一章・九話
シニッカの家に忍び込んだ泥棒は、連日の侵入が嘘だったかのように、パッタリと姿を見せなくなった。
ヘイノたちが朝夕の巡回を始めたおかげかもしれないが、事件が起きてからまだ一週間も経っていないので、もう安全と言い切るには早すぎると、巡回は引き続き行われていた。
もっとも、相手が子供なら、我慢できずに再び忍び込むのでは、と予想していた兄弟は、泥棒の思いがけない慎重な動きに面食らう結果となった。
「すぐに犯人さんと会えると思ったのにねえ。たくさん食べられるように、ケーキもいっぱい焼いたのに」
シニッカにとって、犯人は最早捕まえる対象ではなく、もてなす客人と見なされていた。
だが、小さな客人を待ち侘びている婦人をよそに、肝心の侵入者は、全く姿を見せずにいる。シニッカが残念そうにしている姿を何度も見ることになった二人も、
「泥棒が現れない方が、治安の面では良いのだとはわかっているんですが」
「シニッカさんがあんなにも会いたがってるんだから、さっさと来たらいいのにって思っちゃうんだよね」
などと、アナに報告してしまうくらいには、小さな泥棒の再来を待ち侘びていた。
一方で、来るのが当然だと思っていた人物が姿を見せなくなるという、泥棒の一件とは真逆の異変も起きていた。
「ねえ、今日も行くつもり? 今日は俺たちにとって唯一の休みの日だよ」
泥棒騒動から六日後。すなわち、今日は市場に買い物に行った日から一週間後にあたる『清めの日』だ。
この日は先生としての役割もなく、教会の掃除を終えれば、あとは家事以外の仕事はない。アナが教会に残っている代わりに、二人は家でのんびりと羽を伸ばす――はずだった。
「ヨニは家で休んでいてください。俺よりも、年少の子供たちの相手を毎日しているから疲れてるでしょう」
礼拝堂の掃除はすでに終えている。あとは、アナに報告をしに行くだけなのだが、ヘイノはそれをヨニに任せると言っていた。
そんなことを言い出した理由は一つ。
「ニコが教会に来なくなったことが、そんなにも気になる?」
「彼女がここに来なくなって、もう一週間になります。ヨニも言っていたじゃないですか。ニコは教会に来るようになってから、一度も欠席したことがないと」
「そりゃそうだけどさ。でも、ニコがここに来るようになって一ヶ月も経ってなかったし、今だって一週間休んだだけでしょ」
言いながらも、ヨニも自分の意見の説得力が乏しいとは感じていたようだ。いつもの言葉の勢いはない。
「気のせいだったら、それはそれで構いません。俺は、自分が納得したいがためにやってるだけですから」
「だからって、わざわざ家まで何度も行かなくても。ニコの家の人はいないかもしれないけど、ご近所さんには話題になってるんじゃないの?」
「近所の方とは何度か話をさせてもらってます。皆さん、親切な方でしたよ」
ヨニは、この町に来たばかりのヘイノが悪目立ちをすることを危ぶんでくれたようだが、ヘイノにとってそれは無用な心配だった。
司祭の装いをしているだけで、大抵の人間は敬意の念を向けてくれる。今も、一抹の申し訳なさはあるが、ニコの様子を知るためならば、自分の躊躇など無視できた。
「家の近くにまで行ったんでしょ。部屋の中に誰かがいる気配はあったの?」
「それが、昼間だというのにカーテンが締め切られていて、中の様子が見えなかったんです。何度かノックはしたので、誰かがいるなら聞こえてはいると思うのですが」
「ということは、何か用事があって出掛けているのかな。それとも、居留守?」
見知らぬ客人ならいざ知らず、ニコがヘイノに居留守を使う理由はないはずだ。結局、どれだけ考えても結論は出なかった。
「それでは、俺はそろそろ行きます。夜になる前には帰って、夕飯の準備を手伝いますから」
もはや、ここ数日はお決まりとなったヘイノの言葉に、ヨニも短く「うん」と返す。
(ヨニは、俺の行動が司祭の領分を超えていると思っているんだろう。でも、黙ってこうして見送ってくれている)
できることなら、ヨニにも協力してほしいという気持ちはある。だが、無理強いはできない。
ヨニの言う通り、ヘイノの行動は、一司祭が一人の子供に向けるにしては過分なもののように思える。
無論、ヘイノとて、ニコが休んだその日のうちから家に押しかけていたわけではない。現に、二日目までは不安を感じながらも、家に向かおうとまではしなかった。彼女の近所にまで足を向けたのは、ニコの足が途絶えてから三日目だ。
「気をつけてね。シニッカさんの見回りは、俺の方で済ませておくよ」
「任せきりになってすみません。朝は、俺が受け持ちますから」
「気にしないでいいよ。シニッカさんのところに行くと、絶対美味しいものが待ってるからね。独り占めできて、むしろ俺としてはちょっと得させてもらってるぐらいだし」
にっと笑って見せるヨニ。ヘイノも、彼の笑顔につられて口元に笑みを浮かべた。
「今日はニコに会えるといいね。俺も、早く彼女に会いたいからさ」
「はい。せめて、近所で姿を見ていないかぐらいは聞いてみます」
「うん。でも、あまり前のめりにならないように」
ヨニの忠言を素直に受け取り、ヘイノは教会の扉から外へと向かう。少しずつ春の気配が近づいてきているというのに、ヘイノの内心には依然として不安の黒雲が広がっていた。
扉から出ていったヘイノの後ろ姿を見送り、ヨニは小さく息を吐く。腰に手を当て、頭に手をやり、がしがしと髪の毛をかき混ぜる。
だが、それもほんの数秒。少し乱れた前髪を、無心で整えながら彼は呟く。
「……君は、そういうやつなんだね」
誰に聞かせるわけもない独り言は、礼拝堂の床に落ちて、消えた。
***
ニコの家に向かうまでの道のりは、途中まではティモの市場に向かうときの道と一緒だ。運が良ければ、通りがかりの荷運びの馬車や乗合馬車に乗せてもらえることもあるが、今日は全ての道を徒歩で行くことになった。
ティモの街並みが見えてきて程なくして、ヘイノはまず、細い通りに並ぶ店の一つに入る。
「こんにちは、カッリさん。マウリさんはいらっしゃいますか」
簡素な看板に瓶の絵が描かれたそこは、昼は労働者向けの料理を出す食事処であり、夕方の今は酒場としての開店準備中である。
乗合馬車で出会った縁から親しくなったマウリとその弟――カッリが経営する酒場へ、ヘイノはニコの家に通うついでに顔を出していた。元はといえば、ニコの家を知らないヘイノが、場所を知るために彼らを頼ったことが始まりだった。
「ヘイノ司祭、今日もまた来たんですかい。ってことは、あのお嬢ちゃんのところにまた?」
「ええ。先日まで元気にしていたので、何があったのかと気になっていまして」
このやりとりも、もはやお馴染みとなりつつあった。
カッリは、司祭が評判のよくない男の家に赴くことに、依然として良い顔はしてくれない。だが、それもこちらを案じてのことだとわかっているので、ヘイノは彼の物言いたげな表情を黙って受け入れていた。
「ヘイノ司祭は、きっと良いところの学校に通っていたのでしょうから、わからねえかもしれませんがね。子供ってもんは、もともと椅子に座って何かを学ぶなんざ、そんなに好きじゃねえんですよ。お嬢ちゃんも、飽きちまったんじゃないですかね」
「ニコは、何かを学ぶことに関しては、非常に積極的な姿勢を見せています。それに……あの年頃にしては、礼儀正しく、年長の人間への接し方にも節度が見られます」
言いながら、ヘイノは先週の市場でニコと話していたときの様子を思い出す。彼女は異国からやってくる飲み物に興味を持ち、どんな植物から作られるのかと思いを馳せていた。
彼女の好奇心を満たせるように、ヘイノはアナの書斎から、異国の植物もまとめられている植物辞典を借りていた。
ふんだんに色を使った大きな絵は、きっと彼女を喜ばせただろうと思うと、居ても立ってもいられなくなり、こうしてヘイノは毎日町まで足を運んでいる。
カッリも、ヘイノの気持ちを揺るがせるのは難しいと感じたのだろう。それ以上、言葉を重ねはしなかった。
「カッリさん、この店に昨日ゲイリーさんは来られましたか?」
ヘイノが酒場に顔を出している理由の一つに、ニコの保護者が来ているのではという情報収集もあった。
酒場は、労働者が仕事を終えて集まる場所の筆頭だ。荷運び人のゲイリーも姿を見せているかと期待して、ヘイノは毎日同じ質問をしていた。
「いいや、昨日も来てねえですよ。この店を開いたときから、一度も顔を見せてねえんじゃないかな。その辺は、兄貴に聞きゃわかるだろうが」
「そういえば、今日はマウリさんは?」
「あー……実は、この店に仕入れてる南の国から輸入した酒の話、あったでしょう。あれの本数が、ここ最近、どうにも合わないもんで。俺は、港からの荷運びは兄貴のところの連中に頼んでるから、どうなってるか聞いてきてくれって頼んだんでさ」
「それは、数え間違いとかでしょうか」
「最初はそいつを疑ったんだが、何度数えても一本か二本、足りてねえんだよな。こう何度も重なると、流石に金額的にも馬鹿にならねえ」
荷運びの仕事に、数え間違いはつきものだ。場合によっては、破損が酷くて荷運び人が隠してしまった、なんて場合もある。
「もしかして、運んでいる過程で盗まれてるんじゃねえかって、うちのカミさんはかんかんなんだよ」
「そんなことがあるんですか?」
話しながらも、ヘイノの脳裏にシニッカの家の食料泥棒の件がちらりと掠める。
(同じ時期に起きた、飲食物の紛失……。これは、ただの偶然なのでしょうか。それとも……?)
仮に本当に盗難だった場合としても、対象は酒だ。シニッカの家の泥棒は子供だという話であったし、この件とは別件だろうと、ひとまずは棚に上げておく。
「もし盗まれてたってなったら、荷運び組合の連中が黙っちゃいないだろうがな。司祭様にこんな薄汚え話はしたくねえんですが……まあ、流通は信頼が命、ってわけでさ」
隣人を信じ、愛せと説く司祭には、確かにこの手の話はあまり聞かせたいものではあるまい。ヘイノも曖昧な微笑だけを返していると、リンリンとドアベルを激しく鳴らして、扉が開いた。
準備中の札を揺らしながら入ってきたのは、ヘイノの友人であるマウリだ。
「おう、司祭さん。今日もきてたのか」
「今日もお嬢ちゃんのお見舞いだとよ。それで、兄貴。酒の方はどうだった?」
「港で積み下ろしをしたやつに聞いたが、数え漏れはないの一点張りだ。うちが何かミスをしたんじゃねえか、何でもかんでもこっちの責任にするなって、逆に怒鳴り返されちまったぜ」
やれやれと頭を掻くマウリ。どっかりと椅子に腰を下ろし、息を長々と吐き出している。
「そういえば、司祭さん。今日はゲイリーのやつ、もう帰ってるはずだぞ。組合に顔を出しても、あいつの姿がなかったからな。よそで飲んだくれてなけりゃ、家にいるんじゃねえか」
「俺は、あんなやつと直に話すのは勧めませんがね。酒場に来たことはねえが、小耳に挟んだだけでもろくな噂が入ってこねえ」
「その話、俺は初耳です。どんな噂があるんですか?」
カッリは、口を滑らせたと言わんばかりに気まずげに視線を泳がせた。
これもまた、年若い司祭には聞かせたくないような泥臭い話なのだろうが、今は世間の薄汚さにたじろいでいる場面ではない。
「大した話でもねえですよ。前にいた町でも遊び歩いてたせいで、大家に家賃が払えなくて実家に逃げ帰ってきたとか、買い物もツケばかりだとか。今住んでいる家は、元は親が住んでたところだって噂だ。金を無心していた相手が亡くなったもんだから、今度は家だけちょうだいしてるってところだろうな」
「……そうですか」
話を聞く限り、ゲイリーに経済的な余裕があるようには思えない。以前は、両親が彼の負担を補っていたのかもしれないが、それも叶わなくなり、しぶしぶ荷運びの仕事をしているといったところか。
たとえ、過去に褒められない所業をしていたとしても、ヘイノはそれを責めようとは思わない。自分に至っては、過去に何をしていたかも分からない身なのだ。
(でも、そんな状況なのにニコを引き取って、自分の負担を押し付けているのだとしたら……)
それはヘイノとしては許し難い振る舞いだ。だが、彼がニコの世話を放棄していたとしても、ヨニの言うように罪とすることはできない。
(できるなら、ゲイリーさんが改心するように説得できればいいのだけれど)
司祭として、人の心の中に眠る、善なる心を信じるべきなのだろう。
だが、それは途方もなく困難なことではないかと、ヘイノは心のどこかでそう思ってもいた。
***
マウリ兄弟に別れを告げたあと、すでに通い慣れつつある道を通り、ヘイノはニコの家へと向かう。
ゲイリーの素行の悪さについてはともかく、度々彼の家から顔を見せている新参の子供のことは、近所の人間も目にしていた。おかげで、家自体はすぐに見つけられたのである。
通りのはずれにある小さな家は、ゲイリーの両親が存命だった頃は、小さくも素朴な空気を纏った暖かな空間だったかもしれない。あるいは、その頃から、今のようにどこか裏寂れた空気を纏っていたのだろうか。
ところどころ漆喰がはげ落ちた外壁。灯りを入れるための窓には、まだ日も出ているのに分厚いカーテンがかけられていて、家の中の様子はわからない。
そこまでは昨日と同じだったが、唯一の違いとして、入り口へと続く通り道にうっすらと靴跡が残っていた。ニコの足の大きさではないので、マウリの話していたように、保護者はすでに帰宅済みのようだ。
(……よし)
良い噂を一つも聞かない人物の家を訪ねる。それは、マウリたちが危ぶんだように、あまり気が進むことではない。
だが、ここで帰るつもりもない。
意を決して、ヘイノは扉にかけられた古びたドアノッカーを使って戸を叩いた。
ごんごん、という鈍い音が数度。しかし、返事はない。
「留守……ではないですよね」
靴の跡は、家に向かう真新しいものはあったが、出ていくものはなかった。
再びドアノッカーを使って叩くこと三度。通常ならばうんざりするだろうと思うぐらいに、もう一度叩いた瞬間、
「さっきから、ゴンゴンゴンゴンうるせえな! どんだけ家に押しかけても、ないもんは出せねえって言ってんだろうが!」
勢いよく、扉が内側から開き、ヘイノは危うくつんのめりそうになった。
数歩よろめいたヘイノと、中から姿を見せた男の視線が合う。
マウリと同じく、荷運びの仕事をしているからだろうか。その服装はマウリの着ているものによく似ていたが、彼の表情は穏やかで人の良いマウリのそれとは全く違っていた。
鬱陶しげにこちらを睨む灰色の瞳も、苦々しげに唇を歪めた表情も、マウリどころか親戚のニコにすら似ていない。
もつれて澱んだ色となったブロンドが、かろうじてニコとの血縁を感じさせているぐらいだ。
「なんだ、あいつじゃねえのかよ。というか、なんだよお前は。そんな司祭みたいな格好したガキが、うちに何の用だ」
じろりと値踏みするような視線。そこに、友好の気配は微塵もない。
「――――」
腹の奥がしんと冷え込むような感覚。指の先から熱が失われ、意識しなければ膝が震えそうになる。
今のヘイノとして目を覚ましてから、このような感覚を明確に覚えたのは二度目だ。
一度目は、自分と同じ顔をした人間――ヨニと初めて出会ったとき。
すなわち、それは――恐怖と呼ばれるものだ。
しかも、明確な敵意を浴びたせいで、自分の身を守ろうと体が本能的に生じさせた恐怖は、今回が初めてと言っていい。
記憶を失って目を覚ましてから今まで、ヘイノが出会ってきた人々はどれも礼儀正しく、善なるものを良しとする者ばかりだった。
だが、今対峙している男はそうではないのだと、ヘイノは直感で悟る。
「そういえば、司祭がうちの周りでうろちょろしてるとか、近所の連中が言ってたな……。献金ならできねえって、前に教会のじいさんに話しただろうが」
自分とは全く違う尺度を持つ人間を前にする恐れ。咄嗟に背を向けて帰りたいと思う気持ちを、ヘイノは必死に押さえつけた。
「不躾にお邪魔して申し訳ございません。俺は、パユヴェシ村に新しく赴任した司祭のヘイノと申します。あなたはゲイリーさんで間違いないでしょうか?」
声が震えないように、ヘイノはできる限り腹に力を込めて言葉を口にする。
パユヴェシ村の名を聞き、ゲイリーは怪訝そうに顔を歪めた。一瞬視線が、体の向きが、家の奥へと向きかける。
「こちらのお宅に、ニコレッタというお嬢さんが住んでいるはずです。彼女は、パユヴェシ村の教会で開いている学校に毎日通ってきていました。ただ、ここ数日姿を見せていないので、具合が悪いのではないかと思ってお見舞いにきた次第です」
ゲイリーが見せた変化が、ニコに係ることではないかと思い、ヘイノは矢継ぎ早に自分の来訪の理由を語る。
果たして、ゲイリーはまるで毛虫を前に突き出されたかのように、岩のようにごつごつとした顔をぐしゃりと歪めた。
「学校? あいつ……どこをふらついてやがるのかと思ったら、そんなところに行ってやがったのか」
何やら独り言を口しながらも、ゲイリーの視線は油断なくこちらを見下ろしている。
先ほどまでの、突然の来訪者の目的を探ろうとする視線とも少し違う。直感に過ぎないが、落ち着きなく動くゲイリーの瞳から、彼が何か隠し事をしているようにヘイノには感じられた。
不思議なことに、その目の動きは学校の子供たちが叱られたときのものとよく似ていた。
「もしよければ、お家にあがらせてもらってもよいでしょうか。ニコさんの席はいつでも用意してあると、彼女に伝えたいんです」
「おい待て! あ……ああ、いや、そいつはだめだ。絶対にだめだ」
ヘイノの言葉が終わるのを待たずに、間髪入れずゲイリーが体で塞ぐように玄関口に立つ。司祭に対して語気を荒らげたことを悪いと思う気持ちはあるのか、言葉こそ取り繕ったものの否定の意思は固い。
「し、司祭様を入れられるような、そんな上等な部屋じゃねえんだよ。司祭様の服を汚すわけにはいかねえんでな」
「困っている人々を助けるためならば、自分がどれだけ汚れても構う必要はない。それが、始祖の教えです。部屋がどのような状態であろうと、俺は気にしません」
「あんたはそうかもしれねえが、俺が気にするんだよ! き、近所の連中がなんて言うか、知れたもんじゃねえだろ」
やや取ってつけたような物言いではあるが、理屈は通っている。無理に押しかけようとしたら、ゲイリーはヘイノを敵として見做し、力に任せて排除しようと考えるかもしれない。
(俺一人の問題なら、それでもいい。でも、ニコに悪意を向けられたら……)
目の前の男は、すでにヘイノに対して何か隠そうとしているように見える。それが何かは分からないが、今はそれ以上踏み込むのは危険だ。すでに、予期せぬ来訪者という存在でゲイリーは内心で苛立ちを溜めているかもしれない。
「……わかりました。では、今日は顔を見るのは諦めます」
一旦、これ以上詰め寄るのは避ける。ヨニの忠告も、ヘイノの頭の中でよぎっていた。
ティモの街内でヘイノの悪評を立てるわけにもいかない。その悪評は、アナやヨニにも及ぶかもしれないのだから。
「たちの悪い風邪でも、一週間もあれば治りますよね。来週には、ニコの元気な顔を見られるのを楽しみにしています」
だが、ヘイノはここであっさりと引くつもりもなかった。
「ティモにお住まいの方々は、大変親切ですね。ニコとゲイリーさんのお家を聞いた時、色々とお話を聞かせてもらいました。もし、ゲイリーさんが仕事に忙しくても、ニコの様子を見守ってくれる方々がこんなにもいるなら、俺も彼女の先生として安心できます」
実際のところ、ヘイノは近隣の住民からは家の場所を聞いただけに過ぎない。だが、顔を見せておいたのは事実でもある。
もし、ゲイリーが良からぬ理由でニコを閉じ込めていたのなら、ゲイリーがどれだけそれを隠していても知る手段はある。そのことを伝えておけば、彼は少なくともニコを幽閉するような真似はできないと考えるだろう。
「……わーったよ。それで、今日の用事はそんだけか? 他にはないんだな?」
「ええ。ニコに、お大事にと伝えておいてください」
月並みな別れの挨拶を告げると、音高く扉が閉まった。閂をかける音までしたので、これ以上の会話は今日は無理だろう。
ゲイリーの姿が見えなくてきっかり一分後、ヘイノは大きく息を吐き出した。膝から力が抜けかけ、その場に崩れ落ちそうになるのを咄嗟に垣根を掴んで体を支える。
(……誰かを怖いって思うことって、こういうことなのか)
マウリの弟やヨニが危ぶんでいたのは、単なる体面のことだけではなかったのだろうと、遅まきながら理解する。
ゲイリーがこちらを睨んだ時、ヘイノは暴力の気配を察して、体がすくみ上がるのを感じた。
ヘイノの記憶の中には、誰かに殴られたり怒鳴られたりされた記憶はない。しかし、だからこそ、漠然とした敵意を向けられて、本能的に命の危険すら一瞬感じ取り、全身が震え上がった。
「――でも、逃げなくてよかった」
素行の悪さで噂になっている男も、流石に司祭に向けて拳を振うような真似はしなかった。少なくとも今日は、自分の肩書きを盾にして詰め寄ったヘイノの選択は間違いではなかった。
「ゲイリーさんが何か隠し事をしているのは確かです。でも、それがニコのことなのか、他のことなのかは分からない」
出会い頭の口ぶりでは、ゲイリーはどうやら借金もしているらしい。しかも、家に押しかけて来られるほどに深刻なもののようだ。
「……まずは、来週ニコが来たら聞いてみよう」
できることなら、今すぐニコの無事な姿を見たい。そんな気持ちを押し殺して、後ろ髪を引きずられるような思いで、ヘイノは小さな家に背を向けた。




