一章・十話
ニコの様子も気がかりではあるが、ヘイノにはヘイノの務めがある。司祭として迎えた二度目の礼拝の日は、冷たい小雨がそぼ降る静かな朝となった。
外はどんよりとした雲に覆われていたが、人々の心は明るい。雨が降るのは、冬が終わりを迎えつつあるという証でもあるからだ。
アナの説教も、冬の終わりを祝いながらも、これまで忍耐強く耐え忍んだ日々をねぎらうものだった。
午前の務めを終えたら、夕方のシニッカの家への巡回前に一度休もう。ヨニにそう言われて、家に戻った二人だったが、
「あのさ、ヘイノ。俺、先週見たものと全く同じ光景を見てる気がするんだけど」
「気がする、じゃなくて実際にそうなのでしょう。シニッカさんの家にまた何かあったのでしょうか」
二人の言葉通り、客間から漏れ聞こえている声は先週と全く同じ、シニッカとアナの話し声だった。
今回は特段躊躇せずに、客間の扉をノックして開く。予想通り、来客はシニッカだった。先日の訪問では泥棒があったというのに、のんびりとした調子であったが、今日は些か深刻そうに眉を寄せている。
「シニッカさん、こんにちは。もしかして、またですか?」
前置きを省き、要点だけをヘイノは尋ねる。シニッカとアナが頷くのは同時だった。
「『太陽の日』には、村の皆も、私たちも必ず礼拝に向かう。その隙をつかれてしまったようね」
兄弟は朝夕の巡回は欠かさず行っていた。シニッカも普段から遠方に出かけることは少なく、家にいる時間が多い。
だが、その両方が家から離れる時間帯がある。それが、『太陽の日』に行われる礼拝の時間だ。犯人はそのことを知った上で、人通りがなくなる時間帯に侵入をしたのだろう。
「今回も、食料が持ち去られただけだったのですか?」
「それだけなら、私も気にしなかったのだけれどねえ。今回は、私の作っていたベリーのお酒が何本か無くなっていたのよ。子供が飲みたがるようなものではないと思うのだけれど」
シニッカの説明に、ヘイノたちは目を丸くする。
「ジュースと間違えて持って帰ったのかな?」
「文字を読めなかったのかもしれないわねえ。お酒の瓶には、ちゃんと『お酒』ってわかるように札をつけていたのですけども」
「もし、ヨニの言うとおりならば、このまま見過ごすわけにはいかなくなってしまうわね」
子供がジュースと間違えてお酒を飲むのは、褒められたことではない。道徳的な意味を除いても、子供の飲酒は体に悪いと言われている。
「アナさんの言うとおりね。そういうわけだから、手間をかけてしまうけれど、お二人には垣根の補修を頼めるかしら。前言を翻すような形になって悪いのだけれど」
この一週間、シニッカは食料泥棒の子供になんとか接触して、犯人から話を聞きたいと口にしていた。だが、犯人はシニッカが思うほど、単純ではなかった。
「今でも、犯人の坊や……もしかしたら、女の子かもしれないわね。その子とは話をしたいと思っているのだけれど、お酒を間違って盗んで、それを飲んでいたとしたら、その子にとってもよくないでしょう。さすがに、わかっていて見逃すわけにはいかなくなってしまったの」
「そういうことなら、俺たちでぱぱっと直しちゃうよ。猫たちの通り道が塞がることにもなるから、あの子たちにはシニッカさんから謝っておいてね」
深刻な空気を和らげようと、ヨニは茶目っけを交えて請け負った。
「今回も、お金は盗まれていなかったのですか?」
「そうなのよね。今日も、台所から倉庫に向かうところまでしか足跡は残ってなかったわ。雨のおかげで、庭にも足跡は残っていたから、垣根から忍び込んだのは間違いないわね」
雨で柔らかくなった土は、犯人の痕跡をはっきりと留めてくれたようだ。ならば、垣根以外の抜け道を知っているということはなさそうだ。
話に一区切りがつくと、ヘイノはヨニと共に垣根を直すための工具を探しに、二階へと向かった。簡単な修理のための道具は、屋根裏にまとめて保管しているとのことだった。
「ヘイノがここに来てまだ二週間なのに、事件の連続だね」
屋根裏に続く部屋の扉を開きつつ、ヨニがしみじみと呟く。
「俺も、こんなにも慌ただしいことになるとは思っていませんでしたよ」
「ニコの件もね。昨日はどうだったの?」
ゲイリーとの対面に少なからず衝撃を受けたことは、ヘイノは弟にはまだ話していなかった。
「ニコの保護者の方には会えました。彼の言い分では、ニコは風邪をひいて寝込んでいたそうです」
「でも、ヘイノはその言い分をあんまり信頼してないんでしょ」
ヨニに指摘され、ヘイノは口をつぐむ。司祭として、人の言葉を疑うなどあってはならないと思いつつ、実際のところ、ヘイノはゲイリーの言葉を半ば以上に疑っていた。
「ニコの保護者の方……ゲイリーさんは何か隠し事をしているようでした。ニコに関わることかはわかりませんが。それに、金銭面でも余裕はなさそうでした」
お金の請求に来たと勘違いされたと話すと、ヨニですらあきれ混じりの笑いしか返せずにいた。
「それで、ヘイノは大人しく帰ってきたってわけ?」
「押し入るわけにはいきませんから。それこそ、悪い意味で目立ってしまいます。それは、ヨニも望むところではないでしょう?」
「俺はともかく、アナさんには迷惑がかかるからね」
ヘイノは、この来訪をまだアナには話していない。話したところで、彼女を困らせてしまうだけだとヨニに止められたからだ。
目立った結果が出せていない以上、彼女をいたずらに心配させないでほしいとは、最初にヘイノが訪問を決めた時にヨニが言ったことでもある。
「それで、ヘイノはこれからどうするの? ニコが来ないままだったら、また家に行く?」
「そのつもりです。彼の隠し事がニコに纏わることなら、そしてそれが好ましくないものなら、俺はそれをどうにかしたい」
言葉を交わすと、自分の意思が不思議とより強く固まるような気がした。
自分が今まで接したことのない、粗暴な雰囲気を纏った男への恐怖はある。だが、それ以上に助けを求めることもなく俯いていた少女の無事が気になってしかたなかった。
「そう。ヘイノはやる気なんだね」
「……すみません。ヨニとしては、あまり俺がでしゃばるのは良くないと思っているのでしょうね」
「良くないとまでは思ってないよ。ただ、俺はヘイノとは違う考えを持ってるってだけで」
その中で、ヨニは積極的に関わらないという選択をした。それは、同じ顔をしていても、目の前の弟が自分と違う存在だという証明でもあった。
「俺は、自分が行動する前に色々考えすぎて、結局日和見になっちゃうんだよね。大人はそっちの方が賢いって言うけど、俺はヘイノみたいながむしゃらなやり方のほうが好きだよ」
言いながら、ヨニは屋根裏部屋へと続く細い階段を上っていく。屋根裏の薄闇に消えていく弟へ、ヘイノは咄嗟に声をかけた。
「でも、俺ががむしゃらになれるのは、ヨニが俺の分の仕事を引き受けてくれてるからですよ」
それだけではない。冷静でいてくれる弟の忠告があるからこそ、ヘイノは頭を冷やして慎重に行動ができている。その意味でも、弟の存在は得難いものだと思っていた。
(最初は、騙しているみたいな気持ちがして、後ろめたかったのに。ほんの十日で、こんなにも考え方って変わるものなのか)
あるいは、それもまたヨニが引き出してくれたものの一つなのかもしれない。
ヘイノの考えや振る舞いについて、ヨニはほとんど指摘をしていない。それだけヘイノがうまく弟を騙せているからか、あるいはヨニが多少の違和感を気にしないでいてくれるからか。
どのみち、ヘイノにとって、ヨニは弟である以前に同僚であり、今では新たな友人となりつつあることに変わりはなかった。
「ヘイノ、工具見つかったよ。後ろ向きにおりるから、ちょっと階段から離れてて」
ヘイノの言葉への返事ではなく、実務的な回答だけが暗闇から帰ってきた。
戻ってくるヨニの足元を照らせるように、燭台を掲げ持ちながら、ふとヘイノは思う。
(……そういえば最近、敬語をやめてほしいって言われなくなったな)
***
ゲイリーにはああ言ったものの、彼がニコの教会通いを容認するか、ヘイノは内心で疑問視していた。
だからこそ、『太陽の日』を終えた翌日。先週と変わらない騒々しい子供たちの群れの端に、ニコの姿を見つけて、ヘイノは自分が思う以上にほっとしていることに気がついた。
他の子供たちに比べれば防寒具の一つも身につけず、どこか寒々しい見た目をしている点に変わりはないが、少なくとも目立った怪我などは見られない。風邪をひいていたと聞いていたが、気だるさを引きずっている様子もなかった。
子供たちに今日の課題を伝えた後、早速ヘイノはニコの元へと向かった。片手には、先週見せようと思っていた植物図鑑を抱えて。
「ニコ、久しぶりですね。先週、お家を訪問したときに家の人から風邪で寝込んでいたと聞きました。具合はもういいのですか」
当たり障りのない言葉を選んで話しかけると、ニコは小さく頷いた。だが、上目遣いでこちらを見つめる瞳は、怯えた子猫のように落ち着きがない。
「先週、南の国から来た果物について、市場の方と話をしたのを覚えていますか。ニコが興味を持っていたようだったので、図鑑を持ってきたんですよ」
突然家の話をされても、ニコも面食らってしまうだろう。ゲイリーから何か言われていれば、頑なになってしまうかもしれない。
そう思い、ヘイノはできる限り自然な調子でニコへと語りかけていた。
ヘイノが渡した図鑑に興味を持ったのか、ニコは分厚いそれを慎重にめくり始める。めくった先に描かれた植物の細密画を目にした瞬間、彼女の瞳に好奇心の光が瞬いたのをヘイノは見逃さなかった。
「よかったら、今日はそれを見て、興味のあるものを自分なりに要約してみてください。俺も、この本の全てを読んだことはないので、俺に説明するつもりでまとめてもらえますか」
「先生も、読んだことがない本なんですか」
ニコの目が丸くなる。彼女の中で、ヘイノは何もかもを知っている人だと思われていたらしい。
「俺にも読んだことのない本はありますよ」
実際は、読んだことがあるはずだが、読んだ記憶が残っていない本があるという意味も含まれていたが、ニコは言葉通りに受け取ったようだった。
早速ページをめくるのに夢中になった彼女を見守り、しばらくはそっとしておこうと思った時だった。
「あの、先生」
すぐに呼びかけたニコに、何があったのかと振り返る。
「髪の毛、切ったんですね」
「ああ、そういえばニコに見せるには初めてでしたね。市場に行った日の夜に切ったんです。これなら、ヨニとの見分けもつけやすいでしょう?」
「はい。あの……その通りだと思います。それに」
ニコは小さく唾を飲んで、そっと小声で言う。
「ヨニ先生と間違えられたときのヘイノ先生、ちょっと困った顔をしていましたから……そういうのが無くなるのは、よかったって思います」
ヘイノの予想とは全く違う形で安堵の笑みを向けられて、彼は返す言葉を無くしてしまった。
(……気付いていたんですね。俺が取り違えられるのを嫌がっていたことを)
たとえ子供の他愛ない間違いだったとしても、ヘイノが押し隠そうとしていた忌避感をニコは目敏く捉えていた。それでいて、彼女は今この瞬間まで、他の子供たちには伝えずに沈黙を選んでくれていた。
「ありがとうございます、ニコ」
気付いてくれたことと、黙っていてくれたこと。その二つの意味を込めて、ヘイノは感謝を口にする。
ささやかな秘密を共有していた証明がもらえたからか、ニコは今日初めての笑みを返してくれた。
子供たちの先生になったばかりの頃は、自分の務めに必死で、教室の片隅で震え上がっている少女にまで目を配れなかった。
今回はそんなことがあってはならないと、飽き性の子供たちにきびきびと課題を与えつつ、ヘイノはしばしばニコへと視線を送っていた。
石板や、ノートがわりに渡している紙の上を動く彼女の指が止まり、小さな顔が持ち上がる。視線を左右に忙しなく動かしているのは、ヘイノを探しているのだろう。
他の子供たちが課題に集中しているのを確かめてから、ヘイノはニコの元へと近づく。
「課題は終わりましたか?」
「は、はい。分からなかった言葉もあったので、もしかしたらおかしな内容になってるところもあるかもしれませんけど……」
そう言って彼女が差し出した紙には、やはりと言うべきか、先だって話題になっていた葡萄について纏められていた。彼女にとって、興味を持つきっかけになった植物だからだろう。挿絵を模写した絵まで、ぎこちない筆跡を描かれている。
「ありがとうございます。これから確認しますね。それなら、次にやってもらうのは……」
「せ、先生。私、あの……今日は、早く帰ってもいいですか?」
今までになかった申し出に、ヘイノは一度ゆっくりと瞬きをする。
ニコの小さな手は、落ち着きなく服の上をさすっている。また彼女が凍えているのを見落としてしまったのかと思うも、今日の彼女の血色はそこまで悪いように見えない。
「もしかして、今日も部屋が寒かったでしょうか」
念のため、尋ねてみると、ニコは勢いよく首を横に振った。
「い、いえ、そういうわけじゃないんです。その、私……落とし物を探しに行きたくて」
「落とし物?」
ニコの言葉に、反射的にヘイノは彼女の装いに目をやる。ニコは、普段から持ち物を多く持たずにきている。
市場に来た時も、今ここにいる時と何ら変わらない姿をしていた。強いて言えば、市場の行商から買ったという、湯たんぽのような効果のある赤い石のブローチをつけていたのが唯一の違いだった。
「そういえば、ニコ。今日はあのブローチを持ってきてないのですか?」
室内の気温は、ヘイノが来た当初よりは幾らか高くなっている。だが、外は依然として、防寒具のないニコには快適とは言い難い環境のはずだ。
すると、ニコはこれまでになくはっきりと視線を泳がせた。
「え、ええと…………その、無くしちゃったんです……。お、落として、しまって。それで、その」
「先ほど話していた落とし物とは、そのことだったのですね」
ニコは申し訳なさそうに眉を寄せて、小さく頷いた。勉強の時間に他所ごとを考えていたことに、罪悪感を覚えているのだろうか。
「だったら、少し遅くなってしまいますが、授業が終わった後に俺と一緒に探しに行きませんか」
「えっ。だ、だめですっ!」
静まり返っていた教室に、ニコの大きな声が響く。
一瞬、子供たちの視線がヘイノに向けられ、彼らの集中が乱れたのが、ざわついた空気からもわかる。
「遠慮する必要はありませんよ。一緒に探した方が、すぐに見つかります。ヨニにも手伝ってもらいましょう」
「でも、わ、私……」
ニコとの会話にも集中したいところだったが、今にも席から立ちそうな子供たちを落ち着かせるのもヘイノの仕事だ。
「すみません。他の子たちが騒ぎ出しそうなので、また後で、詳しい話を聞きにきますね」
後ろ髪を引かれる思いで、彼は早速何か言おうとしているやんちゃな少年の元へと向かう。
その背中を見送った少女は、きつくきつく拳を握りしめていた。相反する二つの心を押さえつけているかのように。
***
ニコが教会に来てくれたことは朗報だったが、彼女が来たからといって、他の子供たちが大人しくなるわけでもない。
結局、ニコと十分に話ができたのは、ブローチ探しを申し出たときだけで、その後はヘイノは他の子供たちにかかりきりになっていた。
終礼の合図でもある昼半ばの鐘が響き、ようやく一息をつく。今日の学校のご褒美は、シナモンを練り込んでざらめ砂糖をかけた小さなパンだ。
「ヨニせんせー、前に行ってたおでかけの日ってまだ?」
パンにかぶりついていた少年――狐狩りに興味を持っていたテームが、ヨニへと話しかける。
「おでかけの日ってなんですか?」
聞いたことのない言葉に、ヘイノが誰にともなく尋ねる。
「ヘイノせんせーに教えてあげますわ! おでかけっていうのはね、ヨニせんせーが前にお話ししてた授業のけーかくのことなのですわよ!」
「皆でおやつとかちょっとした食べ物を持ち寄って、課外授業みたいなことができたらって思ったんだよ。机に座るだけだと、退屈になるだろうからね」
ここぞとばかりにヘイノに説明する、年長ぶりたいアウリ。彼女に続き、ヨニが自分の発案となった授業について補足する。
「なるほど、それはいいですね。今はまだ寒いですが、夏になれば日も長くなりますから。植物の名前や土地の成り立ちを知る、いいきっかけになりそうです」
勉強に関連した言葉が出たためか、すぐに教室の端々から「えー、また勉強ー?」と不満の声が上がった。
「ヘイノせんせーって、どうしてそんなに勉強が好きなの?」
「俺も、テームにちょっと同感。昔は、俺も勉強はそんなに好きじゃなかったな」
「ヨニまでそんなことを言ってどうするんですか。知らないことを知る、というのは、それだけでも興味深いことですよ」
特に、記憶を失ったまま目覚めたヘイノにとって、知識とは自分を守るための武器でもあった。
かつての『ヘイノ』から受け継いだ肩書きや立ち位置に頼ってばかりでは、いつか嘘が露呈する日が来る。その日を出来る限り遠ざけるためにも、ヘイノは自分を守るための手段があるなら、どんな場面も活用する気構えでいなければならなかった。
今も多少形は変わっているが、知識を得るということへの心構えそのものは変化しないままだ。
「そういうものかなあ。アナさんはヘイノと俺、どっち派?」
「私も、小さい頃はヘイノに似ていたわね。少しでも何かを身につけて、人々の幸せに貢献したいと思っていたわ」
答えたのは、皆のお菓子をもってきてくれたアナだった。いかにも慈悲深い司祭然とした回答に、子供たちからは不満と感嘆が半々の声があがる。
「アナさんもこう言っているじゃないですか。二人とも、少しはニコを見習ったらどうなんですか?」
「あ、そういえばこの前、ヘイノはニコに見せるための本をアナさんから借りてたよね。あの頭が痛くなりそうな、文字の多いやつ」
「文字ばっかりではありません。絵もありましたよ。そうでしょう、ニコ……あれ、ニコは?」
本をそろそろ返してもらおうと、ニコのいた席を見やったヘイノは、そこにいるべきはずの人影がないことに気がつく。
いつもは、おやつの時間は皆のおしゃべりを遠目に眺めながら、静かに自分の分を食べているニコ。しかし、今日に限って影も形もない。
落とし物を探しに行きたいと早退を申し込んだものの、やはりもう少しここにいたいと思い直したのか、おやつの時間が来るまではここにいたはずだったが。
「ニコなら、先ほど私と入れ替わりに出て行ったわよ。何か急いでいるようだったわね」
本人の代わりに答えたのは、アナだった。
「落とし物をしてしまったと話していましたから、一人で探しに行ったのかもしれません。手伝うと言ったのですが……やっぱり遠慮してしまったんですね」
「落とし物? それってどんな?」
ヨニの質問に、ヘイノは親指と人差し指を少し離して、直径五センッティ程度の隙間を作る。
「これぐらいの大きさの、赤い石がはまったブローチです。この前の市場で買っていたんですよ。聖石がはまっていて、持っていると暖かくなるそうです」
すると、アナは不意に立ち上がり、
「ヘイノ。それは、本当に聖石だったの?」
いつもの落ち着き払った声ではなく、緊張を孕んだ質問に、ヘイノも思わず背筋を伸ばす。
「は、はい。俺も触らせてもらいました。あのように発熱する石は、他にはありえないでしょう」
ヘイノの知る限り、たとえ長らく暖めておいた石でも自ら発熱するような熱の発し方はしない。小さな石だったのだから、温石を聖石と偽ってもすぐに露呈していただろう。
それは、アナも同意見だったのか。唇に指先を添え、じっと考え込んでから、やがてゆっくりとかぶりを振った。
「どう考えても、ありえないわ。こんな聖都から離れた町の小さな市場で、聖石が売られていることなんて、まずありえない。売買が発生するなら、私にも連絡が来るはず」
アナが以前話していたように、聖石はこの国の希少な資源でもある。教会に属する者は、その管理者も兼任している。
「万が一、何かの行き違いで売られていたとしても、子供のお小遣いで買えるような値段になるはずがない。小さい聖石に細かな細工をするのは、非常に難しいの。技術料だけで、ティモの小さな家が一軒買えてしまうんじゃないかしら」
「ですが、たしかに彼女は持っていましたよ」
「……そう。なら、彼女の買ったものは正規の流通品ではないのね。違法で流通しているものを、知らずに商人が売ってしまったのか、あるいは取り締まりを恐れて慌てて手放そうとしたのか」
ニコが違法な取引の片棒を担がされたという事実に、しばし打ちのめされていたヘイノ。
だが、同時にヘイノの記憶の片隅で、アナからかつて、聖石の造りについて聞かされたときの言葉が蘇る。
――無理に動かして、暴走でもしたら一大事よ。粗悪品がもたらすような事故の比ではなくなるでしょうから。
そして、粗悪品でも動くのかと尋ねたヘイノに彼女はこう言った。
――精度が低いうえに、出力もでたらめ。
(もし、熱を発する物体が、でたらめな出力を発したら……?)
それは、単なる不良品の取引以上に危険な結末をもたらしかねない。
そう考えたときには、ヘイノは教会の扉へと走っていた。
「ヘイノ、どこに行くつもり?!」
「ニコを探してきます! 彼女が持っていたのがアナさんの言うような粗悪品なら、いつ何が起きるかわからない!」
背後からのヨニが何か言っていたが、それ以上は答えずに、ヘイノは外へと飛び出した。
***
外に飛び出したところで、ヘイノにはニコの向かう先を聞いてはいなかった。
昨日の雨でぬかるんでいた地面も、午前中から顔を出していた太陽のおかげで乾いてしまっていた。足跡は残っているものの、これではいつ他の人の足跡に紛れてしまうか分からない。
(考えるんだ。今日のニコの振る舞いで、彼女が探しに行こうとしている場所のヒントはなかったか?)
ヘイノが一緒に探しに行こうと持ちかけた瞬間、ニコは「だめだ」と拒絶した。あのような大きな声拒絶したのは、ヘイノが知る限り初めてだ。そこまでして、ニコは同道を断固として拒否したのだ。
「探しに行かせるには、気が引ける場所だったのでしょうか。あるいは、一緒に行きたくなかった? ニコが、俺と一緒には行きたくないような場所でブローチを無くした……としたら」
最初に思いついたのは、ニコの家だ。自分の保護者であるゲイリーと、お世話になっている先生と出会うのを嫌がっているのかと思ったが、すでにヘイノは彼に会ったと話している。
今日、教会に来たのも、ゲイリーに促された可能性が高い。彼女が二人の邂逅を嫌がるとしても、今更な感が拭えない。
考えながら、かろうじて見てとれたニコの足跡が追えたところで足を止め、ヘイノは顔を上げる。
奇しくも、それはヘイノがここのところ、朝夕通っていた道――シニッカの家に向かう道だった。
「……シニッカさんの家には、そういえば子供の泥棒が入り込んでいたのですよね」
最後に忍び込んだのは、『太陽の日』。つまり、昨日だ。
子供の泥棒が、昨日忍び込んだときに、うっかり落とし物をしていたとしたら。
そのことを、誰にも――ましてや、日頃声をかけてもらっている先生にだけは、絶対に知られたくないと思ったのだとしたら。
彼女はよく知っている。ヘイノが礼拝の日には必ず参列しなければならない立場であることを。
そして、子供たちから目を離すようないい加減な真似ができる性格でもなく、おやつの時間には教会に留まり続けるだろうということも。
全てが仮定に過ぎない。だが、ヘイノの中に生まれたもう一人の自分が、そこに行けと声を張り上げている。
(女神様、どうかお願いです。これが、ただの俺の考えすぎでありますように……!)
だが、ニコの安全のためならば、むしろこれが答えであってほしいと祈るべきなのだろう。
相反する二つの思いに引き裂かれそうになりながら、ヘイノは、通い慣れた道を駆け出す。
走り出しながらも、やはりどこかで彼は確信していた。
これが、きっと答えなのだと。




