一章・十一話
ヘイノは走る。昼半ばを過ぎて日差しは早々に傾き始めているが、まだ外は明るい。走り抜けざまに横を過ぎる風は冷たくとも、足を動かせば動かすほど体は汗ばんでいた。
だが、その汗は決して体の熱だけが原因ではない。何事もなければいいという祈りめいた思いと、自分が見つけ出した答えがそこにあるのではという予感めいた感覚が焦りとなって表われたものだ。
走り続けて十分もすれば、シニッカの家へとたどり着く。見慣れた質素な佇まいの家。正面の垣根の戸は、いつものように開け放たれたままになっている。
だが、今日目指すのはそこではない。彼は、家の裏手へと迷わず足を進める。昨日、ヨニと共に垣根を修復した場所へと。
思いすごしであってほしい。そこには誰もいないでいてほしい。
だが、彼の目は、壊れた垣根があった場所で右往左往している小さな人影を見つけてしまう。
淡い栗毛まじりのブロンド。背中までのびた柔らかそうな色合いを、彼が見間違えるわけもない。
「――ニコ」
ヘイノの僅かな期待は裏切られ、半ばの確信は正解を引き当てていた。
「こんな所で、何をしているのですか」
靴音も耳に入らないほどに焦っていたのだろうか。ヘイノの声を聞いた瞬間、ニコはようやく自分の傍らに誰がやってきたのか、気がついたようだった。
勢いよく振り向いた少女の瞳は、溢れんばかりに見開かれ、揺れている。
「……せん、せい」
小さな唇が、震える音でやっとそれだけを紡ぎ出した。
ヘイノが何と声をかけるか逡巡している間に、先にニコが動く。警戒心の強い猫のように、少女は素早く身を翻して、ヘイノに背を向けて走り去ろうとした。
だが。
「ニコ、俺はあなたを咎めに来たわけじゃありません! あなたの落とし物は、危険なものかもしれないんです!」
言葉の後半を聞いた瞬間、ニコはぴたりと足を止めた。
(……ああ、やっぱりニコは優しい子だ)
その挙動を見ただけで、そこにニコの本質が透けて見える。ヘイノにはそう思えた。
やはり、ニコはこの家に忍び込んでいた食料泥棒の犯人なのだろう。しかし、その行為を咎められるのを恐れたのなら、ヘイノの制止など振り切って逃げればいいだけだ。
だが、彼女は落とし物の危険性を聞いた瞬間、足を止めた。今この場において、自分の知らぬ形で何らかの問題が起きていると考え、そのために何かしなければと思う。そんな人間が、好んで泥棒をするとはヘイノには思えなかった。
「私の落とし物が、危険……? それって、どういうこと……ですか?」
足は止めて振り返ってくれたものの、ニコはヘイノに近寄ろうとはしなかった。その顔は、いつもの白さを通り越して、もはや卒倒するのではと思うほどに青白い。
「まず、確認をさせてください。あなたのブローチは、ここで無くしたのですか。どこか、他の場所で無くした可能性はありませんか」
「ないと、思います。……昨日、帰る途中で気づいたんです。でも、急いでいたから」
言葉をぼかしているのは、まだ泥棒だと気づかれていない僅かな可能性に縋りつきたいからか。
『太陽の日』の礼拝の時間に忍び込んだのなら、いつ家人が戻ってくるかわかったものではない。故に、ニコは帰路の途中でブローチの紛失に気づいても、戻るわけにはいかなかったのだろう。
「今日ここに来て、落とし物は見つかりましたか」
「ま、まだです。その……」
ニコの視線が、塞がっている垣根に向かう。ニコの使った道が塞がっているため、昨日使った道筋を辿ることができなかったと言いたいのだろう。
「では、一緒に探しに行きましょう」
「えっ!?」
「俺は、この家の人と親しくさせてもらっています。彼女なら、話をすればちゃんと分かってくれますよ」
落とし物を探していることだけではないとは、ニコにも伝わっていたのだろう。彼女が気まずげに目を伏せたのが見えた。
実際、シニッカは家に忍び込んだ子供と話をしたいと何度も言っていた。ニコが犯人だと分かっても、彼女をすぐに警備隊に突き出すような真似はしないだろう。
ヘイノは、ニコへとゆっくり歩みよる。急ぐ場面だと分かっていたが、ニコの気持ちを不用意に波立たせるような振る舞いもしたくなかった。
「……先生」
ヘイノが眼前に来ても、ニコは逃げなかった。ただ、途方に暮れた顔で、こちらを見上げていた。
何かを言おうと思っているのか、その薄い唇は何度も小さく開いたり閉じたりを繰り返している。
「俺には、ニコの話を聞く準備があります。ニコが思っている以上に、俺はニコがこの家で何をしたかを知っています」
「――――」
「先ほども言いましたが、それを咎めるつもりはありません。本当は、ゆっくり話をしたいところではありますが、今は落としものを探す方を優先させてください。あれは、危険なものかもしれないと分かったんです」
いまだに不安は強く残しているが、ニコは小さく頷く。ヘイノが手を伸ばすと、躊躇を挟みつつもその手を握り返してくれた。
「私のブローチは、そんなにも……危ないもの、なんですか?」
「はい。ニコは持っていて平気でしたか?」
話をしながら、ヘイノはニコの手を引いて正面の玄関口へと回る。
「私が持っていたときは、そんなに危ない感じは……。あ、でも、持っていられないぐらいに熱くなることがありました。その時は服から外して、窓辺の冷えているところに置くようにしてました」
「そのときに、火傷はしませんでしたか?」
「は、はい。大丈夫です。すぐに外すようにしていましたから」
話に区切りがつくのを見計らったように、玄関へとたどり着く。ニコの手が強張るのを片手で感じながらも、ヘイノは躊躇わずに玄関の扉を強くノックした。
だが、返事はない。二度、三度繰り返しても返ってくるのは沈黙だけだ。
一瞬、ヘイノはこのまま帰ることも選択肢として脳裏によぎらせる。だが、いつ何が起こるか分からないものをこのままシニッカの家の中に残していっていいかを考えた瞬間、ヘイノは既に首を横に振っていた。
「留守のようですね。家の人には悪いですが、今は探す方を優先させてもらいましょう」
「い、いいのでしょうか」
「どうしても、急がないといけないんです。ニコが持っていたブローチは、聖石に粗悪な加工をしたものかもしれません。そのようなものは、いつ与えられた機能が暴走するかわからないと、アナさんが話していました」
ヘイノの説明を聞いて、ニコは目を丸くする。
「聖石って……あの、礼拝堂をいつも温めているものですよね? あれが、暴走……?」
「そうです。ニコの手元にあったときも異常な発熱をしていたのでしょう。だったら、いつ何時もっと激しい熱を出すかわからない」
ヘイノの話を聞き、ニコの顔には先ほどとは異なる緊張がよぎる。
内心でシニッカに詫びながら、ヘイノはニコと共に敷地内へと足を踏み入れる。昨日修復した垣根の内側の辺りにくると、ニコの視線が落ち着きなく動き始めた。
「この辺りを通ったのですか?」
無言で頷くニコ。これ以上は隠しても無駄だと思ったのか、それともブローチを探し出すのが先決と結論づけたのか。垣根の通り道のあたりにしゃがみ込み、ニコは懸命に目を凝らして、自ら率先して落とし物を探そうとした。
同じく、ヘイノも勝手口から抜け穴があった垣根に続く道へと、念入りに視線を向ける。
五分ほど、入念に周辺を見て回った。針の一本すら見逃さないほどに集中した。けれども、どれだけニコが通ってきたはずの道を注視しても、彼女が以前見せてくれたブローチは影も形もない。
「間違いなく、ここを通ったのですよね」
「はい。落とすとしたら……垣根をくぐった時に、何かに引っかかったかも……と思ったんですけど」
だが、どれだけ探してもそれらしき装飾品は見つからない。
垣根の抜け穴は、小柄なニコが腹這いになってやっと通り抜けられるほどの大きさだ。彼女が落とし物をしそうなタイミングとなれば、出入りの時に紛失してしまったという考えに違和感はない。
「もしかしたら、シニッカさんが落とし物を見つけて、家の中に持っていったのかもしれませんね」
「そんな……っ!」
だとしたら、尚更まずい。青ざめるニコと共に、ヘイノは勝手口に向かう。
幸か不幸か、シニッカはまだ勝手口に鍵をつけていなかったようだ。扉に手をかければ、特段の抵抗もなく戸がゆっくりと開く。
「あの、先生。勝手に入るのは……よくないことでは、ないでしょうか」
ニコの声は、微かに震えていた。それは、自分こそが勝手に入った張本人だったからかもしれないが、今はそれを問う場面ではない。
「シニッカさんは、理由を話したら分かってくれる人です。それよりも、なんだか匂いませんか」
灯りが落ちた家の中はシンとした静寂に包まれている。だが、ヘイノの鼻は室内に立ち込める不自然な匂いを嗅ぎ取っていた。
勝手口から続く台所には、火の気はない。なのに、まるで暖炉に火が燃え盛っている時のような、何かが燃えている匂いがする。
二人の間に生まれた一瞬の逡巡を破ったのは、ニャーという鳴き声だった。
「ひゃっ。先生、あそこで何か動きました……!」
「落ち着いてください、ニコ。あれはシニッカさんが飼っている猫です」
暗がりから滲み出るように姿を見せたのは、一匹の黒猫だ。ヘイノが初めて調査に来た時も、来訪者を値踏みするような視線を向けていた。
黒猫は、廊下に続く扉から登場すると、まるで二人を誘うように首と視線を廊下へ向けた。
「なんだか、ついてきてと言ってるみたいです」
「もしかして、俺たちに何か伝えたいことがあるのでしょうか」
そうしている間にも、ヘイノの鼻は違和感を訴えている。再びにゃあ、と鳴くと、黒猫は痺れを切らしたかのように台所から廊下へと小走りで歩き始めた。
「あ、待って」
「ひとまず追いかけてみましょう。動物ならではの感覚で、彼は何か見つけたのかもしれません」
廊下へと消えた黒猫の尻尾を追う。廊下に出た二人は、再び頭上から響いた鳴き声に、そちらへと視線をやった。黒猫が、階段の半ばから、こっちだと言わんばかりに何度も鳴き声を発している。
揺れている猫の尻尾を追いかけて二階に上がった、その瞬間。ヘイノはすぐさま片手でニコを制した。
「先生……? どうしたんですか?」
「ニコは急いで下に戻ってください。キッチンの場所はわかりますよね。あのあたりに水瓶もあったはずです。この布を、それに浸してきてもらえますか」
二階に一足先に到着したヘイノが目にしたもの。それは、薄暗い廊下をぼんやりと満たしている白い煙だった。
それを見ただけで、何が起きているかは容易に想像できる。何かを燃やしたような臭いが、ヘイノの想像へと拍車をかけている。
ヘイノが腰に巻いていたサッシュを渡すと、事態の深刻さを察したのか、ニコはすぐに下の階へと戻っていった。
残されたヘイノは、煙の出ている部屋を探すために、廊下に並ぶ部屋の数々に素早く視線をやる。だが、彼が迷う必要はなかった。
「あなたは、まるで俺たちが何のために来たのか分かっているみたいですね」
黒猫が、廊下の奥にある部屋の前でニャアニャアと激しく鳴いている。あそこそが、煙の原因がある部屋なのだろう。
すぐさま、奥の部屋へと駆けつけたヘイノは、半開きになっていた扉を開く。
「――!!」
白い煙に包まれた部屋。そして、部屋の端に置かれた、金属の箱と思しき物体から赤々と燃え上がる炎。
炎は、日常的に見慣れているものだ。だが、それはあくまで暖炉の中やストーブの中に限ったこと。
あるべきではない場所に、あるべきでないものが存在していることがここまで不安と違和感を煽るのかと、ヘイノは一瞬激しい動揺に襲われる。
だが、先ほどよりも強く鼻に突き刺さる臭気に、ヘイノはすぐさま我に返った。これ以上煙を吸うべきではないと、彼は咄嗟に片腕で口と鼻を塞ぐ。
(出火元になっているのは、箱……じゃないな。中に何かが入っている、布の塊……あれはもしかして、猫のベッドだろうか)
慎重に中へと足を踏み入れ、ヘイノは箱の内側から燃え上がっている炎を確認する。可愛らしい柄の柔らかそうな布は、今は見るも無惨に焦げ、煙と赤い炎を生み出す薪と化していた。
(そういえば、シニッカさんが飼っているもう一匹の猫は、光り物に目がないって話していたな)
ヘイノも、首に提げていたペンダントを狙ってじゃれつかれた覚えがある。垣根に落ちていたブローチを猫が見つけ、寝床まで持ち込んでしまったといったところか。
そうこうしている間にも、炎はゆっくりと広がり続けている。今はまだ燃え始めたばかりであることと、寝床が金属でできていたおかげで、床や壁には引火していない。
だが、このままでは部屋が――そして家中が火に包まれるのは時間の問題だ。
せめて、炎を押し包むべきかと、ヘイノが自分の羽織っていたケープの留め金に指をかけた時だった。
にゃあ、と呼びかける鳴き声。同じ室内だけあって、先ほどよりもはっきりと聞こえた声のもとを辿ると、黒猫があるものの前に座り、何度も「気づけ」と言わんばかりに鳴いている。
「そうか。この部屋は、シニッカさんの寝室なんですね」
私室なら、洗顔や身だしなみを整えるために誰もが置いているものがある。
鏡台の側に設置されたそれ――水差しのそばで、猫は「早くしろ」と言わんばかりにぶんぶんと尻尾を振っていた。
急ぎ足で駆け寄ると、幸い、水差しにはまだ半分ほど水が残っていた。傍には、洗顔に使う金属製の桶が一つ置かれたままになっている。
素早く水差しの中身を桶に移すと、ヘイノは躊躇わずに先ほどより一回り大きくなった炎へ近づき、
「これで、火が収まるといいんですが……!」
勢いよく、中身を燃え盛る炎へとぶちまける。小さな滝のように流れ落ちた水に触れ、炎はみるみるうちに小さくなっていった。
しゅう、という音を聞いてもなお水を流すのをやめず、最終的に桶の全てを火元へと注ぎ込んだ。
猫も様子が気になったのか、白い煙だけとなった火元へと慎重に近寄り、すんすんと鼻をひくつかせている。
「消えた……と、思っていいのでしょうか」
あれほど燃えさかっていた炎は嘘のように消え、白い煙と、黒く焦げた布の塊。そして、つんと鼻の奥を刺激する臭いだけだ。
見たところ、周囲に他に燃え広がったものはない。ヘイノたちが来訪したのと、火が燃え上がったのはほぼ同時だったようだ。
「シニッカさんが寝ているときに燃えなくてよかった……」
よくよく見渡せば、部屋には猫の寝床以外にも、小さな衣装箪笥や机、そして寝台があった。
品の良い色使いのパッチワークで作られた布団は、火が燃え移ればどれほど激しく燃え上がっただろうか。考えるだけでもぞっとする。
まだ炎が残っていないか確認するためにも、ヘイノは濡れそぼった出火元の布を慎重につまみ上げ、広げていく。すると、広げられた布から、ころりと小さなものが転がり落ちた。
「やっぱり、ここにあったんですね」
赤く光るそれは、間違いなくニコが買ったブローチだ。反射的に手で持ったものの、ヘイノが流し込んだ水のおかげで一時的に冷えたのか、今は自然発火するほどの熱は感じない。この危険物をどうしたものかと、ヘイノが思案していると、
「先生、これでいいですか……!?」
どたどたと足音を立てて、ニコが部屋から顔を覗かせる。彼女が手に持っていた布はしとどに濡れていて、今も点々と雫が垂れ落ちていた。
「貸してください、ニコ。ブローチが見つかったんです。やはり、これが火元になっていました。せめて濡れたもので包んでおかないと危険です」
しかし、ヘイノの指示を聞いてもニコはしばし部屋の入り口に立ち尽くしていた。
煙がまだ部屋に残っていることに気がついたヘイノは、ようやく窓の内鍵を外して、外の冷えた空気を中に招き入れる。だが、煙は追い出せても、部屋が元通りに戻るわけではない。
濡れそぼった床や、黒こげになった布の塊。そして、今もニコの鼻に届いているだろう何かが燃えた臭いが、ここで何があったかを如実に表している。
「……私のブローチのせいで、こうなったんですか」
ヘイノの言いつけすら一瞬忘れるほどの衝撃が、彼女を襲ったのは想像に難くない。ヘイノはニコの元へと歩みより、彼女の手から濡れた布を受け取る。ヘイノは、それで手に持っていたブローチを何重にも包んだ。
「この危険な品が火事を引き起こしたことは間違いないでしょう。ですが、それはニコのせいではありません」
「でも……でも、先生はもう気がついているんでしょう……!?」
今まで、押さえ込んでいた彼女の感情が、この瞬間爆ぜる。
「私、この家に勝手に入ったんです! それだけじゃない……私は、この家にあったものを盗みました! そのうえ、こんな……こんな風に、火事になるようなものを落としていって……!」
彼女の声は、犯人の自供というにはあまりに悲痛なものだった。まるで、己自身を引き裂き、流れた血をそのまま音としたような、こんな声になるのではと思うほどに。
その声は、ヘイノが想像していたような助けを求める哀れな被害者の声ではなかった。
崖っぷちに追い詰められた小さな生き物が、必死の思いで己の全てを吐き出している。そんなもっと切実な気持ちを吐露した声だった。
一瞬、ヘイノは彼女になんと言葉をかけるべきか迷った。だが、すぐに彼は自身の動揺を鎮める。
自分が何のためにここに来たのか。今こそ、それを問われているのだ。
「……ええ、知っています。俺は、ニコがこの家に忍び込んだことを、家の中のものを盗っていったことを、知っている」
ニコの大きな瞳が、ふるりと揺れる。自分で吐きだすのと、話している当の本人の口から言われるのとでは、また感じ方が違うのだろう。
だが、お構いなしに彼は続ける。
「ですが、先ほども言ったでしょう。俺は、それを咎めようとは思っていません」
ニコの瞳は、ヘイノの瞳を見据えたまま揺るがない。そこから目を逸らさないこと。それこそが、今のヘイノに分かる唯一にして最大の『己の為すべきこと』だ。
「言ったでしょう。俺は、ニコの話を聞きたいと思っています。この危険な品を片付けたら、ニコの言葉で、ニコの考えを聞かせてもらえますか」
「……どうして」
返答は、疑問の形をしていた。
「どうして、先生はそこまでしてくれるんですか。どうして、先生は私に優しいんですか」
単純で、それでいてまっすぐな問いかけ。
ヘイノはニコと長い付き合いがあるわけでもない。ニコが助けてほしいと縋り付いてきたわけでもない。
ニコには、自分がヘイノに優しくされる理由が見つけられなかった。
そして、ヘイノにとって、それは。
「……『俺』が、困っているニコを見て、助けたいと思ったからです」
司祭だからでもなく。ヨニの兄だからでもない。ニコに手を差し伸べたいと思った時に芽生えた気持ちが、ヘイノの口を動かしていた。
「それだけで……? それだけで、先生は私の家に来たんですか……?」
信じられないものを見るかのような瞳で、ニコはヘイノを見つめている。
一つ頷いたヘイノを前にして、ニコの声が、その顔が、くしゃりと歪む。
「……私、先生にどんな顔で会えばいいかわからなかった。だから、先生が来ていたの知ってたのに、ずっと閉じこもってて……なのに、何度も何度も……!」
必死に堪えようとしていても抑えきれなかったのか、彼女の丸い瞳から透明な雫が一つ、滑り落ちる。そこに彼女が押し隠していた本心があるのだろうと、今なら分かる。
「よかった。ニコは、風邪で寝込んでいたわけではなかったんですね」
そう言って、ヘイノはニコに視線を合わせるために膝を折った。
「ニコにとっては、『それだけ』かもしれません。ですが、俺にとってはそれだけが十分な理由になるんです」
泣き顔を見せたくないのか、掌で顔を覆ってしまった少女に、ヘイノはいつぞやのように自分の羽織っていたケープをかけてやる。
「だから、どうか。このお節介な俺に、ニコのことを教えてくれませんか」
少女は、暫く嗚咽を噛み殺すような音だけを漏らしていたが、やがて、小さく一度首を縦に振った。




