女帝の寝所前
捕らえた男が地下牢へ引きずられていった頃には、夜気はいっそう深くなっていた。
西棟の血はまだ石床に光っている。だが宮殿は、何事もなかった顔で静まり返っていた。こういう場所だ、と零は思う。人が死んでも、壁も灯りも黙っている。
「陛下がお呼び」
近衛の女騎士が短く告げた。
零は剣の血を拭い、黒手袋をはめ直す。そのまま案内されたのは、謁見の間でも執務室でもない。女帝私室へ続く内側の回廊だった。
外の護衛は二重。
だが最後の一角だけ、意図的に人を減らしてある。昼に自分が指摘した穴だ。まだ塞ぎ切れていないのではない。今は、誰がそこへ目を向けるか見ているのだろう。
厚い扉の前で、近衛が止まった。
「ここから先は、お一人で」
零が中へ入ると、室内は予想より暗かった。
暖炉の火が低く、壁際の魔石灯も半分しか灯っていない。寝台の天蓋は黒布で落ち着いた色に抑えられ、豪奢というより冷たい。皇帝の寝所ではなく、眠ることを忘れた支配者の部屋に見えた。
エレノアは窓際に立っていた。
黒銀の寝間着代わりの長衣をまとい、銀髪を半ばほどいている。昼の玉座では隙のない女が、ここでは肩の線まで柔らかく見えた。だが背筋は真っ直ぐだ。崩れているわけではない。ただ、硬さを解く相手を選んでいるだけだった。
「報告を」
振り返らずに言う。
零は扉の内側で膝をついた。
「第二陣は三名。うち二名を殺害、一名を生け捕りにしました。使用された矢と金属札は宮廷備品庫由来です」
「外部の潜入ではない」
「はい。少なくとも、刃を振るった連中だけなら」
エレノアが窓硝子へ指を触れる。雪明かりが、その白い横顔を青く縁取った。
「言い切らぬのだな」
「外から金と武器と手引きが入っている可能性はあります。ですが、今夜まで女帝の動線を知り、備品を抜き、内鍵の前を死角に使えた者は、宮殿の内側にいる」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちりとひとつ割れる。
エレノアはそこでようやく振り返った。青い瞳は冷えていたが、怒りより先に、測る色があった。
「おまえは、あの回廊へ駆け込む前から知っていたように見えた」
やはり来る問いだった。
零は顔を上げすぎない角度で答える。
「死ぬ場所が分かる時があります」
「便利な予言だ」
「便利なら、もっと早くこの宮殿は静かになっていたでしょう」
エレノアの目が細まった。
不敬と切るには、声音が静かすぎる。虚勢も酔いもない。ただ事実だけを置く声だった。
「自分の力を怖れぬのか」
「怖れます」
零は即答した。
「ですが、怖れたまま使います。使わなければ、もっと多くが死ぬ」
女帝は何も言わなかった。
代わりに、数歩だけこちらへ近づいてくる。長衣の裾が絨毯を擦る音が、妙に小さく耳に残った。近い、と零は思う。香は薄い。雪と、少しだけ薬草の匂いがした。眠りを呼ぶためのものだろう。
「顔を上げよ、零」
名を、今度は役職でなく呼ばれた。
零が視線を上げると、エレノアはすぐ目の前に立っていた。公の場では絶対に見せない距離だ。青い瞳が、値踏みではなく確かめるように揺れる。
「妙な男だ」
その声は低いままだが、わずかに熱を含んでいた。
「命を救った功を誇らず、見えぬものが見えるとだけ言い、怖れながら使うと平然と言う。そういう顔を、私は一度どこかで見た気がする」
既視感。
零の胸の奥で、まだ名前を持たない古い記憶がかすかに軋んだ。雪の中ではなく、もっと幼い、灯りの少ない石廊下。泣いている誰かの肩へ、何かを掛けた感触。
だが掴めない。
「私には、その覚えがありません」
「だろうな」
エレノアはわずかに唇を歪めた。笑みに近いが、完全にはそうならない。
「あれば、こんなところで膝をつかせていない」
その言葉で、室内の空気が少しだけ変わった。
命令する女のまま、ほんのひと息だけ疲れが覗く。零はそれを見逃さなかった。まぶたの重さ。指先の冷え。暖炉の熱が届く位置にいながら、彼女の肩はまだ強張っている。
「眠っておられませんね」
エレノアの目が止まる。
「余計なところまで見る」
「寝所に薬草の匂いが強い。ですが、火皿は半分しか減っていない。焚いても効いていないのでしょう」
「……不眠を責めに来たのか」
「いえ」
零は短く答えた。
「今夜はもう、ひとりで休ませるべきではないと判断しました」
その一言に、エレノアが黙る。
公の場なら、即座に誰の裁量でと言い返したはずだ。だがここでは違った。視線だけが、じっと零へ刺さる。拒むか、許すか、その境目で揺れている。
やがて彼女は背を向け、寝台ではなく書記机へ歩いた。
机上には未裁可の書簡が積まれ、封の切られていない急報も二つあった。こんな時刻まで、まだ帝国は女帝の眠りを許さない。
「よい」
エレノアが言う。
「今夜から、おまえを私の単独護衛とする。回廊、執務室、寝所前、夜の動線はすべておまえが組み直せ。近衛も書記局も、必要なら切って使え」
それは大きい。
女帝の寝所前を握る者は、刃だけでなく情報も握る。誰が会い、誰が通り、誰が止められるか。その権限は、宮廷の血流を直接押さえるのに等しかった。
零は膝をついたまま答える。
「承知しました」
「ただし」
エレノアが振り返る。さきほどまでの私的な熱はもう消えていた。戻るのが早い。支配者として呼吸することに慣れすぎている。
「人前では礼を崩すな。私に近いと見せれば、明日にはおまえごと首を刎ねる算段が増える」
「分かっています」
「それと」
一拍、間が空く。
「今夜は扉の外へ立て」
零は顔を上げた。
エレノアは机へ片手をついたまま、こちらを見ていない。だが声だけが、先ほどより少し低かった。
「眠れぬ時、気配のない護衛ほど不快なものはない。おまえは不快ではない」
命令の形を保ったままの、本音だった。
零は胸の内でそれを受け止める。
「御意」
退出しようとした時、エレノアがもう一度だけ言った。
「零」
「はい」
「もし次に、私の喉へ刃が来る像を見たなら」
青い瞳が真っ直ぐこちらを射抜いた。
「先に斬れ。許可は今、与える」
絶対君主の声だった。
だがその奥には、わずかに別の響きがあった。信頼とはまだ呼べない。けれど、ただの利用でもない。
零は深く一礼し、扉の外へ出た。
寝所前の回廊は静かで、灯りは青白い。
近衛は遠くへ下がらせた。扉の脇に立てば、室内の物音はほとんど聞こえない。それでも、人が眠れず寝返りを打つ気配だけは、妙に分かる夜がある。
零は目を閉じた。
するとまた、あの流れが見えた。
細く長い死の筋が、宮殿の人間一人や二人ではない数を引きずって、どこかもっと深い場所から這い上がってくる。儀礼回廊の血とは比べものにならない。古く、重く、夜の宮殿そのものに染みついているようだった。
暗殺は入口にすぎない。
宮殿の内側にいる敵を斬っても、それだけでは足りない。
零はゆっくりと目を開けた。
夜明けまで、まだ長い。




