扉一枚の信任
夜半を過ぎると、宮殿の音はさらに減った。
遠くの詰所で交代を告げる靴音が一度。暖炉の薪が崩れる小さな音が一度。あとは、雪が窓を擦る気配ばかりだ。
零は女帝寝所の扉脇に立ったまま、じっと回廊を見ていた。
近衛は遠ざけてある。完全に払ったわけではない。曲がり角の先と、階下へ下る踊り場に二人ずつ。声が届くぎりぎり外へ置いた。襲撃があれば間に合う。だが、眠れぬ女に重い甲冑の気配を貼りつかせるほど近くはない。
昼のうちに見た図面が、まだ頭の中に残っている。
回廊の幅。壁灯の間隔。窓から差す雪明かりの角度。人が身を隠せるくぼみの深さ。どこまでが見えて、どこからが死角になるか。目を閉じずとも、足を踏み出す順番まで浮かんだ。
扉の向こうで、布の擦れる気配がした。
寝台へ入った音ではない。机の前を離れ、また戻った音だ。
まだ起きている。
零は視線を落とさず、低く言った。
「急報を運ぶ者は、今夜はこの角を曲がる前に名乗らせます」
返事はすぐにはなかった。
ややあって、扉一枚向こうから、抑えた女の声が届く。
「独り言の多い護衛だ」
「お休みを妨げたならお詫びします」
「妨げられるほど眠れていれば苦労せぬ」
声音は淡い。だが、寝所で交わすには平らすぎた。机に向かったまま、書簡から目を上げずに言っているのが分かる。
零は扉へ背を向けたまま答えた。
「なら、なおさら名乗らせます」
「なぜだ」
「眠れぬ時ほど、人は些細な音に意識を引かれます。次に足音が来た時、陛下がそれを急報と分かっていれば、少しは苛立ちが減る」
沈黙。
雪が窓を打つ。
「……余計なところまで見る男だな」
零は口元だけで息を吐いた。
それは今夜二度目の言葉だった。だが今度は、刺の角度が少し違う。追い払うためでなく、距離を測るための言い方に近かった。
しばらくして、階下から気配が上がってきた。
軽い足取りではない。重心が前へ寄った、急いでいる者の歩き方だ。だが甲冑の響きがない。役人か侍従の類だろう。
零は回廊の中央へ半歩出た。
現れたのは、灰色の外衣をまとった中年の書記官だった。胸に書記局の銀章を付け、両手で封書筒を抱えている。額に汗がにじんでいた。暖房の効いた宮殿の中で、夜更けにその汗は不自然だった。
「陛下に急報を」
男はそう言って頭を下げた。
「北塔の印璽室から、至急の裁可案件が」
零は封書筒へ目を落とした。
封蝋は確かに書記局のものだ。だが蝋の縁がわずかに欠けている。扱いが荒いというより、一度どこかへ押しつけてから慌てて剥がした形だった。
「誰の決裁印です」
「筆頭書記官ベレト殿の」
「名乗りを」
書記官が一瞬だけ詰まる。
「書記局三席補佐、オルドレン」
「今夜の当番ではありませんね」
男の目が動いた。
ほんの一拍。
それだけで十分だった。
「なぜ分かる」
「あなたの靴です」
零は淡々と言った。
「書記局夜番は、蝋が床へ落ちぬよう柔らかい底を履く。だがあなたの靴音は硬い。昼の廊下を歩く者の音です」
男の喉が鳴った。
「それに、今夜の書記局は私が人を減らしました。急報があるなら、先に近衛経由で上がる」
扉の向こうが静かになる。
室内で、ペン先の止まる気配がした。
男はまだ封書筒を抱えたままだった。渡せば済む話なのに、それをしない。両腕に余計な力が入っている。中身を取られたくない者の持ち方だ。
零は剣に手をかけない。
その代わり、回廊を塞ぐ位置へ立った。
「封を置いて下がれ。朝に私が預かります」
「陛下直裁の案件だ」
「今は私が夜の動線を預かっています」
声を強めたのは相手の方だった。
「死神団風情が、書記局の急報を止める権限はない」
「今夜、あります」
零の返答は短い。
「陛下から直接受けています」
扉の向こうから、女の声が落ちた。
「その通りだ」
ぴたりと空気が止まる。
「書簡を置いて去れ。明朝、私が見る」
絶対君主の声だった。扉一枚越しでも、刃の冷たさがある。
書記官の顔色が変わった。強引に押せば通る相手ではないと、ようやく理解したらしい。
だが同時に、別の色も浮いた。諦めきれない焦りだ。
零には、その男の肩口に、薄く死の像が重なって見えた。
今ここで斬られる未来ではない。
地下牢。濡れた石。口を割る前に喉を潰される像。
短い。
しかも近い。
男は今夜、誰かに消される側だ。
零は一歩だけ近づいた。
「置いていけ」
男は唇を噛み、やがて封書筒を床へ置いた。姿勢が崩れている。役目に失敗した恐怖より、戻った先で待つものへの恐怖の方が濃い顔だった。
零はそれを見逃さない。
「待て」
男がびくりと肩を跳ねさせる。
「階下の詰所で夜明けまで控えろ。勝手に持ち場へ戻るな」
「な、なぜ」
「護衛命令です」
相手の目が丸くなる。
護衛という言葉が出るとは思わなかったのだろう。
零は続けた。
「あなたは今夜、急報を上げる役を押しつけられてここへ来た。違いますか」
男は黙る。
「答えなくていい。だが戻れば死ぬ」
そこまで言うと、書記官の顔から血の気が引いた。
扉の向こうでも、小さく息を呑む気配がした。
零は階下の曲がり角へ声を飛ばす。
「近衛」
すぐに二人分の足音が返ってきた。
「この者を詰所へ。誰とも会わせるな。水だけ与えろ」
「はっ」
書記官は連れていかれながら、一度だけ振り返った。助かった顔ではない。まだ半信半疑の、だが見捨てられなかった者の顔だった。
足音が遠ざかり、回廊に静けさが戻る。
零は床へ置かれた封書筒を拾った。軽い。紙一枚にしては不自然な重みが偏っている。振れば、中で薄い金属片のようなものが触れ合う気配があった。
「開けぬのか」
扉の向こうから声がした。
「陛下の前で開きます」
「律儀だな」
「疑われる余地は減らすべきです」
返事のあと、しばらく中から物音がしなかった。
机の前へ戻った気配もない。ただ、完全な静寂でもない。人が立ち尽くし、考え込む時の、薄い沈黙だった。
ややあって、錠の音がひとつ鳴った。
扉が指二本分だけ開く。
暖炉の火が細く漏れ、銀髪の一房がその隙間に落ちた。
エレノアは姿を半ばしか見せなかった。寝所の内へ容易に他者を入れぬための癖だろう。それでも、玉座の上ではない女の目で零を見ていた。
「見せよ」
零は封書筒を差し出した。
エレノアは受け取る前に、彼の指先を一度だけ見た。震えていないか、血が付いていないか、そういう確認の視線だった。
「斬らなかったのだな」
「斬る必要がありませんでした」
「死ぬと見えた相手を」
「だからこそです」
零は静かに答えた。
「敵なら斬ります。ですが今の男は、手として使われていた」
青い瞳が揺れた。
そこにあったのは警戒ではない。値踏みが一段変わる時の色だ。
「使われていたと、なぜ分かる」
「恐れていた相手が、こちらではなかった」
エレノアは封書筒を受け取り、指先で重さを確かめた。すぐに眉が寄る。
「確かに軽いな」
「中身が書簡でない可能性もあります」
「なら開く」
「ここでは」
零が言いかけると、エレノアはわずかに唇を上げた。
「おまえは本当に、私の前でも止めるな」
「止めます。必要なら」
一瞬。
そしてエレノアは、小さく笑った。
嘲りではない。ほんのわずか、疲れの底からこぼれた笑みだった。
「よい。机へ持って入れ」
零は扉の向こうを見た。
寝所の最奥までは入らない。机は入口に近い。そこまでなら、護衛としての線を越えない。
「失礼します」
室内へ足を踏み入れると、暖炉の熱より先に薬草の匂いが届いた。やはり眠りのためのものだ。だが火皿は増えていない。眠れぬまま夜だけが更けている。
零は机上へ封書筒を置いた。
エレノアは横へ立ったまま、小刀で封蝋を割る。中から出てきたのは、紙ではなく薄い銅板だった。表面に刻まれていたのは、たった一行。
明朝の朝議、死神の任命を止めよ。
署名はない。
だが銅板の下には、もうひとつ細い針が仕込まれていた。紙を抜き取る指へ刺さる位置だ。針先は黒ずんでいる。
毒。
零が言うより先に、エレノアの目が細くなった。
「書記局を使い、私の寝所まで毒を運ぶか」
その声に、先ほどまでの私的な揺れはない。完全に君主へ戻っていた。
零は針を布でつまみ、火皿へ落とした。黒い先端が熱でじりと鳴る。
「今夜の相手は、陛下を刺し損ねたからではなく、明朝を止めたかった」
「朝議」
「私の任命です」
エレノアは銅板を見下ろしたまま、短く息を吐いた。
「なら、なおさら止まれぬな」
その横顔は冷えている。だが目元の影は、さっきより深かった。襲撃よりも、身内の手が止まらぬ現実の方が彼女を削るのだと分かる。
零は一歩だけ下がった。
「今夜はもう、書簡を見ないでください」
「命令か」
「進言です」
「同じようなものだ」
エレノアは銅板を机へ置き、指先でこめかみを押さえた。たったそれだけの仕草が、昼よりずっと人間らしい。
「零」
「はい」
「おまえを扉の外へ置いたのは、気配が不快でないからだと先ほど言った」
青い瞳がこちらへ向く。
「訂正する。今は、それだけではない」
零は黙って待った。
「私が眠れぬ夜に、起きていてもよいと思える相手だからだ」
静かな声だった。
熱に流されていない。むしろ、冷えたまま置かれた本音だった。
零は目を伏せる。
「なら、夜明けまで起きています」
エレノアはすぐには答えなかった。
やがて、銀髪を揺らして半歩だけ離れる。
「……そうしろ。朝議までは、誰も通すな」
「御意」
零が扉の外へ戻ると、背後で今度こそ静かに錠が落ちた。
回廊は変わらず青白い。だがさっきまでより、わずかに冷えが浅い気がした。
手の中には、もう何もない。
それでも今夜、自分は刃だけを預かったのではないと零は知る。
この扉一枚の向こうで、帝国そのものに等しい女が眠れずにいる。その夜を守ることが、明日の朝議と、その先の血路に繋がる。
零は壁灯の揺れを見た。
夜明けはまだ遠い。
だが、もうただ待つ夜ではなかった。




