおうかしら」
アナが本題に切り込んだ瞬間、ニコの顔に強張りが生まれる。それは先ほど後回しにして誤魔化していた、彼女自身の罪悪感が再び表われた結果でもある。
「……私は」
「アナさん。……今日はここまでにはできませんか」
意を決して口を開いたニコを遮り、ヘイノが横から言葉を挟む。
本題がそこにあるとは分かっていても、ニコの今の様子はあまりに痛々しい。自らの罪を自分の口で語れと言うのは、あまりに過酷なように思えた。
「ニコのこれまでの話からも、彼女が好んで他人の家に足を踏み入るようなことをするとは思えない。少なくとも、俺はそう思いました。今は、それが分かれば十分ではありませんか」
「私も、その部分を疑うつもりはないわ。時間があるのなら、ニコの心が落ち着くまで待ってもよいのだけれど」
まるで急がないといけない理由があるかのような物言いに、ヘイノは眉を寄せる。
「……何かあったのですか?」
「ブローチのことよ。ティモの教会の司祭に聞いても、やはりあのような聖石が販売されるという申し出は出ていなかった。そうなると、誰がどのように持ち込んだのかを確かめる必要がある」
「ニコは重要な参考人ってことになるわけだ。それはあまり良くない話になるかもしれないね」
ヨニは既に話の流れを察したらしいが、ニコもヘイノにも今一つピンとこない。二人して顔を見合わせていると、
「教会の人たちは、ニコにどのようにしてこれを手に入れたのかを尋ねるでしょう。その過程で、私やヘイノたちにもニコが不審な行動をしていないか聞かれるでしょうね。その時、ニコの窃盗について黙っているわけにはいかなくなるわ」
「教会の人たちは、ニコの人となりを知っているわけじゃない。ニコが悪意を持ってシニッカさんの家にブローチを置いていったかもって、疑うかもしれない」
二人の発言を聞いて、ニコは咄嗟に声を張り上げた。
「私、あの家に何かしようと思ったわけじゃないです……!」
「その言葉を信じるためにも、あなたがどのような考えからシニッカさんの家に忍び込んだのか、その経緯を知る必要があるのよ。明日にでも教会の人が質問しに来たとき、私たちがあなたを庇えるだけの言葉を用意するために」
「それでも、ニコの言葉を聞かずとも、一目瞭然ではありませんか。ゲイリーさんの評判からも、彼がニコを真っ当な形で雇用しているとは思えません。十分な食事も用意していなかった結果が、今回の件に繋がったのでしょう」
ヘイノはニコのそばに立ち、彼女の細い肩に視線を送る。しかし、ヘイノの弁護をアナは冷えた眼差しで一蹴した。
「ヨニから聞いたわ。あなたは、ニコの家に何度か訪問していたそうね。ゲイリーさんとも直接会ったことがあるとか」
隠していたつもりはないが、まるで秘密を暴かれたような居心地の悪さがヘイノを襲う。
「……黙って行動したことは謝ります。ですが、それはニコに直接話をしてもらう理由と関係があるのでしょうか」
「薄々自覚しているかもしれないけれど、あなたはニコを思う一方で、多かれ少なかれ偏見の目でゲイリーさんを見てしまっている」
アナに図星を指され、ヘイノは口を噤む。実際、ヘイノはニコの身を案じるあまり、彼女を労働力として雇っていた人間に対して良い感情を持てずにいた。その中には、当然ゲイリーも含まれている。
「あなたにとって、ゲイリーさんはニコを酷い目に遭わせた相手のように見えているのでしょう。実際、その推測は当たっているのかもしれないわね」
アナの目も節穴ではない。ニコの服装や顔色、そして食糧だけに執着した彼女の行動からも、これまでの雇い主のように必要最低限なものすら十分に与えられていないのだろうとは察していた。
「けれども、それがニコが泥棒を働いた理由として決めつけて、詳細を曖昧にするのは、司祭の選択としては感心できないわね」
「俺たちは、どんな人の言葉も平等に聞かないといけない立場だからさ。ま、俺にも『見れば分かるでしょ』って言いたい気持ちはあるわけだけど」
そこで言葉を句切り、未だに迷いを瞳に宿しているヘイノをじーっと見つめつつヨニは言う。
「このままだと、ヘイノは『ニコは何も悪くない』って言うでしょ? それは流石に無視できないかなって」
ヘイノは何も言い返さなかったが、その瞳は『それの何が間違っているのか』と言わんばかりだった。
ヘイノにとって、ニコが盗みを働いたことは悲しいが、責めるとしたらそれはニコに対してではなく、彼女を取り巻く環境に対してだ。そして、その筆頭が現在の雇用者であるゲイリーであることには変わりない。
だが、ヨニはそんなヘイノの論拠すらも見透かしたように、
「どれだけ飢えていても、どれだけ苦しい思いをしていても、何も盗まずにいる人だっているわけだからね」
「――――っ」
「だったら、ヨニはニコはずっと我慢しているべきだったと言うんですか!」
小さく息を飲んだニコに代わり、思わず声を荒らげたヘイノ。それを制するかのように、パンパンと乾いた音が響く。アナが手を叩き、二人の言い合いを中断させた音だ。
「あなたたち、ここで喧嘩をするのはやめなさい。当事者が何も言い出さないうちに、勝手に話を進めるものじゃないわ。目に余るようなら、二人ともつまみ出すわよ」
「……すみません」
アナの言うように、この場で重要視すべきはニコの心情だ。ヘイノはつい先回りして彼女の気持ちを語ったつもりでいるが、ニコは「話したくない」とは一言も言っていないと、今更ながら気付かされる。
「先ほども言ったように、教会の司祭として私は現状を正しく把握する必要がある。ニコにとって不要なはずのお酒が持ち去られていた理由も、ね」
アナが付け加えた内容に、兄弟は揃ってハッとした顔になる。ニコが忍び込んだことばかりに気を取られていたが、彼女の侵入と考えても不可解な部分は残る。
アナはソファから立ち上がると、ニコの前にやってきて彼女を見下ろす。膝を折って視線を合わせないのは、今の彼女が司祭として罪人に接していると意識しているためか。
「『隣人を慈しみ、人を謀らず、他者の財産を害さない』。それは、始祖が自らの弟子に説いた言葉の一つよ。あなたは、これまでそれを遵守していたと語っていたわね」
「……はい。ですが、私は他者の財産に手を出しました。私は、罪を犯したんです」
一足飛びに結論を語るニコに、アナはゆっくりと首を横に振る。
「罪を犯したかどうか判じられるほど、あなたは自分自身を客観的に捉えられているようには見えないわね」
「でも、私は確かに間違ったことをしたんです。アナさんの目にも、そう見えているのではありませんか」
食い下がるニコの要求は、罪を見逃してもらうことではないと、アナも既に理解していたのだろう。裁かれたがっている頑迷な罪人を前にして、
「客観的に貴方の罪を知るためにも、私はあなたに何があったかを知る必要がある。それを聞くまでは、私はあなたを罪人とは扱えない」
「でも、それは言い訳です。ヨニ先生の言うように、私は耐えることも……できたはず、なんです。だから、私は間違っているんです」
それなのに、とニコは自分の膝の上に拳を握ったまま俯く。力を込めすぎているからか、その小さな手は先ほどからずっと震えていた。
その言葉は、ヘイノたちが言葉を交わしている間――いや、ひょっとしたら事が起きてからずっと、彼女の胸に残り続けていた言葉なのかもしれない。
「そこまで言うのなら、今はあなたを罪人として扱ってもいいでしょう。そのうえで、あなたの告白……いいえ、懺悔を聞かせてもらえないかしら」
「……懺悔」
懺悔という言葉を聞いた瞬間、ニコの拳の震えがゆっくりと収まる。
(……ニコにとっては、ただの状況の説明よりも、懺悔という言葉の方が話しやすいのだろうか)
彼女の変化を傍らで見守りながら、ヘイノは思う。
あくまで、ニコは自分が間違いを犯したという形に固執している。仕方ないというその場しのぎの言葉に逃げずに、自分の罪を誰かに咎めてほしいと願っている。
そんな必要はないよ、と言いたい。君の犯した罪は、君のせいではないと否定してあげたい。
だが、それはあくまでヘイノの望みであり、ニコの望みではない。
ニコはソファから立ち上がり、アナの前でひざまずく。手を祈りの形で組み合わせるそれは、まさに罪人が司祭に罪を打ち明けるときの姿そのままだ。
「……司祭さま。どうか、私の懺悔を聞いていただけますか」
「聞きましょう。ニコレット・ラヤラ。あなたは余すところなく、全てを偽らずに語ることを誓いますか」
「――誓います」
その儀式は、自罰の念に囚われた少女の頑なな心を解きほぐし、彼女の弁護に繋がる話も、そうでない話も全て語るために必要なものだったのだろう。
それでも、ヘイノは心の片端に、彼女が懺悔する必要などないだろうという気持ちを抱く。
たとえ表だって口を挟むことはできずとも、そんな風に問答無用で味方になってくれる誰かがいてもいいはずだ。ニコの口から語られる懺悔に耳を傾けながら彼はそう思った。
「……私がゲイリーさんの家で働き始めた頃は、最初は戸惑っていらっしゃったようですが、やがて使用人としての私を受け入れてくださいました。ゲイリーさんは経済的に豊かとは言い難い暮らしのようでしたが、それでも日々の糧を得て、私にも分け与えてくださいました」
ゲイリーは、最初こそ突然押しつけられる形になった子供に怪訝そうな顔をしていた。
だが、家事が碌にできなかった彼にとって、部屋を整え、料理もそれなりにできるニコはまあまあ『使える』と思われるようになっていた。
「でも、ある日からゲイリーさんの帰りが酷く遅くなるようになりました。一方で、突然早く帰ってきたと思ったら食事もとらずに寝てばかりなこともありました」
仕事はどうしたのだろうかと疑問はあったが、ニコは雇い主とは極力会話をしないようにしていた。それは、前の職場で培ってきたニコなりの処世術でもあった。
だが、ゲイリーがどこで何をしているかには不干渉であっても、彼が食事や薪を十分に買ってこなくなるのは、ニコにとっては死活問題であった。
「家はすっかり冷え込み、保存食もついに底が見えるほどになってしまいました。ゲイリーさんは外で食事をしていたようですが、私には……食べるものが必要でした」
目減りしていく保存食を守るために、少しずつニコは食事の量を減らした。前の雇用主の下で稼いだ貯金を少しずつ使い、食料や薪を買い求め、空腹と寒さを紛らわせていた。
きっと、ゲイリーには何か外でやらねばならない仕事があり、使用人に気を回す余裕もないのだろう。彼の生活が落ち着いたら、食事については相談しよう。
そう思ったものの、ニコが話しかけても彼は不機嫌そうに睨むばかりで、食事のことを口にしても「適当になんとかしろ」と言うだけだった。
ニコの貯金もさほどの大金ではない。、いよいよ残っている貯金もあと僅かとなった頃に、ニコにとって一つの誘惑が訪れた。
「……あの日、ヘイノ先生たちと一緒に私は市場に行きました。薪の代わりに使えそうなブローチを破格の値段で譲ってもらって、これで暫くはしのげると思ったんです」
けれども、思いがけない形で、彼女の忍従は試されることとなった。
「そのとき、先生が……私にパイを食べさせてくれたんです。その時に、私は一つ目の過ちを犯したのです」
ずっと宥めすかしていた空腹は、久々に食べたまともな食事のせいで、より強く存在を主張し始めた。
時間が経てば経つほど、あれと同じものをもっと食べたいと思ってしまった。その衝動は、まるで、体の内側で獣が大暴れしているかのようだった。
運悪く、ゲイリーが貯蔵庫の食料を持っていってしまったのか、家には食べ物がなかった。
夜になっても、案の定ゲイリーは帰ってこなかった。そしてニコは、まるで飢えた獣が獲物を探し求めるかのように、夜の町へとさまよい出た。
店の殆どが閉まっている時間であることは、ニコも承知の上だ。いつしか、彼女の足はヘイノたちがいる教会へと向かっていた。
「浅ましくも、私は先生たちから再び施しを与えられないかと考えていたのです。ですが、幸いにも教会は施錠され、中に人の気配もありませんでした。そこで、私は諦めるべきでした」
しかし、ニコの中に生まれた食べ物への衝動は、何か口にするまで彼女の安寧を許さなかった。
そんな時、偶然見つけてしまった。まるで、暗闇に惑う旅人を導く灯りのように突如差し込んだ光の下、勝手口から姿を見せた婦人を。
彼女が外にいる猫に呼びかけた後、食べ物を庭に置いて姿を消す場面を。
ニコはあくまで垣根の外を彷徨いていただけだが、シニッカは敷地の近くに野良猫が迷い込んだと思い込んだ。その誤解は、ニコにとっては一つの導きのように思えた。
「垣根を歩いていたら、小さな抜け穴を見つけました。そこからなら、庭に入れる。そしたら、あの人が置いていったご飯が食べられるかもしれない。野良猫にあげるためのものなら、私が食べてもいいじゃないか……と、そう思ってしまったのです」
そこからは無我夢中だった。
首尾よく敷地内に忍び込んだニコは、気がつけば庭に並んでいた夕飯の残りと思しきものを全て口に入れていた。だが、空腹の獣は、いっときは宥められても、翌朝になると再び牙を剥いた。
その日は店も全て閉まっている。何かを食べるなら、あそこに行くしかない。いつしか、ニコの狭まった思考はそのような結論をはじき出していた。
「……『太陽の日』なら、家の人も皆教会に行っているでしょう。あの庭なら、食べるものがまた出ているかもしれない。そう思った先で、気がついてしまったのです。あの家の扉に、鍵がかかっていなかったことに」
ニコは、そこで強く唇を噛みしめた。これまでの行いは、まだ辛うじて人の庭に迷い込んだだけと言い訳ができる範疇だ。
だが、この先はもう取り繕いようがない。少なくとも、ニコにとっての明確な罪はこの先にある。
「私は、あの家に無断で入りました。倉庫にあったものを食べました。何度も入らなくていいように、中のものを……盗み、ました」
最後の言葉は、自分の血を搾り出すような呻き声のような音だった。
「……私は他人の財産を盗んだのです。それが、私の罪です」
そこまで言い切り、沈黙が落ちる。アナがまだ続きを待っていると感じたのか、ニコは恐る恐る項垂れていた頭を持ち上げた。
「これが、私の犯した罪の全てです」
「いいえ。それが全てではないことは、あなた自身もよく分かっているでしょう」
「私は偽りは話しておりません」
「信じましょう。けれども、あなたは、自らの沈黙により隠していることがあるのではなくて?」
アナの静かな反駁に、ニコは視線を泳がせる。それこそが、彼女が敢えて口にしなかった何かがあることの証明だ。
「あなたの二度目の窃盗では、お酒も盗まれていた。空腹を満たす必要のあったあなたが、不要なものをわざわざ盗んだ理由は何かしら。そのお酒を誰かに売って、お金に換えようとしたの?」
「ち、ちがいます!」
自身の罪は滔々と語れても、謂れのない罪を押し付けられるのは認められなかったのだろう。ニコは顔をあげ、ぶんぶんと首を横に振る。
「そうではないのなら、誰かに頼まれたのかしら」
「それは……」
「たとえば、お酒を買うほどの余裕がない人が、同じ家に住んでいる子供が、どこかからか食べ物を盗んでいるのに気がついたとして。ついでにお酒も盗んできなさいと頼むことも、あるのではないかしら」
ニコは、自分が盗みを働いた原因が空腹にあることは話した。
彼女にとっては言い訳めいた内容だったかもしれないが、罪を犯した理由を伏せていては、懺悔という形式にすら逆らうことになる。そのような振る舞いは、信心深いニコにとっては許しがたいものだったのだろう。
しかし、敢えて語らずにいた部分もあることを、アナは――そして、同席しているヘイノたちも見抜いていた。
「……でも、その子供は、頼みを断ることもできたはずです」
「そうね。受け入れるか、断るかは良心に委ねられるわ。だからこそ、私はあなたの良心の行方を問わねばならない。その良心が歪められる何かがあったかどうかも含めてね」
素直に受け入れたのか、そうでなかったのか。それを知ることも必要だと言われてしまえば、罪を告白する側としては隠すわけにはいかない。
「……ゲイリーさんは、お願いをする前日に訪れた司祭さまに、私の罪を伝えると言いました。ですが、私はそれを受け入れるべきだったのです。だって、私が盗みをしたのは本当で、それを先生が知って幻滅しても……それは、私の罪に対する当然の罰なんですから」
今までどうにか体裁を取り繕っていたニコの言葉が、崩れる。濡れたその声に、それ以上黙っていられずヘイノは静かに口を挟んだ。
「俺は、幻滅などしませんよ」
「――――」
「悔悛の機会もあったのに踏みとどまれなかったことは、司祭として悲しむべきなのだとは思います」
ニコの顔が、くしゃりと歪む。その瞬間、ヘイノは彼女の切羽詰まった様子が何から生まれたのかを悟った。
彼女が最も恐れていたのは、盗みが誰かに露見することではない。あるいは、自分自身を裏切ったことでもない。
それもあったのかもしれないが、彼女が真実恐れていたのは、自分に優しくしてくれた人の心を裏切ってしまったことだ。
すでに取り返しのつかない状態になってしまっても、それでもせめて、知らせずにいることで、自分に関わった人の名誉と平穏を傷つけずにいたいと考えていたのだろう。
「ただ、俺個人としては、ニコがそのような決断を迫られていたのに、これまで気づけずにいた俺自身を省みなければならない。そう思っています」
「そんな。先生は何も悪くないです!」
「ニコ、ヘイノは『悪い』とは言っていないわ。ただ、省みなければならない点はあった。私も、ヘイノにも、ヨニにもね」
アナはそこでようやく司祭としての顔を崩し、人を安心させる柔らかな微笑を浮かべる。
「あなたは、己の罪は自分の不徳が招いたことだと自省を促し、他者に責任を求めなかった。それは、忍耐と慈愛を説く始祖の教えに従った、とても尊いことよ」
そんな言葉をもらう価値もないと思ってか、ニコは項垂れる。
アナはニコの消沈を見つめたまま、静かに続ける。
「でも、一つだけ。あなたに言わなければならないことがあるわ」
「……どれだけ理由があっても、他人のものを盗んではならない、ですか?」
「いいえ。困っていることがあるのなら、もっと周りを頼りなさい、ということよ」
ニコがこれまで積み重ねた人生は、忍耐こそが肝要であり、他者に頼らない自立が最善の生き方だという考えを、彼女に強く焼き付けていた。
だからこそ、ニコは自身の窮状を誰かに訴えようとはしなかったのだろう。
「残念なことに、私も、そこの見習い二人も、始祖のように一を聞いて全てを知るほどに聡くはない。だからこそ、あなたには……いいえ、あなた以外の誰であろうと、苦難の際には誰かに救いを求める方法もあるのだと知っていてほしいの」
アナは膝を折り、ニコと正面から向き合う。ニコはおずおずと、アナを見上げていた。
「アナさん。私は、全てを話しました。アナさんの目から見て、私は罪を犯した者でしょうか」
ニコにとって、これまでの言葉はアナの結論を導き出すためのものだった。どこか期待すら込められた視線を前にして、アナは薄い笑みを返す。
「そう判断できる部分もあるわね」
「だったら」
「でも、その罪にどのような贖いを求めるかは、私が決めることではない。ここにいる誰にも決められない」
あなたにも、とアナはニコの頭に手を置く。
「あなたは随分と自分を厳しく罰したがっているようだけれど、その願いを叶えられるかは、あなたの罪により財産を傷つけられた者……つまり、あの家の人がどう判断するか次第よ」
ニコはまだ納得できていないようだったが、アナはそれ以上は言わなかった。代わりに、先ほどの毅然とした面差しのまま、彼女は言う。
「ニコ。司祭としての私が、罪人としてのあなたにできることはここまで。でも、困っている子供を前にした大人として、今のあなたにやってほしいことはもう一つあるの」
一体何の話をしているのだろうかと、怪訝そうな顔をしたニコに、アナはわざとらしいまでのあっけらかんとした調子で言う。
「それは、先ほど既にあなたに教えたと思うのだけれど」
その示唆で、ニコも何を求められたのかを悟ったのだろう。不安げに眉を寄せ、周りで様子を見守っているヘイノやヨニにまで視線を向けている。
ヘイノも、アナが何を求めているのかを察して、ニコのそばで膝を折る。
「俺も、ずっとその言葉を待っていました。望まれてもいないのに口を出して良いのかと躊躇っていて、聞くのが遅くなってしまってすみません」
もっと早く、彼女の頑なになった心に踏み入っていればと思う。強引でも、不躾でも、周りに何か言われたとしても躊躇わずに。
そうすれば、彼女がこんなにも己自身を責める必要もなかったのに。
そんな後悔を心の端に引きずりながら、ヘイノは言う。
「――何か困っていることはありませんか。もしあるのなら、俺に、あなたを助けさせてください」
ニコはぎゅっと瞼を閉じ、深く息を吸い、吐き出した。それは、彼女が今まで自分に課してきた鎖を一つ一つ外していく儀式のようだった。
やがて、数度の小さな深呼吸を挟んでから、ニコは震える唇で言う。
「……お願いです。どうか、私を助けてください」
家は寒くて、凍え死にそうで。お腹が空いて、背中とお腹がひっついてしまいそうなほどに苦しくて。何をしたら、自分を助けられるかも分からなくて。
「私を……ここから、助けてください……っ」
涙こそ頑なに零さなかったものの、引きつるような声で絞り出された嘆願を前に、彼は言う。
「……ええ。もちろんです」
司祭の務めとしてではなく。自分の望むこととして、ヘイノはニコの言葉を深く胸に刻みつけた。
迷える子供の懺悔と嘆願を全て聞き終え、礼拝堂の如く張り詰めた空気を破ったのは、アナの小さな吐息だった。
ゆっくりと立ち上がった彼女は、未だ湿っぽさの残る空気を割るかの如く、軽く手を叩く。
「さて、ニコ。今日は、この家に泊まっていきなさい」
「でも、私、帰らないと……。ゲイリーさんは、どれだけ夜遅くても家には帰るはずですから、私がいないと何があったのかと思うはずです」
「それなら問題ないわ。もともとブローチの件があるから、ニコはしばらく教会で預かるとティモの教会の方に話しておいたから。夜まで不在なら、置き手紙の一つぐらいはあちらの司祭が家に残していくでしょう」
アナの手ぎわの良さに驚いたのは、ニコだけではない。ヘイノもヨニも、アナの手腕には互いに顔を見合わせて、目を丸くしていた。
「寝る場所は、私のベッドか、客間のソファを使えばいいでしょう」
「それなら、俺の部屋のベッドを貸しますよ。俺は床で寝ても構いませんから」
口ではああ言ったものの、ニコの現状をどうにかするためには、ヘイノはアナの手を借りるしかない。
それならせめて、自分の手が届く範疇で何かできたらと、ヘイノは声を上げる。すると呆れたような目でアナはヘイノを見つめ、
「ヘイノ、ニコはレディなのよ。男のあなたの部屋に一人で入れるわけにはいかないでしょう」
「仕方ないよ、アナさん。ヘイノにとっては、ニコは小さな子供なんだから」
ヨニで肘で小突かれ、ヘイノは気まずさに視線を泳がせる。
そのやり取りのおかげで、これまで緊張感に満ちていた客間の空気は、ゆっくりと解けていく。
兄弟の笑顔に導かれるようにして、ニコも口の端に笑みを浮かべる。
だが、二人の――ヘイノの横顔を見つめる彼女の瞳には、何かを決断した者だけが持つ光が静かに宿っていた。




