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「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第一章 離縁された公爵夫人は、辺境領の帳簿を開く

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2/20

私の役割は妻ではなく、身代わりでした

「この署名は、どなたがお書きになったのですか?」


 セラフィーナは、鉱山投資の契約書を夫の机へ置いた。


 晩餐会を終えたレオナールは書斎にいた。妻が訪ねてきた理由を聞くより早く突きつけられた書類に、わずかに眉を動かす。


「私はこちらへ署名しておりません」


 契約書には、公爵領の財政を揺るがすほどの投資額が記されている。担保は領地の徴税権だ。


 もし投資が失敗すれば、領民から税を集める権利を公爵家が失いかねない。


 そして末尾には、セラフィーナの偽造署名があった。


「そのことか」


 レオナールは、たいした問題ではないというように椅子へ座り直した。


 否定しないのか。


 夫なら、せめて驚くと思っていた。誰かに騙されたのだと言ってほしい気持ちが、まだセラフィーナのどこかに残っていた。


「契約には夫婦双方の名が必要だった。形を整えただけだ」

「本人の許可なく名前を書くことを、形を整えただけとおっしゃるのですか?」

「実際に君が書いたかどうかなど、重要ではない」


 あまりにもあっさりとした返答に、指先が冷たくなった。


「この投資に問題が生じた場合、署名した私にも責任が及びます」

「形だけのものだ。問題が起きなければ、君が罪に問われることもない」


 セラフィーナは息を止めた。


 問題が起きなければ。


 裏を返せば、問題が起きた場合には、彼女が罪に問われると分かっていたのだ。


「では、問題が起きた場合は?」

「縁起でもないことを言うな。確実に利益が出ると聞いている」

「誰からですか」

「君には関係ない」

「私の名前が使われている以上、関係がございます」


 声は不思議なほど穏やかだった。


 けれど胸の奥では、八年間守ってきたものが音もなく崩れていた。


「契約額だけではありません。徴税権まで担保にされています。投資先が約束どおりの利益を出さなければ、公爵家だけでなく、領民の暮らしにも影響します」

「だから、失敗しなければよいのだ」


 レオナールは苛立ったように契約書を閉じた。


「それに、万一何かあったとしても、公爵家を守るのは妻の役目だろう」


 その言葉で、最後まで残っていた何かが切れた。


 セラフィーナは、ようやく理解した。


 レオナールが求めていたのは、共に人生を歩む妻ではない。


 帳簿を整え、借金を処理し、失敗を未然に防ぐ者。しかも、働きに対する報酬も感謝も必要ない。


 それでも失敗したときには、署名のある妻へ責任を負わせればよい。


 彼にとってセラフィーナは、公爵家を支える便利な手であり、いざというときに差し出せる身代わりだった。


 リディアを選ばれたことよりも、その事実のほうが深く胸を抉った。


 八年間の結婚に、わずかでも未練を残していた自分が愚かに思える。


 この人の妻であり続けてはいけない。


「分かりました」


 セラフィーナは離婚書類を手に取った。


 レオナールの表情が緩む。ようやく妻が聞き分けたと思ったのだろう。


 だが、セラフィーナは署名欄へ筆を運ばなかった。


「ただし、こちらの条件では署名いたしません」

「先ほど提示した慰謝料に不満があるのか」

「慰謝料だけの問題ではございません」


 セラフィーナは白紙を重ね、必要な条件を書き出した。


「第一に、私が実家から持参した財産を、すべて返還していただきます」

「それは公爵家の財産に組み込まれている」

「持参品の記録は残してあります」


 反論を待たず、次の一文を記す。


「第二に、離婚手続きが完了し、私が屋敷を出るまで、身の安全を保証すること」

「誰が君に危害を加えるというんだ」


 セラフィーナは、机に置かれた偽造契約書へ目を向けた。


 レオナールはそれ以上、何も言わなかった。


「第三に、鉱山投資を含め、私個人の名義による負債が一切存在しないと、公爵家の責任で書面にて証明すること」

「その契約書があるだろう」

「だからこそ必要なのです。これを離婚後に私の負債と主張されては困ります」


 そして最後の条件を書き加える。


「第四に、屋敷の使用人に対する未払い給与を、すべて清算すること」

「なぜ使用人の給与まで、君の離婚条件に入る」

「今月分を待っている者がいるからです」


 離婚した後まで、彼らの生活を守れるわけではない。


 だからせめて、自分が去る前に発生した給与だけは支払わせる。


「以上の条件を加え、双方が一部ずつ保管します。それならば署名いたします」


 レオナールは不満そうに書面と契約書を見比べた。


「ずいぶん用心深いな」

「私の知らないところで、私の署名が使われておりましたので」


 返す言葉はなかったらしい。


 レオナールは、苛立ちを隠さないまま条件を受け入れた。リディアとの結婚を急ぐ彼にとって、妻との話し合いを長引かせるほうが不都合なのだろう。


 二人は離婚書類へ署名した。


 今度のセラフィーナの署名は、最後の線まで確かに彼女自身が書いたものだった。


 その直後、控えめな音とともに書斎の扉が叩かれた。


 入ってきた家令は、数冊の帳簿を胸に抱えている。


「お取り込み中、失礼いたします。奥様、来月の支払いについてご判断をいただきたく……。兵士の給与と商人への返済を優先しますと、屋敷の経費が不足いたします」

「セラフィーナ、聞こえただろう。処理しておいてくれ」


 あまりに当然の口調だった。


 離婚書類のインクすら乾いていないというのに。


 セラフィーナは腰に下げていた鍵束を外した。


 屋敷の金庫、帳簿庫、備蓄倉庫。八年間、その重みを身につけて歩いてきた。


 鍵束を机へ置くと、硬質な音が書斎に響いた。


「私は、たった今、公爵夫人を辞めました」


 レオナールが目を見開く。


「離婚の手続きが完全に終わるまでは、まだ私の妻だろう。少しくらい手伝えるはずだ」

「権限を失う者が、公爵家の金庫や帳簿へ触れるわけにはまいりません。新たな負債を、私の責任にされても困ります」

「そんなことをするはずがない」


 セラフィーナは、偽造された署名を見た。


 レオナールも、その視線の意味には気づいたらしい。


「今後の財務判断は、次の公爵夫人へお尋ねください」


 胸はまだ痛んでいた。


 それでも鍵の重みから解放された腰は、驚くほど軽かった。



 ◇



 離婚に必要な書面が整うまでの間に、セラフィーナは実家へ戻りたいと伝えた。


 父はすでに亡く、今は兄が家と商いを取り仕切っている。


 返ってきたのは、短い手紙だった。


 離婚した妹を迎え入れれば、商会の信用に関わる。当面の生活費は送るので、別の場所を探してほしい。


 セラフィーナは手紙を静かに畳んだ。


 公爵家では、妻として役に立つかどうか。


 実家では、商いの利益になるかどうか。


 どちらの家でも、彼女自身を迎え入れてはくれないらしい。


 机の引き出しを整理していたとき、以前届いた一通の手紙を見つけた。


 差出人は、かつて公爵領で働いていた老書記官だった。


 現在は、北のヴァルハルト辺境領にいるという。


 手紙には、帳簿を読める者を探していると書かれていた。領地は深刻な財政難にあり、セラフィーナの力を借りたいらしい。


 ただし、約束どおり給与を支払えるかどうかも分からない、と正直な一文が添えられている。


「ひどい雇用条件ですこと」


 思わず、苦笑が漏れた。


 それでも公爵家とは違う。


 妻なのだから当然に働け、とは書かれていない。


 彼女の力を必要としている。それを、仕事として頼みたいと書いてある。


 うまくいく保証はなかった。


 給与すら支払えない領地へ向かうなど、賢明な選択とも思えない。


 けれど、帰る家はない。


 ならば、自分の能力がどこまで通じるのか、自分を必要とする場所で試してみたかった。


 セラフィーナは老書記官への返事を書いた。


 ――ヴァルハルト辺境領へ参ります。



 ◇



 すべての書面と身の安全を確認した後、セラフィーナは乗合馬車へ乗った。


 小さな鞄の中には、帳簿の控えと筆記具、そして偽造契約の内容を記録した書面が収められている。


 馬車が動き出す。


 公爵邸が遠ざかっても、晴れやかな気持ちにはなれなかった。


 それでも、行き先だけは自分で決めた。


 やがて屋敷の姿が見えなくなり、セラフィーナは前を向いた。


 ―――その日の午後。


 公爵邸には、予定より早く商人が訪れた。


「本日中に、金貨三千枚をお支払いいただきたい」


 差し出された手形を前に、レオナールは眉をひそめた。


「何の支払いだ」


 商人は答えず、手形の満期日を指で示した。


 三日前。


 晩餐会で、セラフィーナが尋ねた手形だった。


「夫人は、どのように処理すると申していた」


 レオナールの問いに、家令はすぐには答えられなかった。


「奥様が管理なさっていた契約です。支払いのための資金も、次の小麦の仕入れも……すべて帳簿にございます」

「ならば帳簿を出せ」

「確認すべき箇所が多く、私どもだけでは判断できません」


 沈黙が落ちた。


 商人は、待つことに慣れた者の顔で立っていた。


「本日中にお支払いがなければ、今後のお取引は、現金と引き換えに限らせていただきます」


 その言葉に、使用人たちの顔色が変わる。


 北部の小麦。


 兵士の給与。


 屋敷で働く者たちの給金。


 レオナールが一度も確かめなかった数字が、いま初めて、公爵家の喉元へ刃を突きつけていた。


「リディアに――」


 そこまで言って、レオナールは口を閉ざした。


 彼女に、帳簿を読めるのかと尋ねることはできなかった。


 あの晩、セラフィーナへ投げつけられた言葉が、誰のためにもならない沈黙となって返ってくる。


 家令は静かに頭を下げた。


「奥様なら、手形の処理も、支払いの順番も、ご存じでした」


 レオナールは手形を握りしめた。


 けれど、そこに書かれた数字の意味を、彼はひとつも知らない。


 そして、公爵が初めて妻の価値を認めようとしたとき、セラフィーナはもう、彼のために帳簿を開く場所にはいな

かった。





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