帳簿が消えた頃、先代辺境伯は亡くなっていた
朝の支払予定表で、セラフィーナは兵士の給与停止まであと十一日と記した。
食料購入までは十九日。帳簿に並ぶ期限は、今日も容赦なく近づいている。
その上へ、北部の旧文書保管所から届いた封書が置かれた。
二通目の照会文への返答である。
セラフィーナはユリウスとともに閲覧台帳へ時刻を記し、封を切った。
返答には、三年前の特定の日に、仮保管簿に関係する帳簿束の転送が処理されたとある。
転送文書番号、冊数、移送日は、こちらの持ち出し記録と合っていた。
ただし通常なら複数必要な確認のうち、一部は「後日確認」と記されている。承認欄も空白のまま受け入れられていた。
「この形なら、誰が確認したかを後から追えません」
セラフィーナは返答書の写しを机に置いた。
「廃止された役職の印や、不完全な文書番号でも、帳簿束を動かせた可能性があります」
「混乱に紛れた、ということか」
「まだ断定はできません。ですが、正規の手順なら残るはずの記録が、残されていません」
セラフィーナは、北部からの返答書の端に押された受領印を見た。赤黒い蝋印そのものではないが、転送記録に残っていたものと同じように、確認の時期だけを示している。
誰が印を使ったのかは分からない。けれど、承認者の名を空白にしたまま帳簿束を受け入れ、後日の確認へ回した
手続きがあったことは消せない。
往来記録には、葬送のための荷と、領主交代に関する文書が同じ日に出入りしたとある。帳簿束は「特別文書」と
だけ書かれ、その中身は記されていなかった。
忙しさが記録を曖昧にしたのか。それとも、曖昧にするために忙しさが使われたのか。
セラフィーナは答えを急がず、時系列表の余白へ「確認欄空白」「後日確認」と書き写した。
セラフィーナは古い往来記録と領主館の記録を取り寄せた。
返答書にある移送日を、担保処理の台帳、制度変更書、臨時徴収の記録と並べる。
日付を追ううち、同じ時期に何度も現れる記載があった。
先代辺境伯の葬送に伴う使者の出入り。領主交代に関する文書の整理。
そして、領主館の決裁を待つまま残された記録。
セラフィーナは指を止めた。
「この時期です」
ユリウスは記録を見下ろした。
「兄が亡くなった後だ」
声に大きな揺れはない。
「領主交代の手続きを優先していた。記録をすべて確認できなかったのは、私の責任だ」
先代辺境伯の死因は、記録のどこにもない。セラフィーナも尋ねなかった。
必要なのは、失われた過去を慰めることではなく、残った紙から何が動いたかを確かめることだった。
「当時、残されなかった記録があります」
セラフィーナは、時系列表へ新しい線を引いた。
「ですが今、残せる記録もあります。過去の空白まで、同じように守れなかったと考える必要はありません」
ユリウスは顔を上げた。
「では、今から埋めるべき空白を探そう」
「はい」
それから昼過ぎまで、二人は市場使用料の帳簿を確認した。
今日の受領証には、支払者、金額、理由、番号がそろっている。市場側の控えも同じ順に綴じられ、日次帳簿と食
い違いはなかった。
商人が持つ紙がある以上、領地側だけで金額を変えても隠し通すことは難しい。
市場管理者は、受領証を一枚ずつ控えと重ねていた。
「これなら、誰がいつ払ったのか、明日になっても確かめられます」
「記録は、困ったときに初めて必要になるものではありません」
セラフィーナは答えた。
「困る前から残しておくから、誰かの都合で消されにくくなるのです」
管理者は静かに頷いた。
過去の混乱期には、支払った者の名も承認者も空白のまま、収入を動かせたのだろう。
今は違う。
セラフィーナは記録を一枚ずつ照合し、確認済みの印を置いた。
小さな印だったが、これから誰かが同じ隙を使うことを防ぐための印でもあった。
午後になり、セラフィーナは古い帳簿を机いっぱいに並べた。
担保処理、仮保管簿の移送、制度変更、臨時徴収。
それぞれ別の帳簿に隠れていた記録を、同じ時系列へ移していく。
「三年前の混乱期に処理された担保記録と移送記録、臨時徴収を、すべてこの表へ並べます」
ユリウスは頷いた。
「財務官として、必要な記録をすべて開いていい。原本は動かさず、写しを使え」
ユリウスは古い記録を閉じることなく、保管庫の鍵を開くよう命じた。過去の見落としを理由に、今の調査を狭めることはしなかった。
その判断が、セラフィーナには領主としての責任の引き受け方に見えた。
だから彼女も、紙から目をそらさなかった。そこに、次に守るべき暮らしが記されている。
北部から届いた返答書も写しを作り、原本とは別に保管した。
失われた帳簿を取り戻せなくても、今ある証拠を再び消させるわけにはいかない。
夕方、時系列表には印が増えていった。
先代辺境伯の死後、領地が混乱していた短い間に、仮保管簿の移送、制度変更、複数の担保処理が集中している。
兄を失った領地が記録を見失った隙に、誰かは帳簿だけでなく、ヴァルハルト領の収入そのものを奪う準備を始めていた。




