赤髪の副官
宮殿の裏回廊は、噂が走るのが早い。
セレナは石壁にもたれ、指先で短剣を弄びながら、その噂を聞いていた。
新任団長が初日で女帝を救った。
儀礼回廊で四人を潰した。
しかも最後の一人は生かして捕った。
くだらない尾ひれなら聞き流す。だが今回の噂には、妙な静けさが混じっていた。大げさに騒ぐ声より、実際に見た兵の息の詰まり方が本物だった。
セレナは壁から背を離す。
赤い髪が肩でさらりと揺れ、紫の瞳が細くなった。全身に沿う黒い任務服は薄いのに丈夫で、腰から腿へ流れる線を隠さない。細い体つきに見えて、動くたび刃のようなしなやかさが滲む。
影の死神団の副官として、何人もの新任を見てきた。
威張るだけの貴族上がり。
腕は立つが頭の足りない殺し屋。
女帝の威光を借りて長になったつもりの馬鹿。
どれも長生きしなかった。
今回もその類なら、早めに見切りをつけるだけだ。
だが、女帝が自分の執務室へ直に上げたと聞いて、さすがに眉が動いた。
重い扉の上の採光窓から、室内の灯りが漏れている。セレナは気配を殺し、その横へ滑った。
中では、低い女の声がしていた。
「単独護衛を命じる。今日から、私の回廊、執務室、寝所前の警備は、おまえが組み直せ」
エレノアの声だった。
朝の謁見用より少し軽い黒のドレスに替えているらしい。扉の隙間から見える横姿だけでも分かった。銀髪は結い直され、うなじの白さが細く覗く。胸元は朝よりもわずかにやわらかく開き、深い黒布の下で豊かな膨らみが静かに主張していた。
玉座の上では氷のような女が、執務机の前では別種の艶を帯びる。
それでも、目は冷たい。
向かいに立つ男だけを除けば。
零は地図台の上に広げられた宮殿図面へ視線を落としていた。
「恐れながら、三か所、致命的な穴があります」
「申せ」
「まず儀礼回廊の二階通路です。装飾幕の裏に一人伏せれば、下の列へ矢が通ります」
間を置かず、零の指が別の場所へ移る。
「次に西棟への接続階段。護衛は正面だけを見ます。踊り場の灯りを落とされれば、上から短剣が飛ぶ」
さらにもう一つ。
「最後に寝所前です。内鍵の前に立つ近衛は安心しすぎています。扉を破る必要がない」
セレナは無意識に短剣を握り直した。
そこまで読んだ新任は初めてだった。図面だけで言い当てていい場所ではない。実際に血を見てきた者の目だ。
エレノアが黙る。
沈黙のあと、低く問うた。
「なら、おまえならどう使う」
「使わせます」
零の返答は短い。
「今まで通り穴を塞げば、敵は別の穴を作ります。ですから一つだけ残し、そこへ誘導します」
「囮は」
「必要なら、私が立ちます」
声に見栄がない。
セレナはそこで、ようやく口の端を上げた。
面白い男だ。
死ぬ覚悟を売り物にする者はいくらでもいる。だが、死なずに相手だけ死なせる算段を、これほど冷静に言う男は少ない。
扉の内側で、エレノアが机を指先で一つ叩く。
「よかろう。今夜の動線はおまえに任せる」
「承知しました」
「ただし、人前では礼を崩すな」
零がわずかに目を上げる気配がした。
「分かっております」
セレナは気配を消したまま、その場を離れた。
試す価値はある。
もし本物なら、この男は死神団にとって当たりだ。
もし偽物なら、今夜の囮で死ぬ。
どちらにしても、退屈はしなさそうだった。




