一章・八話
シニッカの家は、ヘイノたちの家から歩いて十分程の場所にあった。家の周りには目立った建物もなく、一見すると草原の途中にぽつんと家があるように見える。聞けば、周辺の土地は農地として人に貸し出しているのだそうだ。
「昔は、この辺りの開拓を一族全員で行っていたのですって。今も私の土地ではあるのだけれど、夫は船乗りだったから、もうずっとこの辺りは他の人が使ってるのよ。年寄りがあまり大きなものを持っていても、どうしようもないものね」
つらつらと、とりとめもない話をしながら、細い川を渡り、馬車の轍が残る道をいくと、程なくしてシニッカの家が二人を出迎えた。
二階こそないものの、一人暮らしの婦人が住むには大きすぎるように感じるのは、彼女が話したように、かつては開拓者一家が集って暮らしていたからだろう。その広さと住人の数が釣り合っていないせいか、外から見てもうら寂れた空気があった。
家の周囲には申し訳程度に垣根が張り巡らせているが、ところどころに破損が見られる。家への侵入を防ぐというより、家の区画を示すために設置したものなのだろう。
「今は、こちらにお一人で暮らしてるんですか」
「ええ。一人暮らしには広すぎると思うのでしょう。私もそう感じてはいるのですけれど、祖父母の、そのまた祖父母の頃から受け継いでいるものだから、簡単に手放すというわけにもいかなくてねえ。でも、うちには子供がいなかったから、どうしようかしらってずっと思ってるのよね」
思い出の詰まった家であるからこそ、おいそれと他人を入れるというわけにもいかないのだとシニッカは語る。
話しながらも、シニッカは玄関口の鍵を開いて二人を部屋へと招いた。
古びた漆喰の外装とは裏腹に、室内は小花を散らした模様の壁紙が貼られ、ほっと一息つける雰囲気に満ちていた。もっとも、その壁紙も所々に傷みや汚れが見られるので、長らく張り替えられないままでいたのだろう。
シニッカが案内してくれた廊下や客間は丁寧に磨かれているが、更に奥の部屋はどこかどんよりとした薄闇に包まれているように見える。窓から差し込んだ日差しが、積み重なった埃を淡く照らし出していた。
「見ての通り、広い家ですけど、使っている部屋も限られているから、掃除は使っている部屋だけでいいと女中の子には言ってあるのよ。汚れているところは、目を瞑ってもらえるかしら」
住人自身からそう言われたのなら、それ以上言えることはない。シニッカに勧められるままに客間に向かった二人だったが、今日の目的は彼女に歓迎されることではない。
「それでは、早速ですが最初の晩に物音が聞こえた所を教えてもらえますか」
「あら、せっかく何かご用意しようと思っていたのに」
「お茶なら、後でもらうよ。考えを整理するのに、甘いものはぴったりだけど、働く前にお腹いっぱいになったら眠くなっちゃうでしょ」
シニッカの厚意を無駄にしないような言い回しで、ヨニは調査の開始を促す。
シニッカが案内してくれた台所には、彼女の証言通り、明らかに人のものと分かる靴跡が残っていた。泥を落とす余裕もなかったのだろう、小さな足跡は台所を暫し彷徨いた後、併設している地下の貯蔵庫へと向かい、そこから出て行く様子を示していた。
「たしかに、これは猫の足跡じゃないね」
「ですが、俺たちよりも小さな足跡です。犯人は小柄な人物ではないでしょうか」
ヘイノもヨニも特段大柄というわけではないが、少なくとも平均的な成人男性に近い体格をしている。それよりも小さいとなると、相手は女性だろうか。
足跡の検分はひとまずそこまでして、シニッカは勝手口へと二人を案内した。
ヘイノたちの家と同様、勝手口は台所から続く作りになっている。ここも十分な清掃がされておらず、ところどころに土の塊や埃の塊が見られた。
彼女は、台所に置かれている椅子を指さすと、
「昨晩は、あそこで繕い物をしていたんですよ。ミトンが破れてしまって、詰め物も入れ替えないとってね。そうしたら、何だかさく、さくって足音が聞こえた気がして」
シニッカの説明を聞いて、ヨニは勝手口から外に出て歩き回ってみる。窓を通り抜けてきたのか、それとも漆喰が剥げかけている所から音が通りやすくなっているのか、集中すれば確かに室内にいても足音は聞き取れそうだ。
「シニッカさん、昨晩聞いた足音は今ぐらいの大きさでしたか?」
「そうねえ……。今の方が大きく感じたわ。私が聞いたのは、猫の足音かしら、と思うぐらい小さなものだったから」
すると、猫という言葉に反応したのだろうか。とん、と軽い音がして、何事かと振り返ったヘイノは、台所の陰から滲み出るように姿を見せた黒猫と目が合った。
「まあ、リク。今日はそんなところに隠れていたのね。今はお客様が来ているから、遊ぶのは後でね」
この黒猫は、シニッカの飼い猫のようだ。ニー、と不満げに鳴いたものの、聞き分けがいい黒猫は大人しく台所から出て行った。てくてくと廊下を行く猫からは、足音らしい足音は聞こえない。
(猫の足音があんなにも静かなら、外の下草を踏んでいてもそこまで音は聞こえない気がするな。ということは、やっぱりやってきたのは猫ではなく人間なんだろうか)
続けて、シニッカは勝手口を開いて、夜に野良猫の餌を置いた場所を教えてくれた。家の壁に沿うように置かれた二つの白い皿は、丁寧に扱われているようで、目立った汚れもない。普段から頻繁に洗っているのだろう。
「昨晩は、ここにご飯を置いていたのよ。今日も、夜には何か置いてあげようかと思っていたところだったの」
「シニッカさんは、猫の救世主だねえ」
勝手口の壁沿いで話していたヘイノの視界の外側から、ヨニの声が聞こえる。周囲を見渡しても彼の姿は見当たらない。少しの間にどこに行ったのかと思いきや、ヨニは丁度勝手口からは死角となる曲がり角から姿を見せた。
「家の裏側って、普段は誰も入りたがらないでしょ。あっちに何があるか、ちょっと気になったからさ」
ヨニが指さすように、外壁の角の向こう側へと行ってしまえば、その先で何をしていてもヘイノには見えない。
そこまで考えて、ふとヘイノはシニッカが語った状況を思い出す。彼女は昨晩の一件のとき、勝手口を開いても誰もいなかったと語っていた。だが、彼女は曲がり角の向こう側まで確認したのだろうか。
ヘイノがそう尋ねると、シニッカはゆっくりと首を横に振った。
「あの晩は冷えていましたから、勝手口から顔を覗かせただけだったわ。たしかに、音に驚いて、曲がり角の向こうまで行ってしまっていたのかもしれないわね」
もっと探しておけば、とシニッカは言うが、誰だって冷えきった夜の世界に、望んで足を踏み入れたくはないだろう。直前まで暖かい室内にいたのなら尚更だ。
「それで、家に入り込んだ足跡もここから入ってきてるんだよね。この勝手口って、鍵をつけてないの?」
「つけないといけない、と思ってはいるのだけれどね。昔から開けっぱなしにしていたから面倒になってしまって」
もっとも、こればかりはシニッカが不用心と責めるわけにはいかない。
勝手口とは、本来は建物と庭を自由に行き来するためのものだ。無断で人が入ってくるなどと考えたこともない者や、多少の出入りがあっても許してしまえる土地柄の者は、勝手口に鍵をつけるという習慣自体がないのだろう。
ヘイノたちの家の勝手口に鍵がついているのは、建てる際に誰かが気を利かせてくれたからか。あるいは、この村とは違う所で育ったアナの防犯意識が高かったからか、といったところか。
「もしかしたら、お腹が空いた誰かが迷い込んできたのかしら。だとしたら、もっとごちそうしてあげるべきだったわ」
「空腹で誰かに救いを求めているのだとしたら、まずは玄関の戸を叩くべきです。シニッカさんが気に病む必要はありませんよ」
お人好しな婦人を窘めてから、ヘイノは「地下倉庫を見せてもらえますか」と尋ねる。
「じゃあ、俺はもう少し周りを見てくるよ。シニッカさん、ヘイノをよろしく」
「そうしましょうか。ヘイノさん、よろしくお願いするわね。ヨニさん、奥は手入れが十分にできていないと思うから、気をつけてちょうだいね」
「ん、了解。どうせなら、草刈りぐらいならやっておこうか?」
そんな茶目っ気まじりの冗談を残してから、ヨニは再び曲がり角の向こう側へと消えていった。
「まだこんなに冷えているんだから、刈る草自体生えていないでしょうに」
こんなときでも、場を和ませる空気を作り出せるのは、意図したものなのか、あるいは天性のものなのか。
泥棒の調査に来たのに、真剣味がないと怒られないかとシニッカの様子を窺ったが、婦人は今までと変わらない笑みを浮かべていた。
***
ヘイノは台所に戻った後、続いて地下倉庫へと続く道を案内された。
ヘイノたちの家もそうだが、地下倉庫は天然の冷蔵庫でもある。倉庫に続く石段を降りるごとに、空気がぐっと冷え込み、外にいるかのような肌寒さがコートの上からも伝わってきた。
倉庫の扉は閉められているものの、案の定、そこに鍵はなかった。シニッカは重たそうな扉をよいしょと開き、ヘイノを中へと招き入れる。
「ここにも、鍵はないんですね」
「ええ。昔は、使用人が泥棒をするかもってつけていたみたいですけど、こんなおばさん一人が住んでいる家で、そんなに神経質になることもないでしょう?」
シニッカの言う通り、家族以外の人間が沢山暮らしている頃なら、鍵は役立っていただろうが、今では無用の長物だ。
中に入ると、シニッカは入り口脇の棚に置かれていたランタンに燭台の火を移した。硝子を通して光が広がり、地下倉庫を照らし出す。
ヘイノの家にあるものと大して変わらない様式の棚や箱の中には、シニッカが話していた通り、ジャムや漬物が並んでいる。宙を跨ぐロープは、燻製を作る際に使うものだろうか。他にも、引き出しの中にはベリーを漬け込んで作った酒も並んでいた。
棚のいくつかには布巾に包まれたケーキが置かれていたが、その隣の皿が不自然に空いている。そこに、盗まれる前のケーキがあったのだろう。
床は上階と異なり石がむき出しになっているため、足跡を確認することはできないが、不自然に物がなくなっている箇所を辿っていけば、自ずと泥棒の動きは想像できた。
「物がなくなっていたのは、この辺りの棚ね。ケーキと、あとは作り置きのジャムとか砂糖漬けを置いておいた所から一つ無くなっていたの。ということは、泥棒さんは甘いものが好きだったのかしら?」
シニッカの言う通り、不自然に瓶が抜けている棚の所には、他にもベリーのジャムがひしめき合うように並んでいた。量が不自然に減っていたり、瓶のへりにジャムが付着しているものは、泥棒が食い荒らした跡だろうか。
一方で、燻製にした魚や肉は囓られた跡こそあるものの、持ち去られてはいないとのことだった。瓶詰めになっているジャムに比べると、持ち運びが容易ではなかったからだろうか。
暫く、燻製とジャムの棚に視線を往復させ、何か他に痕跡がないかとヘイノが目を凝らしていると、
「ちょっといいかしら、ヘイノさん」
泥棒のことで何か話があるのかと振り返ると、シニッカはいつになく神妙な面持ちでヘイノを見つめていた。
「今更のお話ではあるのだけれど……ヘイノさんは、ヨニさんの双子のお兄さんなのよね」
「え。ああ……はい、そうです」
あまりに現状にそぐわない会話を突如振られて、一瞬ヘイノは言葉に詰まる。
突然の話題に驚いたからでもあったが、ヘイノにとって「あなたはヨニの兄なのでしょう」と問われて、すぐに応じられるほどに、その関係にまだなじめていなかったからでもあった。
「あなたから見て、今のヨニさんの様子はどうかしら」
「様子、ですか? それは……どういう意味でしょうか」
もしかして、彼の態度を不真面目と捉えられてしまったのだろうか。それならば、ヘイノとしては兄としても、彼と共に働く者としても弁護をしたいと思っていた。
しかし、シニッカはゆっくりと首を横に振ると、
「この数ヶ月の暮らしの中で、あの子も大分持ち直したのでしょうけれど、ここに来たばかりの時のヨニさんは……正直、どう接すればいいか分からないようにも思えていたの」
「それは、態度や振る舞いのことでしょうか」
「ええ、そうね。でも、勘違いしないでね。殊更にあの子が無礼だったというわけではないのよ。ただ、無理を押し隠しているように見えたものだから、つい気になってしまって」
お節介を承知で、シニッカはアナにヨニの過去について尋ねた。アナは近隣の住民に妙な噂が立つよりは、とヨニが抱える事情を簡単に説明した。
原因不明の火事により、家も家族も故郷すらも、兄以外の何もかもを失ったのだと。元々、見習いとして赴任する予定だったと聞いて、それならばと彼を引き受けたのだと。
「あなたにとっても、気持ちのよい話ではなかったわね。ごめんなさい、ヘイノさん」
「いえ、俺は……まだ、平気です。それより、シニッカさんには、ヨニは今も無理をしているように見えるのでしょうか」
話をしながら、ヘイノは自分の背筋に冷たいものが流れ落ちるような感覚に襲われていた。ヨニはいつだって朗らかに笑っていて、子供たちの前でもお調子者の親しみやすい先生として振る舞っている。
だから、ヨニにとって事件のことは大きな傷にはならなかったか、とうの昔に乗り越えたものだと思っていた。だが、もしそうではないのだとしたら――?
「そうねえ。近頃は、前ほど無理をしているようには見えませんよ。特に今日は、いつもよりずっと楽しそうに見えました。お兄さんが来てくれたからかもしれないわね」
本当に、シニッカの言う通りなのだろうか。ヘイノの存在は、そこまでヨニの助けになれているのだろうか。
シニッカの話を聞く前ならば、ヘイノは「そうかもしれない」と頷けただろう。だが、今こうしてヨニの態度に関する指摘を貰ったあとでは、不安が黒雲のようにわき上がってきてしまう。
「笑顔というのはね、不思議なものなのですよ。目が笑っていないと、心の底から喜んでいるわけではないと分かってしまうんです。だから、今のヨニさんは大丈夫。ちゃんと、心底から楽しんで笑えていると私は思いますよ」
ヘイノの目から見ても、ヨニが取り繕った笑顔を見せているようには見えない。だが、それはヘイノがヨニのことを深く知らないから、彼の仮面に気が付いてないだけかもしれない。
それゆえに、シニッカという第三者の、しかも自分より年配の人物から「大丈夫」と言ってもらえて、ヘイノは内心安堵していた。
同時に、彼は思う。
(ちゃんと見ていたつもりだったのに、俺には見えていないものばかりだ)
ニコのように、見えていたのに気づけなかったこともあれば、今のように、見えていても気づけていないこともある。この街に来て、人と触れ合うようになって、ヘイノは何度も新たな気づきを得ていた。
「……ありがとうございます、シニッカさん。ヨニのことを気にかけてくれていて。俺はてっきり、あんなふうに笑えているのならもう大丈夫だと、そればかり思っていました」
「彼は、優しい子なのでしょうね。周りに心配をかけたくないと、明るく振る舞うようにしていたのでしょうから」
「はい。俺も、そうだと思います」
ヘイノ自身、ヨニに不安をかけまいと兄の仮面を被り続けている身だ。だったら、弟である彼とて同じではないか。何を気にすることもなく自由に生きていると考えるのは、早計にすぎるだろう。
出会ってすぐ、アナがヘイノに『過去のことを気遣うことはできない』と言ったときのことを思い出す。
彼女はヨニはどうかと問われて、『見ていてわかるわ』と言ったが、あれは『見ての通り平気な風を装っているのはわかるが、無理に止めるつもりはない』という意味だったのだろう。
「近しい人が亡くなるという経験は、何度迎えても悲しいものです。私のような独り身の者が言うことではないのかもしれないけれど、何かあったらいつでも頼りにしてちょうだいね。隣人として、少しはお手伝いできると思うわ」
「ありがとうございます。でも、まずはシニッカさんの家の泥棒を見つけることからですよ」
ヘイノに言われて、シニッカは「そうね」と笑いかける。
もっとも、このお人好しの婦人ならば、困り果てて食糧庫に忍び込んだ泥棒にも手を差し伸べるだろう。彼女の善意が裏切られるようなことにはならないよう、ヘイノは改めて気を引き締めるのだった。
***
地下倉庫から上階に戻ると、勝手口から丁度ヨニが顔を覗かせているところだった。二人を見かけると、ヨニはちょいちょいと手招きをして、外へと二人を導いた。
「何かあったんですか?」
「うん。裏手の方に、垣根が壊れているところがあったんだ。小さな抜け穴みたいになってたんだよ」
「それって、もしかしたらうちの猫が使っている通り道かもしれないわねえ。前に見かけたのだけれど、リクがお友達を連れてくるのに使っていたから、放っておいたのよ」
ヨニの先導で連れてこられた先では、確かに張り巡らされている垣根の根元にあたる部分がひしゃげて折れていた。
「……これ、人が通れる大きさなのでしょうか?」
だが、問題は垣根を通れる穴があったことではない。その穴が、人間が通るにはいささか小さすぎることだ。猫なら通ることはできても、大人が通るのはまず不可能だろう。
この穴を本当に犯人が通ったのかと、ヘイノが確かめようとしたところ、
「不思議ねえ。この穴、こんなにも大きかったかしら」
「もっと小さかったのですか?」
「ええ。大きめの猫がぎりぎり通れるぐらいの大きさだった気がするのよねえ。でも、確認したのは冬になる前だったから、もしかしたら時間が経つうちに大きくなっただけなのかも」
「……あるいは、昨晩シニッカさんの家に忍び込んだ犯人が、潜り込む際に穴を広げてしまったのかもしれませんね」
「ということは、犯人は垣根を乗り越えるんじゃなくて、穴を無理に広げてでも通る選択をしなければならなかった人物ってことか」
周囲の垣根はヘイノの腰ほどの高さはあるが、大人であれば乗り越えられないほどではない。だが、もし背が低い人物や、垣根を跨ぐような真似は何が何でも避けたいと考える者なら、話は別だ。
「そうなると、犯人は子供かもしれませんね」
「子供が犯人だったのなら、尚更家に招いてあげるべきだったわね。甘いものがなくなっていたのも、子供だったからかしら」
ヘイノの仮説を聞いて、シニッカは僅かに残っていた不安げな気配を捨てて、すっかり安堵したようだった。
犯人の痕跡が残っていないものかと、試しにヘイノが身をかがめて垣根に頭を通してみたが、肩がつっかえて通り抜けるのは難しそうだ。
すぐに身を引こうとしたところ、不意に視界が真っ暗になると同時に、
「あいたっ」
小さな衝撃が顔面に走る。何か柔らかなものがぶつかってきたような感触に、目を白黒とさせていると、
「こら、ルミ! 司祭さまの顔をはたいてはだめでしょうっ」
ゆっくりと頭を引き抜き、顔を上げたヘイノが目にしたのは、シニッカが一匹の白猫を捕まえているところだった。先ほどの黒猫だけでなく、このルミという名前の猫もシニッカの飼い猫のようだ。
ルミはシニッカの腕の中におさまっているも、今もヘイノを――正確には、ヘイノの首元に揺れているペンダントを注視している。
「ごめんなさいね、ヘイノさん。この子は光るものに目がないの。ヘイノさんの『司祭様の証』が気になったのでしょう」
ヘイノが身につけているそれは、今はゆっくりと沈みかけた夕日を受けて、ちらちらと光を反射していた。丁度通り道を通って帰宅しようとしていた白猫は、ヘイノと鉢合わせて、首飾りに目敏く気がついたのだろう。
「それよりも、やはりここを大人が通るのは難しそうですね。子供が偶然迷い込んできて、魔が差しただけだというのなら、障害物を穴の前に置くだけでも侵入は防げると思いますが……どうしますか?」
すると、やはりと言うべきか。シニッカはゆっくりと首を横に振った。
「その子供がただの悪戯で忍び込んで、家を荒らし回ってやろうと企んでいるのなら、ヘイノさんの言う通りにするべきなのでしょうけれど……どうも、そうではないような気がするのよね」
シニッカは、自分たちが出てきた勝手口を見やる。犯人がどんな思いでそこを通り抜けたのか、その真意を探るかのように。
「もしできるなら、私は直接犯人さんと会って話をしたいわ。子供なら、私やお手伝いの子に怪我をさせるということもないでしょうから」
「そこまで言うなら、俺たちも無理強いはできないかな。念のため、他にも侵入できそうな所はないか、探しておくよ」
ヨニの言葉に、ヘイノも追って頷きを返す。
ヘイノとしても、もし犯人が子供であるのならば、どうして倉庫に忍び込んで食べ物を盗むような真似をしたのか聞いてみたいと思っていた。
悪意がないならば何をしてもいいとまでは言えないが、理由があるなら現状を変えるために何かしたい。それは、ニコの件からヘイノが持ち続けている方針と似たような指針だった。
「朝と夕方なら、俺たちも時間が取れるだろうからさ。家も近いし、時々俺たちも様子を見に来るよ。そしたら、犯人に出くわすかもしれないからね」
ヨニの提案に、これまたヘイノも同意する。相手が子供なら、大人の姿を目にして犯行を止めようと思うかもしれない。あるいは、焦って姿を見せることも考えられる。
「それなら、暫くはお願いしようかしら。一人で過ごしていると、どうしたって気が滅入ってしまうものね。お茶とお菓子を用意して待っているわ」
「……シニッカさん、俺たちは一応見張りに来るのですから、もてなしてもらう必要はありませんよ」
「そんな寂しいこと言わないでちょうだい。よかったら、この後も休んでいってくださいな。お手伝いに来てくれた司祭さまをもてなしもせずに返すなんて、私の母が聞いたら目をつり上げて怒っていたでしょうから」
ころころと笑うシニッカに毒気を抜かれて、ヘイノとヨニは彼女の招待を受け入れることにした。
二匹の猫とスパイスがよくきいたクッキーと甘酸っぱい自家製のジャム、そして暖かい紅茶の香り。それは、二人にとっては漸く得られた休息のひとときとなったのだった。




