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「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第三章 燃えた帳簿と、死者の了承

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元夫は、財政のことなど決められません

 朝の支払予定表で、セラフィーナは兵士の給与停止まであと十四日と確認した。


 食料購入までは二十二日。迫る期限の横に、北部の旧文書保管所へ送る二通目の照会文を置く。


 転送文書番号、帳簿束の冊数、移送日、当時の確認規則、印章の扱い。


 問いはそれだけに絞った。仮保管簿という名も、赤黒い蝋印も書いていない。


「受領記録の残る経路で出します」

「ああ。控えは原本と別に保管しよう」


 ユリウスが言い、セラフィーナは封を整えた。問いを外へ出すたび、今ある記録を守る手順も増やさなければならない。


 発送を終えて執務室へ戻ると、一通の書面が届いていた。


 封を開く前に差出人を見て、セラフィーナは小さく息を整える。以前、公爵領の支払いについて相談に来た商人か

らだった。


 手紙には、契約の内容、支払期限、供給を止めた場合に困る者、そして返答を求める期限を、公爵家へ書面で届け

たとある。


 しかし、返ってきたのは具体的な答えではなかった。


 どの支払いを優先するのか。誰がその判断を引き受けるのか。いつまでに返答するのか。


 どれも記されていない。


 商人は、自分の仕入れ先と雇い人に約束をしている。公爵家から答えがなければ、新たな供給を約束することを保留せざるを得ない、と書いてあった。


 金が一枚もないからではないのだろう、とセラフィーナは思った。


 限られた資金を、どの契約に、誰の暮らしへ先に回すか。その決断をする者がいなければ、帳簿があっても支払い

は動かない。


 八年間、彼女は備蓄と契約、使用人の給与、領民の猶予を並べ、優先する順を決めてきた。


 それは数字を読むだけの仕事ではなかった。


 だからこそ、今の公爵領を外から見て、代わりに決めることはできない。


 セラフィーナは新しい便箋を取り出した。


 商人の不安を、見なかったことにはしない。


 けれど、公爵領の責任者になるための返事も書かない。


 取引を続けるか保留するかは、商人が雇い人と仕入れ先を守るために判断してよいこと。公爵家へは、支払い対象、期限、供給を止めた場合の影響、回答期限を残すこと。返答がない不利益を、商人だけが背負わないこと。


 そして、自分は公爵領の資金も契約も把握しておらず、支払いの順番を決める権限も責任も持たないこと。


 丁寧に、けれど曖昧にせず書いた。


 誰かを助けるために、自分だけが再び責任を引き受ける必要はない。


 公爵家が返答をしないことは、商人の側にだけ待つ負担を押しつける。だから書面を残すことには意味があった。答えを出さない者が、後から「聞いていない」と言えないようにするためだ。


 セラフィーナは返答文の控えにも、発送日と受領を求める旨を書き添えた。静かに残した。


「返事を書くのか」


 書き終えた頃、ユリウスが机の向こうから尋ねた。


「はい。ですが、公爵領の支払い順を決めるためではありません」


 セラフィーナは書面を伏せた。


「商人が、責任を負うべき相手へ問いを返せるようにするためです」

「君が答えを渡すのではなく」

「答えを決める者が、逃げられない形にするだけです」


 ユリウスは書面を求めなかった。ただ、静かに頷いた。


「それでいい。君はヴァルハルトの財務官だ。ここで守るべき帳簿と、人がいる」


 その言葉に、セラフィーナは胸の奥の力がわずかにほどけるのを感じた。


 彼女が今いる場所では、責任の範囲を曖昧にしたまま、働きを求められない。


 午後、市場使用料の初日の記録を照合した。


 管理者が並べた受領証の控えには、支払い理由と金額、日付、番号が残っている。商人側の紙と照らしても、違うところはなかった。


「額が先に分かると、荷を運ぶ日を決めやすいのです」


 市場の者が言った。


「前は、荷を下ろしてから別の話が出ることがありましたから」

「今後も、理由のない請求があれば、支払う前に知らせてください」


 セラフィーナが答えると、その者は受領証を大切そうに綴じた。


 市場の入口には、その朝から使用料を示す板が出されていた。荷を積んだ者は、下ろす前に額を読み、管理者へ理由を確認できる。


 セラフィーナは控えの番号を日次帳簿へ移しながら、紙が二通ある意味をあらためて考えた。領地の控えだけなら、後から書き換えられるかもしれない。けれど支払った商人の手元にも同じ記録があれば、金の行方を一方だけで決めることはできない。


 市場の者が、受領証の端をそろえた。


「これなら、次の荷も同じように記せます」


 小さな言葉だったが、セラフィーナには、取引が続くための約束のように聞こえた。


 過去の台帳には、支払った人の名も理由も抜けている。今の市場には、取引を続けるための紙が残る。


 記録があれば、品を運ぶ予定まで止めずに済む。


 夕刻、セラフィーナは公爵領の商人からの書面をもう一度読んだ。


 末尾の一文には、静かな切迫があった。


 ――公爵家から回答がなければ、新たな供給のお約束を保留いたします。


 公爵領に足りないのは、帳簿を読む者ではない。誰の暮らしへ先に金を届けるか、責任を持って決める者だった。





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