消された頁を持ち出した手
兵士の給与停止まで、あと三十日。
通行権の執行まで、あと五日。
セラフィーナは朝の支払予定表を閉じ、制度変更書の綴じ紐へ目を落とした。
承認頁は火事で失われたのではない。
一度、文書束の綴じ紐をほどき、必要な頁だけを抜いたあと、元の形へ戻した跡がある。紙の並びはわずかにずれ、紐の先には細い繊維が残っていた。
「乱暴に破り取ったのではありません」
向かいに立つユリウスが、綴じ目を覗き込む。
「読まれたくない頁を選んで抜いたのか」
「その可能性があります。ただ、いつ抜かれたのかまでは分かりません」
火事より前に持ち出されたのか。
炎と混乱に乗じて、抜き取られたのか。
セラフィーナは保管庫の出し入れ記録を開いた。
火事の夜、古い徴税資料が確認のため持ち出されている。だが、文書名を記す欄は空白だった。
制度変更書だったと断定することはできない。
それでも、火事の夜だけ鍵の返却記録がなく、持ち出された資料の名もない。その二つの空白が、承認頁の欠落と重なっていた。
「承認頁だけを消せば、制度の本文は残ります」
セラフィーナは欠けた箇所を指先で示した。
「ですが、誰が起草し、誰が承認したのかは辿れなくなる」
「制度を残したまま、責任を負う者の名だけを消せるということか」
「はい。ただし、それが目的だったと決めるには、まだ記録が足りません」
ユリウスは、問いを重ねなかった。
分からないところを推測で埋めず、残った事実から確かめる。その判断を任せてくれている。
セラフィーナは制度変更書を薄紙で包み、調査中の文書として番号を付けた。
新たに管理手順に従い、閲覧者、立会人、取り出した時刻を記録する。元の場所へ戻すときに
も、二人分の確認が必要になる。
今度は、誰か一人の手で頁を消させない。
◇
昼前、セラフィーナが保管庫の前を通りかかったときだった。
開いた扉の向こうで、保管庫の書記が細長い箱を抱えていた。
箱には、通行権に関する権利台帳の写しと記されている。
異議書へ添えるため、その朝に確認したばかりの資料だった。
「そちらは、どちらへ運ばれますか」
書記が足を止めた。
「整理のためです。古い写しは場所を移した方がよいかと」
「立ち会った方は?」
「おりません」
「受け渡しの記録も、まだございませんね」
保管庫の机に置かれた管理表には、書記の名も、箱の番号も書かれていなかった。
「これから記すつもりでした」
「現在の手順では、記録を先に作り、立会人の確認を受けてから持ち出すことになっております」
責める声は出さなかった。
ただ、決められた手順と、空白の記録を示す。
「その箱を棚へ戻してください」
書記は動かなかった。
「異議書に必要な資料なら、私も確認を頼まれております」
「先ほどは、整理のためと伺いました」
書記の腕に、わずかに力が入った。
「整理と確認の両方です。念のため、別の場所へ移した方がよいと……」
「どなたから頼まれたのでしょう」
返事はなかった。
「依頼した方のお名前と、確認する目的を記録してください。立会人を定めた後でしたら、必要な範囲で閲覧できます」
「急いでおりますので」
「通行権の異議に使う資料です。行き先を記さず、単独で移動させることは認められません」
セラフィーナは書記の顔色ではなく、抱えられた箱と空白の管理表を見た。
この者が何を考えているかは分からない。
だが今、記録を残さず重要資料を運ぼうとしていることだけは確かだった。
「戻してください」
今度は、はっきりと告げた。
書記はなおも箱を抱えていたが、廊下から近づいた足音に顔を上げた。
ユリウスが二人の間へ視線を向ける。
「何があった」
「通行権に関する権利台帳の写しを移動させようとしておられました。立会人と受け渡し記録がなく、目的についても、整理と確認の二つの説明を受けています」
セラフィーナは事実だけを伝えた。
「そのため、移動を差し止めました」
ユリウスは書記へ向き直った。
「セラフィーナの判断は、私が認めた記録管理の権限によるものだ。従え」
書記の視線が下がった。
「……承知しました」
箱が棚へ戻される。
木の底が棚板へ触れた音を確かめてから、セラフィーナは管理表へ記した。
持ち出そうとした文書名。
時刻。
最初に説明された目的。
後から語られた目的。
そして、資料を元の棚へ戻したこと。
ユリウスはその記録を読み、確認欄へ署名した。
「通行権と徴税制度に関する原本、写し、関連記録は、今後もセラフィーナの確認なしに移動させることを禁じる」
書記だけに向けた言葉ではなかった。
保管庫に控えていた者たちにも聞こえる声で、ユリウスは続けた。
「閲覧まで妨げるつもりはない。必要な者は目的を記し、立会人を置け。セラフィーナが不備を指摘した場合は、整うまで動かしてはならない」
セラフィーナが作った手順によって、重要な写しは保管庫に残った。
昨日までは、紙に書いただけの規則だった。
今日は、その規則が一つの証拠を守った。
◇
午後、セラフィーナは通行料の記録を確認した。
商人へ渡した受領証。
領主側に残した控え。
日ごとの帳簿。
三つの金額と番号は、当日分まで一致していた。記載のない追加徴収も報告されていない。
「本日分に不一致はございません」
報告を受けたユリウスが頷く。
「では、この手順を続けよう」
「はい。一日だけ合っていても、明日崩れては意味がありません」
「だから、続けるための記録も残す」
ユリウスは日次帳簿の確認欄へ、自ら印を置いた。
数字が合っているだけではない。
誰が確かめ、誰がその結果を引き受けたのかまで残る。
公爵家では、セラフィーナが一人で帳簿を整えても、その判断を自分の名で引き受ける者はいなかった。
ここでは違う。
彼女が不備を指摘すれば、資料の移動を止められる。
そして領主が、その判断を命令として保証する。
セラフィーナは帳簿を閉じた。
喜ぶより先に、確かめるべきものがあった。
昼に書記が持ち出そうとした箱である。
◇
夕方、セラフィーナはユリウスの立ち会いのもと、箱をもう一度開いた。
権利台帳の写しには、頁番号と作成日が残っている。
その端に、小さな確認記号があった。
「この記号は、本日付けられたものではありません」
新しい管理表と照合する。
今日の返却記号とは形が違う。
それは、以前の保管庫で使われていた印だった。資料を持ち出す前ではなく、外から戻したときに、管理者が記すものだ。
「この写しは、以前にも保管庫の外へ出ています」
ユリウスの表情が硬くなる。
「いつだ」
セラフィーナは古い出し入れ記録を開いた。
箱の番号は記載されていない。
だが、火事の夜の鍵台帳に残された確認記号と、写しの端にあるものは一致していた。
どちらも、保管庫の書記の管理下でなければ使えない記号だった。
火事の夜、書記は帳簿庫の鍵を持っていた。
そして通行権の写しも、以前に保管庫の外へ持ち出している。
承認頁が失われたことを知らず、今日この箱だけを選ぶとは考えにくい。
セラフィーナはそれでも、推測を口にしなかった。
写しと鍵台帳を並べ、書記の前へ差し出す。
「こちらは、火事の夜の鍵台帳です。そして、こちらは本日持ち出そうとなさった写しです」
書記の目が、二つの確認記号へ落ちた。
「同じ記号が残っております。写しを以前に持ち出した日時と、目的をお答えください」
書記は何も言わなかった。
「今日、誰から確認を頼まれたのかも記録が必要です」
沈黙が続く。
ユリウスが書記へ向き直った。
「何を隠している」
書記の唇が強く結ばれた。
逃げ道を塞いだのは、怒声ではない。
書記自身が残した確認記号と、今日から空白を許さなくなった管理記録だった。
やがて書記はうつむき、かすれた声で言った。
「火をつけたのは私です」
短く息を吸う。
「ですが、数字を書き換えたのは私ではありません」




