火事の夜、鍵を持っていた者
通行権の執行まで、あと六日。
兵士の給与停止まで、あと三十一日。
セラフィーナは異議書の傍らに、制度変更書と権利台帳を並べた。
承認頁が欠けていることは、すでに分かっている。だが異議を申し立てるなら、残った原本が正しく保管されていたことも示さなければならない。
誰が、いつ、どの書類に触れたのか。
帳簿庫の鍵の貸出台帳を開くと、火事が起きた夜の欄には借り出しの記録があった。
しかし、返却時刻だけが空白になっている。
返却を確認した者の印もない。
「鍵は、保管庫の書記が管理しているのですね」
「ああ。帳簿庫へ入る者がいるときは、書記が台帳へ記す決まりだ」
「でしたら、この空白は確認しなければなりません」
ただの記入漏れかもしれない。
だからこそ、空白だけを理由に誰かを疑うことはできなかった。
セラフィーナは焼け残った紙片を隣へ置いた。
紙の端に付着した煤は、一部だけ薄くなっている。火に煽られたというより、触れた指で慌てて拭ったような痕だった。
鍵台帳の余白にも、同じ黒い汚れが滲んでいる。
さらに余白には、借り出し欄へ入りきらなかった内容を補うような、小さな文字が書き加えられていた。
「火事のあとで、この台帳に手を加えた方がいるかもしれません」
ユリウスは煤の痕と文字を見比べた。
「筆跡だけでは決められないな」
「はい。煤も同じです。これだけでは、触れた時刻も理由も分かりません」
セラフィーナは台帳を閉じなかった。
「鍵の管理記録と、火事当日の作業記録を提出していただきます。二つを照合しましょう」
ユリウスはすぐに頷いた。
「そうしてくれ」
彼は分からないことを、都合よく埋めようとはしなかった。
だからセラフィーナも、残った記録だけを積み上げることができた。
◇
同じ頃、公爵邸の書斎では、レオナールが金庫から運ばせた箱を開いていた。
「これを手形の支払いへ回せばよい」
中には、銀貨が整然と収められている。
金があるのなら、商人を待たせる理由はない。そう考えたレオナールへ、家令は硬い表情で頭を下げた。
「そちらは、兵士と使用人の給与として分けられた資金でございます」
「金は金だろう。先に手形を払い、後から補えばいい」
「次の入金は、給与の支払日に間に合いません」
レオナールの手が止まった。
傍らにいたリディアが、不思議そうに箱を覗き込む。
「でも、どちらも公爵家のお金ではないのですか?」
「公爵家の金であることは同じです。ですが、支払う相手と期日が違います。こちらを動かせば、今月の給与が不足いたします」
「なら、別の箱から出せばいい」
「ほかは小麦の仕入れと、冬布の支払いに充てる分です。崩せば、次の取引を現金払いに改められるおそれがございます」
金庫には金がある。
それなのに、自由に使える金はない。
レオナールは並んだ箱を見回した。どの箱にも支払先と期日が記されているが、ひとつを動かしたとき、次に何が不足するのかまでは書かれていなかった。
「セラフィーナは、どうしていた」
問うたあとで、レオナールは眉を寄せた。
家令は目を伏せる。
「奥様は入金の予定と支払期限を照らし合わせ、動かせる金だけを、その都度お決めになっていました」
では、今はどの金を動かせるのか。
答えられる者は、もうこの屋敷にはいなかった。
「ええい、もういい! ひとまず、給与の箱には触れるな! さっさとほかの帳簿を調べろ‼」
レオナールは苛立ちを隠すことなく、大声で命じた。
◇
ヴァルハルト領では、保管庫の書記が呼ばれていた。
整えられた衣服の裾には、薄い紙の粉がついている。
それも帳簿へ触れた証拠にはならない。保管庫の書記であれば、紙粉がつくこと自体は不自然ではなかった。
「火事の夜の鍵について、お尋ねします」
セラフィーナは貸出台帳を開いた。
「借り出しの記録はございますが、返却時刻と確認印がありません」
「混乱しておりましたので。火が出たあと、記録まで気が回らなかったのでしょう」
「では、こちらの文字は?」
セラフィーナは余白の書き込みを示した。
「火事のあとに加えられたものではありませんか」
書記の視線が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……確認のため、帳簿庫へ入った者がいたと聞きました」
先ほどは、火事のあとの混乱による記入漏れだと答えた。
今度は、帳簿庫へ入った者がいたという。
セラフィーナは二つの発言を、それぞれの時刻とともに紙へ書き留めた。
「どなたが入ったのでしょう」
「私は存じません。帳簿の確認を頼まれただけです」
「どなたから、何を確認するよう頼まれたのですか」
書記は唇を引き結んだ。
これ以上は答えないらしい。
ユリウスは相手を怒鳴りつける代わりに、鍵台帳を自分の前へ引き寄せた。
「今日から、帳簿庫と保管庫の鍵は、一人の確認では貸し出さない。借りた者、立ち会った者、返却時刻を、それぞれ記録する」
書記がわずかに顔を上げた。
「文書の受け渡しも同じだ。セラフィーナが作る管理表を、領内の正式な手順として使う。空欄のまま受け渡すことは認めない」
「承知しました」
書記は頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉じると、セラフィーナは記録した二つの発言を見直した。
「証言が変わったことは確かです。ただし、誰が帳簿庫へ入ったのかは、まだ決められません」
「分かっている。だが、次に同じ空白を作らせずには済む」
犯人を捕らえたわけではない。
それでも今日から、誰か一人が鍵を持ち出し、記録を残さず返すことはできなくなった。
提案が、領地を守る手順になったのだ。
午後、セラフィーナは新しく作った通行料の帳簿を確認した。
商人へ渡した受領証と、領主側に残した控え。番号も金額も当日分まで一致している。
「こちらは問題ありません」
短く記録を残し、セラフィーナは再び鍵台帳へ戻った。
今度は、書記が提出した火事当日の作業記録と並べる。
作業記録には、書記は火事の夜、保管庫にいたとある。帳簿庫へ入ったという記載はない。
だが鍵台帳の空白欄には、借り出した鍵を保管庫へ戻す際に使われる確認記号が残っていた。
その記号を記せるのは、鍵を管理する書記だけだった。
セラフィーナは二つの記録を並べたまま、静かに息を整えた。
火事の夜、帳簿庫の鍵を持っていたのは、保管庫の書記だった。




