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「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第一章 離縁された公爵夫人は、辺境領の帳簿を開く

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愛人に帳簿は読めますか?


「セラフィーナ。君との結婚を終わらせたい」


 夫の言葉が落ちた途端、晩餐の席から音が消えた。


 親族も、領地を預かる重臣たちも、銀器を手にしたまま動きを止めている。


 長卓の上座に立つレオナールは、若い令嬢の肩を抱いていた。淡い桃色のドレスに身を包んだリディアは、伏し目がちに夫へ寄り添っている。


 彼女がレオナールの子を身ごもったらしい――そんな噂が屋敷を巡り始めたのは、半月ほど前だった。


 セラフィーナは確かめなかった。


 確かめるまでもなく、二人の姿が答えを示していたからだ。


 その場にいる全員の視線が、セラフィーナへ集まる。


 泣いてすがると思われているのだろうか。


 それとも、リディアへ掴みかかるとでも。


 セラフィーナは膝の上で指を重ねた。爪が食い込むほど力を込めなければ、かすかに震えてしまいそうだった。


 八年間。


 その長さが、胸の奥へ冷たい刃のように差し込んだ。


 初めて公爵邸を訪れた日。夫の好みに合わせようと選んだドレス。夜遅く帰宅する彼のため、冷めた食事を前に待ち続けた時間。


 どれも、レオナールにとっては終わらせたいものだったらしい。


 それでも、ここで涙を見せるわけにはいかなかった。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 レオナールはほっとしたように息を吐いた。妻が聞き分けのよい態度を見せたと思ったのだろう。


「私はリディアを愛している」


 肩を抱く手に力を込め、彼は続ける。


「君との結婚は、互いの家に望まれたものだった。私はようやく、本当に愛する人と出会えたんだ」


 リディアが長い睫毛を伏せた。その唇には、隠しきれない安堵が浮かんでいる。


「もちろん、君を放り出すつもりはない。相応の慰謝料は用意する。これまで窮屈な思いをさせた分、君も自由に生きればいい」


 まるで慈悲を与えるような口ぶりだった。


 差し出された書面へ目を落とす。


 記された金額は、セラフィーナが管理してきた公爵家の資産に比べれば、わずかなものだ。王都の屋敷を一年維持する費用にも届かない。


 八年間の働きに対する報酬どころか、当面の暮らしを心配せずに済む額ですらなかった。


「これで君も、不幸な政略結婚から解放される。私も残酷なことをしているとは思っていない」


 レオナールの言葉を聞きながら、セラフィーナはようやく理解した。


 この人は知らないのだ。


 自分が何を手放そうとしているのか、本当に何一つ。


「承知いたしました。その前に、三点ほど確認してもよろしいでしょうか」

「何だ」

「北部の倉庫には現在、どれだけの小麦がございますか?」


 レオナールが眉を寄せた。


「小麦?」

「はい。次の収穫までに領民と兵士へ配給できる量が残っているか、確認しておきたく存じます」


 夫の視線が、長卓の下座に控える家令へ向かう。


 家令は困惑したように唇を引き結んだ。セラフィーナから答える許可を求めているのだ。


 彼女は家令を見ず、夫の返事を待った。


「そのようなことは、倉庫番が管理しているだろう」

「では、来月支払う兵士たちの給与総額はおいくらでしょう」

「財務を担当する者に聞けばいい」

「三日前に満期を迎えた手形は、どのように処理なさいましたか?」 


 今度こそ、レオナールは言葉を失った。


 重臣たちの間に、小さなざわめきが広がる。


 北部の備蓄が凶作を乗り越えられる量なのか。国境を守る兵士へ、遅れず給与を払えるのか。期限を迎えた借金を、どの資金で清算するのか。


 領主であれば、細部まで知らずとも方針くらいは答えられるはずだった。


 けれどレオナールは、何一つ答えられない。


 それらはすべて、誰かが処理してくれるものだと思っている。


 その誰かが、これまで誰だったのかさえ考えずに。


「なぜ今、そのような話をする」

「私との結婚を終わらせるのでしたら、今後は私が管理するわけにはまいりませんので」

「家令に任せれば済む」

「家令は屋敷全体を管理しております。各地の倉庫、軍への支払い、商人との交渉まで一人で担わせれば、どこかに綻びが出るでしょう」


 レオナールの顔に苛立ちが浮かんだ。


 セラフィーナは夫の隣に立つリディアへ視線を向ける。


 怯えさせるつもりはなかった。彼女に公爵領の経営責任があるわけでもない。


 選んだのは、レオナールだ。


 だからこそ、セラフィーナは再び夫を見据えた。


「ですが、ご心配には及びませんね」


 冷え切った胸の底から、静かな言葉がこぼれた。


「これからはリディア様にお尋ねください。愛人に帳簿が読めるのでしたら、何の問題もございません」


 リディアの顔から、かすかな笑みが消えた。


 重臣たちは互いの表情を窺い、家令は目を伏せる。


 レオナールだけが、頬を赤く染めていた。


「君は昔からそうだ。口を開けば金、金、金。夫婦の間に必要なのは心だというのに、君にはそれがない」


 セラフィーナは瞬きをした。


「金勘定ばかりの冷たい女と暮らすことに、私は疲れたんだ」


 昨年、北部が凶作に見舞われる前、価格が上がることを見越して小麦を買い集めた。


 病に倒れた農夫の家族が冬を越せるよう、徴税記録へ猶予を書き込んだ。


 戦死した兵士の妻が幼子を抱えて屋敷を訪れたときは、止められていた年金を調べ直した。


 使用人の給与が遅れそうになった月には、不要な調度品の購入を取りやめ、支払日までに資金を用意した。


 帳簿に並ぶ数字の向こうには、一人一人の暮らしがあった。


 けれど夫にとっては、そのすべてが金勘定でしかなかったのだ。


「さようでございますか」


 ほかに返す言葉は見つからなかった。



 ◇



 晩餐会を辞したセラフィーナは、一人で私室へ戻った。


 扉を閉め、鍵をかける。


 誰の目もないことを確かめた途端、うまく息が吸えなくなった。


 胸元を押さえ、寝台の端に腰を下ろす。


 八年も共に暮らしたのだ。


 恋愛から始まった結婚でなくとも、いつか本当の夫婦になれるかもしれないと思っていた。


 その期待が、どうしようもなく愚かだったとしても。


 目元に浮かんだ涙を指先で拭い、セラフィーナは立ち上がった。


 泣くのは、ここを出てからでいい。


 小さな鞄を取り出し、着替えを数枚詰める。


 宝石箱には手を触れなかった。豪華なドレスも、毛皮の外套も、この家から与えられたものだ。


 代わりに机の引き出しから、使い慣れた筆記具を取り出す。インクの染みた指当てと、日々の収支を記した帳簿の控えも必要だった。


 宝石は、八年間の働きを証明してはくれない。


 けれど、彼女が書き続けた数字なら、何を守り、何を立て直してきたのかを示してくれる。


 帳簿の一部は、壁際の金庫に保管してある。


 鍵を差し込み、重い扉を開けた。


 積み重なった書類の束を取り出そうとして、セラフィーナの手が止まる。


 見覚えのない封筒が挟まっていた。


 中に収められていたのは、鉱山への投資契約書だった。


 記載された額を見た瞬間、息を呑む。


 失敗すれば、公爵領の財政そのものが傾く。しかも担保の欄には、領地の徴税権まで記されていた。


 これほど重大な契約を、セラフィーナは知らされていない。


 震える指で、最後の頁をめくる。


 契約者の欄にはレオナールの署名。


 そして、その隣には――。


「私の、署名……?」


 セラフィーナ・ローデン。


 確かに彼女の名だった。


 だが、彼女はこの書類へ署名していない。


 一見すれば見分けられないほど、よく似せてある。それでも毎日のように数字と名前を書き続けてきたセラフィーナには分かった。


 最後の一文字を結ぶ線が、自分のものとは逆方向へわずかに流れている。


 これは偽物だ。


 では、なぜ夫は、投資契約書に妻の偽造署名を必要としたのか。


 離婚が成立した後、この投資が失敗すれば。


 あるいは契約の不正を問われれば。


 責任を負うのは、誰になる?


 セラフィーナは契約書を握りしめた。


 夫は彼女を捨てるだけではない。


 罪を着せて、処分しようとしている。


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― 新着の感想 ―
楽しく読ませていただいております。 夫はクズ男ですね。 他の作品の婚約者や家族は、まだ許せていたけれど、今回ばかりは許せそうにないです。
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