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女帝の死神は玉座を喰らう〜最強の死神は、女帝を救うため帝国を喰い替える〜  作者: セルヴォア


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6/6

扉一枚の信任

夜半を過ぎると、宮殿の音はさらに減った。


遠くの詰所で交代を告げる靴音が一度。暖炉の薪が崩れる小さな音が一度。あとは、雪が窓を擦る気配ばかりだ。


零は女帝寝所の扉脇に立ったまま、じっと回廊を見ていた。


近衛は遠ざけてある。完全に払ったわけではない。曲がり角の先と、階下へ下る踊り場に二人ずつ。声が届くぎりぎり外へ置いた。襲撃があれば間に合う。だが、眠れぬ女に重い甲冑の気配を貼りつかせるほど近くはない。


昼のうちに見た図面が、まだ頭の中に残っている。


回廊の幅。壁灯の間隔。窓から差す雪明かりの角度。人が身を隠せるくぼみの深さ。どこまでが見えて、どこからが死角になるか。目を閉じずとも、足を踏み出す順番まで浮かんだ。


扉の向こうで、布の擦れる気配がした。


寝台へ入った音ではない。机の前を離れ、また戻った音だ。


まだ起きている。


零は視線を落とさず、低く言った。


「急報を運ぶ者は、今夜はこの角を曲がる前に名乗らせます」


返事はすぐにはなかった。


ややあって、扉一枚向こうから、抑えた女の声が届く。


「独り言の多い護衛だ」


「お休みを妨げたならお詫びします」


「妨げられるほど眠れていれば苦労せぬ」


声音は淡い。だが、寝所で交わすには平らすぎた。机に向かったまま、書簡から目を上げずに言っているのが分かる。


零は扉へ背を向けたまま答えた。


「なら、なおさら名乗らせます」


「なぜだ」


「眠れぬ時ほど、人は些細な音に意識を引かれます。次に足音が来た時、陛下がそれを急報と分かっていれば、少しは苛立ちが減る」


沈黙。


雪が窓を打つ。


「……余計なところまで見る男だな」


零は口元だけで息を吐いた。


それは今夜二度目の言葉だった。だが今度は、刺の角度が少し違う。追い払うためでなく、距離を測るための言い方に近かった。


しばらくして、階下から気配が上がってきた。


軽い足取りではない。重心が前へ寄った、急いでいる者の歩き方だ。だが甲冑の響きがない。役人か侍従の類だろう。


零は回廊の中央へ半歩出た。


現れたのは、灰色の外衣をまとった中年の書記官だった。胸に書記局の銀章を付け、両手で封書筒を抱えている。額に汗がにじんでいた。暖房の効いた宮殿の中で、夜更けにその汗は不自然だった。


「陛下に急報を」


男はそう言って頭を下げた。


「北塔の印璽室から、至急の裁可案件が」


零は封書筒へ目を落とした。


封蝋は確かに書記局のものだ。だが蝋の縁がわずかに欠けている。扱いが荒いというより、一度どこかへ押しつけてから慌てて剥がした形だった。


「誰の決裁印です」


「筆頭書記官ベレト殿の」


「名乗りを」


書記官が一瞬だけ詰まる。


「書記局三席補佐、オルドレン」


「今夜の当番ではありませんね」


男の目が動いた。


ほんの一拍。


それだけで十分だった。


「なぜ分かる」


「あなたの靴です」


零は淡々と言った。


「書記局夜番は、蝋が床へ落ちぬよう柔らかい底を履く。だがあなたの靴音は硬い。昼の廊下を歩く者の音です」


男の喉が鳴った。


「それに、今夜の書記局は私が人を減らしました。急報があるなら、先に近衛経由で上がる」


扉の向こうが静かになる。


室内で、ペン先の止まる気配がした。


男はまだ封書筒を抱えたままだった。渡せば済む話なのに、それをしない。両腕に余計な力が入っている。中身を取られたくない者の持ち方だ。


零は剣に手をかけない。


その代わり、回廊を塞ぐ位置へ立った。


「封を置いて下がれ。朝に私が預かります」


「陛下直裁の案件だ」


「今は私が夜の動線を預かっています」


声を強めたのは相手の方だった。


「死神団風情が、書記局の急報を止める権限はない」


「今夜、あります」


零の返答は短い。


「陛下から直接受けています」


扉の向こうから、女の声が落ちた。


「その通りだ」


ぴたりと空気が止まる。


「書簡を置いて去れ。明朝、私が見る」


絶対君主の声だった。扉一枚越しでも、刃の冷たさがある。


書記官の顔色が変わった。強引に押せば通る相手ではないと、ようやく理解したらしい。


だが同時に、別の色も浮いた。諦めきれない焦りだ。


零には、その男の肩口に、薄く死の像が重なって見えた。


今ここで斬られる未来ではない。


地下牢。濡れた石。口を割る前に喉を潰される像。


短い。


しかも近い。


男は今夜、誰かに消される側だ。


零は一歩だけ近づいた。


「置いていけ」


男は唇を噛み、やがて封書筒を床へ置いた。姿勢が崩れている。役目に失敗した恐怖より、戻った先で待つものへの恐怖の方が濃い顔だった。


零はそれを見逃さない。


「待て」


男がびくりと肩を跳ねさせる。


「階下の詰所で夜明けまで控えろ。勝手に持ち場へ戻るな」


「な、なぜ」


「護衛命令です」


相手の目が丸くなる。


護衛という言葉が出るとは思わなかったのだろう。


零は続けた。


「あなたは今夜、急報を上げる役を押しつけられてここへ来た。違いますか」


男は黙る。


「答えなくていい。だが戻れば死ぬ」


そこまで言うと、書記官の顔から血の気が引いた。


扉の向こうでも、小さく息を呑む気配がした。


零は階下の曲がり角へ声を飛ばす。


「近衛」


すぐに二人分の足音が返ってきた。


「この者を詰所へ。誰とも会わせるな。水だけ与えろ」


「はっ」


書記官は連れていかれながら、一度だけ振り返った。助かった顔ではない。まだ半信半疑の、だが見捨てられなかった者の顔だった。


足音が遠ざかり、回廊に静けさが戻る。


零は床へ置かれた封書筒を拾った。軽い。紙一枚にしては不自然な重みが偏っている。振れば、中で薄い金属片のようなものが触れ合う気配があった。


「開けぬのか」


扉の向こうから声がした。


「陛下の前で開きます」


「律儀だな」


「疑われる余地は減らすべきです」


返事のあと、しばらく中から物音がしなかった。


机の前へ戻った気配もない。ただ、完全な静寂でもない。人が立ち尽くし、考え込む時の、薄い沈黙だった。


ややあって、錠の音がひとつ鳴った。


扉が指二本分だけ開く。


暖炉の火が細く漏れ、銀髪の一房がその隙間に落ちた。


エレノアは姿を半ばしか見せなかった。寝所の内へ容易に他者を入れぬための癖だろう。それでも、玉座の上ではない女の目で零を見ていた。


「見せよ」


零は封書筒を差し出した。


エレノアは受け取る前に、彼の指先を一度だけ見た。震えていないか、血が付いていないか、そういう確認の視線だった。


「斬らなかったのだな」


「斬る必要がありませんでした」


「死ぬと見えた相手を」


「だからこそです」


零は静かに答えた。


「敵なら斬ります。ですが今の男は、手として使われていた」


青い瞳が揺れた。


そこにあったのは警戒ではない。値踏みが一段変わる時の色だ。


「使われていたと、なぜ分かる」


「恐れていた相手が、こちらではなかった」


エレノアは封書筒を受け取り、指先で重さを確かめた。すぐに眉が寄る。


「確かに軽いな」


「中身が書簡でない可能性もあります」


「なら開く」


「ここでは」


零が言いかけると、エレノアはわずかに唇を上げた。


「おまえは本当に、私の前でも止めるな」


「止めます。必要なら」


一瞬。


そしてエレノアは、小さく笑った。


嘲りではない。ほんのわずか、疲れの底からこぼれた笑みだった。


「よい。机へ持って入れ」


零は扉の向こうを見た。


寝所の最奥までは入らない。机は入口に近い。そこまでなら、護衛としての線を越えない。


「失礼します」


室内へ足を踏み入れると、暖炉の熱より先に薬草の匂いが届いた。やはり眠りのためのものだ。だが火皿は増えていない。眠れぬまま夜だけが更けている。


零は机上へ封書筒を置いた。


エレノアは横へ立ったまま、小刀で封蝋を割る。中から出てきたのは、紙ではなく薄い銅板だった。表面に刻まれていたのは、たった一行。


明朝の朝議、死神の任命を止めよ。


署名はない。


だが銅板の下には、もうひとつ細い針が仕込まれていた。紙を抜き取る指へ刺さる位置だ。針先は黒ずんでいる。


毒。


零が言うより先に、エレノアの目が細くなった。


「書記局を使い、私の寝所まで毒を運ぶか」


その声に、先ほどまでの私的な揺れはない。完全に君主へ戻っていた。


零は針を布でつまみ、火皿へ落とした。黒い先端が熱でじりと鳴る。


「今夜の相手は、陛下を刺し損ねたからではなく、明朝を止めたかった」


「朝議」


「私の任命です」


エレノアは銅板を見下ろしたまま、短く息を吐いた。


「なら、なおさら止まれぬな」


その横顔は冷えている。だが目元の影は、さっきより深かった。襲撃よりも、身内の手が止まらぬ現実の方が彼女を削るのだと分かる。


零は一歩だけ下がった。


「今夜はもう、書簡を見ないでください」


「命令か」


「進言です」


「同じようなものだ」


エレノアは銅板を机へ置き、指先でこめかみを押さえた。たったそれだけの仕草が、昼よりずっと人間らしい。


「零」


「はい」


「おまえを扉の外へ置いたのは、気配が不快でないからだと先ほど言った」


青い瞳がこちらへ向く。


「訂正する。今は、それだけではない」


零は黙って待った。


「私が眠れぬ夜に、起きていてもよいと思える相手だからだ」


静かな声だった。


熱に流されていない。むしろ、冷えたまま置かれた本音だった。


零は目を伏せる。


「なら、夜明けまで起きています」


エレノアはすぐには答えなかった。


やがて、銀髪を揺らして半歩だけ離れる。


「……そうしろ。朝議までは、誰も通すな」


「御意」


零が扉の外へ戻ると、背後で今度こそ静かに錠が落ちた。


回廊は変わらず青白い。だがさっきまでより、わずかに冷えが浅い気がした。


手の中には、もう何もない。


それでも今夜、自分は刃だけを預かったのではないと零は知る。


この扉一枚の向こうで、帝国そのものに等しい女が眠れずにいる。その夜を守ることが、明日の朝議と、その先の血路に繋がる。


零は壁灯の揺れを見た。


夜明けはまだ遠い。


だが、もうただ待つ夜ではなかった。


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