↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第三章 燃えた帳簿と、死者の了承

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/34

元夫から、帳簿を見てほしいと手紙が来ました


 朝の支払予定表には、兵士の給与停止まであと二十日と記されていた。


 食料購入まであと二十八日。


 セラフィーナは北部の旧文書保管所へ送る照会文を、最後にもう一度読み返した。


 文書番号の前半。火事の前の持ち出し日。特別文書一束の冊数。


 仮保管簿という名も、赤黒い蝋印も、不正への疑いも書かない。相手の記録を開かなければ答えられない問いだけを残してある。


「こちらでよろしいでしょうか」


 ユリウスは照会文を読み、領主としての承認を記した。


「十分だ。受領記録の残る経路で送ってくれ」


 セラフィーナは写しを二通作った。一通は保管庫へ、もう一通は領主館の別の場所へ残す。原本を封じたあとも、何度も封蝋の周りを確かめた。


 紙が領地の外へ出るとき、戻ってくるまで何が起きるか分からない。


 だからこそ、出した記録も残す。


 照会文を使者へ渡し、受領欄へ時刻を書いてもらった直後だった。


「セラフィーナ様宛てに、公爵家からお手紙が届いております」


 差し出された封書には、見慣れた公爵家の紋章がある。


 胸の奥が一度だけ、鈍く痛んだ。


 それでも手を止めず、セラフィーナは封を開いた。


 差出人はレオナール本人だった。


 文面には、公爵領で支払いと帳簿の照合に問題が起きていること、商人との契約がまとまらず、使用人への支払いにも遅れが出かねないことが記されている。


 そして最後に、こうあった。


 ――一時的で構わない。帳簿を見て、必要な書類を整えてほしい。


 短い依頼だった。


 いつから、どの帳簿を、誰の権限で扱うのか。


 どの契約を見直し、誰が判断し、問題が起きたとき誰が責任を負うのか。


 報酬も、期間も、謝罪も書かれていない。


「一時的」と書きながら、終える日も定めていない。


「必要な書類」と書きながら、何を必要とするのかも示していない。


 これは依頼ではない。彼女が空いた手で戻り、書かれていない仕事まで引き受けることを前提にした要求だった。


 セラフィーナは、手紙を机へ伏せた。


 かつての自分なら、書かれていない部分まで考えただろう。契約書を集め、支払いの順番を決め、使用人の不安を聞き、商人へ頭を下げた。


 頼まれたからではない。誰かがしなければ、領地の暮らしが止まると知っていたからだ。


 けれど、それを当然のように引き受け続けた結果、自分の仕事には名も報酬も与えられなかった。


「戻るおつもりか?」


 ユリウスの声は静かだった。


 彼は手紙へ手を伸ばさず、セラフィーナの返答だけを待っている。


「いいえ」


 答えは、驚くほど迷いなく出た。


「私は公爵家へは戻りません。こちらの仕事を置いて、無償で帳簿を見ることもしません」


 ユリウスはうなずいた。


「返答するかどうかも、あなたが決めればいい。必要なら、正式な連絡として整える場を用意する」

「お返事はいたします」


 セラフィーナは筆記具を取った。


 相手を責める言葉は必要ない。


 現在、ヴァルハルト領の財務官として職務を担っていること。


 無償の帳簿確認、および権限と責任が定まらない業務は引き受けられないこと。


 正式な依頼をするなら、対象業務、責任者、権限、報酬、期間を文書で明示すべきこと。


 一文ずつ書くたび、八年間の仕事が、ようやく自分の手へ戻ってくるようだった。


 公爵家へ戻るとは約束しない。


 その言葉は書かずとも、手紙全体が示していた。


 書き終えた返答を、セラフィーナはユリウスへ渡した。


「これでよろしいでしょうか」

「あなたの意思が、明確に書かれている」

「公爵家が条件を整えたとしても、引き受けるかどうかは別のことです」

「その判断も、あなたが決めればいい」


 それだけだった。


 けれど、誰かが彼女の判断を勝手に言い換えず、書いたとおりに受け取ってくれることが、今はありがたかった。


 返答文を封じたあと、セラフィーナは管理所へ向かった。


 木材搬出料の当日記録を開く。受領証の控えは揃い、運搬人の名と荷の行き先、支払いの理由が一枚ずつ残っている。


 新しい控えの端には、運搬人自身が確認の印を押していた。額が間違っていないことを、領地だけでなく、支払っ

た者も確かめた証である。


「今日の記録は、すべて揃っています」


 管理所の者が控えを差し出す。


 セラフィーナは日ごとの合計と枚数を確かめ、領地に残す分へ印を押した。


「では、明日も同じように残してください。帳簿に残らない金は、受け取らないことにしましょう」

「承知しました」


 過去の夫に求められるだけの人ではない。


 今の領地で、数字の向こうにいる人々の暮らしを守る財務官だ。


 ふと、レオナールの手紙が目に入った。


 末尾には、返答を急かす追記がある。


 ――今月中に、どの支払いを先に行うべきかだけでも示してほしい。


 しかし、その判断に必要な支払予定表も、契約の控えも同封されていない。彼は答えだけを求め、答えを出すための責任は、また彼女へ預けようとしていた。


 セラフィーナはその一文を読み、静かに一度、息を吐いた。


 その手が、もう彼の都合だけで、領地の重さを引き受けることはない。


 彼はようやく気づき始めたのだ。自分が捨てたのは妻ではなく、公爵領を支えていた手だったのだと。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。