明日、通行料を失う
通行権の執行まで、あと一日。
兵士の給与停止まで、あと二十六日。
街道の管理所へ向かう馬車の中で、セラフィーナは鞄の留め金を確かめた。
中にあるのは、異議申立書の提出用と受理確認用、番号を付けた証拠の写しだけだ。
領地保管用の一通と原本は、二人の確認を受けて保管庫へ残してある。
「使者へ渡す前に、管理所の記録を確認します」
向かいに座るユリウスが頷いた。
「帳簿を渡すよう求められても、君の確認なしには応じない」
「まず、相手が何を根拠に来たのかを確かめさせてください」
「ああ。書類の不備は君が見てくれ。原本を渡さないという判断は、私が負う」
窓の外では、塩の袋を積んだ荷車が街道を進んでいた。
通行料は、道や橋を直し、街道を見回る兵士を支える。誰が受け取るのかも分からないまま、その収入を外へ渡すことはできなかった。
管理所へ着くと、見慣れない使者が帳簿の前に立っていた。
机には、通行料の日次帳簿、商人へ渡した受領証の控え、権利台帳の写しが広げられている。
セラフィーナは使者へ声をかけるより先に、管理所の担当者へ尋ねた。
「帳簿や控えは、使者が来る前から動かしましたか」
「いいえ。求められたものを机へ出しただけです。まだ一冊もお渡ししておりません」
受領証の枚数と番号を確かめる。
欠けているものはない。日次帳簿も、朝に締めた箇所まで残っていた。
「ありがとうございます。このまま、私の確認が終わるまで動かさないでください」
「承知しました」
管理所の担当者が帳簿から手を離す。
それを見てから、セラフィーナは使者へ向き直った。
「通行権の執行準備として、記録を確認したい」
使者は落ち着いた声で告げた。
「確認後、必要な帳簿と受領証を預かります」
「どちらの命令でお越しになったのでしょう」
「通行料徴収権の執行を扱う側からです」
「対応する文書番号をお示しください」
使者は一枚の書類を出した。
通行料徴収権の項目はある。だが、番号の末尾が権利台帳の記載と一致していなかった。
セラフィーナは二つの番号を紙へ写す。
「正式な移転命令書はございますか」
「本日は準備のための確認です。正式な執行書類は、執行日に示します」
「では、本日この記録を持ち出す根拠となる命令書は、まだないということでしょうか」
使者は答えを急がなかった。
「従来の手順に従っています」
「記録を受け取った後は、どちらへ保管なさるのですか」
「執行に必要な場所です」
「受領の責任を負う方のお名前は?」
返答はなかった。
セラフィーナは、使者が答えた内容だけを短く書き留めた。
執行準備。
正式な移転命令書は未提示。
保管先と受領責任者は不明。
使者の前にある書類には、さらに空白があった。
「この権利を受け取る方のお名前も、記されておりません」
「所有者欄は、執行当日に必要な記載を整えます」
「移転先が定まっていない状態で、帳簿だけを先に受け取るのですか」
「通行料は、村や街道ごとの合計額が分かれば足ります。従来もそう扱われてきました」
「今は違います」
セラフィーナは、そこで初めて受領証の控えを開いた。
「現在は、領地側の日次帳簿だけでなく、支払った商人の手元にも、同じ番号の受領証が残っております」
日付、金額、支払いの理由。
一件ごとの記録が、番号で結ばれている。
「確認が必要でしたら、原本を動かさず、必要な箇所の写しをお渡しできます。合計額だけをお求めでしたら、それで足りるはずです」
「執行準備には、元の帳簿を確認する必要があります」
使者が日次帳簿へ手を伸ばした。
表紙が机から持ち上がる。
「その帳簿の移動を差し止めます」
セラフィーナは静かに告げた。
使者の手が止まった。
「私はヴァルハルト領の徴税記録調査責任者です。現在、通行料に関する異議と記録不備を調査しております。正式な命令書、受領責任者、保管先が示されない限り、原本の移動は認められません」
「執行に必要な確認だと申し上げました」
「確認は拒んでおりません。写しで対応いたします」
セラフィーナは帳簿と、商人側へ渡した受領証の番号を示した。
「仮にこの一冊を持ち出しても、支払った方の控えは残ります。領地側の帳簿だけで、通行料の記録を確定することはできません」
使者は受領証の番号へ視線を落とした。
すでに記録は、一冊の帳簿だけに閉じ込められていない。
ユリウスが一歩、机へ近づいた。
「セラフィーナの差し止め判断は、領主である私が認めた権限によるものだ」
低い声が管理所へ落ちる。
「正式な根拠が示されるまで、帳簿、受領証、権利台帳の写しを持ち出すことは認めない。原本を渡さない責任は、私が負う」
使者はしばらくユリウスを見た。
やがて、持ち上げかけていた帳簿を机へ戻す。
「本日のところは、持ち出しを求めません」
管理所の空気が、わずかに緩んだ。
通行権の移転が止まったわけではない。
それでも、今日この場で失われようとしていた記録は守れた。
セラフィーナは管理所の担当者へ向き直る。
「帳簿と受領証を、元の箱へ戻してください。返却時刻と立会人も記録を」
「承知しました」
担当者は日次帳簿と控えを重ね、保管箱へ戻した。別の者が枚数を確かめ、二人の名が管理記録へ並ぶ。
セラフィーナは、使者が記録の持ち出しを求めた時刻、提示された文書番号、正式命令書がなかったことを書き加えた。
これで、今日何が求められ、なぜ渡さなかったのかが残る。
そこでユリウスが、異議申立書の提出用を卓上へ置いた。
「承認頁の欠落、前任徴税官による記録不備、過去の異議書から結論が失われていることについて、正式な異議を申し立てる」
使者は文面へ目を通したが、受け取ろうとはしなかった。
「異議があることは承知しました。正式な受理は、明日の執行書類とともに行います」
セラフィーナは異議書を手元へ戻した。
相手へ預けたままにはしない。
使者が異議の存在を確認したことだけを、管理所の記録へ残した。
「明日、正式な執行書類を持って改めて来ます」
使者は書類を畳んだ。
「その際は、通行料徴収権の処理を進めます」
「こちらも、異議申立書を正式に提出する」
ユリウスの声は揺れなかった。
使者が去ると、セラフィーナは保管箱の封と管理記録を確かめた。
帳簿も受領証も、一冊、一枚として失われていない。
今日の収入を示す記録は守った。
しかし明日、正式な執行書の所有者欄へ名前が書かれれば、空白だった権利の行き先が決まる。
セラフィーナは異議申立書の提出用と受理確認用を重ねた。
次に示すのは、過去の異議書。
前任徴税官の指示書。
商人側にも残る受領証。
そして、所有者欄が空白だった権利台帳。
明日、それらを示して止められなければ。
ヴァルハルト領は、通行料を失う。




