↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第一章 離縁された公爵夫人は、辺境領の帳簿を開く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

破産まで、あと三十七日

 ヴァルハルト辺境領の城壁は、遠目には立派だった。


 けれど、そこへ続く道は深くえぐれ、市場には空の露店が目立つ。痩せた領民が少ない荷物を抱えて歩き、冬を越したばかりの畑には、まだ何も植えられていなかった。


 それなのに、城壁の上に立つ兵士たちは、通りかかった荷車を押すのを手伝っている。


 セラフィーナは馬車の窓から、その光景を眺めた。


 貧しい。


 だが、人の心まで荒れているわけではないらしい。


 馬車が城門をくぐると、ひときわ大きな建物が見えた。屋根の一部が崩れている。


 その上で、ひとりの男が雪の残る板を外していた。


「お待ちください!」


 城門前にいた兵士が声を上げる。


 男は手を止め、屋根の上からこちらを見下ろした。泥のついた実用的な服に、短くまとめた黒髪。年齢は三十代ほ

どに見える。


 彼は慣れた動きで梯子を降りると、雪の上へ足をつけた。


「財務官候補の方か」

「はい。セラフィーナと申します」

「私はユリウス・ヴァルハルトだ」


 辺境伯本人だった。


 ユリウスは、屋根から降りたばかりの自分を見て、少しだけ眉を下げた。


「財務官を迎えるには、あまりにひどい格好だな。すまない」

「屋根の修理をなさっていたのですか?」

「職人を待っていたら、春になっても直らない。雨漏りを止めるだけなら、自分でやったほうが早い」


 貴族らしい威厳より、現場の都合を優先する人らしい。


 セラフィーナは、彼の手についた泥へ視線を落とした。


「報酬について伺ってもよろしいでしょうか」

「もちろんだ」


 ユリウスは迷わず答えた。


「三か月後に支払える保証はない」


 あまりにも率直で、セラフィーナは一瞬、聞き間違いかと思った。


「……保証がない、と?」

「領地の金庫が空に近い。あなたを雇いたい気持ちはあるが、払えない約束をするつもりはない」


 元夫なら、都合の悪いことほど隠しただろう。


 セラフィーナは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「正直にお話しいただき、ありがとうございます」

「礼を言われることではない。領主として当然のことだ」


 ユリウスはそう言って、彼女の鞄へ目を向けた。


「帳簿は持ってきたか?」

「必要な控えは」

「なら、すぐに見てほしい。私は剣と兵のことなら分かるが、金の流れはどうにも苦手だ」


 苦笑に近い表情だった。


 自分の不得手を隠そうとしない。


 セラフィーナは、わずかに警戒を解いた。



 ◇



 通された執務室には、領地の帳簿が積み上げられていた。


 税収、鉱山収入、軍費、食料購入費。


 数字だけを見れば、ヴァルハルト辺境領は赤字ではない。毎年、相応の収入があり、帳簿の最終欄には黒字を示す数字が記されている。


 しかし、金庫の中身は少なかった。


「帳簿上は黒字なのに、なぜ現金が残っていないのでしょう」


 セラフィーナが尋ねると、家令が答えた。


「戦争の影響と、昨年の凶作です。収入が予定どおり入らず、支出だけが増えました」

「では、この収入欄の数字は?」

「入る予定の金額です」


 セラフィーナは帳簿を閉じなかった。


 予定は、現金ではない。


 それを混同すれば、黒字に見える領地でも支払いは止まる。


 彼女は別の記録を開いた。


「領内人口は一万二千人ですね」

「登録上は、そうなっている」

「塩の購入記録は二万人分あります」


 ユリウスが帳簿を覗き込む。


「余分に買っているのか?」

「人口の増加が事実なら、戸籍の更新が必要です。そうでなければ、存在しない人間の分まで支払っていることになります」


 セラフィーナは頁をめくった。


「こちらは軍馬の飼料。軍馬は二百頭なのに、五百頭分が計上されています」


 家令の指が、膝の上で小さく動いた。


「冬場は多めに備える必要が……」

「三百頭分を毎年ですか?」


 答えは返らなかった。


 さらに橋の修繕費を確認する。


 毎年、同じ橋へ多額の費用が支払われている。しかし馬車で通った道の橋は、欄干が折れ、板も抜けていた。


「修繕費は支払われています。けれど、橋は壊れたままです」


 セラフィーナの声は静かだった。


 ユリウスは、帳簿から目を離さない。


「これまで、家臣たちに任せていた」

「信じておられたのですね」

「領民を守るために働いていると思っていた。だが、領主として確認しなかった責任は私にある」


 責任を誰かへ押しつける言葉ではなかった。


 セラフィーナは、数字の向こうにあるものを考えた。


 余分に買われた塩。


 存在しない軍馬の飼料。


 直されない橋。


 その一つ一つが、誰かの暮らしから削られた金で支払われている。


「現金残高と、これからの支払予定を確認させてください」


 帳簿を並べ替え、支払い期限を一つずつ照合する。


 兵士の給与。食料。鉱山の維持費。冬越しのための燃料。


 数字が、冷たい線となってつながっていく。


 セラフィーナは、最後の欄へ指を置いた。


「このまま支出を止められなければ、三十七日後に兵士への給与が止まります」


 ユリウスの表情が硬くなった。


「食料は?」

「四十五日後です。購入するための現金がなくなります」

「三十七日で、何ができる?」

「まず、領地に存在するすべての金と、存在しないはずの支出を数えます」


 セラフィーナは、黒字と書かれた帳簿を見下ろした。


「帳簿を最初から作り直します」


 ユリウスはしばらく黙っていた。


 やがて、深く頷く。


「頼む。私に分からないことを、分からないままにしないでくれ」

「その代わり、私の調査を途中で止めないでください」

「約束する」


 こうして、セラフィーナは初めて、仕事としてこの領地の帳簿へ手を触れた。



 ◇



 夜になっても、帳簿の山は減らなかった。


 セラフィーナは帳簿庫へ移り、古い徴税記録と支払い記録を調べていた。


 二重に記された数字。


 同じ日付なのに違う金額。


 誰かが書き直した跡のある頁。


 小さな違和感を拾い集めていたとき、廊下の奥で何かが擦れる音がした。


 セラフィーナは顔を上げる。


 次の瞬間、紙の焦げる匂いがした。


 帳簿庫の棚の向こうから、赤い火が走る。


「誰か!」


 声を上げると、足音が遠ざかった。


 扉が閉まる音。


 セラフィーナは袖で口元を覆い、燃え始めた記録へ駆け寄った。


 火を消そうとした指先に、焼けた紙片が触れる。


 そこには、徴税額らしき数字と、領民から受け取った金額とは異なる小さな記録が残っていた。


 兵士の足音が近づく。


 けれど、逃げた者の姿はもう見えない。


 セラフィーナは、煤けた紙片を握りしめた。


 この領地には、帳簿を読まれて困る者がいる。



第3話までお読みいただき、ありがとうございます。


セラフィーナの再出発を、この先も見届けたいと思っていただけましたら、ページ下部の評価欄から率直な評価をお寄せいただけると、今後の執筆の励みになります。


破産まで、あと三十七日。


次話では、帳簿に記されていない税金の正体を追っていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。