――別離――
光が収まった時、悪魔の本は消えていた。
契約者を失った魔神たちも、仮初めの化身を維持できなくなって消えた。
両腕を失い、胴から真っ二つにされていた割れ顎の男が死んだ。
その死体は崩れ落ち、風に解けていった。
骨の一つも、灰の一粒も残らない。
悪魔に魂を売った者の末路だ。
輝く竜は、愛しい女の横に侍ると、中性的な男の姿に戻った。
――女が目を覚ましたのは、それから間も無く。
酷い倦怠感と心地良さに目を開けると、目の前に愛するクオンの中性的な顔がある。
思わず伸ばした両手が目に入る。
失ったはずの右腕がある。
…袖は無い。
失ったはずの右足の感覚がある。
…スカートは破れている。
天井も見覚えのある、異界の迷宮に作った自室のもの。
…後頭部が前回より暖かいと思ったら彼は真っ裸だ。
次第に、意識を失う前のことを思い出してくる。
彼の魔術で、祖国の大神殿に行った。
そこで世界を滅ぼす元凶と戦った。
悪魔の本、傲慢な男、高位の魔神、雑多な魔物たち。
私は死に掛けた。
彼が光り輝くドラゴンになって、全てを飲み込んだ…。
「…夢?」
「現実だ」
呟きに直ぐ答えが返って来た。
身体を起こそうとしたけど、力が入らない。
それがアレは現実だったのだと教えてくれた。
――《背徳の対価》。
その対価は人の命よりも重い。
それを限界まで使い尽くした今の私は残り滓。
凡百な天才と変わらない程度の力しか残っていない。
残り滓の私には、アレほどの激闘の後で立ち上がる余力などあろうはずも無い。
「じゃあ奇跡?」
思ってもいない言葉を呟く。
現実に奇跡は無い。
全ては凡ての巡り合わせに過ぎない。
才能だけでも、努力だけでも、完全足り得ない。
だから恵まれた者は驕らずには居られないのだ。
…しかし、現実だと言うなら何が起きたと言うのか。
「制約」
「制約?」
彼は頷くと語り始めた。
自分の世界から私を見つけた彼は、失った恋人に重ねて見えて、哀れんだらしい。
救われないと。
…胸を見られた気がしたのは気のせいだ。
彼は私を助けたいと思った。
けれど彼の居る世界は遠い世界。
魚が陸で泳げないように、鳥が水中で飛べないように、こちらの世界は彼にとって不自由な世界。
それでも無理矢理こっちの世界に来た。
それでも私を手助けしようとしてくれた。
死の淵の私の願いがどう捻くれて叶ったのか。
こっちの世界には無いはずの、彼のそれが解放された。
彼の理屈は難し過ぎて、私にも分からなかった。
多分、それは世界の原理そのもの。
人間の考える理論は、認識を理解し易い形に落とし込んだものに過ぎないのだから、理解できないのも無理は無い。
「あれは何だったの?」
ウィルハザード王国の大神殿にそっくりだったけど、倒れていた司祭に見覚えは無かった。
私が王城を離れた一年やそこらで、全く新しい司祭が就任するほど、宗教の上下関係は優しくない。
「近くて遠い未来」
信じ難いけど、何故だか納得できた。
魔界ですら理解の及ばない化け物たちが住んでいるのだ。
剣を生やしドラゴンに姿を変える彼が何をしたとしても、今更驚きはしなかった。
「――来たか」
研究室の垂れ幕を上げて、見知った顔が入って来た。
「お姉様っ!」
アスフィアだ。
私と瓜二つの顔。
一部の膨らみに倍以上の差があることと、髪の色が金色なことを除けば、完璧な双子。
立派な司祭衣を着ている。
宝石の輝く王の冠を被っていない。
重厚な王のマントも羽織っていない。
綺麗な顔は、所々泥や汚物で汚れている。
それでも私の妹だ、見間違いようが無い。
その直ぐ後ろには宮廷魔術師の爺や。
更に後ろには、五人の冒険者らしき者たち。
アスフィアが駆けてきて、クオンに膝枕をしてもらっている私に、倒れ込むように抱き着いてきた。
死ぬ!
それを見て私は死を覚悟した。
今の私の頭は、断頭台に乗せられたような状態。
そこにアスフィアの全体重が掛かれば、どうなるかは自明の理。
でも、感極まったっぽいアスフィアに、そんな理性は働いていない。
…しかし、悲劇は起こらなかった。
クオンが片手を私の背中の下に入れて支えて、アスフィアの体重から私を護ってくれた。
アスフィアの手が私の背中に回され、私は一安心した。
アスフィアが泣きじゃくって私に謝る。
彼女の言い訳を纏めると、私の指名手配は貴族連中が勝手にやったらしい。
なるほど。
アホな妹に、刺客を送るなんて知恵は無かったらしい。
妹が弁明している間に、爺やたちも研究室に入って、私たちを温かい目で見ている。
暫くして、妹が馬乗りになって抱き着いたまま、私の身体を起こした。
そして顔を真っ赤にした。
裸で膝枕をしているクオンから私が置き上がれば、何が見えるかは決まっている。
「ころすぞ」
「ちっちっちっ違うのお姉様っ!」
私を抱き締める手を離して、慌てて否定する妹。
爺やと冒険者たちから笑いが漏れる。
何なら冒険者の一人、胸の大きなエルフが、物欲しそうな目でクオンの股間を見たので睨んでやると、彼女はそっと視線を逸らし、また場に笑いが立ち込める。
「――ここまでだな」
賑やかな雰囲気の中、クオンが立ち上がった。
「どうしたの?」
「さよならだ」
彼の感慨も無い言葉に、嫌な予感がした。
「契約は破棄された」
「!」
そうだ。
私はあの時、彼に契約の破棄を望んだ。
契約は絶対に破棄できない訳じゃない。
本物の契約であっても、双方の自由意思による同意があれば、契約は破棄できる。
「お前には帰る場所がある」
クオンの姿が光の粒となって消えていく。
転移の魔術だ。
「待って! 私はそんなつもりじゃな――」
クオンに手を伸ばすけれど、妹が膝の上に座っていて立ち上がれない。
妹も状況が分からず身動ぎをするだけ。
今の私に、妹を跳ね除けるほどの力は無い。
「クオーーーーーーーーーーーーーーーーーーンっ!」
妹が除ける間も無く、クオンは優しい笑顔を残して光に消えて行った…。




