空白の所有者欄
兵士の給与停止まで、あと三十二日。
朝の光が差し込む作業室で、セラフィーナは支払予定表の数字を見つめた。
食料を買えなくなるまでなら、あと四十日。
どちらも、帳簿の上で待ってはくれない。
昨夜作った照会文書は、まだ机の引き出しにある。
宛先近くに見覚えのない書き込みがあった文書を、そのまま送るわけにはいかなかった。
「こちらは保管します」
セラフィーナは最初の照会文書を封筒ごと記録箱へ入れた。
触れられた可能性があること自体が、後で必要な証拠になる。
新しい紙を広げ、質問の順番を変える。
最初に古い役職名の確認。
次に文書番号の管理元。
制度変更の承認者と、赤黒い蝋印の使用記録は最後に置いた。
何を一番知りたがっているのか、相手に悟らせないためだった。
ユリウスは完成した文書を読み、領主印を押した。
「これを別の経路で送る。受け取った記録も残させよう」
「お願いします」
使者が文書を持って出ていくのを見届けてから、セラフィーナは権利台帳へ戻った。
空白の所有者欄の周囲には、通行権に関する記録が集められていた。
領地へ入る商人たちが、山越えの街道を通る際に納める金。
その通行料を受け取る権利が、担保対象として記されている。
けれど、誰の権利なのかだけが空白だった。
周辺の受領証と日ごとの控えを照合すると、その街道から入る金は、十日で銀貨二十四枚ほどになる。
大きな額ではない。
しかし、今のヴァルハルト領にとっては、決して小さくなかった。
薪を運ぶ荷車も、塩を積んだ商人も、その街道を使う。
この収入が外へ流れれば、兵士の給与を工面するための余地が、また一つ失われる。
「所有者が空欄のまま、担保にできるのでしょうか」
セラフィーナが尋ねると、ユリウスは台帳を見下ろした。
「本来ならできない。誰のものかを定めずに、権利だけを移すことはできないはずだ」
「ですが、この記録は、移せる形に整えられています」
所有者を書かない。
それでも担保に関する番号だけは残す。
後から誰かの名を書き込めば、権利の行き先を作れてしまう。
セラフィーナは、台帳の余白を指で押さえた。
「これからの通行料は、必ず受領証を二通作りましょう。一通は支払った商人へ。もう一通は領主側に残します」
「日ごとの記録も必要か」
「はい。村ごとの税と同じです。合計だけでは、いつ金が減ったのか分かりません」
ユリウスはすぐに頷いた。
「今日から始めよう」
その返事に、セラフィーナは新しい帳面を開いた。
通行料を払った者。
金額。
日付。
受領証の番号。
書く項目は多くない。
けれど、これで金がどこから入り、どこへ消えたのかを追えるようになる。
帳簿に残すことは、ただ疑うためではない。
正しく納めた者を守り、領地の収入を守るための手順だった。
昼を過ぎ、台帳をもう一度確認したときだった。
空白の所有者欄の余白に、細い筆跡がある。
昨日まで気づかなかった文字だった。
人の名ではない。
短く記された、期日だけ。
「あと七日後……」
セラフィーナの指先が冷たくなった。
兵士の給与が尽きるより、はるかに早い。
何を執行するのかは書かれていない。
それでも、この欄に関わる権利が処理される日なのだとしたら。
通行料を受け取る権利は、ヴァルハルト領の手を離れるかもしれない。
兵士の給与が尽きるより先に、ヴァルハルト領は収入を奪われるかもしれなかった。




