図面の中の死角
夜の宮殿は、昼より静かで、昼より多くを喋る。
零は西棟へ続く回廊の角で足を止めた。灯りは半分だけ落としてある。磨かれた石床が青白く光り、柱の影が細長く伸びていた。
昼のうちに、彼は警備を変えた。
変えすぎないように変えた。
露骨に固めれば敵は引く。普段通りに見せれば、必ず一度は覗いてくる。相手が宮廷の内側を知っているなら、なおさらだ。
西棟接続階段の踊り場。
儀礼回廊の二階通路。
そして女帝寝所へ続く最後の曲がり角。
零は三つの穴のうち、ひとつだけを残した。西棟の踊り場である。近衛は遠ざけ、代わりに気配を消せる二人を別角へ伏せた。誰を置いたかは、敵に知らせる必要がない。
足音がした。
軽い。
鎧ではない。
零は振り返らずに言う。
「いるなら出てこい」
柱の影から、赤い髪が現れた。
セレナだった。
暗闇の中でも、紫の瞳だけが猫のように光って見える。体へぴたりと沿う黒装束は、胸から腰、腿へ流れる線を鋭く見せていた。細いくびれの下に、殺しに特化した脚が伸びている。
「副官としては、上官が死ぬかもしれない夜は気になります」
「見届け役か」
「半分は」
セレナは肩をすくめた。
「もう半分は、団長が本当に見えているのか確かめたかったのです」
零は答えない。
説明しても信じない顔だったし、信じさせる必要もまだなかった。
その代わり、踊り場の上を見た。
来る。
死の像は昼より淡い。だが十分だった。灯りを落とす手、落ちた直後に首を狙う軌道、逃げ道まで見える。
「伏せろ」
セレナは問い返さず床へ沈んだ。
次の瞬間、頭上の灯りが砕ける。闇が落ちた。
同時に、踊り場の手すりの向こうから黒い影が飛ぶ。
零は半歩だけ前へ出た。斬るより先に、相手の落ちる位置へ体を入れる。短剣が肩を狙って来たが、軌道はもう見えている。
剣の鍔で刃を逸らし、返す一撃で手首を断った。
男が呻く。
二人目が柱裏から飛び出す。零はそちらを見ないまま肘を入れ、喉を潰す。体勢が崩れた相手の膝を払い、石床へ叩きつけた。
奥で、別の金属音が鳴る。
セレナが三人目とやり合っていた。低い姿勢のまま懐へ潜り、短剣を相手の脇腹へ滑らせる。赤髪が闇の中で一度だけ翻った。
静かになった。
血の匂いが、冷えた空気へゆっくり広がる。
零は生きている一人を引きずり起こし、懐を探った。出てきたのは、短弩用の特製矢と、細い金属札だった。
札の縁に刻まれた文様を見て、目が細くなる。
「何か分かったか」
セレナが横へ来る。
零は札を指先で示した。
「宮廷の備品庫です」
「外の刺客ではない」
「ええ」
零は倒れた男の顔を見下ろした。荒事に慣れた兵の顔だ。金で雇った盗賊ではない。配置も、待ち伏せ位置も、宮殿の中を知っている動きだった。
女帝を狙う刃は、外から入り込んだのではない。
最初から、ここに置かれていた。
セレナが笑う。
「少し訂正します」
「何をです」
「団長は、当たりかもしれません」
零は金属札を握り潰した。
遠くで鐘がひとつ鳴る。
夜はまだ深い。だが、敵が宮廷の内側にいるなら、朝までにもう一手くらい打ってくる。
「セレナ」
「はい」
「捕らえた一人を地下へ回せ。口を割らせる前に死なせるな」
セレナの紫の瞳が楽しげに細くなる。
「そういう命令は嫌いではありません」
零は踊り場の上を見た。
石と闇しかないはずの天井が、彼には別のものに見えていた。
まだ細い。
だが確かに、宮殿の奥には、この夜の暗殺騒ぎだけでは済まない死の流れがある。




