私の役割は妻ではなく、身代わりでした
「この署名は、どなたがお書きになったのですか?」
セラフィーナは、鉱山投資の契約書を夫の机へ置いた。
晩餐会を終えたレオナールは書斎にいた。妻が訪ねてきた理由を聞くより早く突きつけられた書類に、わずかに眉を動かす。
「私はこちらへ署名しておりません」
契約書には、公爵領の財政を揺るがすほどの投資額が記されている。担保は領地の徴税権だ。
もし投資が失敗すれば、領民から税を集める権利を公爵家が失いかねない。
そして末尾には、セラフィーナの偽造署名があった。
「そのことか」
レオナールは、たいした問題ではないというように椅子へ座り直した。
否定しないのか。
夫なら、せめて驚くと思っていた。誰かに騙されたのだと言ってほしい気持ちが、まだセラフィーナのどこかに残っていた。
「契約には夫婦双方の名が必要だった。形を整えただけだ」
「本人の許可なく名前を書くことを、形を整えただけとおっしゃるのですか?」
「実際に君が書いたかどうかなど、重要ではない」
あまりにもあっさりとした返答に、指先が冷たくなった。
「この投資に問題が生じた場合、署名した私にも責任が及びます」
「形だけのものだ。問題が起きなければ、君が罪に問われることもない」
セラフィーナは息を止めた。
問題が起きなければ。
裏を返せば、問題が起きた場合には、彼女が罪に問われると分かっていたのだ。
「では、問題が起きた場合は?」
「縁起でもないことを言うな。確実に利益が出ると聞いている」
「誰からですか」
「君には関係ない」
「私の名前が使われている以上、関係がございます」
声は不思議なほど穏やかだった。
けれど胸の奥では、八年間守ってきたものが音もなく崩れていた。
「契約額だけではありません。徴税権まで担保にされています。投資先が約束どおりの利益を出さなければ、公爵家だけでなく、領民の暮らしにも影響します」
「だから、失敗しなければよいのだ」
レオナールは苛立ったように契約書を閉じた。
「それに、万一何かあったとしても、公爵家を守るのは妻の役目だろう」
その言葉で、最後まで残っていた何かが切れた。
セラフィーナは、ようやく理解した。
レオナールが求めていたのは、共に人生を歩む妻ではない。
帳簿を整え、借金を処理し、失敗を未然に防ぐ者。しかも、働きに対する報酬も感謝も必要ない。
それでも失敗したときには、署名のある妻へ責任を負わせればよい。
彼にとってセラフィーナは、公爵家を支える便利な手であり、いざというときに差し出せる身代わりだった。
リディアを選ばれたことよりも、その事実のほうが深く胸を抉った。
八年間の結婚に、わずかでも未練を残していた自分が愚かに思える。
この人の妻であり続けてはいけない。
「分かりました」
セラフィーナは離婚書類を手に取った。
レオナールの表情が緩む。ようやく妻が聞き分けたと思ったのだろう。
だが、セラフィーナは署名欄へ筆を運ばなかった。
「ただし、こちらの条件では署名いたしません」
「先ほど提示した慰謝料に不満があるのか」
「慰謝料だけの問題ではございません」
セラフィーナは白紙を重ね、必要な条件を書き出した。
「第一に、私が実家から持参した財産を、すべて返還していただきます」
「それは公爵家の財産に組み込まれている」
「持参品の記録は残してあります」
反論を待たず、次の一文を記す。
「第二に、離婚手続きが完了し、私が屋敷を出るまで、身の安全を保証すること」
「誰が君に危害を加えるというんだ」
セラフィーナは、机に置かれた偽造契約書へ目を向けた。
レオナールはそれ以上、何も言わなかった。
「第三に、鉱山投資を含め、私個人の名義による負債が一切存在しないと、公爵家の責任で書面にて証明すること」
「その契約書があるだろう」
「だからこそ必要なのです。これを離婚後に私の負債と主張されては困ります」
そして最後の条件を書き加える。
「第四に、屋敷の使用人に対する未払い給与を、すべて清算すること」
「なぜ使用人の給与まで、君の離婚条件に入る」
「今月分を待っている者がいるからです」
離婚した後まで、彼らの生活を守れるわけではない。
だからせめて、自分が去る前に発生した給与だけは支払わせる。
「以上の条件を加え、双方が一部ずつ保管します。それならば署名いたします」
レオナールは不満そうに書面と契約書を見比べた。
「ずいぶん用心深いな」
「私の知らないところで、私の署名が使われておりましたので」
返す言葉はなかったらしい。
レオナールは、苛立ちを隠さないまま条件を受け入れた。リディアとの結婚を急ぐ彼にとって、妻との話し合いを長引かせるほうが不都合なのだろう。
二人は離婚書類へ署名した。
今度のセラフィーナの署名は、最後の線まで確かに彼女自身が書いたものだった。
その直後、控えめな音とともに書斎の扉が叩かれた。
入ってきた家令は、数冊の帳簿を胸に抱えている。
「お取り込み中、失礼いたします。奥様、来月の支払いについてご判断をいただきたく……。兵士の給与と商人への返済を優先しますと、屋敷の経費が不足いたします」
「セラフィーナ、聞こえただろう。処理しておいてくれ」
あまりに当然の口調だった。
離婚書類のインクすら乾いていないというのに。
セラフィーナは腰に下げていた鍵束を外した。
屋敷の金庫、帳簿庫、備蓄倉庫。八年間、その重みを身につけて歩いてきた。
鍵束を机へ置くと、硬質な音が書斎に響いた。
「私は、たった今、公爵夫人を辞めました」
レオナールが目を見開く。
「離婚の手続きが完全に終わるまでは、まだ私の妻だろう。少しくらい手伝えるはずだ」
「権限を失う者が、公爵家の金庫や帳簿へ触れるわけにはまいりません。新たな負債を、私の責任にされても困ります」
「そんなことをするはずがない」
セラフィーナは、偽造された署名を見た。
レオナールも、その視線の意味には気づいたらしい。
「今後の財務判断は、次の公爵夫人へお尋ねください」
胸はまだ痛んでいた。
それでも鍵の重みから解放された腰は、驚くほど軽かった。
◇
離婚に必要な書面が整うまでの間に、セラフィーナは実家へ戻りたいと伝えた。
父はすでに亡く、今は兄が家と商いを取り仕切っている。
返ってきたのは、短い手紙だった。
離婚した妹を迎え入れれば、商会の信用に関わる。当面の生活費は送るので、別の場所を探してほしい。
セラフィーナは手紙を静かに畳んだ。
公爵家では、妻として役に立つかどうか。
実家では、商いの利益になるかどうか。
どちらの家でも、彼女自身を迎え入れてはくれないらしい。
机の引き出しを整理していたとき、以前届いた一通の手紙を見つけた。
差出人は、かつて公爵領で働いていた老書記官だった。
現在は、北のヴァルハルト辺境領にいるという。
手紙には、帳簿を読める者を探していると書かれていた。領地は深刻な財政難にあり、セラフィーナの力を借りたいらしい。
ただし、約束どおり給与を支払えるかどうかも分からない、と正直な一文が添えられている。
「ひどい雇用条件ですこと」
思わず、苦笑が漏れた。
それでも公爵家とは違う。
妻なのだから当然に働け、とは書かれていない。
彼女の力を必要としている。それを、仕事として頼みたいと書いてある。
うまくいく保証はなかった。
給与すら支払えない領地へ向かうなど、賢明な選択とも思えない。
けれど、帰る家はない。
ならば、自分の能力がどこまで通じるのか、自分を必要とする場所で試してみたかった。
セラフィーナは老書記官への返事を書いた。
――ヴァルハルト辺境領へ参ります。
◇
すべての書面と身の安全を確認した後、セラフィーナは乗合馬車へ乗った。
小さな鞄の中には、帳簿の控えと筆記具、そして偽造契約の内容を記録した書面が収められている。
馬車が動き出す。
公爵邸が遠ざかっても、晴れやかな気持ちにはなれなかった。
それでも、行き先だけは自分で決めた。
やがて屋敷の姿が見えなくなり、セラフィーナは前を向いた。
―――その日の午後。
公爵邸には、予定より早く商人が訪れた。
「本日中に、金貨三千枚をお支払いいただきたい」
差し出された手形を前に、レオナールは眉をひそめた。
「何の支払いだ」
商人は答えず、手形の満期日を指で示した。
三日前。
晩餐会で、セラフィーナが尋ねた手形だった。
「夫人は、どのように処理すると申していた」
レオナールの問いに、家令はすぐには答えられなかった。
「奥様が管理なさっていた契約です。支払いのための資金も、次の小麦の仕入れも……すべて帳簿にございます」
「ならば帳簿を出せ」
「確認すべき箇所が多く、私どもだけでは判断できません」
沈黙が落ちた。
商人は、待つことに慣れた者の顔で立っていた。
「本日中にお支払いがなければ、今後のお取引は、現金と引き換えに限らせていただきます」
その言葉に、使用人たちの顔色が変わる。
北部の小麦。
兵士の給与。
屋敷で働く者たちの給金。
レオナールが一度も確かめなかった数字が、いま初めて、公爵家の喉元へ刃を突きつけていた。
「リディアに――」
そこまで言って、レオナールは口を閉ざした。
彼女に、帳簿を読めるのかと尋ねることはできなかった。
あの晩、セラフィーナへ投げつけられた言葉が、誰のためにもならない沈黙となって返ってくる。
家令は静かに頭を下げた。
「奥様なら、手形の処理も、支払いの順番も、ご存じでした」
レオナールは手形を握りしめた。
けれど、そこに書かれた数字の意味を、彼はひとつも知らない。
そして、公爵が初めて妻の価値を認めようとしたとき、セラフィーナはもう、彼のために帳簿を開く場所にはいな
かった。




