名前になる前
現場が、もう一つ増えた。
小さめのスタジオ。
人も、そこまで多くない。
空気は、軽い。
でも——
どこか、似ている。
「おはようございます」
軽く頭を下げる。
返事は、普通。
それでいい。
台本を受け取る。
また、脇。
セリフは少ない。
目立たない。
変わらない。
——はずだった。
ページをめくる。
ふと、止まる。
一行。
短い台詞。
「……ああ」
それだけ。
意味は薄い。
感情も、ほとんどない。
でも——
置ける。
ほんの少しだけ、
残せる。
白瀬は、何も言わない。
ただ、台本を閉じる。
――――
収録が始まる。
流れは、スムーズ。
誰も引っかからない。
正しく進んでいく。
「次、白瀬」
呼ばれる。
ブースに入る。
マイクの前。
息を吸う。
吐く。
「……ああ」
短い。
それだけ。
でも——
ほんのわずか、
“遅らせる”。
間を、半拍。
その分だけ、
空気が引っかかる。
「カット」
少し早い。
ディレクターが、モニターを見る。
「……今の」
言いかけて、止まる。
言葉が見つからない。
「……もう一回」
理由は言わない。
ただ、繰り返す。
――――
もう一度。
「……ああ」
今度は、
ほんの少しだけ、
“軽くする”。
さっきと、違う。
でも、
どっちも間違いじゃない。
沈黙。
ディレクターが、息を吐く。
「……OKで」
曖昧な判断。
でも、止めない。
――――
収録は進む。
何も起きていないようで、
どこか、違う。
ほんの少しずつ。
ほんの少しだけ。
ズレていく。
――――
ブースを出る。
いつもと同じ。
誰も声をかけない。
それで終わる。
——はずだった。
「ちょっといい?」
声。
振り返る。
女性スタッフ。
制作。
メモを持っている。
「さっきの」
言葉を探してる。
「……なんか、残るね」
曖昧。
でも——
核心。
白瀬は、少しだけ間を置く。
「……そうですか」
それだけ。
「うん」
頷く。
「理由、言えないけど」
少し笑う。
「なんか、邪魔しないのに、残る」
――――
その言葉は、
まっすぐ入る。
でも、掴まない。
「……ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
――――
帰り道。
空は、少し曇っている。
スマホが震える。
知らない番号。
一瞬、止まる。
出る。
「……はい」
『白瀬さん?』
落ち着いた声。
初めて聞く。
『○○プロダクションの者です』
少しだけ、間。
『一度、お話できませんか』
――――
勧誘。
でも、
大きくはない。
有名でもない。
それでも——
確かに、
“広がり始めている”。
「……いつですか」
短く返す。
――――
通話が終わる。
画面が暗くなる。
その中に、
自分の顔が映る。
変わってない。
何も。
でも——
何かは、変わっている。
――――
「……名前、か」
小さく呟く。
まだ、
呼ばれてはいない。
でも、
近づいている。
――――
歩き出す。
止まらない。
――――
選ばれていない。
でも、
消えていない。
――――
その先にあるものを、
まだ、誰も知らない。




