愛人に帳簿は読めますか?
「セラフィーナ。君との結婚を終わらせたい」
夫の言葉が落ちた途端、晩餐の席から音が消えた。
親族も、領地を預かる重臣たちも、銀器を手にしたまま動きを止めている。
長卓の上座に立つレオナールは、若い令嬢の肩を抱いていた。淡い桃色のドレスに身を包んだリディアは、伏し目がちに夫へ寄り添っている。
彼女がレオナールの子を身ごもったらしい――そんな噂が屋敷を巡り始めたのは、半月ほど前だった。
セラフィーナは確かめなかった。
確かめるまでもなく、二人の姿が答えを示していたからだ。
その場にいる全員の視線が、セラフィーナへ集まる。
泣いてすがると思われているのだろうか。
それとも、リディアへ掴みかかるとでも。
セラフィーナは膝の上で指を重ねた。爪が食い込むほど力を込めなければ、かすかに震えてしまいそうだった。
八年間。
その長さが、胸の奥へ冷たい刃のように差し込んだ。
初めて公爵邸を訪れた日。夫の好みに合わせようと選んだドレス。夜遅く帰宅する彼のため、冷めた食事を前に待ち続けた時間。
どれも、レオナールにとっては終わらせたいものだったらしい。
それでも、ここで涙を見せるわけにはいかなかった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
レオナールはほっとしたように息を吐いた。妻が聞き分けのよい態度を見せたと思ったのだろう。
「私はリディアを愛している」
肩を抱く手に力を込め、彼は続ける。
「君との結婚は、互いの家に望まれたものだった。私はようやく、本当に愛する人と出会えたんだ」
リディアが長い睫毛を伏せた。その唇には、隠しきれない安堵が浮かんでいる。
「もちろん、君を放り出すつもりはない。相応の慰謝料は用意する。これまで窮屈な思いをさせた分、君も自由に生きればいい」
まるで慈悲を与えるような口ぶりだった。
差し出された書面へ目を落とす。
記された金額は、セラフィーナが管理してきた公爵家の資産に比べれば、わずかなものだ。王都の屋敷を一年維持する費用にも届かない。
八年間の働きに対する報酬どころか、当面の暮らしを心配せずに済む額ですらなかった。
「これで君も、不幸な政略結婚から解放される。私も残酷なことをしているとは思っていない」
レオナールの言葉を聞きながら、セラフィーナはようやく理解した。
この人は知らないのだ。
自分が何を手放そうとしているのか、本当に何一つ。
「承知いたしました。その前に、三点ほど確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「北部の倉庫には現在、どれだけの小麦がございますか?」
レオナールが眉を寄せた。
「小麦?」
「はい。次の収穫までに領民と兵士へ配給できる量が残っているか、確認しておきたく存じます」
夫の視線が、長卓の下座に控える家令へ向かう。
家令は困惑したように唇を引き結んだ。セラフィーナから答える許可を求めているのだ。
彼女は家令を見ず、夫の返事を待った。
「そのようなことは、倉庫番が管理しているだろう」
「では、来月支払う兵士たちの給与総額はおいくらでしょう」
「財務を担当する者に聞けばいい」
「三日前に満期を迎えた手形は、どのように処理なさいましたか?」
今度こそ、レオナールは言葉を失った。
重臣たちの間に、小さなざわめきが広がる。
北部の備蓄が凶作を乗り越えられる量なのか。国境を守る兵士へ、遅れず給与を払えるのか。期限を迎えた借金を、どの資金で清算するのか。
領主であれば、細部まで知らずとも方針くらいは答えられるはずだった。
けれどレオナールは、何一つ答えられない。
それらはすべて、誰かが処理してくれるものだと思っている。
その誰かが、これまで誰だったのかさえ考えずに。
「なぜ今、そのような話をする」
「私との結婚を終わらせるのでしたら、今後は私が管理するわけにはまいりませんので」
「家令に任せれば済む」
「家令は屋敷全体を管理しております。各地の倉庫、軍への支払い、商人との交渉まで一人で担わせれば、どこかに綻びが出るでしょう」
レオナールの顔に苛立ちが浮かんだ。
セラフィーナは夫の隣に立つリディアへ視線を向ける。
怯えさせるつもりはなかった。彼女に公爵領の経営責任があるわけでもない。
選んだのは、レオナールだ。
だからこそ、セラフィーナは再び夫を見据えた。
「ですが、ご心配には及びませんね」
冷え切った胸の底から、静かな言葉がこぼれた。
「これからはリディア様にお尋ねください。愛人に帳簿が読めるのでしたら、何の問題もございません」
リディアの顔から、かすかな笑みが消えた。
重臣たちは互いの表情を窺い、家令は目を伏せる。
レオナールだけが、頬を赤く染めていた。
「君は昔からそうだ。口を開けば金、金、金。夫婦の間に必要なのは心だというのに、君にはそれがない」
セラフィーナは瞬きをした。
「金勘定ばかりの冷たい女と暮らすことに、私は疲れたんだ」
昨年、北部が凶作に見舞われる前、価格が上がることを見越して小麦を買い集めた。
病に倒れた農夫の家族が冬を越せるよう、徴税記録へ猶予を書き込んだ。
戦死した兵士の妻が幼子を抱えて屋敷を訪れたときは、止められていた年金を調べ直した。
使用人の給与が遅れそうになった月には、不要な調度品の購入を取りやめ、支払日までに資金を用意した。
帳簿に並ぶ数字の向こうには、一人一人の暮らしがあった。
けれど夫にとっては、そのすべてが金勘定でしかなかったのだ。
「さようでございますか」
ほかに返す言葉は見つからなかった。
◇
晩餐会を辞したセラフィーナは、一人で私室へ戻った。
扉を閉め、鍵をかける。
誰の目もないことを確かめた途端、うまく息が吸えなくなった。
胸元を押さえ、寝台の端に腰を下ろす。
八年も共に暮らしたのだ。
恋愛から始まった結婚でなくとも、いつか本当の夫婦になれるかもしれないと思っていた。
その期待が、どうしようもなく愚かだったとしても。
目元に浮かんだ涙を指先で拭い、セラフィーナは立ち上がった。
泣くのは、ここを出てからでいい。
小さな鞄を取り出し、着替えを数枚詰める。
宝石箱には手を触れなかった。豪華なドレスも、毛皮の外套も、この家から与えられたものだ。
代わりに机の引き出しから、使い慣れた筆記具を取り出す。インクの染みた指当てと、日々の収支を記した帳簿の控えも必要だった。
宝石は、八年間の働きを証明してはくれない。
けれど、彼女が書き続けた数字なら、何を守り、何を立て直してきたのかを示してくれる。
帳簿の一部は、壁際の金庫に保管してある。
鍵を差し込み、重い扉を開けた。
積み重なった書類の束を取り出そうとして、セラフィーナの手が止まる。
見覚えのない封筒が挟まっていた。
中に収められていたのは、鉱山への投資契約書だった。
記載された額を見た瞬間、息を呑む。
失敗すれば、公爵領の財政そのものが傾く。しかも担保の欄には、領地の徴税権まで記されていた。
これほど重大な契約を、セラフィーナは知らされていない。
震える指で、最後の頁をめくる。
契約者の欄にはレオナールの署名。
そして、その隣には――。
「私の、署名……?」
セラフィーナ・ローデン。
確かに彼女の名だった。
だが、彼女はこの書類へ署名していない。
一見すれば見分けられないほど、よく似せてある。それでも毎日のように数字と名前を書き続けてきたセラフィーナには分かった。
最後の一文字を結ぶ線が、自分のものとは逆方向へわずかに流れている。
これは偽物だ。
では、なぜ夫は、投資契約書に妻の偽造署名を必要としたのか。
離婚が成立した後、この投資が失敗すれば。
あるいは契約の不正を問われれば。
責任を負うのは、誰になる?
セラフィーナは契約書を握りしめた。
夫は彼女を捨てるだけではない。
罪を着せて、処分しようとしている。




