悪意の巣窟と過去からの訪問者
「オ嬢サマ! 大変ネ!」
満腹になり、ソファに寝そべっていたシャロンのもとへ、新しいメイドが息せき切ってやってきた。シャロンは不快感を露わにメイドを睨みつける。
「ホルヘガ誘拐サレタ! オ金、払ワナイト殺サレル!」
「は?」
さらに鋭い目つきでメイドを睨みつけるシャロン。メイドの手には、雑誌や新聞から切り抜いたと思われる文字が張り付けてある紙。しかし、英語ではないためシャロンには読めないし、そもそも読む気もない。
メイドの後ろでは、ホルヘという子供の母親らしき女が、芝居がかったような大きな泣き声を上げている。確かに子供は見当たらないが、さっきまで一人掛けのソファにふんぞり返ってビールをがぶ飲みしていた男も一緒にいなくなっている。
「それで?」
「身代金、払ッテ」
「出ていけ!」
シャロンは力いっぱい怒鳴ると、手近にあった雑誌をメイドに投げつけた。
「メイドノ為ニ、身代金用意シタッテ、ニュースデ見タヨ! マシューズハイイ人ダッテ! テレビ、嘘バッカリ! アナタ、悪イ人!」
急に態度を豹変させたメイド一家は、罵詈雑言を吐きながら邸を出ていった。
敷地に止められた薄汚い赤のピックアップトラック。そこにメイド一家が続々と乗り込んでいくのが窓から見える。すると、トラックの荷台から、誘拐されたはずのホルヘが顔を出した。そのホルヘの頭を慌てて引っ込めさせるビールがぶ飲み男。
「ふん、やっぱり嘘じゃん」
シャロンは鼻を鳴らした。
「なんで他人のために金を出さなきゃいけないの」
走り去っていくトラックを眺めながら苦々しく呟く。
救いようがないほどのお人好し。そんなバカがいることは知っているが、少なくともマシューズ家の人間にはいない。金は力だ。そして、力を持つ者だけが、他人の上に立てるのだ。シャロンはそう信じていた。
それなのに。
「グラント、いいか!」
バカなお人好しがやってきた。こんな人間じゃなかったはずなのに。しかし、尊大な態度は相変わらず、後ろからついてくるグラントを顎で使う。
「もうすぐアブラハムが来る。書斎にいるから、来たら通せ!」
アブラハムといえば、昔から馴染みのある宝石商だ。母親がまだこの家にいた頃、ひと月に数回はやって来ていた。なぜ今頃アブラハムが来るのか、シャロンには理解できない。車の代わりに宝石を買ってくれるのだろうか。いや、宝石も欲しいが、今必要なのは車の方だ。車がなければ遊びに行けないし、出掛けられないなら宝石を身に纏っても意味がない。
「フンッ、バカ親父」
シャロンは鼻を鳴らして呟いた。
「おい! すれ違ったあのトラックはなんだ? 留守中に勝手なことをするな!」
質問をしておいて答えも聞かず、怒鳴り散らしながらリビングを出て行った。あの調子では、娘に宝石を買ってやるという気はないだろう。
「ふざけんなよ」
口の中で呟きながら振り返った。父親はもういなかったが、盛りのついた犬のような目でこちらを見ているグラントが目に入った。
拘留されたフレディは、ただぼんやりと壁を見つめていた。やわらかい素材でできた白い壁。自傷行為を防ぐためだろうが、そんな気力もありはしない。壁は大きなスクリーンと化し、見えるはずもないジェイソンとマリアの顔を交互に映し出す。ふたりのことが頭から離れない。
自分は何がしたかったのか、どれが正解だったのか。何が何だか、もはや分からなくなっていた。マシューズから謝罪を引き出したものの、それでジェイソンが戻ってくるわけではない。そもそも、あれは謝罪だったのか?
『あんなことになって残念だ』
マシューズは『自分が悪い』とは言っていない。
「くっそぉ! 騙された!」
フレディは固い椅子の上で身体を丸め、頭を両手で抱え込んだ。
さっきは連邦検事補だという男が来て色々なことを訊かれた。質問には素直に答えたフレディだったが、その男は高そうなスーツの皺ばかり気にして、話など耳に入っていないようだった。ジェイソンが被ったマシューズからの仕打ちについて必死に訴えている時など、ニヤニヤしながら携帯電話でメールを打っていた。
あの若いアホなヤツと威圧的な捜査官達も含め、他者に敬意など払わない人間ばかりだ。それだけに、マリアとジェイソンの優しさが恋しくてたまらない。
今は一人、厳重に閉ざされた部屋に囚われている。
ランドール検事補は病院の廊下を歩きながら大きな欠伸をした。『メイド誘拐事件』の担当を任され、金曜の夕方にも関わらず、こうして被害者の元へ出向いてきたわけだ。本来なら、後腐れのなさそうな女を引っ掛けにクラブへ行くつもりだったのに。
ここへ来る前は容疑者から話を聞いた。逮捕した捜査官がマメな奴らしく、そのおかげで取り調べというよりはただの確認だけで済んだ。
まったく退屈な男だった。何かにつけ『尊厳』だの『名誉』だのと喚いていたが、何のことだかさっぱり分からない。だいたい、社会の底辺にいるあいつに、そんなものあるわけがない。
ランドールにとって、この事件は楽勝だ。容疑者は全面自供している。後は被害者の供述に矛盾がなければ、判例に従って起訴状を作成すればいい。被害者は英語が話せない可能性もあるが、メキシコ女と遊んだ経験は豊富で、自慢じゃないがスペイン語には堪能である。
つい最近まではコロンビア人と付き合っていた。なかなかいい女だったが、妻との離婚を迫り出したので終わりにした。移民局のダチに頼んで、後腐れなく強制送還させたのだ。
「さて、どんな女かな?」
興味もなさそうな口調で呟く。
「この患者は、院長の許可と立ち会いなしには、面会できないことになっています」
受付の女性はそう言った。しかも「今、院長は不在です」とも。そんなもの、待っていられるわけがない。ランドールはカウンターに肘をつくと、女性に顔を近づけた。
「やぁ、素敵なネックレスですね」
「あ、あら……」
胸元を見つめられた女性は、たちまち顔を真っ赤にした。
「どこで購入されました? あ、それとも、恋人からのプレゼントかな?」
「いえ、私に恋人なんていませんわ。あなたこそ、恋人へのプレゼントかしら?」
女性は探るような上目遣いを送ってきた。ランドールは微笑みながら首を振った。
「残念ながら。今日は母の誕生日で、何か贈り物をしたかったんです」
もちろん嘘だ。今日中にプレゼントを買わなければいけないことを強調した。いつ戻るか分からない院長を待っていたら、お店が閉まってしまう、と。
女性は患者との面会を許したうえ、通りの名前と店の位置を丸で示しただけのざっくりとした地図を描き、「分からない時は電話してください」と、自分の携帯電話の番号を書き入れた。
女性からもらったメモを指で弄びながら、ランドールはマリアがいる病室のドアをノックした。すぐに返事があり、部屋に入ったランドールはソファに座った女に近付いた。ほっそりとした輪郭を包む流れるような黒髪、白いワンピースを着た華奢な身体。
「ミス・フェルナンデス?」
長い睫毛が上を向くと、黒く吸い込まれそうな瞳が現れ、ランドールは息を飲んだ。まさに好みのタイプだ。目が合った途端、彼女の方も食い入るようにこちらを見つめている。
「どうも、連邦検事のニコラス・ランドールです」
実際は検事補だが、ほんの少し役職名を省略した。女は権威ある男に弱い。それに、どうせ外国人だ、分かりはしない。
ランドールは受付の女性から貰った電話番号の書かれた地図のメモを、背広のポケットの中で握り潰した。
マリアにはすぐ分かった。あまりの衝撃に声が出ない。ニックだ。十五歳のマリアを弄んだ男。忘れたくても忘れられない男。
「検事?」
「そう、検事です。事件についてお聞きしたいことがありまして」
しかし、ニックの方はマリアを覚えていないようだ。相変わらず、女性なら誰もが魅了される笑顔を向けてくる。
ニックはマリアの向かいのソファに座り、膝にブリーフケースを置いた。その時、マリアは見てしまった。ブリーフケースから書類を出すついでに、左手の薬指から指輪を外し、それをジャケットの胸ポケットに入れたのを。
ニックが喋っている内容など、ほとんど耳に入ってこない。事件のことについて、フレディがいかに悪人かということを説明しているようだ。
「悪い人じゃない」
マリアの反論をニックは訳知り顔で受け流す。
「あなたのように優しい女性は初めてですよ。いやぁ、犯人が羨ましいなぁ。いや、失礼」
照れくさそうな微笑を見せる。カンクンのカフェで出会った時と変わっていない。みんなこの笑顔に騙される。
十五歳の苦い初恋を思い、マリアの胸はズキズキと痛み出し、肺に空気が入ってこない。浅く短い呼吸を繰り返すマリアを見て、ニックは身を乗り出した。
「顔色がすぐれないなぁ。ちゃんと食べてますか? あ、そうだ。美味しい和食の店を知ってるんですが、今度ご一緒しませんか?」
「は?」
こんな状況でもナンパをするとは、驚きを通り越して呆れてしまった。




