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「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第三章 燃えた帳簿と、死者の了承

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元夫の領地は、支払いの順番も決められないようです

 朝の支払予定表には、兵士の給与停止まであと十九日と記されていた。


 食料購入まで、あと二十七日。


 セラフィーナは、前日に封緘した二通の手紙を机へ並べる。


 一通は北部の旧文書保管所へ送る照会文。もう一通は、公爵家へ送る返答だった。


 どちらにも、受領記録の残る経路を選ぶ。出した書面まで行方を見失わないためだ。


 使者が受領欄へ時刻を書き、封書を受け取るのを見届けてから、セラフィーナは管理所へ向かった。


 通行料の受領証は、支払った者の控えと領地側の控えが揃っている。木材搬出料も、荷車ごとの記録と金額に違いはなかった。


「朝の分は、すべて一致しております」


 管理所の者が差し出した帳簿へ、セラフィーナは確認の印を押す。


「受領証にない支払いを求められたという申し出は?」

「ありません。運搬人の方からも、理由のない金は払わないよう伝わっております」


 金庫が潤ったわけではない。


 それでも、誰が何のために払った金か分かる。その当たり前が、以前のヴァルハルト領にはなかった。


 昼近く、一人の商人が管理所を訪ねてきた。


「セラフィーナ様でいらっしゃいますか」

「はい。ですが、私は現在、公爵夫人ではありません」


 商人はすぐに頭を下げた。


「承知しております。私は公爵領と取引しております商人です。奥方様だったころ、何度か支払いの件でお目にかかりました」


 差し出されたのは、支払期限の並ぶ書面だった。


「公爵家へお尋ねしても、いつ支払うか返答がありません。契約品の代金、使用人用の保存食、兵士へ届ける冬布……どれを先にするのかさえ、決められないと」


 紙には複数の契約が記されている。


 支払日が近いもの。供給が止まれば暮らしに影響するもの。待てば仕入れ先への支払いが難しくなるもの。


 けれど、公爵家からの返答欄はどれも空白だった。


「以前は、セラフィーナ様が備蓄と帳簿を見て、順番を決めてくださいました。せめて、何を先にすべきかだけでも教えていただければと」


 商人の声に責める響きはなかった。


 答えを持たないまま、公爵家の返事を待つことが、その商人自身の雇い人や仕入れ先を苦しくしているのだろう。


 セラフィーナは書面を静かに閉じた。


「ご不安になるのは当然です」


 商人の目がわずかに上がる。


「ですが、公爵領の支払い順を決めるには、現在の帳簿、契約、備蓄、資金、そして責任を負う方の判断が必要です。どれも、今の私の手元にはありません」

「それでも、以前のご経験から……」

「私が外から順番を決めれば、結果の責任だけを負うことになります。今の公爵領で資金と権限を持つ方が、決めるべきことです」


 きつく聞こえないよう、セラフィーナは一度だけ言葉を選んだ。


「どうか公爵家へ、対象となる契約、支払期限、供給が止まった場合の影響を文書で示してください。そして、いつまでに回答が必要かも明記なさってください」

「私どもが、改めて書面を出すのですか」

「はい。何を待てるのか、何が止まれば誰の暮らしに影響するのか。公爵家が判断するために必要なことを、書面で渡してください」

「それでも答えがなければ」

「そのときは、契約どおりに供給を止めるか、条件を改めるかを、商人様ご自身で決めることになります。責任を持つ方が決めない間、皆様だけが負担を抱え続ける必要はありません」


 商人はしばらく書面を見つめていた。


「帳簿を見る者がいないのではなく、決める者がいないのですね」

「帳簿は、決めるためにあります」


 セラフィーナはそう答えた。


「ですが、決めた結果を引き受ける方がいなければ、数字だけでは人の暮らしを守れません」


 商人は深く息を吐いた。


「分かりました。公爵家へ、改めて期限を付けてお尋ねします。私の店にも、待っている者がおりますから」


 その表情に、少しだけ迷いのないものが戻る。


 セラフィーナは、公爵領の帳簿を引き受けたわけではない。ただ、商人が自分の暮らしと雇い人を守るため、正しい相手へ問い返せるようにしただけだ。


 それでも、公爵領が失ったものの大きさは、書面の空白から十分に伝わってきた。


 管理所を出たところで、ユリウスが待っていた。


「丁寧に対応していたな」

「公爵領のために順番を決めたのではありません。商人の方が、正式な返答を求められるように整理しただけです」

「それで十分だ」


 ユリウスは商人の背を見送り、それ以上は尋ねなかった。


「あなたは今、ヴァルハルト領の財務官として判断している」


 その言葉に、セラフィーナは小さくうなずく。


 過去に戻らずとも、目の前で困っている人を見捨てずに済む道はある。


 午後、彼女は保管庫へ戻った。


 北部への照会の受領記録と、仮保管簿に関する持ち出し記録の写しを並べる。返答はまだ届かない。


 文書番号の一部と、火事の前の日付。そこから先を追う仕事は、止まっていなかった。


 机の端には、商人が置いていった支払い期限の一覧がある。


 保存食、冬布、契約品。いずれも待てない理由を抱えながら、優先欄だけが空いていた。


 公爵領に足りないのは金だけではない。金を誰の暮らしへ先に届けるか、決める者そのものがいなかった。



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