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「愛人に帳簿は読めますか?」十年間領地を支えた私を捨てた夫へ。あなたの領地が財政破綻しても、もう戻りません。  作者: 抑止旗ベル
第二章 空白の所有者欄と、奪われる領地収入

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12/21

火事の夜、鍵を持っていた者


 通行権の執行まで、あと六日。


 兵士の給与停止まで、あと三十一日。


 セラフィーナは異議書の傍らに、制度変更書と権利台帳を並べた。


 承認頁が欠けていることは、すでに分かっている。だが異議を申し立てるなら、残った原本が正しく保管されていたことも示さなければならない。


 誰が、いつ、どの書類に触れたのか。


 帳簿庫の鍵の貸出台帳を開くと、火事が起きた夜の欄には借り出しの記録があった。


 しかし、返却時刻だけが空白になっている。


 返却を確認した者の印もない。


「鍵は、保管庫の書記が管理しているのですね」

「ああ。帳簿庫へ入る者がいるときは、書記が台帳へ記す決まりだ」

「でしたら、この空白は確認しなければなりません」


 ただの記入漏れかもしれない。


 だからこそ、空白だけを理由に誰かを疑うことはできなかった。


 セラフィーナは焼け残った紙片を隣へ置いた。


 紙の端に付着した煤は、一部だけ薄くなっている。火に煽られたというより、触れた指で慌てて拭ったような痕だった。


 鍵台帳の余白にも、同じ黒い汚れが滲んでいる。


 さらに余白には、借り出し欄へ入りきらなかった内容を補うような、小さな文字が書き加えられていた。


「火事のあとで、この台帳に手を加えた方がいるかもしれません」


 ユリウスは煤の痕と文字を見比べた。


「筆跡だけでは決められないな」

「はい。煤も同じです。これだけでは、触れた時刻も理由も分かりません」


 セラフィーナは台帳を閉じなかった。


「鍵の管理記録と、火事当日の作業記録を提出していただきます。二つを照合しましょう」


 ユリウスはすぐに頷いた。


「そうしてくれ」


 彼は分からないことを、都合よく埋めようとはしなかった。


 だからセラフィーナも、残った記録だけを積み上げることができた。


     ◇


 同じ頃、公爵邸の書斎では、レオナールが金庫から運ばせた箱を開いていた。


「これを手形の支払いへ回せばよい」


 中には、銀貨が整然と収められている。


 金があるのなら、商人を待たせる理由はない。そう考えたレオナールへ、家令は硬い表情で頭を下げた。


「そちらは、兵士と使用人の給与として分けられた資金でございます」

「金は金だろう。先に手形を払い、後から補えばいい」

「次の入金は、給与の支払日に間に合いません」


 レオナールの手が止まった。


 傍らにいたリディアが、不思議そうに箱を覗き込む。


「でも、どちらも公爵家のお金ではないのですか?」

「公爵家の金であることは同じです。ですが、支払う相手と期日が違います。こちらを動かせば、今月の給与が不足いたします」

「なら、別の箱から出せばいい」

「ほかは小麦の仕入れと、冬布の支払いに充てる分です。崩せば、次の取引を現金払いに改められるおそれがございます」


 金庫には金がある。


 それなのに、自由に使える金はない。


 レオナールは並んだ箱を見回した。どの箱にも支払先と期日が記されているが、ひとつを動かしたとき、次に何が不足するのかまでは書かれていなかった。


「セラフィーナは、どうしていた」


 問うたあとで、レオナールは眉を寄せた。


 家令は目を伏せる。


「奥様は入金の予定と支払期限を照らし合わせ、動かせる金だけを、その都度お決めになっていました」


 では、今はどの金を動かせるのか。


 答えられる者は、もうこの屋敷にはいなかった。


「ええい、もういい! ひとまず、給与の箱には触れるな! さっさとほかの帳簿を調べろ‼」


 レオナールは苛立ちを隠すことなく、大声で命じた。


     ◇


 ヴァルハルト領では、保管庫の書記が呼ばれていた。


 整えられた衣服の裾には、薄い紙の粉がついている。


 それも帳簿へ触れた証拠にはならない。保管庫の書記であれば、紙粉がつくこと自体は不自然ではなかった。


「火事の夜の鍵について、お尋ねします」


 セラフィーナは貸出台帳を開いた。


「借り出しの記録はございますが、返却時刻と確認印がありません」

「混乱しておりましたので。火が出たあと、記録まで気が回らなかったのでしょう」

「では、こちらの文字は?」


 セラフィーナは余白の書き込みを示した。


「火事のあとに加えられたものではありませんか」


 書記の視線が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……確認のため、帳簿庫へ入った者がいたと聞きました」


 先ほどは、火事のあとの混乱による記入漏れだと答えた。


 今度は、帳簿庫へ入った者がいたという。


 セラフィーナは二つの発言を、それぞれの時刻とともに紙へ書き留めた。


「どなたが入ったのでしょう」

「私は存じません。帳簿の確認を頼まれただけです」

「どなたから、何を確認するよう頼まれたのですか」


 書記は唇を引き結んだ。


 これ以上は答えないらしい。


 ユリウスは相手を怒鳴りつける代わりに、鍵台帳を自分の前へ引き寄せた。


「今日から、帳簿庫と保管庫の鍵は、一人の確認では貸し出さない。借りた者、立ち会った者、返却時刻を、それぞれ記録する」


 書記がわずかに顔を上げた。


「文書の受け渡しも同じだ。セラフィーナが作る管理表を、領内の正式な手順として使う。空欄のまま受け渡すことは認めない」

「承知しました」


 書記は頭を下げ、部屋を出ていった。


 扉が閉じると、セラフィーナは記録した二つの発言を見直した。


「証言が変わったことは確かです。ただし、誰が帳簿庫へ入ったのかは、まだ決められません」

「分かっている。だが、次に同じ空白を作らせずには済む」


 犯人を捕らえたわけではない。


 それでも今日から、誰か一人が鍵を持ち出し、記録を残さず返すことはできなくなった。


 提案が、領地を守る手順になったのだ。


 午後、セラフィーナは新しく作った通行料の帳簿を確認した。


 商人へ渡した受領証と、領主側に残した控え。番号も金額も当日分まで一致している。


「こちらは問題ありません」


 短く記録を残し、セラフィーナは再び鍵台帳へ戻った。


 今度は、書記が提出した火事当日の作業記録と並べる。


 作業記録には、書記は火事の夜、保管庫にいたとある。帳簿庫へ入ったという記載はない。


 だが鍵台帳の空白欄には、借り出した鍵を保管庫へ戻す際に使われる確認記号が残っていた。


 その記号を記せるのは、鍵を管理する書記だけだった。


 セラフィーナは二つの記録を並べたまま、静かに息を整えた。


 火事の夜、帳簿庫の鍵を持っていたのは、保管庫の書記だった。

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